本日9号をお届けします。毎号皆様にお読みいただけるだけの温かい内容をとの思いで何時も編集をしています。その都度私の心をお届けしたくての個人誌ですので少しでも、ほーっと心を休ませる瞬間が、皆様にあればとの私の思いです。どうか気軽に読んでお心を休めて下さい。…毎号私の実直な素直心を届けられているのか…。皆様からのお声に励まされています。沢山のご感想と温まる励ましに、私の心中は生きている実感や充実をいただいています。私の真心は皆様の心を温かくしたい思いで一杯です。いま現実社会は何を信じ、何を頼りに生きてゆけばいいのか。社会そのものが混沌、汚れきって真面目に生きるに辛い毎日。政治の中心にいる人たちですら、国民を騙す時代。私の心が壊れないことを願った。あれもこれも人の心が壊れていて人間の価値観が問われる時である。いまこそ文芸は心を正す時。いまこそパーパス(存在意義)を真剣に考えなければばらない。何故文芸に関わっているのか。純粋な心で、自分自身の心を壊してはいけない。今回は私の文章特集としました。…いまの時代はアメリカ資本主義が世界へ浸透しようとする時代。世界は人間の勝手により心が壊れてゆく社会。日々の生活の中で本来の人間の心を真に維持してゆくのがどれほど大変なことなのか。今回は俳句の中における人間性とも言えるその原点をもう一度率直に反省したく俳句の成り立ちを基準に戻し私の主旨を述べることとしました。その文章より何かの示唆が生まれ皆様の心の浄化に繋がればとの思いです。心が折れてしまわないかぎり発行を継続しますので、ご愛読をよろしくお願いします。毎回ご愛読いただきありがとうございます。(児島庸晃)
文章特集 ①
現実社会の中で俳句は何故必要なの!
俳句的思考は日常生活を快適にする
児 島 庸 晃
いつしか人に生まれていたわ アナタも? 池田澄子
右記の句を一般の生活人はどのように受けとるであろうか。この句を依光陽子さん(屋根)は総合誌「俳壇」2005年8月号で次のように書いている
共生的な存在意識の投げかけは口語文体ゆえにストンと
読み手の心に落ちる。
「俳壇」の特集号、「時代をとらえた俳句表現」での発言記事である。この発言記事。よく考えてみると、私たちは共生的な存在意識のもとに生存し生活をしているのである。一般的に普通に生活していて誰もが思うことは、俳句など全く生活とは関りはないのだろうと、誰もが思う。そして生きてゆくのには俳句は全く関係ないと思うのが普通だろう。だが、一般生活をしているのに、或いは日々の暮らしの中では俳句的思考は必要なのである。それは何故にそうなのかをテーマーとして書きたいと思う。
俳句はビジネス語ではない。ビジネス語は業務を遂行する言語で、ニュアンスは含まない。従って詩語にはなりぬくいのである。感情は直情なので詩語にはなりにくい。日常の生活は会話を正確に伝えなければ物事が前へと進まない。だが、このことが、詩情を深めるのには邪魔になる。日常会話は人の心を傷つける言葉にもなるのである。心の在りよう、つまり人の感情を阻害してしまう。多くの人々は物事を伝達するのにだれにも理解出来る言葉を選ぶ。これは感情や雰囲気を含まない言葉。だから社会の中で行き違いや衝突が起こる。そこで人々は何かの救いを求めようとする。この時に心を広げることの出来る感情が欲しくなる。それが自然の風景であったりする。或いは文章やエッセイを一つにした一冊の本であったりする。その一番すっきりとした形が短詩形であり、そのもっとも顕著な存在が俳句なのである。ここには人の心を救ったり癒したりの情感が宿る。この部分を俳句的思考でその日々を温かく豊かにする。
水鳥の水となりゆく音楽よ 鳥居真理子
「俳句研究」2006年2月号より。日々日常生活においては共生的な存在意識から逃れることは出来ないのである。生活人は私個人の側から他人を排除しては生きてはゆけない。故に人々は、別の場所に人間本来の心を求める。そのときの心を救って貰えた句の心がここには温かくある。その俳句言葉が「水となりゆく」なのである。作者の心には「水鳥」本来の姿を見た時の心の場所がここにある。水鳥の水中で生息出来ていることの安心が作者の心を救う。心の安息として作者個人を温かく出来た時間なのだろうと私には思える。このことは人間生活に戸惑い共生でき得ないものには共感を受け取ることが出来た喜びでもある。また「音楽よ」は水鳥の動き燥ぐ状態を感性として作者には受け取れたのであろう。ここには人間生活に順応出来ず、心を痛めた作者が悩みから解放された姿がある。
神田川祭の中を流れけり 久保田万太郎
「俳壇」2004年8月号。特集・わが夏の愛誦句より。人々が多く行ききする東京神田の街。この街も住むには共生的な存在意識なしには生きてはゆけないのだ。朝から夜まで終日、人との関りなしには住めない。そんな街の真ん中を流れる神田川。ここでほーっと息を抜き心の休息出来る場所を目視する作者、久保田万太郎の姿がある。日頃は舞台演出家として多忙な時を過ごされ心の在りようは、と私は考えてしまった。演出を巡って意見の対立も葛藤もあったであろう。そんな演出家が今は俳人として人間本来に戻れる時間なのだ。この時こそ、この場所にこそ、俳句的思考が作者、万太郎を救ってくれるのである。何よりもこの句を作者に引寄せ、惹きつけたのは「神田川」がただ流れているのではなく、賑わう「祭の中を…」、祭で騒がしい街のど真ん中を静かに、しかも音もなく流れているのである。この時間の止まったかの安らぎに、人間本来の心を温めているのである。これはもはや俳句的思考なのだ。
俳句的思考は人生共生の中で如何に生きて行ったのかを見事に実証したのが次の句である。社会生活で疲れ果て、そのことが故に生存意識への生き様を魅せる。
コスモスに青空 帰郷のシャッポ脱ぐ 伊丹三樹彦
「関西俳誌連盟年刊句集」平成元年版より。作者の故郷は兵庫県三木市。幼少時を過ごした三木市は神戸市より北へ延びるローカル線神戸電鉄が走る。電鉄三木駅で下車、今も自然の残る長閑な緑が広がる町。そこには「コスモス」畑が自然を豊かに魅せて広がる。青年時代を神戸市で仕事に専念、その後俳句界の大改革へと率先して立ち上がる。その時の伝統派俳人との強烈な抵抗阻止に耐えた俳人としての心の苦しさは如何ほどのものであったのだろう。この気持ちを察するに、「帰郷のシャッポ脱ぐ」の俳句詩語は共生の意識より自力してゆく心の浄化であり、人間再生の仕草、または心を回復、心を蘇生させる救いへの温もりであったのだろうとも私には思える。これは人間としての俳句的蘇生の私性なのだろうと私には思えた。俳句そのものが作者の人生を、共生社会のなかで俳句的思考を生み物事を切り開く道であったのだろう。
これと言って何も語ってはいないのに、共生的存在意識の感じられる句に出会えた時の温かさは俳人ならばの思考なのか。
これからもよろしくハンカチの白い花 新出朝子
「かでる」弟90号より。一見、この句は挨拶句のように思われるが、この句は作者にとっては、とても真剣な句なのであろうと私には思われた。何故か。共生社会の現実を生存してゆく難しさが、この句の原点には含まれているのでは、と思ったからである。この作者は目に障害のある俳人である。故に作者自身の存在意識は、何時も自分の周辺の人たちとの接点にありこの俳句をもって、俳句の思考を働かすことで、周辺の他人と繋がっているのである。「これからもよろしく」の俳句言葉の会話は真剣なのである。ここに共生社会中での生き抜く意識が言語化されているのである。日常生活の潤滑油として俳句的ものの思考は大切なのである。…そのような思考を「ハンカチの白い花」に呼びかける姿こそ真剣。「ハンカチの白い花」の目視時点で思ったのだろう。この社会での生活に疲れ果てた人には「ハンカチの白い花」は心の浄化をもたらし、生きてゆく弾みにも思えたのだろう。俳人はすべてを俳句的思考をもって生存意識を強め、真剣に生きている。社会人との接点には人と人との俳句的思考がいるのであろうと私は思った。社会から疎外されないように自分自身の精神的救いには心の回復がいる。特に社会の中で傷ついたものには自然への回帰がいるしその美しさは人の心を救う。俳句的考えの自己回復がいるのだろう。
いろんな引例句を抽出して、俳人が現実社会の中でどのようにして心の回復を成しているかを考えてみた。特にアメリカ資本主義の令和の時代は競争の時代である。真面目に時代を生きてゆこうと思えば思うほど、心の純粋さは失われる。人間性は失われる。私の育った昭和の時代の心優しい社会は過去の事。共生の意識回復には心がいる。文芸は、そしてその中の俳句は心の回復をもたらすのに最も相応しいのである。それは情感を表示するに一番相応し私性の文体であるからだ。
(2021年11月29日記述)
ヌーベルバーグ時代の俳句…ふたたび
俳句を詠むに意味で読まないこと
児 島 庸 晃
目視して物を受け取る時、その感覚は意味で受け取っているのではなかろうか、と思う時がある。それらは頭で判断していると思われているのだろうか。だが、実際は情感で物を見ているのである。俳句が意味の句の表現になってしまうのは、その意味が頭の中に残ってしまっているからである。俳句は情感の支えがしっかりしていなければ、ただの言葉でしかなくなる。俳句は意味で作ってはならないのである。俳句が説明になってしまう理由でもある。私の二〇代初めの頃、映画の世界にヌーベルバーグ(新しい波)と言う新しい表現の実感直感のフランス映画が、日本の若者の心を捉えていた。その代表的映画は、「勝手にしやがれ」。ジャン=リュック・ゴダール監督。ジャン=ポール・ベルモンド主演。その映画とは町の中をただひたすらに歩いて行くだけのもの。ベルモンド主演の演じたものとは退廃的表情の青年を、主演の顔の表情やその動きからだけで上映時間二時間を演じきったものだった。ここには映画の中における意味的表現は何処にもなかった。視覚より受け取る情感をとても強く受け取るものだった。これは意味など若者には何の役にたたないもの。理屈や観念などは生活するのにはいらないもの。この映画が若者に受けた理由は実感と言う心への直情だった。このとき現代俳句界へ新しい改革をしようと踏み出した俳人がいた。伊丹三樹彦である。一九六〇年代、俳句は、まだ伝統俳句より抜けきってはいなかった。その頃、従来の伝統より生活実感俳句へと句の思考を切り替え実践実行へと踏み出したのであった。草城より受け継いだ「青玄」をその時代のものへと変革しようと動いたのであった。「青玄」120号頃の時代である。因みに私の「青玄」入会は102号だった。この当時、俳句結社「青玄」には高校生俳人は、私を含めて三人しかいなかった。その一人に荒池利治がいる。
空でまかれ蝶となるビラ労働祭 荒池利治
まだ分ち書きは行われていない頃である。当時、詩語を柔らかく語れる人はいなかった。この作者は私と同じ高校で、文芸部の仲間でもある。「青玄」新人賞候補になるのだが、その後一年ほどで句を作らなくなる。後年三十年程して「青玄」に復帰、新人賞を受ける。またインターネット句会「青鷹」の主宰者でもあった人。当時、この「労働祭」の句の世界にこのような柔らかい直情を詩情に変革させる俳人はいなかった。何よりも若者の心を柔らかな直情で語りかける俳人はいなかった。主幹三樹彦はこの句を真っ先に認め、当時の微風集蘭の推薦句として推挙、同人の多くの賛同を受ける。以後若者が「青玄」に入会してゆくきっかけになってゆく句でもあった。
恋人たちへレモンのような街灯照り 荒池利治
この句の清らかで美しい心の表現は、当時の若人の心を一変させたのである。この句の発表は、最初は若人の研究誌、鈴木石夫代表の「歯車」だった。その時の人気が全国の若者に伝わってゆく。総合誌「俳句」にて紹介され、この時、「青玄」の俳誌も加わって全国へその存在が伝わる。同時に私の次の句も紹介されることになったのであった。
灼熱の街 僕の胸裏の檸檬磨く 児島照夫(庸晃)
この句の紹介は確か赤尾兜子であったように思う。その記事の記載された誌は何号だったか忘れたが、そこに書かれていた言葉は記憶にある。…青年の必死に生きてゆこうとする生き様が、燃え尽きるような灼熱の街の中に見えてくる、と。夏の俳句として紹介されていた。
ここまで書いてきて思うことは、若者には共通の希求した心があった。当時の青年男女には理屈や観念に通じる心はいらなかったのである。生活実感から生まれる情緒であったのだ。何故とか、どうしてなのか、などの思考はいらなかったのである。つまり意味などの思考はいらないのである。生活実感から発生する直情が、美しい詩情として、個々人に呼びかけてくる詩語としての一句なのである。意味などではなかった。このことをいち早く認知したのが、「青玄」主幹伊丹三樹彦であった。以後次々と若い俳人が生まれてゆく。だが、若者が活況を呈してゆくのは、この時より6年も経てからであった。この6年と言うのは内外ともに激しい厳しい抵抗との対決であった。まだ草城時代からの無鑑査同人が頑張っていて大変な出来事の連続であった。桂信子、小田武雄、林薫子、河野閑子、弓削鴻、清水昇子、安川貞夫、兵頭幸久、多賀九江路、藤本春緒と、それに連なる各支部の人たちとの摩擦を、私は何回も見て来た。特に外部との摩擦では山口誓子の「穴ぼこ俳句論」には深刻な日々であった。分ち書きを批判されてのものだが、一歩も引きさがらなかった根性と勇気にその真剣さを私は真剣に考えた。…これらの時を経て活況を呈してくるのは、この時期より6年程してからである。若者たちは伊丹三樹彦のもとへ集まって来るのだった。新里純男、諧(かのう)弘子、鈴木明、坂口芙民子、上野敬一、門田泰彦、穂積隆文、澤好摩、伊丹啓子、中永公子、松本恭子。数えればきりがないほど多い。ざっと数えても百人近くいる。そして特筆すべきことがある。主幹伊丹三樹彦のしたのは俳句のテクニックを一切教えなかった。このことについて私は主幹に聞いたことがある。すると作者本人の個性が失われるから、との返事。いま私が思うにその三樹彦先生は殆ど俳句の話はされなかった。毎日の生活の中における喜怒哀楽についての部分がその俳人を成しているとも言われていた。傍にいるだけで心が温かくなる事が多かった。真剣に若者の考えを聞き入れて下さる俳人だった。
ここで当時の俳句を紹介したい。実に幅の広い感覚のものであったように思うのだが…。
一秒おしみの恋人 海へ向くチャペル 鈴木 明
恋の略綬の木彫りブローチ 九月の森 鈴木 明
薄暮の椅子に風船結んで 去った恋人 鈴木 明
猫背に去る若者 前方を射ちつくし 門田泰彦
水洗便所快調 失うものなくて 門田泰彦
チュウ太と名付け その鼠穴に罠仕掛ける 門田泰彦
喋らねば孤独 鸚鵡百色着て 門田泰彦
灯が凍結して 誰かが泣くガラスの町 新里純男
ねむい春日の触手肺から腐る僕 新里純男
空気銃とお化けの記憶 森黄ばむ 新里純男
しびれだす正座 生きるを思案してる刻 児島照夫(庸晃)
ビルの谷間で赤茶ける恋 ぼくのトーン 児島照夫(庸晃)
川へ怒りなげてしまって 手を垂らして 児島照夫(庸晃)
春風狩りに 夫も大きいてのひら 下げ 諧 弘子
死んでごらんと 節穴が光の剣呉れた 諧 弘子
老母に長い重い前掛け 冬日の坂 諧 弘子
大きくなって御免 母を待つ落葉の坂 穂積隆文
遠吠えだな 夢を語れば腹減るな 穂積隆文
尾を曳く万の流燈 広島 川から冷え 上野敬一
呪文のような冷風ロビーに眠る商人 上野敬一
コンクリートエコーのシュプレヒコール温い舌 伊丹啓子
右記の句は1960年より1974年位までの、所謂ヌーベルバーグと言われる時代の俳句である、このヌーベルバーグの時代はフランスの映画に始まり、日本でも松竹系の監督により一時の話題を呼んだ。大島渚、篠田正浩など、また舞台では歌人寺山修司主宰の劇団「天井座敷」の直感主義として存在していた。このころの俳句の新しい波が俳誌「青玄」主幹の伊丹三樹彦によって進められていたのである。 (2022年2月12日記述)
俳句その心表現の基本とは何なのか…
目視より始まる寄物陳思考
児 島 庸 晃
そこにあるのだけれど見ようとしなければ見えてはこないもの…それを不可視という。人の心は不可視の中にこそ潜むもの。日常の出来事だけが五・七・五の定形であってはならない。
…つぼみの中を表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いて
はいない花の中までわかるように表現しなければならんのや。俳
句で表現出きるかね。
上記の文言は今は亡き現代俳人伊丹三樹彦の私への問い掛けだった。当時「青玄」大阪支部句会帰りの電車内での会話である。私は一瞬とまどった。びっくりしたというよりも考えるところがあってのことであった。見えていないものまで見えるように表現する。これは批判的リアリズムの基本理念ではなかったか。見方を変えれば、俳句の基本とされている寄物陳思なのではないかとも思った。寄物陳思とは物に寄せて心の在りようとしての思いを述べることなのだが、句を作るときは、どうしても目で見えている物、或いはその物の状態だけしか表現出来ないことが多いのである。しかし目には見えていないものまでどのように表現するのだろうとその当時、私はとまどうばかりだった。見えていないものをただ単に表現することは出来るが、それは正述心緒になってしまい、それでは説明言葉になり、詩としての情緒がなくなるのだ。正述心緒とはその思いを直接感情のままに述べることであり、詩にはならないのである。
そのようなことがあり数日経た或る日だった。私の手元に句誌「青玄」が届きそこで私の目に飛び込んできた句がある。当時は社会性俳句の真っただ中であったのだが、その基本となる寄物陳思の思考に基づく不可視の部分を可視にする理論は、どの俳人もしてはいなかった。見えていない部分を見えるように表現すとの考えは俳壇の中にあってはなされていなかったのだ。その句とは…。
古仏から噴き出す千手 遠くでテロ 伊丹三樹彦
この句は句集『樹冠』に収録されているものだが、この句を目にしたのは「青玄」130号(昭和35年11月号)誌上だった。私がこの句を見て驚愕したのは…見えてはいないものまでも見えるように表現する…と言う批判的リアリズムの思考であった。目視しても全く見えてはいないものまで俳句言葉に出来るのだと思った。限りない心表現の可能性に一瞬、緊張し手が震えた想いがいまもよみがえるのである。その俳句言葉とは「噴き出す」。千手観音と向き合っての目視状態の「古仏」からは「噴き出す」と言う感じではないのだ。千手観音とは固有名詞の名のごとく観音様の御神体から千本の手が出ていると言う姿そのものなのだが、この句の表現は、そうではないのである。「噴き出す」…なのだ。この感受は目で見えてるままではなかった。つまり見えているそのものではない、見ようとしなければ見えてはこないもので不可視のもの。そして人の心の在りようは不可視の中にこそ潜むものだろうと私は思った。全ては日常の出来事・姿だけが五・七・五の定形であってはならないのである。
やはり俳句は目視に始まり、目視に終わるのでは、と思う私の日々が続いている。だが、最初の目視と最後の目視は全く違うのではないかと思うようになった。物を最初に見た時点では見えたままの姿・形なのだがしばらくじっと見ているといままで見えてはいなかったものまでも見えてくるのである。これは見ようと強く意識して見るからであろう。これまで見えてはいないものまでも見えているように表現することなのである。ここには作者、その作者ならでの見えてくるものがあり、それらがその作者の感性でもある。これが寄物陳思の基本的思考なのである。その理論の現実感を批判的リアリズムと呼称してきたのであった。
秋風を四角く運ぶエレベーター 春田千歳
「歯車」337号、二〇一〇年歯車の集い当日吟行句より。この句の見えてはいないものが見えてくるとは、どういうことなのか。一瞬の疑問が私に起こり、何故この句に心を奪われてしまっているのかを思考している私がいた。そこで、やっと理解出来たことは、目には見えてはいなかった物が、見えるように表現されていることなのだと納得。その俳句言葉とは「四角く運ぶ」であった。自然の風景の中での風の流れは右から左へ、或いは左から右なのだが、作者が目にしたのは「四角く運ぶ」の風だったのだ。何故なのだ。私は…。見ようとしなければ見えてはこないもの、そこは不可視の部分、しかし作者には見えている姿があった。それは「エレベーター」の四角い箱の中での風の動きようのない密閉された圧迫感を、可視の状況に再現させているのである。見えてはいないものを見えているように表現すると言う寄物陳思の基本的思考なのである。
いろんな考え方はあるだろうが、あくまでも寄物陳思の基本的思考は、私はその考え方が変わることはないだろうと思う。しかし同じ寄物陳思を、見えてはいない部分の姿・形・状況を見えているように表現しようと試み、それを実践した俳人は私の知る限りでは伊丹三樹彦だけであるようにも思う。そしてその思考を受け継いでいる俳人はたくさんいる。次の俳人もその一人である。
寒晴の言霊となる一語一語 岡崎淳子
最近届いた「心」2号より。この句誌は岡崎淳子さんが代表する小グループの集まりではあるが、そのほとんどが寄物陳思の基本的思考がなされているように私には思える。この句、見えてはいない部分が俳句言葉になって深みや重みを伝えている。その俳句言葉は「言霊となる」である。これは私の想像だが、「寒晴」へ向かって言葉を発したのであろう。その言葉はエコーとなって遠くへ離れていったのであろうと思う。ここまでは作者だけでなくても誰にでも見えている姿。これから先が作者だけが見えているように思える姿なのである。ここで作者に見えてきたのは「言霊となる」声の響き合う音の具象化なのだろうと私には思える。「言霊」にはプラスとマイナスそれぞれの力がある。この「言霊」よりプラスとなる力を貰っているのである。「言霊」の力の影響は大きくて、植物は話しかけながら育てるとよく育つと言われているほどで、作者の心へ「言霊」を近づけ生きる力を貰っているようにも私には思われる。普段はただ見ていても見えていない不可視の風景が見えているように表現されて、その風景景色は可視化されて寄物陳思されたのである。
物を目視する、その時見えている姿・形はその存在を主張して作者の目に飛び込んでくる。それをそのまま表現するのを写実と言うのだが、これは可視の世界を作者の目で実写することにすぎないのである。つきつめると見えているままなのである。本来の寄物陳思とは作者独自の思考が、物を見ることにより、新しく、これまでになかった姿・形を作者独自のものとして作りだすことではなかろうか。この時に見えてはいない物が見えるように表現され、可視化されるのだろうと私は思う。
いまの俳句はあまりにも俳句言葉そのものが、キャッチコピーに似てきて詩語としての深みや重さが希薄になっているのではなかろうか。俳句の原点が寄物陳思の心表現であることを忘れてしまっているのだろうか…などといろいろと思考の幅を広げ視野を広げて思うのではあるが、やはりその俳句作品のうすっぺらさや軽々しさは益々広がってゆくようにも私には思えるのである。俳句が自由化され、どんなことでも俳句に出来るのだろうと思ってしまえば、日常言葉が浅くなり、言葉そのものに重みや深さが損なわれ、言葉そのものが希薄になってしまう。俳句は詩語であることを思えば、そこには生活の中における心の情緒が存在する。その基本になる思考は寄物陳思なのである。改めて問いかけたい。今は亡き現代俳人伊丹三樹彦から私への問い掛けの言葉そのものを…。
…つぼみの中を表現したいんやけど、まだ咲いてはいない、開いてはいない花の中 までわかるように表現しなければならんのや。俳句で表現出きるかね。
この伊丹三樹彦の言葉を何時も私の耳底に残して置きたい。
(2020年5月22日記述)
神戸新聞文芸 掲載作品(入選作品)
小説部門
仏 石 (ほとけいし)
児 島 照 夫(庸晃)
(2007年神戸新聞11月26日朝刊 掲載)
穏やかな太陽が柔らに降り注ぐと海の朝が始まる。ゆったりとした陽の揺れが海を明るくもする。沖へと突き出た太陽光線の中でぽっかりと浮いていた。栄三郎はぱっちりと目を開き、海面を這い回る太陽を見ていた。「海は青だと思ったが、オレンジに見えることもあるのだ」。朝は際立って色の変化が激しい。山の頂から顔を出した太陽は一気に海を照らす。八方へ放つ光線はオレンジ色を海に落とした。栄三郎は朝から晩まで、この海を心に入れ、目の奥に取り入れ毎日の暮らしを続けることにした。明日へ向かっての希望は海の色の変化のよって栄三郎の心を左右する。いまの快い気分を大切にしたい。海へ割り込む岬には、波による侵食が強く、いたるところに穴が空き奥に広がっている。歩きながらも栄三郎は、その奥に入って行った。すこし暗いが時々は光線が、岩の割れ目から入ってくる。そこで歩を止めた。上を見上げて光を受け入れる。栄三郎は、やっと終(つい)の地とすするに相応しい場所ときめ、身を屈め、ゆっくりと腰を下ろした。鼻岬と呼ばれる、この場所は誰も寄り付かないところで、村の一番遠い端にある。栄三郎は毎日の生活の場と決めた。
この日より、朝は海を眺め太陽のいろんな光の色の変化を味わい、心を暖め、夜は月からの囁きに耳を傾け海面を見る。どこからともなく届く風に誘われる。夜の海に心を託し海岸を歩く。
「これはいったいなになんだ!」。いつものように海を眺めて夜の海岸を散歩していた。必死に光る石は見たこともなかった。栄三郎は足を止めた。渚より少し海に出た部分で栄三郎に向かって光を放ってくるものがある。月光は海面に直射され反射して、より明るさを増す。海の底から光を出す石は時に、その所在がはっきりしなくなる。波の引き潮に沿って強く姿を見せた。丸い形の石は砂地の上に一つだけあった。凸凹の砂地には魚や貝類などの生物はいない。あまりの激しい凸凹の地形のため住めないのである。それほどに波の干満の変化がある。栄三郎は一歩も二歩も前に出て海底を見た。しっかりと砂地に石は張り付いていた。何かの力が働き、石に指示をあたえているのではないのか。栄三郎は目を開いた。「何かがある。ここには常識では考えられない何かがあるよ。これは人間社会にはないものだ。いったい何なんだろう」。自然界にしかない力の存在を栄三郎は悟り始めていた。さらに沖へ歩み、その石の側へと進み体全身に心を伝えた。石は緑色を発し、必死に光を出すエネルギーは石の内部にこめられ、いまとばかりに緑色を放出していた。不思議に光る石、それはまるで栄三郎の心へと発信していた。引きつけられるように目を石に向け。栄三郎は手を出す。ゆっくりと手が石に触れようとした時だった。磁気が走り手は弾きとばされた。それと同時に背骨に冷気を受ける。ピーンと体が硬直し動けなくなっていた。
十数分、栄三郎は意識を失っていた。海面に浮き、波の揺れに身を委ねていた。大きな揺れの引き潮が体を持ち上げ動かせたのだ。すっと立ち上がり、前を見る。石はすこしも変わりなく光を放っていた。月夜の海面は何一つの変化もなく静かであった。栄三郎は改めて海を見、石を見た。光は緑、形は丸い、石は何の変化もなかった。目を輝かせ、再び石を見る。やっぱり全く変化はなかった。「なにかおかしいぞ」。栄三郎は暫く戸惑っていた。歩いてみる。動きが軽い。栄三郎は心の中に沸き起こる明日への望みが、もっとも強くなってゆくのを感じていた。その石は栄三郎が側に寄っても、何の変化もなかった。むしろ栄三郎を招き寄せようとしているのだ。その石はすりよってくるかに見える。キラっと光るその時が見たい。見ていれば心が落ち着いていられる、と栄三郎は何回も目を動かせてみた。「身が軽くなり浮いているようにもなる」。手を前へ出し、石を掴む。掌の中に大切にしまいこみ、栄三郎は目を近寄せた。
「この石は私の守り神だよ。これから私の心の石としよう」。
この日より、栄三郎は、この石を仏石と命名し洞窟の一番奥の少し高い地の上に置いた。朝夕拝む。必死に磨く、まるで栄三郎の心を磨くかに両手を動かす。それは太陽の零れ陽を浴び黄金に輝く。海中にあった時は緑色であったものが、今は黄金色を放つ。仏石は日々艶を増し、とても海の中で何百年も眠っていたものとは思えないのだ。磨けば磨くほどに光りだす、この喜びは栄三郎を夢中にした。それは栄三郎の心を必死に磨き清める事でもあった。青い波が谷間を作り、左右へ揺れる。時々は規則正しい波音をまわりに奏でて、沖へ沖へと引き潮に乗って退く。栄三郎は毎日を沖へ目を向けて暮らす。海からのやわらかい風やほの暖かい音を受け、心の浄化を遂げていた。青波が白波に変わり、白波が青黒い波になる頃になると、もう夏も終わり、秋が来ようとしていた。栄三郎の心にも、なんとなくもの悲しい寂しさが宿ろうとしていた。来る日も、そのまた来る日も暗く感じる事が多くなっていた。こんな時は仏石に掌を添え、必死に磨くのだ。「もうだめなのか」。一瞬、栄三郎の頭の中に「否、そんな筈はない」とも、つくづく思う。曇天の日が海を襲う時、海面は真っ黒になる。鼻岬のまだ沖の方から、強風が海を渡って来る。栄三郎はしっかりと地に足を置き、台風に向かって立った。手の中に仏石をしっかりと持ち込み、抱え込んだ。いま落とすまいと頑張る。海は荒れ狂い、波は高々と隆起して洞窟を襲う。日々の寝起きしていた生活の場は波によって壊された。跡形もなく波の中に没し、海面ばかりが浮き上がっていた。栄三郎の姿は何処にもなかった。
鼻岬を襲った台風は村々の家を薙ぎ倒し、多数の人を死へ追いやった。海で捕れる魚で生活している人にとっては、生きる命を奪った事になる。鼻岬に沿った海岸に通じる道には家が並んでいたが、殆どは倒れ、その側には死者が転がっていた。「この男、へんな石を持っているよ」。歩きながらも、村の一人は言った。
「まだ、生きているよ」。「本当だ」。
緑色を放つ強い光は丸い形の石から出ているものであった。かなり遠く離れた所からでも、はっきりとわかるほど八方へと広がっていた。村人はゆっくりと近寄り、その石にふれようとして手を伸ばす。石に手が届いた時だった。…と磁気が発生し、村人の手は弾かれ体ごとふっ飛んだ。それっきりだった。村人は海面に浮いた。時が過ぎ、海はいつもの静かな音になった。柔らかな波に落ちついていた。栄三郎は頭を浮かせ、渚より体を起こす。暫く前方を見る。「まだ生きていたよ」。腕の中では仏石が光をだしていた。台風と高波のため四時間も海は荒れ狂っていた、その間、栄三郎は海面に浮き、殆ど意識を無くしていた。体が酷く揺れても何一つとして覚えてはいなかった。朦朧とした意識の中で、日々の考えが蘇る。
「ここへは死ぬためにだけ来ていたのだったよな! 死ぬ場所として! 終の地として!」と次から次へと蘇ってくる。朦朧とした中で、栄三郎は波の揺れに体をまかせて左右に移動を繰りかえしていた。
仏石を手で撫で、ゆっくり磨いてから、二三こと祈りごとを唱える。すると仏石からの緑色の光は消えていた。いま仏石は栄三郎の思うがままに、まるで心を持っているかに変化する。海面に浮いて横たわる青年が側にいても仏石は磁気を放つことはなかった。穏やかな心で栄三郎は青年に目を向ける。自然に両手が前へ出て、青年の体を包む。「確かに息がある」。栄三郎は、もう一度確かめてみる。波が動く度に青年の体も動く。「助けてあげなければ…」。必死に仏石に願いを込める。青年は栄三郎の腕に支えられ、渚に運ばれた、「死んでいるかと思ったよ」。栄三郎は渚より、青年を抱え上げながら独り言のように呟いた。足に力を入れ、心にも力を入れ直し、砂浜を歩く。思ったよりも軽い。定住の海の洞窟へ歩きながら、栄三郎は自分自身の変身を感じ始めていた。青年をゆっくりと洞窟の砂地に寝かせる。洞窟の奥の部分に安置された海の仏石へ向かって合掌。必死に心を磨く。心を強く開く。それは栄三郎の願いでもあった。数十分の後、仏石は緑色に輝き出す。太陽光線を受けると黄金色を出す。まわりの者の眼が眩む程に光を放った。「ただの石とは思えないにしても、こうまで光を出すのか?」。栄三郎は、尚も必死で目を開く。「この石には神、仏が生きづいているのだよなぁ」。暫くの黄金色は洞窟中の、あらゆる岩を浮き立たせ、変色させてゆく。全ての岩を黄金色にしてしまった。
青年は砂地より、ゆっくりと身体を起こした。砂地に手を突き、一気に立ち上がった。「ここは何処ですか?」「私の家です」栄三郎は、なんの戸惑いもなく答えた。「私は助かったのですか」「生きることが出来たのですよ」「貴方が、私の命を救って下さったのですか」「いいえ、生きる事を守って下さったのは、ここにある、この石なのですよ」
仏石からの黄金色は青年や栄三郎にも照射され、まわりは黄金色の一色になってしまった。不思議な光沢を、仏石はしきりに放つ。時間がたつに従って光は洞窟中に広がった。海面を転がるように渡って、秋風はいつもきまって丘から沖へ向かって吹く。丘から鼻岬へ向かう朝の秋風は柔らかなながれとなり、海へ出てから急に強い音を出す。引き潮に乗って、その音を波に乗せる。その時の音が、栄三郎には快い気持ちになれる時でもあるのだ。旅を思いたった時以来、ここを終の地とするに思い至る今まで、この快感はなかったものなのであった。洞窟に住みつき毎日を快く暮らす。この幸福を存分に味わってみたい。栄三郎は幸福でいっぱいであった。
青年は栄三郎の話を聞き始めた。「石は海の中では緑色を出す。海より引き上げ空気に触れると黄金色に変化、これより磁気を発し、物を吹っ飛ばす。また心優しい物が、その側により触れれば吸い寄せ、心を静め、心を洗う。心はゆったりとしてきて、すっと晴れ晴れとした気持ちになることも出来る」淡々と栄三郎は語った。目はぎらぎらと輝き肌の艶は強く照り、見違えるまでに元気を取り戻していた。
「私の癌もこの石の磁気によって快方へむかうかもしれないのです」。仏石への思いを語った。洞窟の中の暗い部分に置いても、ひときわ光輝いて眩いのである。
「実はここへ来たのは死ぬためだったんですよ。それがいまは…」
栄三郎は瞬く強い光の仏石をみつめながら、力をこめた口調で喋る。
「それで生きていられるのは何故?」青年は聞き返した。
「この黄金色を出す石のエネルギーによって心が生き返るのですよ。この魔力には人の心を吸い取る力がある。いま私は死にたいと思っていた気持ちはなくなりました」話を進めながらも、栄三郎は体が少しずつ動き出し、目も輝き心まで愉快に弾み、なんとなく生き抜いてゆく自信を感じ始めていた。
文章特集②
俳句における発想とは何なのか
書き手と読み手のコミニュケーションギャップとは
児 島 庸 晃
よく聞く言葉に、発想が新しい、とか、発想が良い、とか、俳人は批評をするが、この考えは正しくはないのである。私は偏った思考であまりにも一元的であるようにも思う。書き手と読み手のコミニュケーションギャップと言う事を考えていて、ふと思ったのが俳句の思考方法には、必ずと言っていいほど発想における作者と読者の基本にポイントのずれが起こっているのではないかとの疑問を感じる或る日の私がいた。発想にはもともと個人差があって似たものや同じものはないのである。だからどの句も新しい発想の句なのである。それは“似ている物が少ない”ということだ。俳句に限らず、絵画でも音楽でも映画でも、似ている物が少ない。あるいはまったく新しいものに出会った時に人は、“発想が良い”という言葉を使うのではないだろうか。だが、この考えは違っているのだろうと思ったのが、私がこの稿を書こうと思った理由である。次の句を見ていただきたい。
蝉の殻透く究極のリアリズム 倉橋羊村
総合誌「俳壇」2005年8月号自選50句より。この句は新鮮な俳句言葉「究極のリアリズム」が、この一句を上手に纏め異能の俳句精神を見事に示しているのだが、書き手と読み手のコミニュケーションギャップが生じる句でもある。何故だろう、と私は思った。言葉が充分に機能しているのか、が問題なのである。言葉が機能していなければ、その俳句言葉は説明をしているだけなのである。その時の状況の説明言葉になってしまい、何の感情も感覚もないものになってしまうのである。既に発想の段階で書き手と読み手のコミニュケーションギャッれ俳句にはならないのである。「究極のリアリズム」は観念言葉である。俳人全てが、一様に作者の気持ち、感情、感覚を、作者の思う通りには理解してはくれないのである。もっと現場での感情の具象性が大切なのである。発想とは、より具象の物の変革を見つける事が、書き手と読み手のコミニュケーションギャップをより少なくして書き手と読み手の齟齬を避けなければならないのである。それには発想の場においてその言葉がしっかりと機能していなければならないのである。言葉が俳句として機能していなければ、その俳句言葉は説明言葉になってそれは意味でしかない。俳句にはならないのである。発想の段階で書き手と読み手のコミニュケーションギャップをなくすことが大切なのである。
一月や白きものみなその位置に 和田悟朗
句集「人間律」(平成17年)より。この句の発想における俳句言葉の言葉の機能だが、まづ考えられる思考だが、俳句言葉の一つ一つは具象言葉であり、書き手と読み手のコミニュケイーションギャップはない。その俳句言葉とは「一月」も、「白きもの」も、「みなその位置に」も、どれも具象言葉である。そして全ての言葉に共通して言えるのは作者の目で見えているものばかりなのである。ここには作者の頭の中で作られた言葉がない。全ての俳句言葉が作者自身が自身の目で見て確認して得られた言葉なのである。…このことが俳句言葉が機能していると言うことなのである。作者自身の目の中ではっきりと見えた具象物で、頭の中で作られた想像物を言葉にはしてはいない。このことは発想の初期の段階でクリアしておかなければならない。この句は使用された俳句言葉がしっかり機能している句なのである。この句には書き手と読み手のコミニュケーションギャップは生じないのである。私達が句を成すときに考えなければならない発想とは書き手と読み手のコミニュケーションギャップは生じないようにしておかなければならない、絶対と言える基礎の守りなのである。この俳句の特徴は俳句言葉が機能していて言葉そのものが説明言葉にならないようになされていた。そして書き手と読み手の見事なコミニュケートが出来ている俳句でもあった。
だが、俳句は私性の、それも自分をどのように詩的な情感の言葉にして俳句言葉にするのかと言う自己主張の表情を言葉にしなければならない文芸である。この部分が短歌でもなければ、詩の文体でもない、ましてや散文としてのその一行の文脈でもないのだ。何処をどのように、または何をどのような言葉にして俳句本来の姿・形として読者に見せて納得させるのかと言う、大きな部分の認識が感じられなければ、読者を満足させることは出来ない文芸でもある。そこで大切なのが俳句としての発想の新鮮さなのである。
山の端に足掛けて オリオンどこへ行く 政成一行
「青群」第31号より。この句が読者を惹きつけるのは自己主張の表現が、発想の仕方や発想の着想として、これまでの句とは違うところにポイントが置かれている流れの部分にある。その俳句言葉とは「オリオンどこへ行く」の自己主張が説明言葉にはなっていないのである。この言葉を表現するまでの一連の流れがあり、作者は眼前の光景をしっかりと目で見て目に受け入れていることが読み取れるからである。それはここに表現されている言葉「どこへ行く」と自己主張が作者自身の言葉として意識出来る。言葉が俳句としての要素を機能している。従って発想の段階で書き手と読み手のコミニュケーションギャップがない。書き手と読み手が同じ思いになれる。同じ心になれる。このことが発想の部分でなされているのである。俳句における発想とは書き手と読み手の心が共有出来ていなければならない。新しい思いや新しい思考での発想句であっても書き手と読み手が繋がらなければその発想では俳句にはならない。この句は自己主張が読者に理解される言葉としての機能で纏められ、そのための作用が説明言葉にはならないで作者の思いを読者が納得出来るように作られた句である。
句の発想において実感の強い句は、その句自身が説明言葉のように思われてしまうが、そうではない句もある。
月光にいのち死にゆくひとゝ寝る 橋本多佳子
句集「海燕」(昭和15年)この句は実感そのものが読者の感情をピークへ導くように作られた俳句である。何よりも句における作者のいま居る位置がはっきりと確認できることがこの句のポイント。言葉が説明言葉にはならなかった。作者がどの位置にいて、何にポイントを置いているのかは「死にゆくひとゝ寝る」の俳句言葉で表現されているので、いまそこにあることを作者は目でしっかりと見ている。ここには作者の思いは言葉としてはないが、情感は読者に繋がる。表現された言葉は機能していると言える。言葉の機能化は説明言葉にならないことだが、この句には真実感・緊張感がある。発想とは新しい思考にもとずくものではなく、真実感・緊張感が表現上に現れていなければならず、この句は書き手と読み手の見事なコミニュケートが全うされた俳句である。
さて、ここまで書いてきて私は。依光陽子さんの言葉を思い出していた。「私の季語の現場」のなかで必死に訴えて語りかけている。「新しいリアリティを顕現できるか」。言葉が機能していなければ現場があってもそれはただの意味に過ぎない、と言う。依光陽子さんの言う意味とは、私の言う説明言葉と言う、ことだとも思うが、言葉そのものが機能していない事と同じである。このことは書き手と読み手のコミニュケーションギャップと言うことなのか。表現されたものが意味そのものであれば、ここには情感はないし、日常語でもあり、詩情は生まれない。私は、いま考えるのだが、このことは、既に発想の段階で作者自身が意識していなければならないこと。…このように考えていてふと作者自身が自分自身と必死に闘っている俳人のことを思い出していた私。
大夕焼け深き帰心の置き所 萩澤克子
句集「母系の眉」(2013年)この句は自己主張と言うよりか、自己の存在感を必死に証明しようとする意志の強く表出されている俳句である。この句における俳句環境の中において俳句現場の緊張感、或いは臨場感は重要である。ここには俳句以前があり、その心が、ここに生かされての言葉の機能化なのだろうとも思う私がいた。その心を示す俳句言葉が「深き帰心の置き所」。この表現された俳句言葉は作者自身、自らが納得出来るまでは一句にはしないと言う強い意志の込められた句のように私には思える。自分自身との葛藤の果てに表れた言葉のように思える。この葛藤が見えてくることが緊張感、或いは臨場感なのだろう。…このことが即ち言葉が意味だけになってはいないことであり、機能しているのだろうと私には思えた。俳句の発想には常に俳句以前があり、作者と俳句の現場での意志の葛藤がなければならない。書き手と読み手のコミニュケーションギャップをなくすことの努力がいるのである。
発想と言う俳句の、それも俳句以前の事として思考しなければならない事柄を個々述べてきた。一口に発想が良いとか新しいとか言われるが、何に基準を置いているのだろうかとの思いから検証してみたが、最も重要なことは書き手と読み手のコミニュケーションギャップの問題であった。いろんな引例を示したが、やっぱり言葉そのものが機能していて、言葉が意味のままで終わるのではなく、俳句言葉が説明言葉にならないことであった。つきつめると書き手と読み手のコミニュケーションギャップをなくすことでもあった。
(2021年5月6日記述)
正述心緒は俳句ではなくて散文です
あなたの俳句が正述心緒になってはいませんか
児 島 庸 晃
あなたが俳句の形式を選択したのであれば、全ての作品を俳句で書きましょう。最近目立って顕著になってきたのが、俳句を作っているあなたが、俳句作品ではなくなっていること。観念思考が先行して、意味だけが重要視され、説明言葉になっていて散文になってはいませんか。…これを正述心緒と言う。俳句は意味や観念から入ってはならない。あくまでも目視からの思考なのです。ところが面白い句を求め、思考だけが目立つ刺激的な印象の強い句が、俳句だと思い込んでいる俳人が増えてきている危惧を、私は強く思っているのですが…。もう一度俳句の基本に心を戻し寄物陳思にその思いを託さなければならない。私的思考を優先させるのであれば、全てを散文のスタイルで表現すればいいので何も十七音の詩形で書かなくてもいいのではないか。小説やエッセイで表現すればいいのではないかとも私は思う昨今である。でも何故俳句が形式として存在しているのか。それは十七音表現であると言う持ち味があるから。その持ち味とは短文であるからこその出来る、そこに含まれる緊張感や緊迫感の強さが真実の本物感を醸し出すから。俳句言葉には表現された言葉以外の多くの削り落とされた言葉がある。十七音から弾き出された言葉を読者は想像することになる。このとき緊張感が生まれるのである。
ではどのような作品がそれに類するのか。
しゃぼん玉嘘つく時も同じ息 GONZA
津野ネット句会より この句はインターネットでの句で句会を開いてのものではない。この句では「膨らます」の言葉が省略されている。この句で大切なのは俳句言葉が説明言葉にはなっていないこと。その言葉とは、「膨らます」。だが、十七音の俳句表現言葉としては文字になっていないのである。つまり十七音から削り落された言葉なのである。この句を見ていて、 読者が想像する言葉なのである。この一瞬の僅かな中に読者は引き込まれる、その瞬間の緊張心が読者の心を満たすのである。つまり「膨らます」と言う言葉は俳句言葉として十七音の中に存在してはいないが、この句を目にした読み手は「膨らます」イメージを思ってしまうので、どんどんイメージが広がり、ここに考えてもいなかった心の広がりが生まれるのである。ではこの「膨らます」を十七音言葉にして表記すれば、どうなるのだろうかとも思うのだが、この句を読んだ時にはよく理解できるのだが、五分もしないで脳中から消えてなくなり、そのあとには何も残らないのである。読者に想像させることの大切さがいるのである。言い方をかえれば正述心緒になってしまっているのである。言葉が砕けていて一過性の刺激でしかないので、その後は心には残っていないのである。言葉そのものが、俳句表現の心の在りようとしての散文になってしまっているのである。この句から生み出される緊迫感・緊張感が、ここにはないのである。それは説明言葉になってしまうからである。俳句は俳句言葉を説明の意味言葉にして表現してはならないのである。読者の心の中で言葉の緊張感が広がらなくなるのである。
遠く病めば銀河は長し清瀬村 石田波郷
句集『惜命』(昭和二五年)より。この句は清瀬村での療養所生活で生まれた句である。清瀬村とは東京北多摩の奥地である。波郷は結核治療のため、この地で大切な生活の殆どをすごしているのである。この句では十七音よりはみ出し表現されてはいない言葉。表現上には出ていない言葉がある。それは「遠く病めば」の表現言葉の裏にあり、奥に秘められた言葉としてある「日常から」或いは「世間から」の言葉。「遠く」の俳句言葉の奥に秘められた作者の孤独感が、我々俳人にはひしひしと迫ってくるのである。ここに「日常から」或いは「世間から」の言葉を十七音の俳句言葉に出してしまうと、それは正述心緒になり、説明言葉になってしまうのである。わかりやすい言葉でいえば意味を説明しまっているのである。ここまで言いきってしまえば散文の世界へと踏み込んでしまうことになり、俳句としての抒情が失せてしまうのである。表現上に出ていない言葉…「日常から」或いは「世間から」は…読者が想像する言葉なのである。この言葉は「銀河は長し」を目視して得た波郷の心より生まれた言葉そのものもので「日常から」或いは「世間から」の想像を呼び出しているのである。このように十七音表現からはみ出している言葉の存在を見つける楽しみ、ここに短文であるからこその俳句の深みが読者の緊張感を強めている。
震度4 書棚に文字がしがみつく 政成一行
「青群」55号より。この句で十七音からはみ出している言葉は何なのだろうと思っていると、この句の面白さが、私に緊張感を呼び出していた。「文字がしがみつく」の裏に、或いは奥に隠れている言葉。それは「必死に」または」懸命に」のイメージアップであった。この「必死に」または」懸命に」を俳句の一行として十七音上に俳句言葉としていたら、と私は思ってみたのだが、やっぱり言葉そのものが説明になってしまい散文になるのではと私は思うのである。これそのものが正述心緒である。言葉が意味になり、それは解説言葉なのである。ここには心の緊張感は生まれてはこない。ただ一行の文章になってしまう。俳句は詩である。ならば抒情が心へどのように溶け込み広がってゆくのか、十七音からはみ出した言葉の存在を読み手は素早く感じとるこそ大切なのだろう。この部分に読み手は緊張感を覚えるのだろうと私は思った。
姉の歩に合わす一日星合う夜 福島靖子
「歯車」336号より。この句は特に目立った俳句言葉はどこにもない。…であればどこが面白いのだろうと思うであろうが、俳句の面白さは俳句言葉が際立って目立つことではない。十七音からはみ出し、弾き出された部分の言葉こそが大切なのである。その言葉とは「遅速の姉」。この言葉は十七音としての俳句言葉としては表現されてはいない。十七音として表現された言葉「姉の歩に合わす」の奥に秘められている言葉なのである。読み手は「姉の歩に合わす」の言葉より感じとるときに出てくる感覚としての心への読み込みの言葉なのである。…これを詩を感じとるとも言い抒情があるのだとも言う。俳句を成すときの最も大切な約束事でもある。そして作者は「星合う夜」の俳句言葉より七夕夜の姉と妹のふたりの結びつきを「星合う夜」に強く感じる緊張感を身近なものへと呼び込んでいるのだろうと私は思った。ここには説明言葉は表現されていないのである。たった一行の織り成す言葉である。その中から表現されていない言葉にこそ抒情が隠されている。その言葉が想像出来る言語が一行の十七音に含まれることこそ大切なのである。一句を完成させるときに表現されてはいない言葉の存在を知ること、それを感じとれる表現こそが、俳句であり、詩なのである。ここには言葉が説明される使い方はない。
遺品あり岩波文庫「阿部一族」 鈴木六林男
句集「荒天」(昭和二四年)より。この句の「遺品」とは何を意味しているのだろうか。普通は亡くなった人が遺したものなのだが、この句の場合は戦場の兵士が遺したものを示している。従って十七音として表現されてはいない言葉に「兵士の」と入る言葉があるのである。だがこの「兵士の」の言葉を一行に組み入れると散文になってしまうのである。何故なのかとも思う。「兵士の」の言葉が意味を示す説明言葉になるからである。大切な俳句言葉が説明文になってしまってはならない。読み手に想像させるイメージを提起させねばならないので、いつも表示されるその言葉の裏に、或いはその奥には大切な言葉が隠されているのである。その部分を読み手は感覚として悟らなければならないのである。その心には緊張感や差し迫る緊迫感が常に生じる。この部分に詩が現れ抒情が生じるものである。俳句は読み手を必要とし、作り手の主張だけが堂々と大手を振ってまかり通る文芸ではない。ここが散文とは区別されているのである。正述心緒になってしまっては俳句の性質を壊すことになり、句自身の深まりを損なうことになる理由である。そしてこの当時一番よく読まれていた「岩波文庫」なのであり、心を一杯に広げて緊張寒を盛り上げているのだが、ここにも省略され、十七音に表現されてはいない言葉がある。「愛用書」の何時も戦場でお守りのように携帯していた必需品の存在。読み手は想像を広げてイメージする。「岩波文庫」には表言葉と裏言葉があり、「愛用書」は裏言葉なのである。この表裏一体の言葉より心に緊張を取り込むのである。このように俳句には表裏一体の言葉があり、常に一行に表現されてはいない言葉の存在を想像して句自身に本物感の凄さを感じさせているのである。俳句が詩であるための条件は説明言葉にならないこと。
正述心緒とは何なのかを私は検証し、そしてそこに至る過程に俳句そのものが説明言葉になっていることの多さを知る。なんとその数の多いことよ。これはそれぞれの句会の場で高点句を得ようとするためであることが、いまの一つの流れなのかとも私は思った。だが、俳句は散文ではない。正述心緒ではない。説明言葉になってはならない。読み手は、十七音の中に表現されている言葉の裏や奥に多くの言葉が隠されているこを感じなければならない。俳句には表現され表示される表言葉と、表現表示されない、削り落とされた裏言葉とある。この表言葉と裏言葉の引き合わせの緊張感より出来ている。それらの言葉は吟味された言葉であり。俳句の一行から削り落とされた言葉でもあるこを想像しなければならない。ここに俳句としての緊張感の本質がある。 (2020年11月19日記述)
私個人のメモリアル
伊丹三樹彦の一句 児島庸晃
収録句集…わが心の自叙伝
美嚢川は枯れず わが句魂も斯く
「美嚢川」とは三樹彦先生の幼児を過ごした三木市の中心を流れる川である。少年時代、この川で魚を捕まえて遊んだ思い出の場所でもある。年老いての帰郷である。帰郷するたびに思う心はその都度違うものであろうが、最晩年の心のなかに宿った深みは変わろうはずもあるまい。故郷を眼前に最晩年の気持ちの程は如何なるものであったのであろうが。不幸な少年期であっただけにその思いは重い。この「美嚢川」は痛み疲れたものだけが知り得るロマンだったのだ。それは句を作り続けている純粋さを今も持ち続けてきた魂へのロマンでもあったのだ。体で得た感動は言葉になり、そしてそこには思想が生まれる。思想そのものは俳人の魂と言えるもの。九九歳までもその思想の魂は崩れなかった。私は三樹彦先生より、「感動を言葉にしなさい、感動は本物であり、作りものではありません。物を見て感動して決して頭の中で作りものにしてはいけない」…本物志向の神髄を何回となく耳にしてきた。この句は三樹彦俳句の本音を如実に伝えている俳句のようにも私には思える。 (2021年5月9日記述)