みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

そうかもしれない

2005-10-27 01:05:54 | Weblog
 東京国際映画祭に私が音楽を作曲した映画『そうかもしれない』が上映されたので出かける。この映画祭が渋谷一帯の映画館を巻き込んで開始された時から毎年楽しみにしてきたが、昨年は友人のピアニスト久保田修が音楽を担当した中国映画(『見知らぬ女からの手紙』)が上映され、今年は私が音楽を担当した映画が上映された。映画が大好きな私としては、私を含めた仲間が映画というエンタイテンメント作りに関わっていること自体がとても嬉しい。
 久保田修の作った映画音楽は、ピアニストらしく、ピアノとストリングスが活躍するとても素敵なサウンド。ちょっとアンニュイでミステリアスな映画の内容にとってもふさわしかったことを覚えている(『見知らぬ女からの手紙』というタイトルもちょっとミステリアスだが)。しかし、私の担当した映画は、認知症にかかってしまう妻とそれを介護しながらも自らガンに犯され亡くなってしまう老作家の話しなので、音楽の立ち位置はとても難しい。全体がとても静かで重く流れていくので、音楽が軽くしゃしゃりでていくわけにもいかない。かといって、音楽でドラマを説明する必要もまったくない。俳優さんたちの演技がとても上手で余計な音楽はただ芝居の邪魔になるだけ。なので、私は音楽を極力減らし、最後の10分間に音楽を集中させた。なぜなら、映画のクライマックスのラスト10分間にはセリフらしいセリフがほとんどないからだ。逆に言うと、音楽を入れるならここですよと最初から監督に用意されていたような場所でもある。
 私がこの映画で使った楽器は4種類だけだ。フルート、リコーダー、ハープ、そしてギター。フルートとリコーダーは私も演奏しているが、オープニングとエンディングの一番大事なところは、私が今プロデュースしているフルフルの6人の女性たちにまかせた。そして、ギターとハープ。ある意味、フルートと組む相手としてはベストな楽器だと思う。でも、ピアノとストリングスが普通にできる表現からすると、この4つの楽器だけでは大分制約されることは確か。しかし、制約されるからと言って、フルートがピアノや弦に表現力で負けているわけにはいかない。私は、あえてこの映画の音楽の中にピアノとストリングスの音を入れることを避けた。使おうと思えば使えたこの2つの楽器を、私はあえて使わなかった。ここは、一つフルートの楽器としての能力に賭けよう。そんな気持ちで書いたスコアだ。
 一般公開はまだ先なので、すぐに見てくださいと言えないのがツライところだが、これからいろいろな機会に試写会が催されるはずだ。そんな情報もわかり次第お知らせするつもりだが、これだけは言える。見ておいてけっして損のない映画だ。見る人のそれぞれの立ち位置で感想はすべて変わるだろうが、どんな人の心にも何かを感じさせ、何かを残す映画であることは間違いない。

勘違いと甘え

2005-10-23 17:14:51 | Weblog
 音楽のプロデューサー業というものをやっていると、どうしても若い世代の優秀なタレント(=才能)を見つけだし彼らを育てようという感じになってくるのだが、最近よく感じるのは彼らの音楽に対する「勘違い」と「甘え」だ。
 洋楽という比較的新しい音楽(そりゃあ、日本に洋楽が入ってきてまだ百年ちょっとなんだから、比較的新しい音楽と言ってもさしつかえないと思う)をやっていると、親から子、孫の世代へとどんどん才能が急激に進化して(環境も変わるので)、現在の若い世代には優秀な才能を持った人がどの分野にも溢れかえっているような気がする。今日も、ショパン・コンクールに日本人の20才と21才の男性が入賞したとかいうニュースをやっていたが、問題は、そういう若い才能が音楽や芸能の本質を完全に見誤っていることだ。
 最近よくTVでやっている吹奏楽番組に見られるような勘違いは、実際のプロの現場でもよく起こる。つまり、音楽とスポーツを完全に取り違えているということ。より早く、より遠く、より高くがスポーツの本質だとすれば、音楽の本質はそれとはまったくかけ離れたところにある。スポーツでは必ず勝ち負けが起こる。どんな競技も勝たなければ意味がない。でも、音楽に勝ち負けなど存在しないし、音楽の本質は誰かをうち負かすことでも追い抜くことでもなく、逆に、どれだけ多くの人とコミュニケーションをとれるか、どれだけ多くの人を説得し感動させられるかにある。音楽というのは、およそ、スポーツの勝ち負けの世界とはほど遠いところにあるはずなのに、ああいうTV番組ではひたすら勝った負けたというところに感動を作り出し涙を誘う(音楽コンクールの問題点もまさしくこれだ)。確かに、あの番組を見て泣く人は多いと思う。でも、その涙は音楽の感動から出て来た涙ではないことを忘れてはならない。それが証拠に、ああいった番組で音楽の中身が語られることはまずない。ひたすら、勝ったか負けたというところで視聴者の興味をひこうとする。
 たぶん、私たちが持っている洋楽に対する勘違い、あるいは音楽そのものに対する勘違いは、音楽=楽器を上手に演奏すること(歌を上手に歌うこと)という誤解から生まれていると思う。それが証拠に、私がやっているフルートという楽器を小さい頃から習っている人たちのほとんどは、フルート音楽以外に何の興味も示さない。つまり、彼ら彼女らは、音楽が好きなのではなくフルートという楽器が好きなだけ。多分、他の楽器でも似たりよったりなのかもしれない。ピアノが好き、ギターが好き、ヴァイオリンが好き、でも、音楽が好きなのかはよくわからない。
 楽器が上手、歌が上手、ラップが上手、DJが上手、踊りが上手。だから何?
 問題は、そうした手段を使って何を表現するかということ。誰に向かって表現するかということ。
 楽器ができること=音楽ができることではない。何かを表現したい人は、楽器ができなくても表現するだろうし、表現する場所がなかったら、相手がいなかったらそれを自分で見つけてくるだろう。しかし、音楽大学を出た人たち、専門学校を出た人たちは、技術は学ぶけれども、その技術の使い方を根本的に理解していないし、第一、音楽は誰に向かってどうやって表現すればいいのかすらまったくわかっていない。本当は、学校は何も教えちゃくれない。どんな分野でもどんな仕事でも、そこに必要があるから生まれるモノ。ゴハンを食べるには食器が必要だから食器を作るだろうし、そこに病人がいるからクスリが必要になる。それだけのこと。音楽が必要な人必要な場所とは一体どこにあるのか考えなければ音楽家がメシが食えるはずもない。楽器が上手なだけでは、それは永遠にわからないし、一生見つけることはできないのではないのか?

 少なくとも音楽のプロを目指す人は、これだけはわかって欲しいと思う。プロとは、絶対に逃げない人のこと。アマチュアはいつでもどこにでも逃げだすことができるけれども、プロにそれは絶対に許されないことを絶対にわかって欲しいと思う。「いつでもやめられるし...」と思っている人をプロとは呼べない。いつでもどこでもやめられると思っている人は、永遠にアマチュアだし、彼ら彼女らが持っている技術を使って人を幸福にすることなんてできるはずがない。
 でも、そんな勘違いも甘えもない本当のプロの音楽家が一体どれだけいるのだろうか?

食べものが人類を救う

2005-10-20 23:03:48 | Weblog
 以前から漠然と感じていたことだが、自分で野菜を作るようになってからよくわかったことがある。それは、自分で作る野菜とスーパーや八百屋さんで買う野菜のどこが違うかということ。
 味が違うのもちろんだが(どちらが美味しいかマズイかといったレベルのことではない)、野菜の持ちが根本的に違う。ふつう、買ってくるキュウリは2、3日もすれば少ししなびてきて、一週間もすればスカスカになってしまう。要するに水分が抜けてしまうのだが、手作りのキュウリは一週間たっても水々しいママ。そう簡単に水分は抜けていかない。
 そして、もう一つの違いは匂い。
 野菜というのは、どの野菜も独特の匂いを持っている。トマトにしても、ピーマンにしてもキュウリにしてもそうだ。しかし、最近の野菜はほとんど匂わない。子供が野菜ギライな理由は昔はこの匂いに大半の原因があったのだが、最近の野菜はほとんど匂わないにもかかわらずこれだけ野菜ギライな子供が多いのは別のところに理由がある。それは食品添加物。
 小さい頃からファーストフードに慣らされた舌(というよりも親の代からそういう食生活をしているのだから当然なのだが)は、本来、生では味のしない野菜を味わうようにはできていない。ドレッシングやマヨネーズをたっぷりかけて初めて食べようという気になるのだろうが、野菜を調理する術を知らない親が子供に野菜の味を理解させられるはずもない。
 コンビニ弁当とファーストフードだけで育っている(それは言い過ぎ?ということもないのだろうナ?)今の若い世代が果たして健康なまま老後まで人生を全うできるのだろうか?
 人ごとながら本気で心配になってくる。というよりは、今生きているすべての人たちの食生活そのものが絶対にオカシイと思う。
 その人の育ち方や環境、考え方はその人の食生活、食事の仕方にもろ現れる。ハシの持ち方(スプーン、フォークの使い方)、お皿の持ち方使い方、そして、食べる時の姿勢など一つ一つにその人の性格も育ち方が如実に見えてくる。
 子供たちの食べ方を見ていると相当あまやかされて育っているのが一目瞭然。別にテーブルマナーが正しいとか正しくないという問題ではない。箸や洋食器の使い方があまりに自分勝手。きっと家庭の中でも大勢と一緒に食卓を囲む機会が少ないのだろう。一人で食べる習慣が知らず知らずのうちに習い性になってしまったのかもしれない。食べ物に対するいたわりの心も愛情もまったく感じられない。だから、食べることを楽しんでいるようにも見えない。人間が一番大切にしなければならない日常的な作業は、寝ることと食べること。寝なければ身体が休まらず、明日の生活が困難になる。それと同じように、今日きちんと食べなければ、明日の生活はきっと困難になるだろう。どころか、今日の生活も困難になってくる。
 同時に、食べ物は身体を作るだけでなく、心も作っている。朝食を食べない、いい加減な食生活を送る、無理なダイエットをすることは、私たちの心を完全に蝕む。朝食を抜けば血糖値があがらない。血糖値が上がらないということは脳に栄養が行かないということ。だから、イライラしてキレやすくなる。人間が朝食をキチンと食べれば、犯罪もガタンと減るのでは?と真面目に考える人は多い。私もその一人だ。ある意味、食べ物が人類を救う。
 ということは、食べ物は人類を滅ぼすこともできる。今、人間の食生活は明らかに滅亡への道を辿ろうとしているのでは?