みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

映画館でクラシックコンサート体感

2010-07-29 15:25:38 | Weblog
というと「のだめ?」とか一瞬思ってしまうが、この映画は「シネ響」と題されたシリーズで、サイモン・ラトル、リカールド・ムーティ、ロリン・マゼールなどといった現在世界最高の指揮者たちのコンサートを5.1サラウンドというスタイルの音響システム(映画ではわりと当たり前のサラウンド効果だが)で楽しむというもの。
要するに、コンサートホールと同じ臨場感で映画になったコンサートを味わってくださいというものだが、そのシリーズの第2弾のクラウディオ・アバード指揮、ルツェルン祝祭管弦楽団によるラフマニノフのピアノ協奏曲(ピアノ:エレーヌ・グリモー)とストラヴィンスキーの「火の鳥」のプレス試写会を秋葉原で観た。
こんなことでもなければ秋葉原には滅多に行かない私だが、私にとっては3D映画よりははるかに価値のある映画だった(今でも3D映画って一体どんな価値があるの?と思っている)。
おそらく通常のコンサートでは絶対に見ることのできないショット(ホルンの指のすごいクローズアップ映像とか)がふんだんにあり私にはかなり面白い映画だったけれども、一般の人にとっては果たしてどうなのだろう?という気もした。
12月には、今いちばん注目されている若手指揮者グスタボ・ドゥダメルとシモン・ボリバル・ユースシンフォニーの演奏が上映されるというのでかなり楽しみにしている。

日本の出版社経由で韓国の出版社が出す日本語検定の問題に私の著作から引用したいので許諾をお願いしますというメールが今日届く。
同じような依頼は何度も受けているので二つ返事で OK の返信をする。
入試問題や小中学校の模試、こうした外国人のための日本語の試験などで私の文章が頻繁に使われるところを見ると「私の日本語は正しい日本語?」と思ってしまうが、若い時から第一線の新聞記者をやり現在もライターのプロをしている弟に言わせると「兄貴の文章はカタイ」ということになるそうだ。
ひょっとして、だから私の文章は入試向き?(笑)ということもないのだろうが、こういうブログの文章でも私の文章は「カタイのかナ?」(できたら皆さんのフィードバックがいただけたらと思うのだが)。


映画『レナードの朝』の作者で医師のオリバー・サックス博士の最新の著書を読んでいる。
テーマは脳と音楽の関係。
日本の脳学者で有名になったMさん(しょっちゅうTVに出ている人だ)の著書もたくさん読んだが、そのMさんよりもはるかにレベルの高い話で面白い。
私は脳学者でも何でもないので、専門的なことはうかつに言えないが、音楽という感覚を司るのは記憶や匂いの感覚と同じく大脳辺縁系というごく原始的な(つまり、進化する前のホモサピエンスの脳にもあった機能)だということはこれまでいろんな本を読んで来て理解できたつもりだ。
ただ、すべての脳の作業や意味などを理解できている人は世界中に一人もいないので私が勝手にああだこうだなんてことは言えないのだが、なんとなく最近感じるのは、最近の人間の脳には以前よりも「思い込み」が多過ぎるのではないのかナ?と思う。
自分自身もそうなのだが、「こうだ」と思い込んで行動したり、勝手に「あれはこうだ」と決めつけている行動している人が世の中にはとても多いような気がする。
別に昔から人間はそうなんだよと言われてしまえばそれっきりのような気もするが、ここ何十年のITを始めとしたインフラの整備によってこの「思い込み」というのは加速されていないだろうか?と思ってしまう。
インフラだけでなくゲームやその他のヴィジュアル媒体によっても、実際は現実に体験していないのにあたかも実体験だったかのような「疑似体験」があまりにも世の中に多くなりすぎてはいないだろうか。
昨日見た「音楽映画」もへたをすると私の中で「本当のコンサート体験」としてどこかで焼き付けられてしまうとも限らない(ドイツになんか行ったこともないのにネ)。

それに関連して思い出したのが最近聞いた「留学斡旋業者の倒産」というニュースだ。
そのニュースを聞いた時私が思ったのが、「そうか、留学というニーズは最近あまりないんだ…」ということだった。
私は二十代の半ばにアメリカに留学したのだけれども、その前の高校時代にもAFSという交換留学制度に応募したことがある。私費留学ではなく、一年間アメリカの高校に公費で留学できるというこの制度は高校時代の私にとってはかなり魅力的なもので、「ぜがひでも受かりたい」と思ってはりきって応募した。
しかし、その倍率の高さとそのレベルの高さに最後の最後で討ち死にしたことを今でもよく覚えている。
別に私がやっていることが音楽だからではないだろうけれど、外国に行って何かを勉強しに行くというのは、自分のやっていることや自分の国そのものを客観的に判断するには絶対に欠かせないことだと当時の私は思っていた。
自分のやっていること、やろうとしていることを客観的に見るという姿勢は今でも自分の基本姿勢として持っているつもりだ(あるいは、持とうと努力している)。
西洋音楽はもともと日本の文化ではないのだから、それを生活の中で根付いている国や環境に自分の身を置きながら勉強することは自分自身の将来にとって必要不可欠なことだとも思っていた。
私が留学した70年代は沖縄が日本に返還されて間もなくの時で、ドルの交換レートがまだ1ドル=290円ぐらいという今考えると円の価値がおよそ現在の1/3ぐらいしかなかった頃だ(つまり、当時私の持っていた1万円の価値は現在3千円ぐらいの価値しかないということになる)。
それよりも何よりも、70年代と今で決定的に違っていることは当時はインターネットなんかなかったことだ。
おそらく、このインターネットの存在が「外国へ留学することの意味」を薄れさせているのではないのだろうかという気がする。
インターネットの存在が世界を狭く感じさせ、外国が「遠い存在」ではなくなり、「別に外国に行く必要もない」ような錯覚(=思い込み)を起こさせているのではないのかという気がしてならない。
実際にその場に行かなければ、実際にそこで見てみなければ絶対にわかりえないことが今のインターネット社会では、あたかも「わかったような」「経験しているような」錯覚を人々に起こさせる。
メールにしても、 skypeにしてもその他のありとあらゆるコミュニケート手段が、あまりにも早くあまりにもリアルタイムに起こるために、どんな外国の人とも同じ場所でコミュニケートしているような錯覚を持ってしまうのではないだろうか。
だから、現実の会話も現実の恋愛も行う必要がないとまで思ってしまう人も出てくるのかもしれない。
今さらバーチャルな体験がどうのこうのなどという言う気はないけれど、実体験の価値が理解されないということは、逆に言うと(アイロニーに聞こえるかもしれないけれど)想像力がどんどんなくなることにつながりかねない。
バーチャルに体験することと実体験の違いをちゃんと「想像」できないというところが根本的な問題なのでは?とも思ってしまう。
外国に留学して体験できること、経験できることと、「駅前留学」では天と地ほどの違いがある。
アメリカに旅立つ前にもそれなりに英語はしゃべれるつもりだったし、それなりにアメリカ人の友達もいて理解はできているつもりだった。
しかし、現実に飛行機に乗りアメリカの飛行場に降り立った瞬間、「その違い」をイヤというほど思い知らされた。
私の英語が実際にはそれほど役に立たないこと、私の思っていたアメリカと実際に目の前にあるアメリカとの違いに私は完璧に「打ちのめされた」のだった。「わかった気になる」ことがどれほど危険なことかを思い知らされたのだった。

最近の若い人は「あまりケンカをしなくなった」とも言われている。
要するに、何かを恐れているのかもしれないし、すべてを「わかったような気になっているのかもしれない」。
どちらにせよ、「つまらない」なと思ってしまう。
私自身、これまで失敗だらけの人生だったけれども(今でも失敗し続けている)、「失敗」以上に面白いこともないと思っている(別にアイロニーではなくマジにそう思っている)。
「成功」してしまったら先がないじゃないか。
失敗しているからこそ「成功」を夢みることができる。
そんな感じでいつも「夢みて」生きているのだけれども、たまには本当の「成功」にも巡り会いたいと思っていることも確かだ(ハハハハ)。