懲役タロー(累犯者)
になってしまう理由は
狂気でも
経済的困窮でも
周りの支えがないから
でもなく、きっと
シャバに居場所が
なくなってしまうから。
、、、
自分が安心できる
落ち着いて暮らせる
ここに居ていいと思える場所が
人間がちゃんと生きていくため
には必要なんだろう
そんなもの当たり前だった
自分がここに居ていいこと
なんか、当たり前で
気にもかけたことがなかった
けどシャバを数年間留守に
してしまったら
その当たり前が無くなってて
居場所があるってことが
人間にとってどれだけ掛け替えのない
重要なことなのかが
わかった
今必要なのは
金でも愛でも仕事でも時間でもない
「ここに居ていい」
そう思わせてくれる何か
なんだろう
それってどうやったら
手に入るんだ?
気づいたら、
気付きさへせずに
持っていたものだから
失ったそれを改めて見つける術が
わからない
どうしたらいいか
わからない
再犯っていうものはたぶん
居場所を改めて見つけ出すことが
できなかった前科者(stigma)たちが
進まざるを得ない道なんだろう
ゴクの中が
居場所になってしまうから
そこへ帰るのが当たり前になる
再犯率の高さは
失ってしまった居場所を
取り戻すことの難しさを
物語っているのだと思う
所与のものは
そうであるからこそ
失った時のダメージが大きい
まず失ったことに気づかない
(もっていたことを知らないのだから)
気づいたとしても
その回復の方法がみつからない
(自らの手で得たものじゃないから)
おれはどうやって
それを取り戻そう、、、
落月 -自殺のアルゴリズム-の続き、、、
走光性をもつ虫たちにとっての
想定外の事態-落月-とは
闇夜で遭遇する
水平方向にある到達可能な光源
だった
垂直方向へ無限の距離をもつ
光源-月-が
目の前に落ちて現れた時
それは走光性をもつ虫たちにとって
全てを吸い込む
死のブラックホールと化す
、、、
では人間にとっての
想定外、落月の内容はどういったものか
「死にたい」という気持ちは
なにも特別なものじゃない
それはおよそ全ての生物がもつ
苦から逃れようとする力
の一つの現れ方だ
ヒトの意識活動のうえで
苦しみを避けようとする力の現れ
この極地的表現が
死にたい、消えたい、無くなりたい
といったものだ
テレビ画面に不快な映像
スピーカーからは耳をつんざくノイズ
この苦から逃れる最も確実で合理的な
方法は、テレビの電源を切ることだ
電源の切り方にも色々ある
その中でさらに確実なものは
テレビそのものを破壊することだ
これがヒトの自殺のアルゴリズムだ
、、、
ただ普通、人は
死にたいと思っても実際には死なない
苦しみから手っ取り早く逃れるために
自らを破壊してしまうその前に
ブレーキがかかるようになっている
なのにブレーキが利かずに
簡単に死んでしまう人がいる
彼らに起こった想定外の事態とは
なにか、、、
それは、
意識というサブシステムによる
身体のメインシステムの
乗っ取り
つまり、
サブシステムの暴走だ
人間以外の動物は自殺しない
彼らはどんな苦しみに直面しようと
ひたむきに生存を試みる
かといって彼らを倫理的に賞賛する
わけにはいかない
彼らは自殺しないのではなく
自殺できないだけなのだから
身体という正常なシステムは
生存を最優先とする
一方で人間が身につけた
意識という異常なシステムは
そうとは限らない
高度な意識活動は
死という概念を作り出し
それに至ることで
苦しみを取り除くという
バグを生み出した
人間だけがこのバグを
抱えている
だから人間以外の動物に
自殺は原理的にできない
、、、
普通人間は意識こそがメイン
だと錯覚している
しかし一日の生活を
考えてみても
その日行った全活動のなかで
自分が意識的に行ったもの
がどれだけあったか考えてみるといい
呼吸、内臓の伸縮、といった
生理機能だけでなく
水を飲む、右に曲がる、といった
判断をどれだけ意識的に行っただろう
ひとは意識上のことすら
ほとんど無意識に
-つまり身体の働きにより-
行っている
他の生物同様、人間にとっても
身体こそがメインシステムであり
意識活動はそれに付随した
サブシステムにすぎない
それゆえ意識は
身体にとって致命的なバグを
抱えることが許されている
サブシステムにそのようなバグが
生じても
主である身体がそれを修正する
だから、普通ひとは
死にたくなることはあっても
自殺に至ることはない
そして、
メインシステムがサブシステムの
バグを制御できないとき
致命的なバグが実行され
簡単に人は自らを破壊してしまう
以上が人にとっての落月
死のアルゴリズムの内容だ、
だ、だろうか、、、
なんかSiri滅裂に
なっちゃった
(@長野行きの高速バスの中)
じゃあなんで
サブシステムの暴走が
おこってしまうのか、、、
その③、へ続く、、、
環境弱者と強者の分かれ目
はどこか?
環境の中で
不利な立場に甘んじる者と
優位な立場を利用して繁栄して
行くものとの差はなにか
それは
自分の土俵をもっているかどうか
にちがいない
強者はある環境に適応し
優位な立場を得た者ではなく
自分が最も動きやすい土俵の上に
居続けた者だ
弱者はある環境に順応できず
不利な身分におちぶれた者ではなく
自分が最も輝ける土俵の上から
身を下ろしてしまった者だ
ある絶対的な、
共通のフィールドの上で
競技が行われているわけではなく
土俵はあくまで相対的で
それは各自が任意に
決定することができる
同じ土俵で戦っているように
見えるのはあくまで錯覚だ
実相は各自の相対的な土俵の
総体、塊に過ぎない
だから、
環境弱者になるか
強者になるかは
自分次第だ
、、、
例えばお笑いタレント
自分の土俵を作り上げた者は
無条件で笑いをとれる
大御所のタレントは常に
自分のフィールドで芸を披露し
そこに観客を巻き込む
そうでない者は
ビクビクと他人の土俵に
上がりこみ無条件でスベる
いつまでも花が咲かない芸人は
いつまでもアウェイの観客の
顔色を伺い空気に呑まれる
決着は
芸を披露する前に
一言目を発する前に
既に着いてしまっている!
、、、
そんなはずはない
年収がどれだけあるか
多いか少ないか
それは絶対的な指標
共通のフィールドだ
そうだろうか
それは
高額年収の土俵を選んだ者
たちだけでつくる
仮想的な絶対基準
でしかない
、、、
大切なのは
土俵を簡単に
譲渡してしまわないことだ
誰もが
自分にとって最高の環境
自分だけの
デフォルトのフィールドを
もっていたはずだ
それが正しさや当たり前や
価値や社会によって
隠されてしまっていく
その煤を払いのけて
自らの土俵にたち続けた者が、
再び舞い戻ることができた者が
環境強者
自らのセカイの王に
なりえるのだろう
絶対的な尺度上の争いは
錯覚に過ぎない
あるのは
相対的な好き・嫌いによる
アソビだけだ
好きは勝利
嫌いは敗北だ
ただそれだけのことなんだろう
、、、
繰り返そう
全ては自分次第
自分の土俵を奪われるな
自分のフィールドで
遊び回れ
ホントの強者・勝者はいつでも
無邪気なこどもなのだから