gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

自然の中へ回帰しよう

2022-10-31 12:53:45 | 文芸

   五人ほど居眠るための初夏の椅子 庸晃(2006年5月15日記述) 

 河川敷……ここはまるで時間が止まっているのかと思える時がある。この武庫川のほとりを歩いていると、なんとこんなにも自由がばら撒かれているのかと思う。人それぞれに思い思いのことがなされているのには全く現実臭さが無い。 日常の生活の嫌な匂いなども無いのだ。生活の中に細かく刻まれたメニューなど忘れていた。そして限りない人間の優しさや美しさにも会えた。

 自然の中に回帰してゆけば人は悪意を感じなくなるのかもしれない。…そんなことを思いつつ河川敷を北より南へ下っていた。

 長椅子は初夏の真ん中にゆったりと置かれていた。散歩の途中の一休みにと腰を下ろしたのであろう。何時しか居眠るほどの心の安心を得て…。

 私の瞳に映ったものこそ癒しへの序奏であったのだ。この癒しを何回も味わいため。 このささやかな幸福を持続させるため河川敷を歩く。    


日々の日常生活より心に残る句 

2022-10-31 09:06:50 | 文芸

        私の句集「風のあり」より抜粋

   こころの風景① (平成20年6月8日記述)

   風 音 の 足 音 に 似 て 五 月 く る

この句は仕事と日々の生活に疲れ果てていた平成20年の句である。たまたま休日がとれた。

神戸北野町へ心を安らげようと家を出る。阪神電車元町より北へ3キロ。坂を上り途中海を見る。神戸港が一面に。忽然と風が私へ寄ってくる。正に私の心を癒す五月の風。風音はリズムを奏でる。それは私の心を休める五月の風。また、新たな明日への力を貰って一歩一歩北野町の坂を下る。12年も前のことだが今も鮮明に頭に残る句である。

   枯 野 に は 舟 の か た ち の 風 の あ り

この句も平成20年の句である。残業が月に百時間を超える頃だった。とにかく私の身体を休めたくどうにかならないものかと思考する毎日だった。私の職場は神戸市垂水区施設の防災センター勤務であった。24時間勤務。火事・防犯・災害の予防と管理である。毎日管理機器の監視と巡回と言う、高層ビルでの仕事。神経の休まることのない24時間の集中。こんな私にとって俳句は私を私らしくする心回復の場でもあった。

そんな私の通勤途中の風景は俳句の場所だった。或る日樹木の揺れ動く車窓からの姿に私の日々と重なる心を受け取る。その揺れ靡く姿こそ舟のかたちそっくり。私の人生の来し方そっくり。私の全てが凝縮されているように思える。その風は私自身であった。

   こころの風景② (平成20年6月9日記述)

   囀 り の 言 葉 拾 い に 野 へ 母 と

この句は平成20年、母90歳の時の句である。母は70歳まで現役で仕事をする人だったが、90歳を迎える頃になると歩行が意のままにはならなくなってきていた。それでも一人で住みたいと主張。私とは距離を置く日常の毎日だった。そんな母が鳥の声を聴きたいと強く主張。私は近くの公園へ。4月中頃であったと思うが、その公園は野鳥でいっぱいだった。母は、鳥にも言葉があるのだろうか、と私に語りかけてくる。母の心の満足に私は涙が溢れていた。母は百二歳まで頑張り他界した。いま当時を思い出しても涙が出る。

      春 は 手 を 櫂 に 出 勤 労 働 者

昭和60年、この年は春の訪れの遅かったようにも思う。ようやく春らしいムードになった早朝、私は何時も利用している阪神電車甲子園駅へと歩いていた。早朝勤務のため軽やかに歩を進めていた。私の周辺を見ると、私よりも元気に両手を前後に大きく振り、前進している人がいる。これから職場へ向かうのに、これほど元気に進む労働者に私は励まされていることを知る。これから職場での人間の葛藤の場へと向かう心意気に私にも元気が出ていた。その前進の歩行時の両手は櫂を漕ぐ姿そのものであった。労働へと元気に歩き出す労働者の一人に私はなっていた。

   こころの風景③ (平成20年6月10日記述)

     垂 直 に 冷 え を 際 立 て 行 く 背 中

昭和59年の⒉月中頃の句だとの記憶だが、何時までもどうしても私の心の奥深くにしまっては置くことは出来ないことなってしまっている実体験の句である。

ああ! と声が出るとその男も、おお! と答えた。2年ぶりのことである。乳母車に乗せられるだけの資産の荷物を置きゆっくりと押していた。その男へ哲っちゃんと声をかけると顔を上げて笑った。私へ向かって…。やっぱり生きていたのだ。

今日は天気がいいので武庫川の空気をいっぱいに吸いたくて家を出る。500メートルほど行くと土手があり、それを越えると河川敷である。河口から上流へと川を遡行して歩く。

あっ…哲っちゃん。この男、2年前に小説にした「河川敷の哲っちゃん」である。全くの偶然であった。乳母車を止め一段下の河川の水際へ行き荷物の一部を降ろしそれに火をつけた。生活の塵を燃やし過去を棄てると言う。

河川敷はれんげ、蓬、タンポポ、それに青葉若葉の季節のいま、私はマイナスイオンを身体に浴びたく歩いていた自分の行動を恥じた。ここにはいまもまともな家に住めない人がいて100人近く野宿していることを忘れていた。

咄嗟に私は小説の書き出しを思い出していた。

「冷たい雨の日だった。お願いだから死なせてくれ。私の手を掴み必死に懇願する男。名前は哲っちゃんと言う。足首にくくりつけるコンクリートブロックを抱え水の深みに入ろうとしていた哲っちゃん。その時私の手を振りほどき水に飛び込んでいった哲っちゃん。水面から首だけが出た姿を私は必死な目で追った。 

  日 向 へ と 風 が 冬 蝶 つ れ て ゆ く 

平成元年、1月7日天皇崩御により、時代が昭和から新しい年号へ。この句は2月20日頃の句だと記憶。何時ものように武庫川河川敷へ。心の癒しを求め出かける。季節の香りが敏感に私を癒してくれる。ほんの些細な楽しみや心の温かさを探して歩くところが武庫川河川敷であった。その日ふと目にしたのが冬の蝶であった。凍てつく地面に落ちていると言ったほうが正しいかもしれない蝶の姿を見つける。一瞬もう息をしていないのかとも思った。拾いあげた掌の上で動いている。私は目を大きく開いて何回も見る。何度見てもその羽を動かしている。ほっとした私。躊躇している私。しばらくの時を経て風が流れてくる。そのとき私は再びほっとする。その風が冬蝶を日向へと運んで、その冬蝶もやっと命が救われたのであろうと、私の心も温かく救われた思いでいっぱいであった。このことがあってから、武庫川河川敷へ散策が楽しい日々の、原点になった句である。

 

 こころの風景④ (平成20年6月11日記述)

  父 の 日 の 父 の 貧 乏 子 に 詫 び る

この作品は昭和48年の句である。街には「神田川」の歌がながれていた。南こうせつの語りかけてくる言葉と曲に心の救いを求めていた時代であった。私の生活も家賃を支払うと、給料の残りでは暮らしてはゆけない時代であった。長男10歳。長女6歳。子供たちは元気だったが、私の心は真っ暗だった。そんなある日だった。夕食時、私の目の前の食卓に小さな包みが置かれていた。それは子供たちが少ししかないお小遣いの中からふたりで出し合い買ってくれたプレゼントのハンカチであった。その日が何の日であったのか、全く思いつきもしなかったが、子供たちは父の日であることを心得ていたのである。思えば親としての子供への施しは何もしてはいなかったのである。子供の暖かな気持ちに感謝しつつも、父の貧乏を二人のわが子へ謝り続けていた。また、この日は三度目の次の家へ引っ越すことが決まっていた日でもあった。その長男は家の柱につかまり、ここが僕の家だと離れなった記憶がよみがえる。世の中全体が貧乏な時代だった。その長男もいまは一児の父である。

   五 月 の 空 へ 唇 ひ ら く 笑 う た め

昭和34年、高校卒業の年であった。何をするにも自信はなく、生きていることすら鬱に思える日々だった。母だけの母子家庭である。高校三年間はアルバイトの毎日だった。大学にも行けず、やっと卒業も就職の決まらないことの続く日々。当時は就職も両親が健在でなければ主だった企業へは就職出来ない時代であった。私は笑うことを忘れていた。日々の生活の続く中でフランス映画をよく見に行った。心の隙間をフランス映画の洒落た明るさでカバーしていた。その映画を見ての帰りだった。五月の空一面の水色に目が吸い込まれていた。全てを忘れて心から思いっきり笑っていた。いま思い出してもとても辛い心の時代だった。


上手な句なのに…感動できないのは何故なのか

2022-10-30 17:51:27 | 文芸

        四角い箱に 

        四角い蓋をしてはいけない…俳句理論 

              児 島 庸 晃

 上手な纏め方をしている句なのに、なるほどと納得も出来る句なのに、良い作品だとは思えない事がある。そして句会でも高点句になっているのに感動しないことがある。何故だろうかとずーっと私の心のなかで何時も疑問を感じ、随分長い期間悩みを持ち続けてきた。しかし本当は良い作品であるのかもしれないと思う事もある。一瞬の思いであったとしても、なんとなく良くない俳句だと思った事実には、それなりの理由があるのではと思い、思考してみることにした。

 日本人独特の感覚として自然や人間の営みには歴史がある。その歴史のなかにあって俳人は全ての心を開くとき、句そのものに蓋をしてしまったのではなかろうかとも思うのである。俳句全体を見せるために、自然や人間の営みを全て見せることをぜず人間の心まで蓋をしてしまったのではなかろうかとも思う。心を開くが故に全てを俳句言葉にして見せすぎているのではなかろうかとも思う。言葉にしてしまっている。表現が言葉だけになっているのではなかろうかとも。

 わかりやすい説明をしてみれば、例えば四角い箱に四角い蓋をすれば中は何も見えないのだ。四角い箱には丸い蓋をして四隅が見えるようにして置かなければならない。俳句は全てを言葉にして表現してしまえば中味を見ようとしても何も見えてこない。言葉にしてしまえば、俳句を読み終えた後には何も残らなくなる。自然や人間の営みを入れた箱があるとしたら、その箱を覗くには四角い蓋に類する言葉を置いては箱の中は見えない。丸い蓋にあたる言葉で対応しなければならない。その丸い蓋の四隅からなら四角い箱でも箱の中が見える。言葉と言葉の間に見えてくる余韻の心を残して読者の想像を呼び込まなければならない。

 句会での高点句は言葉の綾に惹かれ受け入れられるのであろうか。…これを一過性の俳句という。余韻の心を残さない俳句の見本であり、感動が盛り上がらない句という。また、このようなことを避けるために月日をかけて添削を試みるのである。月日・時間を経て俳句作品を見ていると、どうにもならない粗雑な句に見える事がある。月日・時間が経ても新鮮な感動が残しておけるような作品が求められている。ここには俳句言葉に四角い蓋はされていない。何時も俳句言葉は現実が覗けるように丸い蓋である。丸い蓋の四隅から四角い箱の底が見える。現実全体を見るのに言葉で四角い蓋をしてはならない。

 心の中を覗けるように表現された言葉の句には、私は何時も感動してきた。次の作品もその一つである。

  子にひとつづつもがり笛三つ欲し  向山文子

 「青玄会員句集」第四集1968年版より。この句には言葉としては表現されてはいないが、句を読んでいて分かる事がある。この句の素晴らしいところは、表現言葉だけで想像出来る部分があること。「ひとつづつ…三つ欲し」の言葉、この言葉より三人の子供さんがいる事がわかる。でも「三人」とは表現しなかったのだ。何故だろうかと思う。意識して三人の存在言葉を表には出さなかった。ここには作者の真心としての愛情の真実が覗けるようにしてあるからなのだ。言葉に四角い蓋をしなかったのである。より奥深く覗けるように「三人」とは表現したくなかったのではなかろうかと私には思える。「三人」とした方が、より理解しやすいのに…。でも敢えてしないのだ。つまり四角い箱の中にある現実に向かい四角い蓋をしたような観念で捉えたくはなかった。「三人」と言う観念語では表現したくなかった。よりこまかい深い母としての愛情を濃く示したものであろう。ここには丸い蓋の四隅から必死に窺う作者の瞳があった。感動は全てを表現することではない。言葉に四角い蓋をしてはならないことが大切なのである。この句は言葉に蓋を被せないので現実の姿の中が覗ける句なのである。心の中奥深くまで覗けるよう意識した句であるようにも私には思える。

 感動出来る俳句の最も大切な事は表現の上手下手ではない。読者に届ける心の真実なのである。それには感覚が問われるののだが、感覚は俳句作品の入口にすぎないのだ。真実を知ってもらうには心の奥が覗ける捉え方が工夫されていなければならない。先ずは言葉に蓋を被せない目視が望まれる。言葉と言葉を合わせたときに見えてくる言葉の隙間に流れる余韻が含まれていなければならない。そんな俳人の一人にながさく清江がいる。…丸い瞳はいまも心の蓋をしないで前方をしっかり見ている、そんな心には四角い現実の光景はどのように写されているのだろうか。横に広がったシネラマの海景である。瞳を丸くして前面の現実へ向かって、いま一人の女流俳人が海を眺めて立っていた。瞳の前にある横広の四角い海面にまるい瞳で心を置く。だが、まるい瞳の四隅から見えてきた詩心とは…。この時、作者の心を広げ、心を開かせたのは何であったのだろう。次の句は作者の瞳の奥には心が灯されていたのだろうと思われる。

  冬濤の渾身立てるとき無音    ながさく清江

 総合俳句誌「俳壇」2005年一月号より。ここで作者が目視している光景は広い一面の海面である。じーっと見詰める先に広がる海面は冬海。荒れ狂う「冬濤」。一瞬ではあるにせよ瞳を閉じたくなる心。瞳は蓋されたが、俳句言葉は蓋されなかったのだ。現実を目の前に置き言葉には四角い蓋をしてはいない。それは「渾身立てる」と言う俳句表現言葉で理解出来る。心の中、奥深くまで見えるように表現された「渾身立てる」なのである。言葉に四角い蓋をして現実を見ておれば、このように瞳の四隅から覗くことは出来ていないだろう。そして「無音」と言葉に余韻を残す。作者は海のそばにはいなくて遠く離れて立っている。「冬濤」の音はきこえていない。だが、そのことは俳句言葉としは何処にも使われていない。「無音」なのである。全てを語らずに余韻を残し、想像を膨らます。…所謂、箱の中が見える表現なのである。現実光景を蓋するような言葉を使ってはいない素晴らしさがこの句にはある。

 言葉ほど曖昧なものはない。それ故に多くを言葉にしなくても心の中は読み取れる。…そんな俳句に出会うと想像が広がる。そして心が豊かになり癒される。感動もする。何故なんだろう。心が詰められた箱の中が覗かれてゆくように全ての真実が表面に突出してくるからなのである。感動とは、ほんの一瞬の言葉の情感なのかもしれない。

  紫陽花に何度も触れて駅に着く   飛永百合子

 「歯車」371号より。この句は表現の情緒が表に現れるとき、言葉に蓋がされてはいない。読者は素直に受け取れる。その言葉とは「何度も触れて」。作者は言葉に全てを託してのものではなく、心の中を見ているように思える。心が覗けるように「何度も触れて」と表現。この句には俳句表現言葉にはなくても想像で句を味合う事が出来る。それらすべては作者自身が句の中に直接登場はしていない。しかし作者の動作まで理解出来る。…作者が「私」ですとは登場しない。作者自身の動きにより作者の存在感を強く意識させている。それが「何度も触れて」なのである。このように四角い箱の中に、現実を閉じ込めて見えないようにはしていないのだ。丸い蓋に等しい瞳で目視している。それにも関わらずしっかりとした瞳で、現実の隠された箱の中味までもを見届けている。現実と言う見えている表面ではなく見えてはいない部分を見えるように描くことであった。そのためには目視での物体を言葉の粗雑さで蓋してはならない。見えない心を見えているように魅せて描くことが作者の主張であったように思える。人々が感動すると言うことは大袈裟な表現でも言葉でもない。情感の強さである。

  物体を擬人化して心の有り様を覗けるように表現された句にも感動することがある。擬人化といっても作者が擬人化されているのではない。作者の瞳を通しての擬人化表現なのである。

  手袋の五指それぞれの住み心地   神谷冬生

 「歯車」371号より。この句は、例えて言えば箱の中を外から覗くのではなく箱の中から外を窺う心境をアイロニーにしたような表現の句なのである。さて、ここで作者が目視する時のレンズなのだが、何処にあるかといえば作者の瞳と「手袋」の間にあり、そのレンズにはアイロニーが隠されている。「手袋」の方から作者を見ている、或いは覗いているのである。だから丸い蓋の丸い四隅から作者を覗けるのである。真四角の蓋で四隅が蓋されていれば何も見えなくなる。「それぞれの住み心地」とアイロニーが見えてくる。心を開くときの言葉に観念語の蓋をしなかったのだ。「五指それぞれ」と「五指」に語らせて心を伝えている。この句が人々に感動を与える理由なのである。

 ところで感動の原典は何だろうと思っている私を驚嘆させた事がある。つい先日のこと、一冊の句集を頂いたのだが、その時の感動である。その時より目視する私の心が変化した。感動を伝える事とは…。五体満足の健常者の目視による感覚だけだと思ったらとんでもない話であった。心の奥深くを覗くように情感を伝える事は目のしっかり見えている者だけの特権ではなかった。目がしっかり見えていても言葉に蓋をしてしまったら何も見ていないことになる。…句集『光滴々』(平成28年)と出会い心が一変した私。そうだったのかと思う。この句集は視力を失った俳人・新出朝子さんの近刊句集である。

  白神の秋の灯一つ二つ摘む   新出朝子

 この句、目視出来る俳人よりも、遥かに良く見えている。この句を読んで視力を失くした俳人だとは思えない。どうしてなのだろう。そこには心の、それも真心がある。この作者の目視は現実の物を見るというのとは違うのである。心の中の風景の目視なのである。「白神」は白神山地のことだろうと思うのだが、そこで煌く秋灯が「一つ二つ」と見えている。視力のある健常者でも捉えにくい山地の灯り、しっかりと心で受け止めているのである。その心の程は「摘む」と力強い。この情感は作者の必死な生き様の象徴でもあろう。咄嗟に私は感動するとは他人の情緒を揺さぶるものだろうと思ってしまった。

 俳句を読み、そしてそこに描かれた光景の真実を、それが本物の心であると知ることが出来る素晴らしさは、見える言葉の素晴らしさでもあった。自然や人間の営みは日本の歴史だが俳句では充分に描かれてはいない。それは言葉の扱いに人間らしい配慮がされてはいなかったようにも思う。素直になって言葉を見つめ直そうではないか。乱暴な言葉で、多くを喋り、語り過ぎているようにも思う。言葉を乱暴な形で蓋をしてはならない。中身が見えるように、覗けるように言葉に余韻を残さねばならない。すべてを表現言葉にしてはならない。

 感動することは技巧でも、長年に渡り経験を積み重ねた賜物でもない。真に心を尽くす作品に出会った時には、心がすっきりする。上手な句には納得はするが心は動かされはしない事の意味が私にも理解出来るようになった昨今である。

 


  昭和三五年当時の若者俳句の現実を探る

2022-10-30 13:12:02 | 文芸

 俳句表現は理屈にならないこと…理屈で表現しない事である。感覚には理屈はない。人の心にも理屈はない。理屈は人間が考え出した勝手な思考。だから表現された言葉に好き嫌いが起こる。これは表現言葉が純粋でなければならない理由でもある。その純粋性の表現を趣旨として表現していた若者集団がいた。その若者集団を生み出すことに必死に専念し指導していた俳人がいた。伊丹三樹彦である。既成俳壇とは異なる思考を基本として日々研鑽していたのが俳句結社「青玄」であった。

 主宰者三樹彦は、その純粋性の俳句の基本を、当時の既成俳壇の中では当然とされていたその俳人の経歴重視の姿勢についての純粋な批判言葉を「青玄」129号に述べている。

…例えば俳人間では「A誌で三年間いました」とか、「B誌に五年関係しました」とか、よく修業年期のことがやりとりされる。成程、俳句もまた年期を必要とする文学だ。しかし、年期を言挙げするからには、その年期の内容についてもまた十分の責任を持ち得るものでなければならない。

このような俳壇のなかでは、若者が活躍する環境ではなかったのである。このとき本来の俳句の純粋性を語り、若者に呼びかけたのが伊丹三樹彦であった。ここで「青玄」以外の俳壇はどうであったのかを考えてみる。ずーっと私の頭中にあったのだが、昭和三五年の俳句総合誌「俳句」六月号での小田切秀雄氏の発言が私の俳句制作の思考を引っ張ってきていたことを思い出した。「喪われたものは何か」と言う題で、「現代俳句は面白くないということ」から話し出されている。「俳句専門以外の人間と、俳句を作っている人では相当のギャップがある」と小田切秀雄氏は述べているのだ。続いて「一個独立の作品として、広く読者の前に出される筈のものが単に俳句を作る人にしか読まれないというふうな状態」とも強く指摘していたことを私の頭は記憶している。

これと同じ指摘を三樹彦も述べている。

…俳句雑誌の最も大きな特徴といえば読者が作者をかねていることだろう。俳句を作らない読者も一方では存在しているが、全体からすればやはり読者即作者というケースが圧倒的に多い筈だ。こうした現象を捉えて、俳句を仲間だけにしか通用しない文学であるという風に決めつけた局外からの冷笑批評は第二芸術以後跡を絶たない。が、読者即作者という関係については否定面より肯定面を有している。                 (「青玄」129号より)

 この三樹彦の思考は純粋に俳句に関わる俳人としての趣旨であった。このような俳壇の固定観念に既成俳人は、誰も立ち上がれなかったのである。このとき、読者即作者の在りようを当然のこととして立ち上がった俳句集団があった。それが若者たちの俳句印象派集団である。その俳句結社が「青玄」であったのだ。私はこの「青玄」には一〇二号より関わっているが、この運動が起こり始めたのは昭和三五年当時からであったように思う。特に私が注目したのは「青玄」125号、昭和三五年五月号であった。ここには若い俳人が突如として登場してくる。この号は旦暮賞作品発表号と新里純男追悼特集号で二つの特集であった。旦暮賞一席は当時二六歳の青年上野敬一であった。また追悼号となった新里純男も二六歳である。確かに「青玄」内部でも既成俳壇の外部に対しての遠慮からか旦暮賞一席の上野敬一を阻止する動きがあった。日野草城時代からの古参の無鑑査同人たちであった。だが、その三樹彦の趣旨は若者には受け入れられたのである。もう一人の新人は新里純男であるが、二六歳で結核により病死。私はこの二人の青年俳人により、俳句に対する思考を深く見つめ直すようになっていた。それは読者即作者という三樹彦の考えが若者に浸透し強く理解されていたこの純粋性に惹かれて私の思考は進められていたように思う。

 その青年二人の俳人の作品が当時の若者に共鳴してゆくのだがその作品がどのような内容であったのかを思い出す。

    旦暮賞一席作品「旅の断片」  上野敬一

  傷バナナ香る夜の土間 血族混む 

  濃霧の底に 動けぬ 痩せた国旗の村

  赤く涸れて 日本の外へ 川泡立つ

  くねる道 殖える赤子に 崖から海

 これらの俳句は当時の批判的リアリズムを基本としたものである。旦暮賞は二〇句を纏めてのものだが、当時、映画の一シーンを見るようなドキュメンタリーだった。その感動は多くの若者に刺激となった。伊丹三樹彦は選考評を次のように述べている。

…恐らく旦暮賞始まって以来、最大の収穫ではないかと思う位で、私は読後しばらくは名伏し難い興奮に襲われた。文字通り「文化果つるところ」の奄美大島が眼前に現出、すぐれたドキュメンタリー映画に匹敵する感動を覚えた。しかも一篇二〇句はそれぞれ独立したカットやシーンの積み重ねの上にたって尚、貫流する叙事詩的なムードを存分に発散させている。戦前、竹中郁がシネ・ポエムを試みていたが、これは正しく俳句版シネ・ポエの新しい成果といえる。

 また新里純男追悼四〇句は、俳句の基本を根本より革新させるものであった。

   絶唱 三句    新里純男

  街は桜の季節で行方不明の僕

  誤診ではなかった胸裡の薔薇さわぐ

  ねむい春日の触手肺から腐る僕

    追悼遺作抄四〇句より抜粋

  弾丸呑んだ地で麦育て日本育て

  肺に積もった商戦の塵 場末灯る

  見えぬ傷に堪えて冬越す林檎と僕

  冬日は父性の温さで白い孤児の家

  苔咲いて僕を黙らす川の蒼さ

  昏い雨季の日本を棄てた赤風船

 この時の新里純男に寄せる青年の気持ちは私おも含めて計り知れないリリシズムの極致だった。その期待の大きさについて三樹彦は語っている。

…一人の若者の死が、こんなにまで私たちを悲しませるとは、正直なところ考えられない位だった。とにも角にも、弔電を急がなくてはならない。近くの郵便局へ駆けつけ、頼信紙を手にすると悼句が口をついて出来上がった。

  春日に放たれた風船 詩の友消え

の一句だった。新里純男が一年前、青玄初登場した折の句に、

  昏い雨季の日本を棄てた赤風船

がある。何という不思議な暗号だ。彼は彼の、余りにも短すぎた俳句人生を、この句に見る赤い風船の昇天さながらに終幕を引いてしまったのだ。私は新里純男の死んだ日を「風船忌」と名付けよう。

 これらは全て読者即作者という純粋思考により作られていたのである。その読者即作者という思考は、つまるところは私性としての文体の確立であったのであろうと思う。新里純男の言葉でも述べているところの…

「僕は句の中に自分が入らなかったり、みつめて居る自分がなくては僕の句として満足できない。一つの句を完全に自分のものにする迄推敲し、追求してゆく」

この言葉は読者即作者の思考だったのだ。

印象派とは19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動である。既成俳壇の頑固な古典的思考の即物的リアリズムに反発して起こった運動が読者即作者という印象派としての目覚めでもあった。これら一連の動きを、私は俳句印象派と呼びたいのである。

 ここには若者の俳句に対する印象を鮮明に表現することだった。その表現は光と影のツインである。このことはこのことよりずーと後になっての三樹彦の写俳の純粋表現主義へと受け継がれてゆくことになるのだが。その大きなテーマは光と影のツインであった


私の検証③

2022-10-29 13:26:08 | 文芸

   野の菊の汚れぬ色を遠く見る 庸晃  (2006年9月2日記述)

 飢えは極度に達していた。何かを食べなければ死ぬ。ひたすら野や山を歩いた。敗戦の迫り来る村の毎日であった。幼い私は母の手を握り母の後を追う。そこここにある食べれそうな自然はかたっぱしから狩りとられてゆく。殆どの雑草は食料にかわってゆくのだ。そんなとき目の前にある6月の季節はずれの菊は実に美しく思えた。母は言う…この菊は食べないでおこうよね。見渡すかぎり何もない野に咲く菊。あまりにも美しかった。いま思うに心まで汚れきっている人々にこの汚れぬ色は大切であったのだ。そして傍にありながらも遠くに見るという存在でしかなかった。

 さてプロレタリアート俳句の最終回である。いろんな批判が高まる中、俳句は他の文芸ジャンルにも影響を及ぼし歌人たちとの動きにも密接に関連してゆく。昭和6年を過ぎるころからやたらと短歌の形式崩壊が始まり散文詩に近づいてくる。いわゆる形式が内容の壁になっていては階級闘争は出来ないということであった。短歌が形式論の解消を提唱すると、この自由律俳句はついに10行、15行という、まるで散文詩とかわらないものが俳句となって出て来た。俳句も短歌も詩も区別がつかなくなる。ついに昭和7年俳句解消論まで出て散文詩がはばを効かし始めた。そのころよりプロレタリアート俳句は力の弱い存在として生きつづける。その後5・15事件、小林多喜二の獄中死など、特高のいたでにあいプロレタリア作家同盟ナップの解散。、プロレタリア文学の衰退と共にプロレタリアート俳句も滅び個人の生活を詠う方向へと転身してゆく。

 このようにプロレタリアートの運動は社会主義リアリズムを追求してゆくうえで労働者の関与を如何に得るかにある。同時に社会主義リアリズムの中で主体を如何に生かししてゆくかにある。そして目前の現実を如何に把握するかにあった。横山林二の規定した言葉によれば「動的リアリズム、または社会的リアリズム」であり、世相を素材としてとらえることにつきていた。ここに自由律から出発したプロレタリアート俳句の失敗が確かにあった。