"突いた”のタイツ

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等伯さんは鴨川に晒されていた

2010年05月09日 21時45分28秒 | 日記
先日110分待ちに恐れをなして逃げ帰った、京都国立博物館でやっている「没後400年 特別展覧会 長谷川等伯」
とうとう昨日行ってきまして、想いを遂げてまいりました。
待ち時間が長くなるのを予測して、開館の30分前に到着、水も持ったしトイレも済ませたし、
長時間の立ちっぱなしにそなえて屈伸運動も怠りなく、
さあこい!と列の最後尾につきましたの。
30分ほどでなんとか建物内に入れて観賞したんだけれども、博物館側も慣れたもんだわね。
ちゃんと途中途中に日傘なんか用意してあって
なお且つテントの梁には小型のビデオなんかも設置してあって
等伯の勉強ビデオなんかを流している。憎いわね。
さて相当の作品が多数が展示してあって、等伯の半分ぐらいの数を集めたのではないか?
と思われるくらい沢山だった。
今回思ったことは、等伯は人物画が巧いわね。
巧いって意味は表情なんかに誇張とか気負った作為が無くって、
その人の自然な内面を表してるっていうか、ホントに普通なのよ。
肖像画の本場、西洋画にも通ずるような作風です。
初めて見た屏風絵「萩芒図屏風」http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2010/0307/index.html
近年発見されて国宝はおろか重文にも指定されていないのだけれど、
これは傑作だわ。
単に風にそよぐ萩とススキを描写しただけなんだけれども、
特にススキが素晴らしいわ。
繊細なススキの描写、リアリティのある克明さ、存在感、
そして青々とした前に出てくるススキと、後ろに存在を感じさせる枯れた茶色、
その奥にもう白くなった茎の描写、
立体感、遠近感を間接的に描いて、絵全体に奥行きを感じさせている。
松林図が墨の濃淡で遠近を表現しているけれども、これは茎の枯れ方で表現する。
見たことも無い手法ね。
まあ、見たこと無いのはあたしだけかもしれないけれど。
いずれにせよ構図、デザイン、手法、描き方、いずれをとっても時代を超えた普遍性を感じさせるわ。
洋の東西を問わず、時代を問わず、何千年の時がたってもファンを持ち続ける普遍性、
そんなことまで想った、魅力あふれる作品でした。
この絵にじっと立ちつくす人々は沢山いたわ。
現代的な画風だもんね。気持ちは良くわかった。特にススキに惚れちゃった。
お金持ちで買いたい人がいたら今のうちかも?まあ売ってくれないでしょうけれど。
何億だしても価値があるわ。
さてお目当ての松林図なんだけれど、コースの最後に展示されていて人で溢れているフロアなんだけれども・・・
一言でいうと、がっかりしたわ。
なぜか?
今回は主催者の意向で、屏風に角度を付けず、まっすぐ平面的にして展示してある。
照明も平凡な上からの間接蛍光灯のみ。
つまらないわ。
せっかくの良い絵が台無しなのよね。確かにこの絵は描かれた時障壁画でまっすぐだったかもしれないけれど、
その後屏風に仕立てられたのには訳があると思うのよ。
まっすぐにしてみると、どうも陰影の奥深さ、絵の世界の立体感が薄くなってくる。
照明も明るい傾向の、上から放射だから平板な印象ね。
前に七尾美術館で感じたあの感動、絵の世界に没入し幽体離脱してしまった、
あたしの感性は再現されなかった。
やっぱ博物館には芸術品を美しく展示する気がないのかしら?
美術館とは感性が違ってる?
素晴らしい芸術ほど、観る側の努力や感性を求めてくるものはないのではないかしら?
良いスピーカーほど鳴らしにくい、鳴らすのにワザを必要とするものだからね。
かわいそうに、
等伯の松林図さんは罪も無いのに白昼、鴨川のほとりで、
衆人環視のもと
高々とおっぴろげの状態で、はり付けの刑にあっちゃったみたい。
あたしは彼女の不幸を悼みつつ、ジャンヌダルクを思い出したわ。
松林図さん、今度お逢いする時は、あなたのことを良く分かった誰かに見染めてもらって、
美しく最大限に魅力的に、展示された状態でお目に掛かりたいわねって。