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飯島晴子さんの作句法

2022-11-30 16:54:44 | 日記
         土用波薄刃こぼれの波も来る 庸晃 (2006年8月6日記述)

 武庫川を南へ歩くこと4キロ少し青みの増した水が見えるとそこで河川は終る。河口である。前方に広々とし水平線が見え巨大な船舶が通過してゆく。そのたびに波のうねりが押し寄せてくるのだ。小岩を乗り越えさらに岸へと届く。岩の隙間に住む蟹たちは押し流されてしまう。…そんな風景に出会ってからここへは一週間も通った。ましていまは土用である。実は写生の本質に触れたくて、その姿の刻々をこの目で確認したかったのである。そしてこの「薄刃こぼれの」言葉を得た。
 虚子の写生俳句論に始まり飯島晴子さんの俳句作法にぶっつかったとき、私の胸中に炎が宿り或る闘いが始まっていた。このふたりの俳人の間に共通点らしきものが見えてきたときであった。
   然ういへば葵祭に会ひけらし
晴子さんの「儚々」(平成8年)第31回蛇笏賞受賞句集のなかの句であるが文語あり旧かなありなのに口語発想の句。何故私はこの句に魅かれるのか考えてしまっていた。「けらし」は文語で「けるらし」、「然ういへば」は口語発想で時間の流れのようなものがある。この不思議な魅力は私を虜にした。
 今一度虚子の写生俳句論を考えてみる。虚子は「写生俳話一則」(ホトトギス昭和4年8月号)より
「写生といふことは、只写すといふことではなくて、作者がその景色を見てその心に映じた影を描くのである。その影は実物その物とは異なってゐるのである。これを言ひ換へると、実物を写す場合に、実物とは異なった一つの物を造り出してそれを描くのである。されば俳句の作者は、造物者の如く、一つ一つ別の天地を創造して行くのである」
そして晴子さんの俳句論であるが。「私の俳句作法」(毎日新聞 平成2年)によるとその論を書いている。
「俳句では写実の重要が説かれるし、写実でなければわからないと片づけられる場合が多い。だが写実する言葉が散文の機能で使われて、対照を説明するだけに終っていたのでは、意味はわかっても俳句になってはいない。写実を通してその向こうに一つの時空が出現してこそ俳句である。…(略)写実ではない言葉の向こうに詩としてのリアリティーが現れていなければ俳句にはならない」
 私が晴子さんに魅かれるのは、結局のところ晴子さんの俳句論は虚子の写生論であったのだと思い至っていたのだ。写実とは異なった一つの物を造り出してそれを描く、一つ一つ別の天地を創造して行く、ことであった。
 私は一週間もかかって得たもの。土用波を見つめ得たもの。それは晴子さん自ら語る言葉 ……「私が成功するとしたら、見るのと言葉とが一緒に出てくるんですね」。ここにはしっかりとした写生の心があったのだと思う。

私個人のメモリアル㉜

2022-11-30 13:13:56 | 文芸

    シンフォニー青葉渡りの風仲間  庸晃 (2006年5月18日記述)

 このところ雨ばかりで気分は優れず、また私の咳はより一層激しい。会社での勤務中も咳はやむことはなく辛い。それにしても防災に関わる施設の勤務はどうしても24時間の緊張を強いられるのだ。そこにオプションまで付く。施設内での怪我や喧嘩、それにトラブル事故など。救急車の要請までも付く。防災・防犯に関わる者の緊張はたえない。防災センター要員という国家資格を得ての勤務とは言え辛い24時間である。…そのハードな勤務を終え今朝帰宅このブログを書いている。

 JRの須磨駅を過ぎる頃よりすこし空が明るくはなってきたとは言え小雨状態。全く鬱は消えない。車内より見える風景は私の心を遠くへと誘ってくれる。 緑より青さを増してきた樹木は快く風を受け入れていた。左右に揺れる枝葉は正に5月の風そのものであった。 車内からは聞こえないが、 わずかな音であっても私には快い。それはシンフォ二ーであった。鬱の消えた一瞬であった。このままの時間が続くことを願った。


私個人のメモリアル㉜

2022-11-30 13:05:57 | 文芸

   五人ほど居眠るための初夏の椅子 庸晃(2006年5月15日記述)

 河川敷……ここはまるで時間が止まっているのかと思える時がある。この武庫川のほとりを歩いていると、なんとこんなにも自由がばら撒かれているのかと思う。人それぞれに思い思いのことがなされているのには全く現実臭さが無い。 日常の生活の嫌な匂いなども無いのだ。生活の中に細かく刻まれたメニューなど忘れていた。そして限りない人間の優しさや美しさにも会えた。

 自然の中に回帰してゆけば人は悪意を感じなくなるのかもしれない。…そんなことを思いつつ河川敷を北より南へ下っていた。

 長椅子は初夏の真ん中にゆったりと置かれていた。散歩の途中の一休みにと腰を下ろしたのであろう。何時しか居眠るほどの心の安心を得て…。
私の瞳に映ったものこそ癒しへの序奏であったのだ。この癒しを何回も味わいため。 このささやかな幸福を持続させるため河川敷を歩く。    


宇多喜代子さんの原典は…

2022-11-29 20:01:25 | 文芸

   「草樹集」や昼寝の夢に信子の句  庸晃(2006年7月28日記述)

 職場での使用している監視モニターは全てにおいてデジタル化されてゆこうとしている。一部は録画にビデオを残すが時代の流れと共にデジタル処理へと変わることになるだろう。鮮明な画面は良いのだが、ハイテクニックの操作や画面処理はなかなか大変である。そこには基本的な考えとしてパソコンによる処理があり録画再生印刷はメモリーカードによるもの。時間検索や場所映像検索や設定は機器ごとに違う。防災センターと言う比較的コンパクト職場においてもだんだんデジタル化されてゆこうとしているのだ。…こんな毎日のなかで目は疲れ脳中は休むこともなくへとへと。自分自身を取り戻す時間は文芸に集中しているときなのである。そして疎外されてゆく人間の情感を受け入れるその時は益々アナログな場所と時間ではないかと思うようになった。

 改めてそのことを考えているとき桂信子主幹の在りし日の「草苑」を思い出していた。確かにその良さは日常の中の何処にでもあるもの。そしてより人間に近いもの。否、もう人間そのものなのだ。

   墓山のむこうに昏れる椿山 (64号)

   みちびかれ水は菫の野へつづく (64号)

そしてこの自然は情感はアナログなる詩情である。実に静かでおとなしい。しかし心に残り離れない。

 いま宇多喜代子さんは信子主幹の思考を正しく継承発展させることに多忙のようであるが、その原典を「一樹集」のなかで見ることが出来る。

   置き水の光りが渡る梅の昼 (64号)

この宇多喜代子さんの句に対して信子発言は推薦作品として書かれている。

「完成された句である。この句は、西宮句会で最高点を得た句だが、私は、このような地味な句が高点を得たことをその時うれしく思った。前号で、草苑風の俳句という事について書いたが、この句はまさに、草苑風の俳句の典型的なものであろう。静謐のなかに、りんとした作者の心意気をよみとることが出来る。」

ここには発想そのものがアナログ。これは信子思考の継承そのものであろう。


師…伊丹三樹彦回顧録

2022-11-28 13:51:39 | 文芸

 師である伊丹三樹彦(99歳)が天寿して半年が経た今、過去に遡り私のブログをアーカイブいたします。 (2020年3月10日記述)

 追いまくられる仕事と時間に、毎日毎夜身を挺しているぼくのそばで、降りつづく雨の音までが嫌に思える日であった。生きるとは何なのか、生きているとはいったい何なのだろう。生きているとは仕事をしていること。金銭とは関係なく自分が撤しきれる何かをしていること――、この素晴らしさを、事もなげにやりとげてゆく伊丹三樹彦先生を思うとき。ぼくの時間との闘いや夜を徹しての仕事など甘えにすぎない、泣きごとにすぎないと思えるようになった今日このごろである。

 あの細い体にまといつくようにのしかかってくるハンディットペンともいえるカメラをもち句会へ、出版社へ、新聞社へ、テレビ局へ――。このすごさはやはり何かをやる、仕事をするという心のムーヴィング以外の何者でもない。写俳運動へ、新しいものへの挑戦・開拓を自分の手で成し遂げてゆくすごさをぼくはじっと考えていた。

 あれはぼくの「青玄」復帰まもないころで、大阪句会の帰りであったと思うが、ゆっくり歩きながら考え込むように伊丹三樹彦主幹は言われた。

「つぼみのなかを表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いてはいない花の中までわかるように写真は表現しなければならんのや。俳句で表現できるかね」

一瞬ぼくは立ち停まった。びっくりしたというよりも考えるところがあってのことであった。青玄人の幾人かが伊丹三樹彦主幹の写真に対するものの見方を複雑にしているのは、このへんのことだと思ったのである。見えていないものまで見えるように表現する。――これは批判的リアリズムの基本理念ではなかったか。やはり三樹彦先生は俳人なのだと思った。写真と取り組むときも、いつもは俳人の目を失ってはいない。これは大変なことだと思った。俳句と写真は総合作用なのだとも思った。俳句は俳句、写真は写真と別々に切り離して考えてはならないと思った。

 ぼくは俳句を始めたときから、あまり俳句の勉強はしなかった。そのころ月に三十冊ぐらいの月刊俳誌、同人誌、総合誌などを読んではいたが、ほとんどがコピーに等しく、役に立てるにはほど遠い存在であった。その中で「青玄」の毎号とどくのが楽しみであった。「歯車」と共に、ぼくの勉強の原典であった。この勉強の原典を支えていたのが、現代詩であり、映画評論であった。ぼくは俳句以外の他のジャンルの勉強こそ、ものの見方をより深めてくれると信じていたからである。だから大阪シナリオ学校にも入学し、イタリアンリアリズムのもつ信実をいやというほど教えられた。第八期の卒業生でもあり、卒業期に「大阪の橋」に挑戦したこともあった。同じように主幹も少年時代にカメラへのあこがれをもっていたとか聞く。そのころヌーベルバーグの全盛期で、ゴダールやトリフォーなどの監督するフランス映画が世界の流れを大きく変えていった。日本では大島渚や吉田喜重、篠田正浩、高橋治の松竹系の監督によって新しい波が展開されていた。このころゴダールの「勝手にしやがれ」という映画があった。ぼくは主幹に「カメラペン説」を話したことがあった。カメラを万年筆(ペン)のように持ちあるき記録してゆくのである。どこまでもどこまでも、その主人公を追っかけ回しゆくのである。記録映画の手法でカメラをペンのように使って記述しゆくやり方であった。そのときぼくはカメラが欲しくてたまらなかった。だがぼくの家はどうしようもない貧乏であった。カメラが持てぬままだったが、俳人はカメラを持って歩かねばならないと、そのときからずーっと思っていた。カメラでとらえたものはリアルで、決して嘘はつけない。人間は嘘が言えるが、カメラはそれが出来ないのだ。このへんの魅力がたまらなく好きであった。

  切なし水尾 切なし機影 赤道超え

一口に写俳といっても各々の感覚なり、概念が違う以上ひとまとめにしては話せるものでもなかろう。或るものはより具象へ、または、より抽象に近い表現へと形態はいろいろだが、俳句は写真を、写真は俳句をと互いに助け合って予期せぬ魅力を増す純粋さは、やはり俳人のものだと思えた。これが伊丹三樹彦俳句の純粋さではないか。写真の奥から湧き出してくる地肌の匂いは、ただ感覚的なとらえ方ではない。そこにドラマがあり、人間・三樹彦がいつも登場しているかに思える。「切なし水尾」の写真の雲にしても常に揺れうごくあわれを感じてしまうのはぼくだけなのか。生きているものの全ての共通する思いは、この赤道を越えてゆく人間であり、俳人である三樹彦の今日から明日への思いではなかったのか。このへんが特にリアルなのだ。このことは何故「写」が先であり、「俳」が後なのか解決してくれるきめ手にもなった。以前からぼくはそのことを考えてきた。「俳写」ではいけないのか。俳人なら誰でもそう思う。……だが、結論を先に言えばこれはやっぱり「写俳」でなければならないのだ。「俳写」では嘘の表現になってしまう。「写」という現実があって俳句が生まれてくるものであれば「俳写」は観念の俳句になってしまって誰も感動を覚えないかもしれない。この生活重視というか、現実というリアルを見つめる心は俳人でなければ出来ない芸当である。だから三樹彦先生は昔からリアルな俳句しか入選にはしなかった。観念的なものでも、独言的なものでも、スローガン的なものでも、それは落選でしかなかった。ある日だった。三樹彦先生は私に向かって次のように話された。 

…岸和田市に住むAさんは障害者だから家の外での目視は難しい。だが句の殆どが戸外の風景。Aさんに聞くとテレビ画面からの目視。テレビではなく自分自身の目で視た自分自身の置かれてる環境を大切に句を作らなければ本当の俳句は生まれない。それでは観念俳句になってしまう。…この時のこの先生の言葉が未だに私の耳にある。その昔社会性俳句の全盛期でも、この一貫した考え方は変えられなかった。そのころ金子兜太や原子公平などの社会性俳句論争の真っ最中でも主幹自身は保つべき態度を守ってこられた。俳壇がどんなふうに動こうとも主幹の純粋さは亡くなるまで変わってはおられなかった。     

  雛(ひいな)から 揺れ 家揺れる 鉄路裏

この句は「写俳亭」宣言をする以前の作品である。だから写真はない。がここで主幹が意図したものは何なのだろう。精神的なものより、むしろもっと現実的なものの提示であり、リアルそのものの庶民性ではなかったか。写真はなくともその写真は想像でき、映像できるのである。「見えていないものまで見えるように表現する」という三樹彦の根元は写真と取っ組む心か、感覚か。当然「写俳亭」は俳句との接点の上になりたつ。この字間アケは映画の1コマ1コマのショットであり、映像である。先ず「雛」のアップがある。カメラがターンバックして遠くの「家」へとパーン。ロングで安定させると急に近づいて「家」の一部をアップショットさせる。そしてバックに電車の通過音を流す。勝手にプロットを組んでみたが、これらの総合体を一枚の写真におさめるのである。これは俳句以上の感覚なり、苦心が必要であり何よりも自分自身を純粋にしておくことが大切ではなかったかと思う。純粋でなければものが見えてこない。純粋になっていなければ目の前に何も現れないのだ。ただものがあるだけなのだ。かって俳人新里純男が死期の近づいたとき、林檎の見えぬ傷までが、自分と同じように冬に耐えていると、その姿を描いたように、また冬日に父性の温さを感じたように、心をいつも純粋にしておくことこそ感覚に関わるものの必然であった。これと同じ純粋さを三樹彦俳句はもっていた。まことに心に溶け入る程の純粋さでもあった。