前回の話の続きです。
礼拝で教えてもらった聖書の言葉から、ヒトとヒトとの愛について引用します。
「神は愛」
ヨハネの手紙より 4.7
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
4.12
いまだかって神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うならば、神は私たちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしの内でまっとうされているのです。
引用終わり
どうやらまず、ヒトとヒトとの愛、そのアナロジーから神の愛を知るという仮説に対して、否定はできないような感じになっているようですね。
神は常に自分を愛してくれる(筈だ?)。
それを前提に無茶苦茶な生き方でも許される・・・。
そんな訳はない。あくまでも自分の心に誠実に生きることが大前提にあるというのがボンヘッファーの精神だと思います。
ではなぜ神の愛を語る前に、自分に誠実に向き合わなければならないのでしょうか。
次も先週の礼拝で教えてもらった聖書の一部分を引用します。
ヨハネによる福音書 8.31
真理はあなたたちを自由にする
イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。
「私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」
引用終わり
心の自由
先日、STAP細胞は存在しないことが世界的に確認されましたが、誰でも、真実を知ることで気持ちが楽になります。
真実の世界こそが神の世界だからではないかと私は思っています。
従って、許される範囲では、何もかもオープンにされるべきだと思うし、自由に考えモノを言える世界に生きることが大事なのです。
真理を知ることで自由になるのは自分の心です。
なにものにも束縛されない心は、全ての人にとって生きる上での原点だと思います。
もちろん、生きていくうえで社会や仕事のうえでは、一定の縛り(ルール)があるのは当然ですが、ここでは自分の心のことを言っています。
それでは、真実の世界に生きていなければどうなるのでしょう。
何事もサングラスをかけて見えるような世界、すなわちレッテルを貼ってあったりする前提条件がある世界となり、考えること全てが狭く息苦しい世界になります。何をしても楽しくない、腹がたつ、文句ばっかり言ってる世界となることでしょう。
仕事でも何でも、本来、白紙で一生懸命取り組んでいる姿は美しく、かつ楽しいはずです。
もし、そうでなければ、きっとそれは自分の心が曇っていて真実の世界に生きていないのだと思います。
誰それがどう言ったからとか、こんな破目になるなんて運命をうらんでしまうとか、その原因は素直になれない自分の心にあるのではないでしょうか。
誰にでもある心のわだかまりを捨て去った時、初めて神の存在を感じて生きている手ごたえを感じる事が出来るようになると思います。