
悪魔召還録のご紹介も、いよいよ最終回。第1弾最後に登場が、この『平将門』です。はっきり言って、やばい。物凄くやばい。危険というか、マズイんじゃないでしょうか、これが家にあるのは・・・。何かこのシリーズ、大天使系とかが無くて凶悪な神が多いラインナップなので、まあカッコいいんですけど霊的に釣り合いが取れていないのがなんか怖い。別にノンポリですし、悪魔とか霊とか神とか信じてる訳では無いんですが、実際に首塚に関して祟りみたいな感じの歴史が残ってる平将門はちょっと怖いですよホントに。塩盛して飾った方がいいんだろうか。あ、ちなみに酒はダメだそうです。東京都千代田区大手町1丁目1番1号に、実際に将門の首塚があるのですが、そこに注意書きで、「塚には絶対にお酒はお酒をかけないでください」と書いてあるので、多分ヤバイんだと思う。水にしときましょう。あ、でもお神酒は祭事であげるんだよね。なんで一般人だとダメなんだろう。まあ、酒をあげるならいいけど、かけちゃダメですよね。
さて、最終回という事で、今回の記事は気合入ってますよー。将門の反乱に関する日本史のお話と、首塚や伝説にまつわるお話の2本立て。あらかじめ言っておきますが長文ですので、首塚や伝説だけを読みたい方は後半の方の文章を読んでくださいね。それでは、いってみましょー。
平将門の歴史
平将門は平安中期、900年代初頭の人です。政治の実権は朝廷(公家)が握っており、武士の世の中ではありません。また、武士とは自分の畑を守るため武装した農民から発展した大規模自作農で、それを豪族と言います。領国は下総(千葉)辺りだったみたいですから、当時から見れば物凄い田舎です。何しろそのすぐ北には、蝦夷という異民族が居る訳で・・・。要は、当時の日本はまだ狭く、実質支配地域は九州から北関東までだったと思われます。
何しろ時代が古く、様々な資料の記載があり、正誤定かではないので、目だった物だけを構成して記述します。誤りや時間軸の前後があるかも知れませんが、概略は掴んでおりますのでご容赦を。
父の急死によって、広大な領地を守るための保障や冠位が必要になった将門は、京都へ上り藤原氏の一族と主従関係を結ぶも、結局冠位が貰えないので仕方なく帰国すると、父の領地は叔父の平国香に全部取られていました。(当時は相続権とかそういうのが無かったんです。)
将門は岩井で開墾を始めて自分の領地としますが、国香の嫌がらせを受けて益々対立が深まります。
将門記によると、その後叔父の平良兼、あるいは源護の娘を巡って争いが起き、将門が襲撃される所から平一族の争いが勃発。将門は護の子の軍、援軍の国香諸共次々撃破し殺害、更に叔父の良正を撃破、最終的に反将門の盟主となった良兼を包囲して一部囲みを解き、叔父を殺す事無く逃亡させてから交渉にて自分の一族での正当性を認めさせ、トップに立つという非常に穏健な人だったようです。
ところが敵の讒言により、この平氏一門の争いに関する釈明をしろと朝廷から召喚命令が来た為、将門は平安京へと赴きます。
役1年半後に帰国を許され戻ってみると、平良兼は全然懲りてなくて、将門は再び一族と対立。良兼は将門の父の肖像を掲げて将門を襲撃し、将門は敗退。妻も子供も捕まるというこの敗退により、将門は朝廷に自分の正当性を訴えるという手段に出ます。
同年朝廷から正当性を認められ、平良兼、平貞盛、源護ら、叔父達の追討令が出ると、筑波山で叔父の軍勢を撃破。しかしその後も対立は続きますが、3年後に叔父が病死して、晴れて将門は一族を掌握し、その名を関東に知らしめる存在となりました。
ところがここで、朝廷に不満を持つ興世王や、朝廷に対抗して租税を滞納し、追捕令が出ていた藤原玄明を可愛そうなので匿うなどしてしまい、常陸国国衙へ向かい藤原玄明の追捕撤回を求めたところいきなり攻撃を受けたため、将門は止む無く反撃し、結果的に常陸介藤原維幾を捕らえてしまい国衙を陥落させてしまいます。これはちょっとやり過ぎというか、朝廷側から見たら完全な謀反になってしまってますので、どうしようかと思案していたところ、まあ、もう謝っても許してくれないのは目に見えている訳でして、興世王が進撃を進言し、将門は同年12月に下野、上野国府を落とし、関東一円を支配してしまいます。
実はこの段階でもまだ朝廷は、「地方で暴れまわっている豪族が居るなぁ」程度にしか思っていなかったようで、これで終わってればこの後の悲劇は起こらなかったと思うんですが、ここに突然八幡大菩薩の使いを自称する巫女だか何だか素性が分からない女が来て、将門の事を新しい天皇になる人物であるというお告げをしてしまいます。(これは、私の考えでは興世王が将門を本格的に朝廷と対立させる為の策謀だと思うのですが。)
何と将門これに乗ってしまい、新皇を称して岩井に政庁を定めてしまいます。
まあ、平家も天皇家の末裔ではありますから、案外間違っていないとも思えますが、当時は豪族みんなが天皇家の末裔を名乗るような時代でしたので将門も怪しい物です。
朝廷は大騒ぎになり、ついに将門追討令が下されます。余程の大騒ぎだったらしく、全国に「将門の首を取った者は貴族にする」というお触れまで出て、都から征夷大将軍として藤原忠史が出発。更に国香の息子、平貞盛と藤原秀郷が連合し攻め寄せます。
しかしながら当初善戦、それ以後も何と一進一退という戦いで、案外このまま行けば上手く行く、と思っていたところで最後を迎えます。
何とあっけなく、「無理する事もあるまい」と、疲弊した兵馬を休ませて居た所を襲撃され、眉間を射抜かれて即死。首は京の東市で晒される事となりました。
と、ざっと記述しましたが、これが将門の歴史です。最期に関しては諸説あり、朝廷とは戦争をせず、朝廷から追討の下向があるまで軍兵を一時帰休させた隙を突かれて平貞盛と藤原秀郷に討ち取られたという説もあります。
色々と資料を見ましたが、どうも人が良く、逆境に強い意志を持ちながらも乗せられ易い性格だったようですね。自分の領民には非常に優しい人柄だったようです。ただ、怒らせると怖い事と、とてつもなく強く、人間的魅力のある将だった事は確かです。
将門の伝説と首塚
京に将門の首がやってくる時、京では将門の軍兵が攻め寄せてくるとのデマが飛び、大混乱に陥ったという言い伝えがあります。
また、晒された首はいつまでも目を閉じず人々を見据えて、見る者を恐れさせたなど。
将門が生きている間でも様々な伝説がありました。
体が鉄で出来ていて、ただ眉間だけが弱点だとか、将門は7人居て、本物を討ち取った時、残りの6人は崩れて土くれになったといった物です。
晒された首はいつしか肉体を探して京を飛び去り、関東を回るうちに力尽きて落ちた所が将門の首塚だと言われています。(最も有名なのが東京の首塚で、他に首が落ちたと呼ばれる地点はいくつかあり、それぞれ祭られています。)
さて、その首塚に関しても、様々な言い伝えや現象があります。
元より平将門とは日本三大怨霊の中の1人(他、崇徳上皇と菅原道真)と呼ばれており、古来から日本は祟りを恐れる慣習があった為、鎮める為に祭る事が盛んに行われておりました。
まあ、天変地異や疫病といった物が、全て怨霊のせいにされて、何かある度に祭られていた訳ですが、平将門に至っては天皇に対する反逆者であり、完璧に重罪人です。
正式に供養されたのは1307年、首塚の近くの神社に祭られます。以後御神体となり、この神社は神田明神と名付けられます。
さて、江戸の世となり家康が江戸入り。神田明神は移転しますが、首塚は大名屋敷内に残されます。丁度江戸の鬼門となる位置であり、風水による守護神の意味があったと思われます。
飛んで明治2年、庁舎街建設の折、大蔵省新庁舎の敷地内に入る。この時も首塚は移転せず、そのまま残されます。当時の様子は、大蔵省の玄関から左手すぐに神田明神の御手洗池という300坪程の池があり、その南に高さ約5メートルの土盛りがあって、それが将門塚だったとの事。
明治7年、明治天皇が神田明神を参拝。将門は朝敵である為別殿に移されて、祭殿は大己貴命と少彦名命となる。
大正12年、関東大震災。庁舎も塚も壊れた為、周辺一帯を再度区画整理する計画が立ち上がります。その際塚を発掘調査する事となり、同年11月発掘。内部に石室を発見するも盗掘されていて何も無く、将門と断定できないまま石室を取り壊し。その上に仮庁舎を建設してしまいます。
-さて、問題はここから-
わずか2年の間に工事関係者や庁舎役人に死人続出、また、大蔵大臣早速整爾も病にて死亡し、その後も庁舎内で怪我人続出。特に足に怪我をする者が多く、首塚を壊した上に足の下に敷くという行為に対し将門の怨霊が祟ったとの噂が立つ。結果、塚跡に建てられた仮庁舎撤去となる。
昭和2年、動揺や波紋が広がり収拾がつかない為、神田神社社司平田盛胤祭主の慰霊祭が行われ、大蔵大臣三士忠造他幹部及び多数の関係者が参加する事により、ようやく沈静化します。
その後、毎年祭事を行うも、第二次世界大戦が近づくにつれてそれもおろそかになる・・・。
昭和15年、大蔵省庁舎、塚の近くに落雷し、庁舎全焼。祟りの噂広まる。丁度没後1000年の年だった為、盛大な一千年祭を開催。河田烈大蔵大臣指揮。浅草の寺の1300年代の南無阿弥陀仏の拓本から写した石碑を建てる。これが現存する塚です。
その後、大蔵省本庁舎が霞ヶ関に移転後、東京都庁舎建設用地として都に移管。
昭和20年敗戦により、GHQが進駐して来ます。辺り一帯を整地してしまい、何と塚撤去。その際、工事用ブルドーザーを操作していた日本人運転手が、突然塚の前で急死。現地の米軍将校に話をし、その上マッカーサーに陳情を繰り返し、ようやく塚が残され、再建されて現在に至ります。
そんな訳で
ね。ちょっとこれをフィギュアにしちゃおうなんていうのは、ヤバイと思いませんか?神も仏もどうでもいいんですが、それでもちょっと気分的になぁ・・・って思ってたら、製作者ちゃんとお参りに行ってますよ。その証拠がこのページです。
ふうう・・一先ず安心、かな?
この首塚、出勤途中にお参りするサラリーマンも居る等、人の足が絶えません。心霊スポットのホームページ等で結構紹介されていますが、もっと、何と言うかそういうネタの場所ではなくて、ちゃんと、「人の心の拠り所」になっています。怖いもの見たさで遊び気分で行くのは、失礼なような気もしますね。
フィギュアの出来
では、現物です。写真のとおり。
真・女神転生シリーズでは、重要な役割を果たす将門公。元来東京を舞台とする女神転生の正伝シリーズは、東京鎮護の存在として登場します。フィギュアの姿はIIの姿で、しかも本気バージョンです。当然仲魔には出来ませんが、例外中の例外として、ソウル八カーズでは造魔合体により造る事が可能です。
フィギュア全高10センチと少し。石畳の台座の上に、金の装飾が施された鎧を着込み、刀を持った立ち姿。口には牙が生えています。とにかく見ているだけでも威圧感が凄い。素晴らしい造形ですね。
塗装も問題なく、細部まで美しく成されています。
とにかく、これだけ危険な物を商品化してしまったその勇気に拍手。今後平将門を立体化した大衆向けアイテムなんて、まず発売される事は無いと思いますので、これはとっても貴重な物です。
色んな意味で、大事にした方が良いと思います。
さて、最終回という事で、今回の記事は気合入ってますよー。将門の反乱に関する日本史のお話と、首塚や伝説にまつわるお話の2本立て。あらかじめ言っておきますが長文ですので、首塚や伝説だけを読みたい方は後半の方の文章を読んでくださいね。それでは、いってみましょー。
平将門の歴史
平将門は平安中期、900年代初頭の人です。政治の実権は朝廷(公家)が握っており、武士の世の中ではありません。また、武士とは自分の畑を守るため武装した農民から発展した大規模自作農で、それを豪族と言います。領国は下総(千葉)辺りだったみたいですから、当時から見れば物凄い田舎です。何しろそのすぐ北には、蝦夷という異民族が居る訳で・・・。要は、当時の日本はまだ狭く、実質支配地域は九州から北関東までだったと思われます。
何しろ時代が古く、様々な資料の記載があり、正誤定かではないので、目だった物だけを構成して記述します。誤りや時間軸の前後があるかも知れませんが、概略は掴んでおりますのでご容赦を。
父の急死によって、広大な領地を守るための保障や冠位が必要になった将門は、京都へ上り藤原氏の一族と主従関係を結ぶも、結局冠位が貰えないので仕方なく帰国すると、父の領地は叔父の平国香に全部取られていました。(当時は相続権とかそういうのが無かったんです。)
将門は岩井で開墾を始めて自分の領地としますが、国香の嫌がらせを受けて益々対立が深まります。
将門記によると、その後叔父の平良兼、あるいは源護の娘を巡って争いが起き、将門が襲撃される所から平一族の争いが勃発。将門は護の子の軍、援軍の国香諸共次々撃破し殺害、更に叔父の良正を撃破、最終的に反将門の盟主となった良兼を包囲して一部囲みを解き、叔父を殺す事無く逃亡させてから交渉にて自分の一族での正当性を認めさせ、トップに立つという非常に穏健な人だったようです。
ところが敵の讒言により、この平氏一門の争いに関する釈明をしろと朝廷から召喚命令が来た為、将門は平安京へと赴きます。
役1年半後に帰国を許され戻ってみると、平良兼は全然懲りてなくて、将門は再び一族と対立。良兼は将門の父の肖像を掲げて将門を襲撃し、将門は敗退。妻も子供も捕まるというこの敗退により、将門は朝廷に自分の正当性を訴えるという手段に出ます。
同年朝廷から正当性を認められ、平良兼、平貞盛、源護ら、叔父達の追討令が出ると、筑波山で叔父の軍勢を撃破。しかしその後も対立は続きますが、3年後に叔父が病死して、晴れて将門は一族を掌握し、その名を関東に知らしめる存在となりました。
ところがここで、朝廷に不満を持つ興世王や、朝廷に対抗して租税を滞納し、追捕令が出ていた藤原玄明を可愛そうなので匿うなどしてしまい、常陸国国衙へ向かい藤原玄明の追捕撤回を求めたところいきなり攻撃を受けたため、将門は止む無く反撃し、結果的に常陸介藤原維幾を捕らえてしまい国衙を陥落させてしまいます。これはちょっとやり過ぎというか、朝廷側から見たら完全な謀反になってしまってますので、どうしようかと思案していたところ、まあ、もう謝っても許してくれないのは目に見えている訳でして、興世王が進撃を進言し、将門は同年12月に下野、上野国府を落とし、関東一円を支配してしまいます。
実はこの段階でもまだ朝廷は、「地方で暴れまわっている豪族が居るなぁ」程度にしか思っていなかったようで、これで終わってればこの後の悲劇は起こらなかったと思うんですが、ここに突然八幡大菩薩の使いを自称する巫女だか何だか素性が分からない女が来て、将門の事を新しい天皇になる人物であるというお告げをしてしまいます。(これは、私の考えでは興世王が将門を本格的に朝廷と対立させる為の策謀だと思うのですが。)
何と将門これに乗ってしまい、新皇を称して岩井に政庁を定めてしまいます。
まあ、平家も天皇家の末裔ではありますから、案外間違っていないとも思えますが、当時は豪族みんなが天皇家の末裔を名乗るような時代でしたので将門も怪しい物です。
朝廷は大騒ぎになり、ついに将門追討令が下されます。余程の大騒ぎだったらしく、全国に「将門の首を取った者は貴族にする」というお触れまで出て、都から征夷大将軍として藤原忠史が出発。更に国香の息子、平貞盛と藤原秀郷が連合し攻め寄せます。
しかしながら当初善戦、それ以後も何と一進一退という戦いで、案外このまま行けば上手く行く、と思っていたところで最後を迎えます。
何とあっけなく、「無理する事もあるまい」と、疲弊した兵馬を休ませて居た所を襲撃され、眉間を射抜かれて即死。首は京の東市で晒される事となりました。
と、ざっと記述しましたが、これが将門の歴史です。最期に関しては諸説あり、朝廷とは戦争をせず、朝廷から追討の下向があるまで軍兵を一時帰休させた隙を突かれて平貞盛と藤原秀郷に討ち取られたという説もあります。
色々と資料を見ましたが、どうも人が良く、逆境に強い意志を持ちながらも乗せられ易い性格だったようですね。自分の領民には非常に優しい人柄だったようです。ただ、怒らせると怖い事と、とてつもなく強く、人間的魅力のある将だった事は確かです。
将門の伝説と首塚
京に将門の首がやってくる時、京では将門の軍兵が攻め寄せてくるとのデマが飛び、大混乱に陥ったという言い伝えがあります。
また、晒された首はいつまでも目を閉じず人々を見据えて、見る者を恐れさせたなど。
将門が生きている間でも様々な伝説がありました。
体が鉄で出来ていて、ただ眉間だけが弱点だとか、将門は7人居て、本物を討ち取った時、残りの6人は崩れて土くれになったといった物です。
晒された首はいつしか肉体を探して京を飛び去り、関東を回るうちに力尽きて落ちた所が将門の首塚だと言われています。(最も有名なのが東京の首塚で、他に首が落ちたと呼ばれる地点はいくつかあり、それぞれ祭られています。)
さて、その首塚に関しても、様々な言い伝えや現象があります。
元より平将門とは日本三大怨霊の中の1人(他、崇徳上皇と菅原道真)と呼ばれており、古来から日本は祟りを恐れる慣習があった為、鎮める為に祭る事が盛んに行われておりました。
まあ、天変地異や疫病といった物が、全て怨霊のせいにされて、何かある度に祭られていた訳ですが、平将門に至っては天皇に対する反逆者であり、完璧に重罪人です。
正式に供養されたのは1307年、首塚の近くの神社に祭られます。以後御神体となり、この神社は神田明神と名付けられます。
さて、江戸の世となり家康が江戸入り。神田明神は移転しますが、首塚は大名屋敷内に残されます。丁度江戸の鬼門となる位置であり、風水による守護神の意味があったと思われます。
飛んで明治2年、庁舎街建設の折、大蔵省新庁舎の敷地内に入る。この時も首塚は移転せず、そのまま残されます。当時の様子は、大蔵省の玄関から左手すぐに神田明神の御手洗池という300坪程の池があり、その南に高さ約5メートルの土盛りがあって、それが将門塚だったとの事。
明治7年、明治天皇が神田明神を参拝。将門は朝敵である為別殿に移されて、祭殿は大己貴命と少彦名命となる。
大正12年、関東大震災。庁舎も塚も壊れた為、周辺一帯を再度区画整理する計画が立ち上がります。その際塚を発掘調査する事となり、同年11月発掘。内部に石室を発見するも盗掘されていて何も無く、将門と断定できないまま石室を取り壊し。その上に仮庁舎を建設してしまいます。
-さて、問題はここから-
わずか2年の間に工事関係者や庁舎役人に死人続出、また、大蔵大臣早速整爾も病にて死亡し、その後も庁舎内で怪我人続出。特に足に怪我をする者が多く、首塚を壊した上に足の下に敷くという行為に対し将門の怨霊が祟ったとの噂が立つ。結果、塚跡に建てられた仮庁舎撤去となる。
昭和2年、動揺や波紋が広がり収拾がつかない為、神田神社社司平田盛胤祭主の慰霊祭が行われ、大蔵大臣三士忠造他幹部及び多数の関係者が参加する事により、ようやく沈静化します。
その後、毎年祭事を行うも、第二次世界大戦が近づくにつれてそれもおろそかになる・・・。
昭和15年、大蔵省庁舎、塚の近くに落雷し、庁舎全焼。祟りの噂広まる。丁度没後1000年の年だった為、盛大な一千年祭を開催。河田烈大蔵大臣指揮。浅草の寺の1300年代の南無阿弥陀仏の拓本から写した石碑を建てる。これが現存する塚です。
その後、大蔵省本庁舎が霞ヶ関に移転後、東京都庁舎建設用地として都に移管。
昭和20年敗戦により、GHQが進駐して来ます。辺り一帯を整地してしまい、何と塚撤去。その際、工事用ブルドーザーを操作していた日本人運転手が、突然塚の前で急死。現地の米軍将校に話をし、その上マッカーサーに陳情を繰り返し、ようやく塚が残され、再建されて現在に至ります。
そんな訳で
ね。ちょっとこれをフィギュアにしちゃおうなんていうのは、ヤバイと思いませんか?神も仏もどうでもいいんですが、それでもちょっと気分的になぁ・・・って思ってたら、製作者ちゃんとお参りに行ってますよ。その証拠がこのページです。
ふうう・・一先ず安心、かな?
この首塚、出勤途中にお参りするサラリーマンも居る等、人の足が絶えません。心霊スポットのホームページ等で結構紹介されていますが、もっと、何と言うかそういうネタの場所ではなくて、ちゃんと、「人の心の拠り所」になっています。怖いもの見たさで遊び気分で行くのは、失礼なような気もしますね。
フィギュアの出来
では、現物です。写真のとおり。
真・女神転生シリーズでは、重要な役割を果たす将門公。元来東京を舞台とする女神転生の正伝シリーズは、東京鎮護の存在として登場します。フィギュアの姿はIIの姿で、しかも本気バージョンです。当然仲魔には出来ませんが、例外中の例外として、ソウル八カーズでは造魔合体により造る事が可能です。
フィギュア全高10センチと少し。石畳の台座の上に、金の装飾が施された鎧を着込み、刀を持った立ち姿。口には牙が生えています。とにかく見ているだけでも威圧感が凄い。素晴らしい造形ですね。
塗装も問題なく、細部まで美しく成されています。
とにかく、これだけ危険な物を商品化してしまったその勇気に拍手。今後平将門を立体化した大衆向けアイテムなんて、まず発売される事は無いと思いますので、これはとっても貴重な物です。
色んな意味で、大事にした方が良いと思います。
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