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素直さ純粋さを自死するまで棄てなかった俳人赤尾兜子

2023-06-28 10:01:33 | 日記
 第三イメージ論を述べていたころの赤尾兜子の句に私は、たびたび涙を流すことがあった。前衛俳句の最前線にいたようにも思われていた俳人だが私はそのようには思ってはいなかった。
 いま思えば兜子はモンタージュ俳句の基本を忠実に実践していたのであろうと私は思う昨今である。ここに私の記憶に残る思いを述べた記述があった。
 
  壮年の暁(あけ)白梅の白を験(ため)す 赤尾兜子

昭和46年「歳華集」の中に収録されたこの句。兜子の存在そのものを問いかける姿のなんと純粋で悲しく痛々しいことか。壮年期の始まりに汚れきったこれまでの人生を白い梅花に問いかける仕草こそ素直であり、より必死に生きてゆこうとする姿でもある。人間の一生を考えていてふと思うことがある。幼年期、少年期、青年期、壮年期、晩年期と経てゆく過程で生まれたままの素直な心はその社会経験を得てどれ程変化してゆくものなのか。とてつもない過去に戻り私自身のことを考えてみる。純朴な精神は多くの競争社会の中でずたずたにされ、打ちのめされ、放り出されて最後には自分自身を見失っているのではないか。私はその中をくねくねと曲がりぶっつからずに避けては通り過ぎて来た。だがいまどれ程の純粋さを保って生きているのか。眼前の咲き始めた梅の白花を見ながらずーっと思っていた。自然はその寒暖の厳しさとも闘いながら毎年開花の季節を迎える。咲き誇る自信に溢れその純朴は人の目を吸い寄せる。真っ白な純粋色はひたすらにひたすらに美しい。私は茫然とするだけであった。この句においても「壮年の暁」と「白梅」がモンタージュ言葉である。目視の言葉が「白梅」であり、作者の受けとった言葉が「壮年の暁(あけ)」なのである。ここにも第一イメージ、第二イメージへと変革の証がある。そして第三イメージとしての作者の主張「白を験(ため)す」の言葉を生み出しているのである。だが赤尾兜子は白梅の汚れを寄せ付けぬ白に自分自身の汚れを重ね、自分の汚れちまった傷だらけの白の方がもっと美しいのではないか…そう思った俳人だったのではと考えていた。この句の基本はモンタージュ理論にあったのであろうと私は思う。
 
  盲母いま盲児を生めり春の暮   赤尾兜子
 
昭和48年作。当時私は兜子主宰の「渦」の同人であったが、眼前の兜子は句会などにおいてもこの句のような暗さは感じなかった。熱心で真剣であった。第三イメージ論を打ち出し青年作家を刺激していた。いまで言う取り合わせ俳句の基本ではなかったかと思う。第一イメージと第二イメージは非常に異質の物であり、両者のぶつかりによって第三の強烈なエネルギーを得るというものであった。それには俳句は二つの構成からなり、指示する部分と指示される部分があるという考えであった。この句は「盲母」と「盲児」がモンタージュ言葉であり、指示する言葉と指示される言葉になっっている。やがて数々の悩みを内に秘め鬱病になってゆく。毎日新聞の記者であったが、その定年の頃より重くなりその「渦」にも一句と記載が減ってゆく。そのころの作品である。そのころの西川徹郎氏は言う。「戦後の傷みに耐えきって赤尾兜子が生まれ、戦後俳句は方法とともに死に得る作家赤尾兜子を得て終るかもしれぬといえるかも」。このせっぱつまった徹郎発言を私も真剣に考えていた。この数年後赤尾兜子は阪急電車御影駅近くの踏み切りより電車に飛び込み自死する。妻の恵以さんに煙草を買いにゆくと家を出たまま帰らぬ人となる。この句における言葉の発想にも目視時のモンタージュがあった。
 
  俳句思えば泪わき出づ朝の李花   赤尾兜子

昭和50年作。この素直さ、純粋さを見よ。俳句を思って泪を出せる俳人がいたか。詩人の足立巻一氏は言った。「兜子はたしかに句を思って涙を流すことの出来る詩人だ。わたしはその涙の質をひそかに知っているつもりである」。美しくきれいになろうとすればそれだけ鬱がすすむ。生命感だけの世界。それは生まれたままの姿だ。この句は「朝の李花」の目視より始まり「泪わき出づ」のイメージへと続く。ここで言葉がモンタージュされている。この時作者の心の中にはとてつもない緊張感が発生しているのである。そして作者の主張でもある「俳句思えば」の言葉に辿りついている。指示する言葉「朝の李花」と指示される言葉「泪わき出づ」がオーバーラップされて言葉の重ね合わせがある。これが言葉のモンタージュなのである。兜子は余りにも真面目で純粋すぎたようにも私には思える。最後の最後まで作者の主張がモンタージュの思考の中より生まれているのである。
 いま私的な句に対する思いを書き綴ったが、このような思いを私へ発信するその基本は、やはりここにはモンタージュの基本理念が確実に実行されてきていたようにも私には思える。その自らの素直さ故に自己に悩みを問いかける姿こそ赤尾兜子そのものだった。 (2021年3月16日記述) 


俳句は私を表現する文芸

2023-06-27 15:10:52 | 日記
 本物感を強めることは私性に徹すること。俳句は三人称、二人称では書かないのです。我々、私達でもなく、あなた、君でもない、常に私もしくは僕なのである。そして起承転結でもなく、導入部、展開部、終結部という五・七・五の俳句的展開の表現である。これは知的興奮を引き出すにもっとも良い表現であるから…。次の句を見ていただきたい。

  野に詩の無き日よ凧を買ひもどる  今瀬剛一

「俳句」平成17年2月号より。私の周りを克明に語り、探し出してゆく事により「私」を語る…これは映画やテレビのシナリオにおける基本である。ここに佇む作者の一抹の空虚感は、たた単に寂しく虚しいだけではなかったのだ。喧騒の都市を離れて野原へ癒しの心を求めて旅に出たのであろうか。それらは「野に詩の無き日よ」の俳句言葉で理解できる。今瀬剛一さんの自句自解が私の心を誘った。次のようなものであった。
 一面の枯野、時々水音と出会うぐらいで取り立てて目新しいものは何もない。…私はほとんど半日をこの枯野に虚しく過ごし帰路に着いた。雑貨屋で凧を買った。その糸の部分を指にからませて歩いていたら。『凧を買ふ』いう言葉が口を衝いて出てきた。私はまた今日一日の虚しさを思った。それは『野に詩のなき』一日でもあったのだ。

この句の発想は俳句は一人称の視点での思いを事ほどに強くしているようにも感じる私性がこの句の中に籠められているようにも思われるのである。本物感は何時も一人称の発想視点でのものであるのではないかと私は思うようになった。 
 しかし世の中に現存するものは一人称のものばかりではないのだ。一人称の表現スタイルが俳句の本物感を深めるのには欠かせないのではあるのだが、目視の対象は三人称のものばかりである。我々の生活日常は複数の形をなしての存在。…だが、表現の基本は私の目を通しての一人称が理想。作者の目視の中では一人称にして捉えなければ本物感は出せないのである。

  星たちのぽーと沸点春夕べ   児島庸晃

「歯車」375号より。この句は私の作品だが、「星たち」と視点の先にあるのは無数の星。全ては三人称である。出来上がった句は一人称の句である。何処が一人称なのかだが。よく見ていただきたい。「ぽーと沸点」の俳句言葉は私の目視の選択では一人称の扱いとして表現されているのである。目視した対象物は「星たち」なのだが、その焦点は私の感動を受けた部分に絞られての「ぽーと沸点」となる。私の目の中では、私の心として一人称になって感動を残しているのだ。このように感動を受けた部分を私事として、一人称の強い感動言語として残すことにより本物感を強く出せるのである。

 いまの俳壇はあまりにも本物感のない句が多いのである。そして俳句ではなくコピー感覚になっているのには驚く。日常の出来事をキャッチコピーにしてしまっている。広告物の見出しに等しいキャッチコピーである。人目の引きやすい出来事に言葉が並べられて、ここには詩の感覚は感じられないようだ。俳句における本物感は、或いは真実はキャッチコピーでは出せないのだ。これには飲料メーカーなどの募集する俳句が、その広告を主体とするため、キャッチコピー的なもの故のもので俳句とはほど遠い内容が採用されるので勘違いされたりしているのかもしれない。…俳句は本物感をどのように出して表現されるかが問われている。 俳句は私を表現する文芸である。俳壇は俳句そのものが「私を表現する文芸」であると言うことを熟知していないのかもしれない。     

自分自身が純白へと抜けきれないで命を絶った俳人永井陽子

2023-06-26 13:04:20 | 日記
 俳句の感情表現は心が無で白くなけれは、本心は表面には出てきにくいもの。それらは直情表現になり、全ては説明言葉になる。俳人個々の信条は私言葉になり、真実感がない、詩にはならないで作り言葉になる。内心が無色透明だからこそ、すべてを目にする俳人の心に受け入れられるのである。俳句言葉は作者自身の存在感を正面で受け止めた瞬間の純粋感である。ここには感覚としての無色透明な気持ちを感じさせてもくれる。だが、疲れた心を真っ白の心へと変革する過程で心を磨き損ねると作者自身、自分自身を見失ってしまうこともある事を考えねばならない。自分自身が純白へと抜けきれないで命を絶った俳人もいることを私は思い出していた。俳人永井陽子である。世に知れ渡るのは歌人としてなのだが。1999年2月より40日間肺炎で入院しているが、2000年1月26日死去。文献によると自殺だった。文芸への出発点は高校生の頃「歯車」だった。

  自らの影折りながら冬野行く   永井陽子

「歯車」94号より。俳句言葉「影折りながら」は発想の段階で相当傷ついている。普通人は「影折りながら」とは思いつかない。目視しているのは作者自身の地面に投影された身体なのだろうが、前進するのに「影折りながら」とは自虐の心をして見ているのだろうか。この心は無色ではない。従って無の心にはなっていないのである。この句を作った時、心は相当汚れていたのではなかろうか。自分を責めてはだめ。自分を追い込んではだめ。心を空っぽにしておかなければ俳句そのものが汚れてしまう。人々に共感を与えることはできないだろう。詩情としての俳句言葉にはならない。永井陽子は結果として純粋の心へと進む過程で、あまりにも純粋すぎていたのであろう。

前衛作品俳句考…その意味するもの(再掲載) 

2023-06-25 10:12:21 | 日記
 前衛俳句を論考するに及びよく聞かれることがある。その俳句たるやもう亡び去ってどこにもないではないかと、よく聞かれる。確かに…そのように正面切って詰められると答えに困ってしまうことがある。答えと言っても理論らしく説明したところで解ってもらえるような単純なものでないのが前衛だと思っているので別に気にはならない。ただ言えることは誰にでも作れるものではない句。過去より現在までにおいて誰も作ってはいない句、その人のみの独特の発想なり感受で、その人でなければ絶対作れない句が前衛俳句だと、私は思っているから現在も前衛俳句は人それぞれにいっぱいあると思いたい。
 ところで当時、物議をかもした前衛俳句と呼称された作品が如何なるものであったかを紹介することから論考に入りたいと思う。

  雨をひかる義眼の都会 死亡の洋傘 島津 亮
  帰る円盤孵る銃座に毛をふく雨   大原テルカズ
  音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢     赤尾 兜子
  母に肖て薄明エトナの山の禿鷹飼ふ 加藤 郁乎
  テロの速度に黒い去勢の烏歩く   稲葉 直
  切歯の放屁虫駈け被爆の古い時計  大中青塔子
  はなやかにかくす一髪落ち目の神馬 船川 渉
  去勢の馬に 雪来る村の 弓矢の祭 野田 誠
  黄蝶ノ危機ノキ・ダム創ル鉄帽ノ黄 八木三日女

ここで興味深いのは、この前衛俳人と呼ばれる人たちは自分自身が、前衛俳人なのだとは思っていなかったことである。当時、私は八木三日女さんの「前衛私論」(「俳句」昭和36年2月号)の文章を読んで吃驚仰天したことがあった。次の文面である…。

 前衛、ゼンエイ という言葉が私の身辺を蝶のようにちらちらする。すうつと姿をくらませて、あちらの方で又ちらちらしている。摑んだと思つた掌を開いてみると、中には一匹の小虫も入つていない。こんなにやかましく、ゼンエイ ゼンエイ と聞こえてくるのに、又私のまわりの人々が、そのような呼名を与えられているらしいのに、どうして私には、その言葉のもつ意味が、何を指すのか釈然としないのであろうか。私を囲む所謂前衛と呼ばれている誰彼から、ついぞ一度も「前衛はかくあるべし」というようなことを聞いたことがない。(原文のまま)

この三日女さんの困惑した表情は、いったい何を示しているのだろうか。私はどう考えても不思議でならないのである。
 もう一人、前衛の先陣を進んでいた赤尾兜子の「琴座」での誌上言葉にも、私は戸惑ったことがあった。次の文章である…。

 前衛、抽象俳句が論じられるたびに、いささかの光栄をになって僕の作品は引用され、そして多様な批判をあびた。…(中略)僕としては、難解、抽象とも、自分で自分の作家的色合いを決めたこともなければ、そう規定したおぼえもなかった。

このように前衛派と呼ばれる俳人たちは、自分自身を前衛とは思っていなかったのである。 
 ここに貴重な言葉を紹介したい。「季流」主宰、小泉八重子さんの75号の引用から…。
「私の俳句の育ち方は前衛俳句全盛の頃であった訳ですが、前衛俳句と言うのは如何にして他の人と違う発想をするか、従来の俳句の概念を破り自分だけの感受、感覚を持って新しい俳句を作り出してゆくか、という事に腐心し私はその世界で育った訳です」             
小泉さんは赤尾兜子の門下で培った俳人です。「歯車」に古くから在籍されておられる方はよくご存じかとは思うが、当時の「歯車」を代表する前衛俳人でした。
  
  夜の地底のしめやかな発芽 亡命の種子
  誤算の涙流し旅立つ 未完の潮流
  死の予感 秋が残した青い手袋
  桜貝が 未知へさすらう夜の引き潮
  ある夜渚に 愛を拒んだ 貝殻埋め
  春の固さに 鞭うたれ蝶の盲の旅

「歯車」時代、昭和35年の小泉さんの俳句作品である。人それぞれというのは、ここにある小泉さんの俳句は小泉さんにしか作れない句であるということ。その人独特の俳句作品は、それそのものが前衛である。…と解釈すれば、誰にだって前衛俳句は作れても不思議ではないというのが、私の持論である。だから三日女さんも兜子も自分自身が前衛俳人だとは思っていなかったのだろう。

 昭和36年、総合誌「俳句」2月号は前衛俳句の特集をおこなっている。特集のブロックを三段階に組み、特集①は座談会、②は評論、③は作品と、きめの細かな論考をし当時激しく揺れ動いている俳壇への刺激を加速させたのであった。先ず、作品についてだが、特集の目的を「いわゆる」というただし書きつきで呼ばれている前衛俳句は、はたして現代俳句の歴史の上にエポックを描き出し得るであろうか、と言う大きなテーマを担ってのものであった。その作品集である。「動物について」は共通の素材を設定しての方向性を探り、現代俳句においての真の意味で前衛を明らかにするものであった。

  牛の水晶体の加害者が生きのびる   林田紀音夫
  鯨の罠は七転八倒の浪がつくる     山田緑光
  枯野に馬を走らせ密語の石ども     坂本 巽
  最後の皇居裸のオランウータン入浴する 仲上隆夫
  寡婦の森 火を喰いこぼす斬首の嘴   大橋嶺夫 
  涙ためし寒暮の馬刺す汽笛       隈 冶人
  満月がしずまり貧血の動物園      星野一郎
  松下の鳶を鷹とみるべく都心へ去る   永田耕衣
  暗い河から渦巻く蛇と軽い墓      赤尾兜子
  空に拡げたアネモネ歪め闘牛死ぬ    堀 葦男
  わが湖あり日陰真暗な虎があり     金子兜太
  君のメガネ野獣をうつしやさしく曇る 八木三日女

ここに登場した俳句作品を、当時の俳人たちは前衛俳句と呼称していたのだが、その根拠はなんであったのだろうと、改めて考えてみる。一口で言ってしまえば、難解で解釈、鑑賞に大変なエネルギーを必要としていたのではないかとも私は思ってしまう。この難解性が、抽象性とも重なってのアブストラクトにも思えて、読者を無視あるいは軽視したエリート意識の集団のようにも受け取られていたのではないかとも。…だが、私はすべての俳人が…そうであったとは思えないのである。
 赤尾兜子は純粋すぎるほど自己の俳句に責任と信念を持って臨んでいたように思う。何時も真剣に討議し、決して読者を軽視してはいなかったのだ。句会で点が入らないというときなどは、句会後の懇談ではしつっこい位に感想を聞かれた。伝達の重要性は理解していたようにも思われた。そのとき私は観念が強すぎると、読者は作者の思考まで到達出来ない時が多々あると話した。すると兜子は「前衛と呼ばれるのはここなんかも」と、口を開いたことがあった。充分に俳句の難解性や抽象性が自己の句に表現されていることは解っておられたのではないかと思う。私は即座に次の句を示した。

  会うほどしずかに一匹の魚のいる秋   赤尾兜子 

前衛だが、難解な句でもなければ、個人的な観念の強い句でもなく、とても好きな句ですよ、と話した。そして暫くすると、「句としては層の薄い句なのだが」との返事。「もっと言葉を積み重ねて重いものにしなければ」。…このとき私はこれほど真剣に読者に理解してもらおうと、語りかけてくる俳人の迫力を、これまで感じたことはなかった。私は、かってないほど兜子の心を重く受け止めていたのだ。

 前衛俳句と言うと、すぐに俳人協会が設立されたその原因が…とよく聞かれる。昭和36年の第9回現代俳句協会賞の受賞をめぐって、石川桂郎を推薦するグループと赤尾兜子のグループとの対立が激化しての現代俳句協会からの分裂が起こる。結局のところ石川桂郎はベテランの類にあり、賞に相応しくないとのことで省かれ二次選考にまで至り、飴山実との決戦で兜子の受賞となったのであった。その後、中村草田男を主とした俳人協会が設立されたのであった。もっとも、それ以前から、前衛俳句と呼称されるグループへのアレルギー症状は激しくあって、この兜子の受賞がきっかけになり、その時期を早めたようでもあった。ここで私が思うのは、俳句に対する常識を壊し、俳句に対する基本的な姿勢を超えてしまった俳人がかなり沢山に増えてゆくことへの恐怖が、在来からの俳人の中にあったたからであったように思う。そのような中から、少しづつではあったが、反省らしき言葉を述べる俳人が前衛派ではないかと思われた中から現れる。林田紀音夫の文章は…それに近いものであった。

 孤立した前衛は無意味である。アバンギャルドたちの抵抗と破壊と攻撃も、後に従う者がなければ、それは徒らに荒廃を招くだけで、ついに崩壊への道を辿る他はない。いわゆる前衛俳句についても、それが弧絶の他ない試みであるならば、新しい運動としての意義をはじめから失っている。(中略)ぼくは崩壊への道は避けて通りたい。それには、開拓者的要素をもったアバンギャルドとして、孤立化しない運動をすすめることが必要になると思うのである。  (「静かなドン・キホーテ」より)

 孤立化を危惧しての俳句作品を考え始めた紀音夫であったが、関西はとかく前衛派と呼称される俳人が多かっただけに、まわりの俳人への刺激は強かったのである。ここで問題なのは、あまりにも言葉の機能に頼りすぎて、言葉先行の俳句になりすぎていたからであった。紀音夫が主張したかったのは、主題が希薄なのに言葉に期待をかけすぎ、言葉ばかりに負担を重くして、つまるところ何を書こうとしているのかが、見えてこないではないかと言う疑問に答えるものであった。
 やがて、前衛的俳句の基本姿勢は大衆の理解を受け入れられないものではいけないと言う考えに落ち着いてゆくのだが、それは昭和40年代に入ってからであった。その形跡を辿っていて、私が著しくその変化を悟ったのは赤尾兜子であった。かなり前衛化していた関西の俳人のなかにいて率直に変貌を遂げたのは兜子であったと思う。それは素直でもあり、真実そのものでもあった。

  春の眼ゆゆしき痕のかくされて    赤尾兜子
  花菜明り はやブランコに乗る老婆  赤尾兜子 
  祖たち獲し白魚光る誕生日      赤尾兜子
 
「渦」65号、昭和47年5月号の変貌を知った私は驚きと、兜子の真剣さを心で受け入れていた。そして兜子の周辺の俳人への影響も出始め、その変貌は兜子主宰誌の「渦」の中でも変化し始めていた。第一回渦新人賞の選考に及んでも顕著になっていた。

  セロ弾いて夜明けの父を待つ少女   本田まさや
  涸川へいくつも小禽の墓つくる    本田まさや
  干潟ゆく巡礼ひとりは烏なり     本田まさや
  夕焼けのおわりを母にしらせゆく   本田まさや
  風船売りの空にみじかい橋かかる   本田まさや

受賞者は本田まさやであったが、最終選考委員は赤尾兜子、和田悟朗、船川 渉、大川双魚、青江涼江、の五氏であった。充分に読者を熟知してのことであった。ここには孤立しない前衛があったのだ。…それ以後の兜子の句における兜子自身の前衛はつづいてゆくのだが、だれも前衛俳句とは思っていない。
  
  歸り花鶴折るうちに折り殺す     赤尾兜子
  大雷雨鬱王と會ふあさの夢      赤尾兜子
  盲母いま盲児を産めり春の暮     赤尾兜子
  壮年の暁(あけ)白梅の白験(ため)す   赤尾兜子

前衛俳句はいまも続いている。未だ亡びてはいない。
                (2012年7月11日記述)


文体改革のパイオニア…俳人坂口芙美子

2023-06-22 14:01:33 | 日記
 神戸は坂の街である。元町より下山手通り、中山手通り、山本通りを斜めに横切るとこのあたりより坂の道に出る。更に先へと坂を上ると北野町に出る。洋風建築のテラスがまぶしく輝く。風見鶏のある館が目に届く。かって私はここへ何回も鬱を棄てに来た。
  はるかぜにとびのる構え風見鶏   庸晃

人間関係に疲れ果て現実の社会にもついて行けず、身も心もボロボロになったとき一人きりの時間を求めて佇んでいた。20代後半の青春期をこの坂道を歩くことによって心を癒していたのだった。
 この思い出の坂道を今ゆっくりと上り、眼前の海原を見ている。今しがたまで覆われていた霧はいつか姿を消していた。青い海が、そして坂の上に暖かく   ある林が私をかっての青春へと誘う。

  死んでもいいなど 云い合う 霧笛のおおんおん 坂口芙民子

この人の俳句を思い出していた。昭和39年第7回青玄新人賞、後に坪内稔典や攝津幸彦らを集め「日時計」の発行人でもあった。オノマトペ、リフレイン、そして青春のナイーブな感情を新文体で表現していた。楠本憲吉の経営する「なだ萬」で働き、その後ファッションデザイナーへと進む。この音楽性を採り入れた話し言葉は当時の私の鬱を救ってくれたのだ。

  どうしてさびしい眼なの と海のしーんしーん 坂口芙美子
  おろんおろんと風来た 手紙焼き棄てた    坂口芙美子
  むぁーんとスモッグ 手紙が来れば両手出す  坂口芙美子
  ゆらんゆらん夾竹桃 嫌いなあなたでしたのに 坂口芙美子  

それは軽やかに時には切なく訴えられた女心の真の告白にあった。正に青春そのものがあった。これらを表現するにオノマトペやリフレインは文体改革に欠かさざるもので新表記へのパイオニアでもあった。

 今日一日この北野町の坂道に立ち過去への扉を開いていた。もう日も暮れかけようとしている。いま最晩年という年に達して青春は思い出だけになったが青春の俳句だけは確実に残る。…そう思いつつ坂を下っていた。