道東を発見する旅 第3の人生

他人と痛みを分かち合うことはできない、1.5人称

痛みを他人と分かち合う事はできない

闘病中の嫁さんの状態は、それなりに安定している。だが、時々、どこそこが痛いとか言われると困ってしまう。当然の話だが、身体の痛みを他人と分かち合う事は出来ない。

痛みは痛覚神経により感じるもので身体感覚である。痛みと逆の快感なども他人と分かち合うことは難しいのだろう。

これを、言い換えれば、「一人称の世界」の感覚なのだ。

医者に痛みを一生懸命訴え続けると、鎮痛剤を出してくれる。自分も離島の診療所では老人相手によく、エヌセイドーと呼ばれる鎮痛剤を処方したものだが、あくまでも2人称の世界の話である。

島民は、自分に対して美しい誤解をしてくれて、「島の先生は私の膝の痛みまで分かってくれる」なんて思われていたこともあるようだ。

島民にはたくさん鎮痛剤を処方した。だけど、自分では鎮痛剤を飲んだ経験が2,3回しかない。痛みがどれだけ楽になるのか理解できない。それでも、患者さんには、「薬で痛みは楽になりましたか?」なんて聞いていた。それがいったい意味のあることだったのだろうか?

命と生き方にかかわる人称性

新聞に掲載されていた作家の柳田邦男氏の記事に興味を惹かれたので、以下抜粋して引用します。毎日新聞5月25日朝刊「人間性喪失は無人称性から」

人の命や死について、人称性という視点から考えると、問題の本質をより明確にとらえる事が出来るようになる。

中略

一人称の生と死とは自分がどのように生き、どのような死の迎え方をするかという死生観の問題。

二人称の生と死は、愛する人の最後の日々をどう支えるかという問題と、愛する人の亡き後、どう生きるかというグリーフワークの問題の二つが問われる。

三人称の生と死は、親戚や友人、知人から無縁の人に至るまで幅広い人々の生き方と死に方の問題になるが、医療従事者、福祉従事者、教育者にとって、患者、障害者、教え子などとの関係は、単なる三人称では済まない関係がある。

引用終わり

潤いのある2.5人称の視点

さらに記事では、水俣病裁判で判決を聞いた後、行政の対応は「冷たい3人称の視点」でしかないが、ある作家が「行政に人の情けを思いやる心があれば・・・」を聞き、柳田氏は感銘したといい、自分の人称論では、患者(一人称)、家族(二人称)に寄り添う「潤いのある2.5人称」が行政に必要ではなかったかと書いている。

記事では、最近の若者による凶悪事件の背景にゲームに熱中してバーチャルの世界に浸りきっていると、現実感覚が危うくなり、世の中の人々を「無人称の視点」で見る傾向が強くなるとも書いている。

2.5人称の医療

従って、医療が2.5人称であるには、人の心を思いやる情けが必要である。絶対に患者や家族の痛みや苦しみを分かち合う事は出来ないのだが、少なくとも心を共有する手段となるのだろう。

自分が求める1.5人称の視点

現在、自分も2人称の視点で家内の闘病を支えているつもりなのだが、2人称から1.5人称の視点に至るには何が必要なのだろうか?

それは一人称の世界を考え直すことから始まると思う。

人は必ずしも自分一人で生きているわけではなく、どこかで他人や社会から支えてもらっている。それを神と呼ぶ場合があるのかもしれないが、自分以外から何らかのサポートを受けていることを意識する事で、たとえ体感は分かち合えなくとも、心を共有しようとする所から、1.5人称の視点を構築できるのではないだろうか。

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