通州事件(1937年7月29日)
(20080310作成)
通州事件とは、盧溝橋事件発生から3週間後の1937(昭和12)年7月29日に北平(北京)東方18kmにある通州で発生した「冀東(きとう)防共自治政府」(注)中国保安隊による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて行われた日本人居留民(朝鮮半島出身者を含む)に対する大規模な虐殺事件。殺害方法がきわめて残虐であったことから、「通州虐殺事件」、「第二の尼港事件」とも言われる。
(注)「冀東(きとう)防共自治政府」
通州を首都とし、1935(昭和10)年、早稲田大学に留学経験を持つ親日家の殷汝耕が南京政府から離脱して創設した政権で、1万余の冀東保安隊を保有していた。ちなみに、この保安隊は1933(昭和8)年塘沽(タンクー)停戦協定に基づいて置かれたものである。保安隊とはいっても、機関銃や野砲などの重装備を有し、正規の軍隊並みであった。
事件発生の原因については、華北各地を爆撃した日本軍機が誤って通州の保安隊兵舎を爆撃したことへの報復との説が一般的であるが、近年、反乱の首謀者であった張慶餘の回想録(「冀東保安隊通県決起始末記」(元国民党将領抗日戦争体験記叢書『七七事変』所載))などにより、通州門外の兵営に駐屯していた中国側の第29軍と示し合わせた計画的なものであったとの説が有力になりつつある。
この事件は、駐留日本軍主力が北京南苑攻撃のために留守にしていた隙をついて発生した。犠牲者は、日本軍留守部隊約110名全員と婦女子を含む日本人居留民(当時日本統治下だった朝鮮半島出身を含む)約420名のうち、およそ230名に及んだといわれる。
その後1937(昭和12)年12月24日、冀東政府と日本側との間で交渉が成立、冀東政府は日本側に正式陳謝の上、120万円(当時の金額)の賠償金を支払い、事件は解決した。
廬溝橋事件以来、日本政府は不拡大方針を掲げていたが、この事件が知られるに従って、世論は激昂し、「暴支膺懲」(暴虐な“支那”を懲らしめるという意味)が叫ばれて日中関係は大きく悪化した。
そして、8月9日、上海で海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉と斎藤與蔵一等水兵が、上海の虹橋飛行場近くで中国保安隊によって殺害されるという事件が起き、また8月13日、上海租界の日本人居留民を警備・保護する目的で駐屯していた海軍上海特別陸戦隊に対して、国民党正規軍10個師団(20万人)もの大兵力を配置して、攻撃してきた。「帝國臣民ヲ保護スヘシ」として、上海租界の日本人居留民「保護」を任務としていた海軍陸戦隊は、遂に陸軍に対して派兵を要請。この第二次上海事件によって日中武力衝突は拡大していく。
戦後に開廷した極東国際軍事裁判(通称、東京裁判)において、弁護団は通州事件についての外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、この事件にふれると、日中戦争で、日本だけが悪といえなくなってしまうという思惑からか、ウェッブ裁判長によってこの申し出は却下される。しかし、通州事件の目撃者の口述書だけは受理された。この口述書は、事件の翌日に通州に居留する日本人が中国兵に襲撃されたと知らされて通州に急行し、襲撃された日本人の救出に当たった目撃者の証言で、事件現場の惨状を以下のように証言している。
「守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たはって居り、一同悲憤の極に達した。『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等がそこそこの埃箱の中や壕の中などから続々這ひ出してきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されてゐた。婦人といふ婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り、陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐へなかつた。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合はせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があつた。池の水は血で赤く染まつてゐたのを目撃した」
(桜井文雄・支那駐屯歩兵第二連隊小隊長(当時)の東京裁判における証言)
「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあつた。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があつたと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱してゐた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだやうだつた。折り重なつて死んでゐたが、一名だけは局部を露出し上向きになつてゐた。帳場配膳室では男は一人、女二人が横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうだつた。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されてゐた。階下座敷に女の屍体二つ、素つ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行つたことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素つ裸の女の屍体があつた。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されてゐた。子供は手の指を揃えて切断されてゐた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱してゐた。」
(桂鎮雄・支那駐屯第二連隊歩兵隊長代理(当時)の東京裁判における証言)
「旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されてゐた。商館や役所に残された日本人男子の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだつた。」
(萱島高・天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第二連隊長(当時)の東京裁判における証言)