みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

「障害者は感動ポルノ」

2015-09-24 18:33:26 | Weblog
私がずっと自主上映の運動を続けている映画『パーソナルソング』を参議院議員会館で今年の5月に上映した時、知り合いの議員からこう言われた。
「次はみつとみさんの番ですネ」。
つまり、今度は私自身が認知症に対する音楽の効果を検証するドキュメンタリー映画を作るべきだというエールを彼は私に送ってくれた(のだと、私は勝手に理解した)。
バカもおだてりゃ何とかで私はその気にさせられて、7月のTEDxHANEDAイベントに出演して「音楽が認知症に対していかに効果的か」をプレゼンスピーチした直後から映画作りの準備をマジに始めようとした。
しかし、その計画はすぐさま頓挫した。
別に資金集めに行き詰まったわけではない。
まだ資金集めすら始めていなかった。
理由はもっと簡単なこと。
私が「本当にこれをやる意味があるのだろうか」と自分自身に問い直し始めたからだ。
アメリカのドキュメンタリー映画『パーソナルソング』は本当によくできた映画だ。
単に患者さんたちに対する音楽の効果(の記録)をつないだだけのドキュメントではない。
音楽家(ボビー・マクファーリンが素晴らしい)、療法士、看護士、介護士、医療関係者、介護関係者、そして認知症のクスリを開発した研究者の方にまでインタビューしている。
最初から「結論ありき」のドキュメンタリー映画ではなく(けっこうそういうドキュメントは世の中に多い)、立場の違うさまざまな人の意見を盛り込んだバランスの取れた素晴らしい映画だ。
だからこそ,私はこの映画の自主上映に取り組んだのだ。
ということは、私がもし同じコンセプトの映画を作るとすればこの『パーソナルソング』を越える映画を作らなければ意味がないことになる。
しかし…と思う。
私が映画を作るとしたら、それは何のため?
私は別に映画関係者でもないし、映画作りで有名になろうと思っているわけでもない。
私の目的は、ただ一つ。
音楽がいかに認知症や介護に役立つかを世の中の人に広く理解してもらうこと。
そのためのツールとして映画が一番わかりやすいかも…というのがそもそもの発想だった。
けっして映画作りがゴールではない。
そんなことを考えながら、さまざまな人たちと話していくうちに「はやり今はまだその時期ではないナ」と思うようになっていった。
その一つのキッカケが、『障害者は感動ポルノ』という昨年12月に亡くなったコメディアンでジャーナリストのステラ・ヤングさんの記事を読んだことだった(記事はこちら http://logmi.jp/34434)。
私自身、妻の恵子が障害者になってしまって以来(障害者手帳をもらっているのだから障害者と言っても間違いではないだろう)、障害の意味とか障害者の気持は、多少なりとも理解できるようになった。
しかし…。
本当にこれは「しかし」としか言いようがないのだが、私自身は障害者ではないので、やはり本当の意味で「障害が理解できた」とは言えない。
で、『パーソナルソング』というアメリカ映画を振り返ってみる。
これまで何度も見た。
十回以上は見ただろう。
そして、つくづく思う。
この映画はけっして「感動」を売り物にはしていない、と。
だから私は共感できたのだと思う。
でも、多くの場合、障害者とか障害は、ステラさんが言われるように健常者にとって「感動」を与えてくれる格好のネタだ。
いろいろな身体や心の不都合を抱えて生きるということが「どんなに辛いだろう」と同情することで人は感動という気持を心の中に持つことができる。
涙を流すことだってできる。
しかし、…しかしである。
その「同情」という人間の感情の本当の意味を考えたことがあるだろうかと、人にも自分にも問い直してみる。
「同情とは軽蔑である」と哲学者ニーチェは言った。
つまり、「可哀想な境遇でさぞ大変だろう、さぞ辛いだろう」という憐れみの気持を持つのは人間として素直で優しい感情なのかもしれないが、その裏には、自分は大丈夫、でも、相手は大変な境遇、だから同情するという「上から目線」が根底にあるのだとニーチェは言っているのだ。
この「同情」ということばを「笑い」ということばに置き換えれば意味がもっとよくわかる。
私もその通りだと思う。
障害者であるステラさんは「障害者は感動ポルノとして健常者に消費されている」と言う。
障害者から「感動」を無理矢理はぎ取ろうとする健常者の目線を、彼女は「感動ポルノ」ということばで表現しているのだ。
まさしく「言い得て妙」だと思う。
もし私が『パーソナルソング』と同じように認知症患者への音楽による再生ドキュメンタリー映画として作るなら、おそらく世の中の人の大半が私の映画にこの「感動」を求めるはずだ。
理由が災害であれ、障害であれ、病気であれ、戦争であれ、人は「対象者」の状況が悲惨であればあるほど「感動できる」生き物なのだ。
だとすれば、私が作る映画にはできるだけ多く悲惨でミジメな場面を用意し、人々に「感動の大安売り」をしなければならないことになる。
そんなのはまっぴらごめんダ。
私は、認知症患者の人たちと一緒に生活する「普通の人たち」の「普通の生活」を映画にしたいのだ。
でも、きっとそんな映画を作っても人は感動しないだろう。
私に「感動の大安売り」はできない。
私は、現時点での映画作りを断念した。
自分が障害と身近に生活するようになって一番強く感じるのは、「普通に生きる」ことが一番大事で難しいということ。
しかし、世の中の人たちは、障害者が「普通に生きる」ことを本当に求めているのだろうかと思う。
「障害者は障害者らしくみじめに生きていなさい。私たちはアナタ方を見て感動したいんだから」。
これがステラさんの言う「障害は感動ポルノ」ということばの真の意味だろうと思う。
その意味では、一番障害者を助けなければいけない行政が一番障害者の邪魔をしているのかもしれないと思う時もある。
だって、行政がやっていることは、障害者が「普通に生活できる」ように手助けすることではなく、「障害者らしく生きる」手助けをしているに過ぎないからだ。
私が仕事としてやっている「介護現場での音楽」というのは、これまで「善意のボランティアがタダで行なう」ことが世の中の常識になっていた分野。
かつてもそうだったし、今も99%現実はそうなっている。
そして、そのことを誰も怪しみはしない。
でも、私は、この世の中の常識にあえて逆い、「人々が善意のボランティアでやっていること」を「有料でやらなければダメ」だと言い続けている(その理由はゴマンとある)。
「え? 金取るの!? ボランティアでなんでやらないの?」。
世の中は、まるで、善意というのはタダでなければ「善意でない」とでも言いたげだ。
善意とは至上の愛。
これ以上の美徳は存在しない。
その善意に金銭を絡ませるなんてトンデモないと考える人が実に多いのダ。
そんな「美徳」に異論を唱える私は「非国民」、いや介護、福祉の「敵」なのだろうか。

ステラさんは障害者だから「障害者目線」がどんなものかを本当に理解している。
障害者でもあり有名人でもある乙武さんという方は、障害者目線から故意に世の中を挑発しているように(私には)見える。
「障害者が普通に生活していてどこが悪い」。
彼の言動には、なにもそこまでやらなくても、と思うようなことも時にある。
有名人であるがゆえのスノッブさを感じる時もある。
でも、私にしてみれば彼の言動はしごくまともで理にかなっている。
それでも「五体不満足」な人は五体不満足なようにふるまわないと承知しないという人も世の中にはたくさんいるのかもしれない。
出生前診断が普及すれば障害の(恐れの)ある子を生まない選択をする親がきっと増えてくるだろう。
ただ、これも「障害者は不幸」という大前提にたっての話、だ。
「なにも障害のある子を産んでわざわざ不幸にならなくても」と人は普通に考えるのだろう。
しかし一方で、障害者と一緒に暮らしている多くの家族は、自分たちを「不幸だ」などとはまったく思っていないはずだ(私も含めて)。
なのに、世の中はそういう人たちをよってたかって「不幸な人たち」にしようとする。
だって、そうでなければみんな「感動」できないから…なんだろうな、きっと。


なんだかな…と思う

2015-09-07 08:56:32 | Weblog
自分はTVを持たない人間なのでTVというメディアを見るチャンスはほんのたまにしかない。
一週間に一度恵子のリハビリに病院に行くと受付ロビーにTVが置いてある。
まあ、どこの病院にでもよくある光景なので別に素通りしてしまえばよいのだが、先日は会計を待つ間にワイドショーらしき番組でどなたか知らないコメンテーターの男性が今回のエンブレム問題についてコメントしていたのをつい聞き耳をたててしまった。
曰く「今回の騒ぎはネットユーザーがいろいろ意見を言ったり他の(盗作とおぼしき)作品を探してくれたおかげでデザイン取り下げまで行ったんですよ。ネット民のおかげですね」と鬼の首でも取ったようなコメントをしていた(この人は一体誰なんだろう?)。
聞いていて思わず吹き出しそうになり、日本人って(というか、この人だけなのかもしれないが)どこまでオメデタイんだろうと思うと同時に「やっぱTVなんか持たなくて正解だ」と正直思った。

以前ウォルフレンという経済学者の方が書いた『人間を幸福にしない日本というシステム』という本がベストセラーになったことがあったが、このコメンテーターの意見などは、まさしくこの本の主張そのもの(だから日本はダメなんだと作者なら必ず言うはずだ)。
かのデザイナーさんが悪者にされてネットで袋叩きにあったことを、さも「正義が勝った」みたいに勘違いする人がいる一方で、「誰も責任取ってないじゃん」と正論を言う人もいる。
問題はそこからだ。
かの本で「日本人は不幸だ」と言っているポイントもまさしくこの部分。
日本では正論が正論として通った試しがないということをウォルフレン氏は主張していた。
今回の問題に置き換えれば「じゃあ、誰が一番の責任者で誰が全てを説明してくれるの?」ということになるのだが、もちろん今回の最大の責任者が誰なのかすらわかっていないじゃないかと思うし、仮にその「悪人」がわかっても責任を取らせるなんてことができる(ネコの首に鈴をつけに行ける)ほど肝の座った人がこの国にいるのだろうかという問題が「そもそも」としてある。
多分そんな度胸のある人は一人もいないだろうし、この国の人たちはきっと本当の「犯人探し」はしないだろうナとも思う。
だってもともとこの国は「責任の所在を明らかにしない」というシステムの上で国が成り立っているのだから、今さらオリンピックだからといって、「正論で世の中を仕切る」ような仕組みにはならないだろうと思う。
この国の人たちは基本的に左翼(といわれる人たち)も右翼(といわれる人たち)も結局思想的なことを争っているわけじゃあないのだと思う。
戦争中もそうだったし戦後も全く同じこと。
戦争中はお国のために戦いましょうと言っていた人たちが戦争が終わった途端に手のひらを返したようにそれまでとは正反対のことを言う。
全く同じ人間が昨日と今日で意見が百八十度変わるのだ(そういう人は未だに政治家に多いけれども)
もちろん戦争中に大方の人が正論を言いたくても言えなかったことはよくわかるし、自分の存在をリスクにさらしたくないということもよくわかるがそうなると「日本人(であるということ)は不幸だ」というかの本の主張を素直に認めてしまうことになる。
日本人はいつも「みんなで渡れば怖くない」国なのだ、ということ。
多様性とはほど遠いところにいる民族。
要は、みんなと同じところにいたいだけ(なのでは?)。
だから、クラスで「仲間はずれ」になるのを恐れるし(いじめられたくないし)、社内派閥の主流派からもはずれたくないし(出世コースからはずれたくないし)、同じ業界の横並びからはずれて仕事を失いたくないし(だから、談合はいつまでたっても減らないし、TVは相変わらず同じような番組とニュースを流すだけだし)、ヘタな記事書いて記者クラブから追い出されたくないし、…。
そして、最終的に、考えたくない結末に至る… (だから、日本の自殺率は相変わらず世界のトップクラスなのかナ?)。
要するに、いつまでたっても「みんなと同じことしかできない」国民は、誰かをいつもスケープゴートにして「こいつはオレ達とは違うから」といじめているだけなのかもしれない。
かのデザイナー氏は、陰にいる本当の「悪人」に都合よく使われ、結局捨てられてしまっただけの話なのだと私は思っている。
色とか形なんて、結局自然界以上に斬新なモノを創ることなんて人間にできるわけがないんだし(自然の造形の豊富さの方が人間の創るデザインなんかを軽く凌駕している)、似ているデザインがそこいら中にあるのなんか当たり前の話。
特に今回のような幾何学的な図形が基本のデザインなら、最初から似たものだらけなわけで、別にネット民じゃなくても「似ているものを探してくる」のはそんなに難しいことではない。
作曲家である自分だって、「おお、けっこう良い曲できた!」と思ったら「誰かの曲とほとんど同じ」なんてことはこれまでしょっちゅう(笑)。
だって、その人の脳の中にはこれまで聞いた数千、数万の曲のリストが既にあるわけだから、知らない間にどこかの引き出しから自分の脳が勝手に(良い曲のネタを)引き出してしまうなんてこと、人間だったら当たり前なのでは?
盗作か盗作でないかは、そこに「その意図があったかどうか」だけの話。
人間の創るものは、勝手に他人に似てくるものだという前提にたたなければ私たちは創作なんて作業は何もできない。
今回の「騒動」でもっと気味が悪いのは、かのデザイナー氏だけが世間からバッシングされただけで終わってしまったこと(まだ終わってはいないけれども)。
オリンピックなんていう「国家の一大事」が「個人の責任(しかも一アーティストの責任)」で片付けられてよいのかナと思う。
なんか、「出入り」があった組同士の抗争で「誰かタマ出しとけ」で無理矢理出頭させられた「下っ端」感が拭えない。
まあ、本気で突き詰めていくと結局回り回ってその「矢」が自分に向って飛んで来るのをみんな避けたいだけなのだろう。
なので、この国で「正論」を主張し続けるのは相当にタフな人でないとできない作業。
それにけっして無傷では済まない。
「自分がこれこれこう主張したら、こういう風に反論が来て、結局自分はこういう窮地に追い込まれてしまう...」。
だから「やらない」という結論と、「いや、それでもやる」という2つの選択肢のどちらを選ぶのか。
しかし、そこまで覚悟してやれる人(自分の主張と自分の生き方に責任の取れる人)がいないことには、この国はけっしてこれから先良い方向にはいかないと思うのだが…。