みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

妊婦の出生前DNA検査

2012-11-17 19:50:31 | Weblog
が急速に普及するかもしれないというニュースを聞いて,こういう検査方法が確立されるのは時代の流れとしてはきっと自然な成り行きなのだろうと思う反面、本当にこれで良いのかなと思わずにはいられなかった。
ニュースでは,この検査に潜む問題を「倫理的な問題」ということばで説明していたが、この遺伝子検査の本当の問題は、クローン技術の問題と違って単なる倫理の問題なではないような気がする。
私は、この技術自体がが「神をも恐れぬ所業」だとは思わない。
もともと人間にそんな殊勝な心が残っていれば原子力エネルギーも遺伝子組み換え技術も人類は発明しようなどとは思わなかったはずだ。
要は、その目的が平和目的であれば良いなどというものでもない。
そういうことではなく、科学は歴史を発展させ「人類の幸福」に結びつくと信じてきたこと自体が人にとっての最大の問題なのだと思うし、問題はやはり私たち人間の側の生き方、考え方そのものなのではないかと思う。
ダウン症や障害のある子を産みたくないのは親として当然のこと、といった論調がこのニュースの低流にはあるような気がするが、私にはそこが一番気になって仕方がない。
「人として産まれるからには障害なんか持って産まれたくないと思う」のが当たり前だとすれば、逆に言うと「障害のある子や家族は不幸である」と決めつけていることにもなりかねない。
この意見(つまり、障害なんか持って生まれたくないという意見)そのものがなんだかな…と思うと同時に、こういう考えを持つ人自体を可哀想だとも思わずにはいられない。
障害を持った人が不幸。障害を持った人間を家族に持つ人たちは不幸。…
私はけっしてそうは思わない。
人間は五体満足でなければ幸福にはなれないと思っている人は一度身を持って「障害」というものを味わってみれば自分の考えが間違っていることに気づくはずだ。
妻の恵子が障害者手帳をもらった時、そのこと自体に私は何の感慨もなかったが、妻の病気で彼女が不幸だとも彼女を介護する自分が不幸だと思ったことは一度もない。
現実はむしろその逆で、恵子が障害を持ったことで障害者目線で世の中を見れるようになり、「私は人として生まれてきて何十年間今までこんなことも知らなかったのか!」と人や社会の大切な事柄、人間にとって大事なものを気づかされ、むしろ感謝の毎日を送っている。
もしこんな大事なことに気づかずに死んでしまったとしたらそれこそ人として不幸なことだなと思い、逆に恵子の病気に感謝すらしている。
ことは何も障害ということだけでなく、失敗をしたことのない人に失敗の意味とその大切さは到底理解できないだろう。
失敗を恐れない人ほど成功に近い人。私にはそんな気がしてならない。
同様に、五体不満足の意味を理解しない人に五体満足の本当の意味は理解できないだろう。
ダウン症のお子さんを持つ親ならその障害によって健常者がけっして見ることのできない人生の大事なポイントを幾つも気づかされているはずだと思う。
人の幸せや不幸は一人一人尺度が違う。自分が幸せだと思えば、それがすなわち「幸福」ということだし,「自分は不幸だ」と考える人は他人が何と言おうとその人は不幸なわけだ。
人はそれぞれ別な役割を持ってこの世に存在しているのだと思う。
人はそれぞれその役割を果たしながら生きているはずだが、ここで私が一番大事だと思っていることは自分目線ではなく他人目線で生きていくべきだということだ。
口では「バリアフリー」を唱えながら「一体どこが?」という社会しか作れていない日本の社会に「絆」を叫ぶ資格が本当にあるのだろうかといつも思う。
高齢者が圧倒的に多くなる社会に「障害者目線」を持たない社会なんて通用するはずもない。
別に車椅子がどうのこうのではなく、自分の意思に関係なく奇声を発したり自分の意思に関係のない行動をするような人たちを許容して一緒に暮らしていけるようになって初めて私たちは、「見えなかったもの」が見えるようになってくるのではないだろうか。
人は、そうなって初めて「絆」の意味に気づかされるだろう。
出生前遺伝子診断の技術がもし「障害は悪、不幸」という大前提に立っている科学だとしたら、人は物質文明で招いた不幸な社会をますます不幸なものにしていくだけではないのだろうか?
人それぞれ幸福観も価値観も違うのだから出生前診断が悪いとか良いとか私が決めつけるつもりは毛頭ないが、「障害者は不幸」という決めつけだけはしない方が良いと思う。
なぜなら,人は自分目線で世の中を見ている限り「見えないもの」があまりにも多いからだ。

毎日右手で文字を書く練習

2012-11-03 22:31:27 | Weblog
をしているのだけれども、一体どれだけ上手になっているのか容易に判断することはできない。
写真には9/8から11/3までの文字練習と線引き練習の成果を出したけれども、この2ヶ月の間に右肩上がりで字を書く能力が着実に伸びた、とも断定できないところがリハビリの難しさだ。
「線が安定した」とはっきり言えれば私も嬉しいのだけれども、大きな違いと言えば字の震えが少なくなったことぐらいだろうか。
本人も「安定してきた」とか「楽になった」とは言いづらいのだろう。
「うまくなった?」と自信なさげに私に聞く。
多少線の力強さは増してきているような気もするよと私は答える(そうあって欲しいという私の願望の方が強いのかも?)。
文字が少しコンパクトになってきたのは、おそらく書くことに「慣れてきた」せいなのかもしれない。
なにしろ、こうしたリハビリは数日単位で成果が出るものではなく、月単位、あるいは年単位で成長していくものなので子供の成長より目に見えづらい。
しかし、これを「やり続けない」ことには成果は絶対に出てこない。
箸で小さなドングリやコインをつまんだり、ぞうきんがけの練習(これは手のリハビリ訓練には欠かせない)などハードな練習を毎日着実にこなしている。
もちろん、ただやれば良いというものではなく、「きれいな形でやる」ことが最も重要なので、いつも私が厳しく「ダメ」を出す。
身内でダメを出したり出されれたりするのはけっこうツライが、お互い甘えていては先に進まない。
イライラするほどのろい歩みだが、こうした努力の正否は着実にどこかで実を結ぶ。