いつもいる人
日曜の朝、4日ぶりに筋トレのジムに行くことにした。
出かけに、嫁さんに「出かけてくる」と声をかけると、どこに行くのかと聞いてきた。
「筋トレに行ってくる」と答えたら「仕事に行くのかと思った」と返ってきた。
確かに仕事に行くパターンで通っているなあ、と思う。
ジムに行くと、いつものようにいつも見かける人が次々と入ってくる。
自分は4日ぶりなのだが、その人達は自分がいないときも通って来ているのだろう。
世の中には、まるで仕事に行くようにジムに通っている人が結構いるのだ。筋トレに限らず、プールでもボルダリングでもそうだ。
ゴールドジムは梅田にあり、外国人のトレーニーをよく見かける。
だけど、彼らは日曜日にはお休みしているようだ。
これはキリスト教の安息日の関係があるのだろう。日曜日は何もせずに神の事を考える日なのだ。
今朝の新聞で面白い記事を見つけた。きっとこれに関連していると思い、筋トレの後、本屋でその本を買った。
以下、一部を引用する。
勤勉に価値がある
コリン・ジョイス
「新ニッポン社会入門 英国人、日本で再び発見する」 三賢社 1512円より引用
41ページより
今の世界で最も大きな「文化の衝突」のひとつは、勤勉であること自体に価値があると考える人と、そうではない人たちの対立だと、ぼくは思っている。
僕は後者に当てはまり、日本人は(たいていの場合)確実に前者に当てはまる。
引用終わり
ここまでの感想
新聞の書評に、この前半の部分が掲載されたのを見て興味をもったのである。
自分が休日の朝、筋トレにジムに行くのも、勤勉である事に価値があると考える日本人だからなのかもしれない。だから、誰でも趣味にも勤勉に打ち込むのだろう。
特に健康関係になると何としても続けなければならないと思い、それが今朝のジムの風景につながるのではないか、と密かに思ったのだ。
それでは勤勉に価値があると思わない文化の人ってどんな人だろうか。
著者は具体例をあげていないのだが、隣国の人なんかそうなのかもしれない。
一部の特権階級の人は、昔から労働は庶民のもので自分達は働かない事に価値を見出しているらしい。
戦後、誰もが皆、自分は特権階級の出身だと言い働くことを好んでいないのではないか。
さて、ここで新たな問題が見えてきた。
自分は仕事に行くこと、すなわち出勤するという習慣そのものに対して勤勉な態度を示しているのであるが、仕事そのものに対しては、本の著者のように不真面目だと思う。
きっと、ジムで見かける筋トレマニアや水泳マニアなども、勤勉に趣味をこなすことに対して人生の価値を見出しているのであり、仕事の優先順位は趣味よりも下なのかもしれない。
いずれにせよ、日本人は自分の生き方に対して生真面目に勤勉であるべきだと考えている人が多いのだろうと思う。
さて、著者はオックスフォード大学を卒業して、日本で高校の英語教師、ニューズウィーク日本版の記者、英紙デイリーテレグラフの特派員をこなした後、フリーランスのジャーナリストになり、日本からニューヨークに行きロンドンに戻った後、再び日本に戻ってきて、この本を書いている。
これに対して著者はどう考えているのだろう。
続けて本から引用する。
仕事の成果と長時間労働
ぼくは日本で、自分の仕事を好きだという人に出会ったことはほどんどないが、人々は長時間働くことに対してある種の屈折した誇りをいだいているようだ。
不満を口にするその裏側に、ぼくは人々が我慢比べのテストを受けているような感覚を持っているのを、あるいは「自分が必要とされている人間だ」という思いをいだいているのを感じてしまう。
イギリスであれば、仕事が好きだという人ははるかに多いが、たいていの人が労働時間は短いほうがいいと思っている。
引用終わり
感想
著者は「世界中どこを探しても、有休休暇を消化するようにと国からお達しが出る国なんて、日本以外には存在しない」とも書いている。
自分の職場でもアルバイトの人から正職員まで、誰もが平等に一生懸命働いているけど、アルバイトの人にも、働き具合をどこまで求めるかは柔軟であるべきだ。
勤勉に価値があるという共通の意識を育んできたことは尊い事であると思うけど、仕事をせずに職場で長時間いるだけの習慣は出来るだけなくしたいものだ。
とりあえず、自分の職場ではもっと有休をとりやすい工夫をしようと思っている。
そのためには、率先垂範して自分がもっと有休を消化しなければいけないから、早速今週はどこかで休みを取っていこう。