環境弱者と強者の分かれ目
はどこか?
環境の中で
不利な立場に甘んじる者と
優位な立場を利用して繁栄して
行くものとの差はなにか
それは
自分の土俵をもっているかどうか
にちがいない
強者はある環境に適応し
優位な立場を得た者ではなく
自分が最も動きやすい土俵の上に
居続けた者だ
弱者はある環境に順応できず
不利な身分におちぶれた者ではなく
自分が最も輝ける土俵の上から
身を下ろしてしまった者だ
ある絶対的な、
共通のフィールドの上で
競技が行われているわけではなく
土俵はあくまで相対的で
それは各自が任意に
決定することができる
同じ土俵で戦っているように
見えるのはあくまで錯覚だ
実相は各自の相対的な土俵の
総体、塊に過ぎない
だから、
環境弱者になるか
強者になるかは
自分次第だ
、、、
例えばお笑いタレント
自分の土俵を作り上げた者は
無条件で笑いをとれる
大御所のタレントは常に
自分のフィールドで芸を披露し
そこに観客を巻き込む
そうでない者は
ビクビクと他人の土俵に
上がりこみ無条件でスベる
いつまでも花が咲かない芸人は
いつまでもアウェイの観客の
顔色を伺い空気に呑まれる
決着は
芸を披露する前に
一言目を発する前に
既に着いてしまっている!
、、、
そんなはずはない
年収がどれだけあるか
多いか少ないか
それは絶対的な指標
共通のフィールドだ
そうだろうか
それは
高額年収の土俵を選んだ者
たちだけでつくる
仮想的な絶対基準
でしかない
、、、
大切なのは
土俵を簡単に
譲渡してしまわないことだ
誰もが
自分にとって最高の環境
自分だけの
デフォルトのフィールドを
もっていたはずだ
それが正しさや当たり前や
価値や社会によって
隠されてしまっていく
その煤を払いのけて
自らの土俵にたち続けた者が、
再び舞い戻ることができた者が
環境強者
自らのセカイの王に
なりえるのだろう
絶対的な尺度上の争いは
錯覚に過ぎない
あるのは
相対的な好き・嫌いによる
アソビだけだ
好きは勝利
嫌いは敗北だ
ただそれだけのことなんだろう
、、、
繰り返そう
全ては自分次第
自分の土俵を奪われるな
自分のフィールドで
遊び回れ
ホントの強者・勝者はいつでも
無邪気なこどもなのだから