道東を発見する旅 第3の人生

プールサイダー、組み合わせの妙、旧約の世界

プールサイダー

プールサイダーとは、飲み物のサイダーではなく、山本七平氏(1991年に逝去)の造語である。

その昔、自分が大学生だった頃、「日本人とユダヤ人」という本が一世を風靡しベストセラーとなった。本の内容は、イザヤ・ベンダサンというユダヤ人の話を山本七平氏が解説しながら、日本人とユダヤ人の文化や処世スタイルの違いを指摘して日本人に警句をうながすというものだった。

その本の一節に「プールサイダー」が出てくる。イザヤベンダサン氏がプールで泳いでいるとプールサイドに立って色々とアドバイスやコメントをしてくれる人がいるのだが、本人は金づちでまったく泳げないという設定だったと思う。(そのうち、30数年ぶりに本を購入し読み返すつもりです)。

大学生だった自分は、それを素直に信じてしまった。プールで下手くそな平泳ぎで泳ぐたびに、自分にもプールサイダーが必要なのだろうと思っていた。

水泳教室のコーチの指導力

それから20年、自分が40代の初めに一念発起して水泳教室に入会した。成人コースで数年間、本格的に水泳に取り組んだ。まったく初心者だったので初心者コースから始めて最後は上級者コースで個人メドレーを何本も泳げるようになった。

自己ベストはクロールの50メーターで30秒ちょっと、100で1分5秒から7秒くらいだっただろうか。このタイムは、実はすごく速いのだ。だけど、自分より速い人が数人いて27とか28秒で泳いでいた。30秒を切れなかったことは今でも心残りである。壁を破るために筋トレを始めて水泳を中断したまま現在に至っている。

その時の経験では、水泳教室のコーチでもいいアドバイスをくれる人は泳ぎも相当のレベルに達している人が多く、ちょっと水泳をかじったくらいのコーチでは参考になるアドバイスは貰えなかった。だから、まったく泳げないプールサイダーがいいアドバイスすることは不可能だと思う。

水の外から見えない水面下が重要

泳ぎの素人がプールサイドで泳ぎを見ていると、泳いでいる人が速いのか遅いのかさえも見当がつかないはずだ。

泳ぎのうまい人はプールサイドで見ると、ゆったりとしたフォームで楽そうに見えるため、あまり速く無さそうに見える。しかし、タイムをとると、とてつもなく速かったりする。

実は、水面下での姿勢が非常に重要で、泳ぎのうまい人は身体がまっすぐに伸ばしキックで水に浮かび、全身をくねくねとねじりながら泳いでいるのだ。手や足の動きがとてもバランスがいいのである。

40代後半の自分は、ひたすら心肺機能と上半身のパワーだけに頼って泳いでいた。泳ぎのイメージは、水面から上半身が飛び出していて、下半身はその反動で水中に沈みながら、パワーだけで泳いでいたのだろう。だから30秒の壁を越えることが出来なかったのだ。

結論は、金づちのプールサイダーという概念は大きなまやかしであり、泳げない人はコメントをすることはできないのだ。それを自ら実証したのである。

大学生だった自分は山本七平氏の比喩をさっぱり理解できないまま、何年もそのまま信じ込んでいた。今ふりかえるとちょっと恥ずかしい気もするが、人生ってそんなものだろう。

自分以外の人もプールサイダーを覚えている

ネットで検索すると、自分くらいの年代の方だろうか、どこかの大学の法学部の先生がプールサイダーについてコメントを書いておられるので引用します。
http://proftanuki.jugem.cc/?eid=165

昔、ベストセラーとなった本に『日本人とユダヤ人』というものがあります。著者は、ユダヤ人を装った日本人で、内容は、ユダヤ人ではなく日本人が書いたと思われるものです。怪しげな本なのですが、視点の置き方が面白くて、僕も結構気に入っていました。

この本の中に「プールサイダー」という言葉が出てきます。プールサイドにいて泳ぎにいろいろと、それなりに有益な(?)アドバイスやコメントをくれる人を指すそうです。これに言及した著者は、そういう中には、プールに突き落とすと金づちで全く泳げない人もいると指摘し、机上の理論で実践をしない人の落し穴を警告しています。評論家や学者がその標的のようだったのですが。

大学院に入ったころの僕にも、この傾向がありました。他人の批評の視点を借りているに過ぎないのに、偉そうにいろいろな論文の品定めをするのです。恥ずかしい話ですが、研究会での発言に、そういうところがあったと思います。

でも、修士論文を書くに至り、僕は、この「プールサイダー」状態に陥りました。考え抜いたと思っていたことが書けないのです。それは、考えが、書けるほどに成熟していなかったことにも原因がありましたが、それに加えて、書くこと自体の訓練が足りないことも災いしていました。

今でもそうですが、読者の誤解を招かないように言いたいことを的確に表現するというのは、難しいですね。ましてや、学生さんの場合には、これはほとんど初めての経験になると思います。それも、決められた時間内に決められた紙幅内で書くというのは。ですから、「書くこと」自体は、しっかりと練習しておいた方がよいように思います。

引用終わり

最近もプールサイダー現象が起こっています。

俳優の室井某さんが「首相の三権分立についての姿勢」にケチをつけているのだけど、専門家からまったくの間違いであると指摘されています。

室井さんは、どうやらマスコミの首相叩きをそのまま信じて、週刊朝日の自分の連載エッセイにおかしな内容の記事を掲載したそうです。

北村隆司  室井佑月さんの”首相批判はほとんど間違い” 

2014年03月07日 20:58    室井佑月さん「あのぉ、三権分立って知ってます?」   http://blogos.com/outline/81892/

再び山本七平氏の本に出会う

先日、いつも通勤帰りに覗く書店で「知恵の発見」という山本七平氏の新しい本?を見つけた。

山本氏が亡くなられて20年以上たつが、30年くらい前に刊行された雑誌の山本七平氏の特集号を再編集して新たに出版した本である。早速購入して読んでいるところだ。

30数年ぶり自分は、山本七平氏の著作で新たな発見をしている。

その本によれば、プールサイダーの概念は、「内村鑑三」の教えにたどりつくようだ。なぜプールサイダーになってはいけないのか、その理由まで書いてあった。

以下、「知恵の発見」、山本七平、さくら舎 2014年2月16日第1刷発行より引用する

110頁より

私の父親は内村鑑三の弟子であったから、子供のときから、彼の「金言」は、何回も聞かされた。彼は、「批評される者となれよ、批評する者となるなかれ」と言っている。

批評されるということは、その人間が一つの仕事をしたから批評されるわけだが、批評する人間というのは何もしていない。だから絶対に批評する人間になってはいけない。どんな酷評をされようと何をされようとも、批評される人間になれと言っている。

中略

誰かを批評すると、したほうがむしろ害を受ける。というのは、何も業績がないのに相手と対等のような錯覚を持ってしまうからである。否、時には相手以上だという錯覚を持ち、それでいて内容はカラだという状態におちいりやすい。

引用終わり


組み合わせの妙

だから、批評(批判)する人は、錯覚したまま内容の無い虚しい人生を過ごすことになるのだという事なのだろう。

さて、以前、自分はブログに「創造は統合」であるという記事をアップしている(2013年4月26日)。

その時、引用した本の著者によると、「創作、創造のおもしろさは、”組み合わせの妙”にある」という。http://blog.goo.ne.jp/toshimasanaka/e/e9bf48ea2952c235ec2400d70d21ab6f

若き日の自分は、プールサイダーの一節を通して、水泳の本質(専門家以外は批評できない世界)と泳ぐことの出来ない水泳評論家という組み合わせの巧みさに感銘したのだ。それで、折に触れて思い出し、いつまでも記憶に残っているのだろう。

そもそも、「日本人とユダヤ人」では、全く異なる文化や歴史をもった民族どうしを組み合わせて比較することが、とてつもない化学反応を起こして新しい世界をひろげたのだろう。

その昔、イザヤ・ベンダサンは実在の人物かどうかが論争になったことがある。実際は、実在する2人のユダヤ人と山本氏がやりとりしている過程でこの本の構想が生まれたそうだ。

今回、自分が気がついたのは、イザヤ・ベンダサンという名前は、「いざや、ペン出さん」をひねったのかな、と勝手に類推したのだけど、これが「便」になるとちょっと汚い感じになってしまいますね。

山本七平の発想の原点

なぜ、山本氏はそのような興味深い組み合わせを考える事が可能なのだろうか。自分は、山本七平氏が聖書の研究者であるということが大きな要因だと思っている。

山本七平氏は、社長兼社員一人の世界で一番小さな出版社を経営者で、もっぱら聖書学関連の書籍だけを出版していたそうだ。

「知恵の発見」には旧約聖書のエピソード、たとえばダビデの話とかユダヤ人国家の誕生から滅亡までの歴史が書物に記載されているとかのエピソードがふんだんに出てくる。

話の流れでギリシャ語は分析的でヘブライ語は包括的だという概念が出てくる。たとえばヘブライ語のアオンという言葉は、罪と罰の両方の意味があり、罪という事を犯す事自体が罰に相当すると包括的に考えるらしい。

牧師さんが、神学部でギリシャ語とヘブライ語を学びましたと言っておられたけど、一般人にはさっぱり興味を持てない内容ばかりだ。

何度も書いているが、自分は2年前から今の勤務先で毎朝、礼拝で聖書の話を聞いているので、聖書に親近感を感じるようになった。

礼拝では主に新約聖書であるが、こちらは旧約聖書が中心で、より空想の世界に近いようだ。

「知恵の発見」によると民族で想像力が大きく異なるという。例えば第2章「発想の壁」によると、「人間は空想する生きものだが、人間の空想は絶対的なものではなく、ものすごく限界があることをデモノロジー(鬼神学)が示す」そうである。

具体的には竜は世界のどこにでもいる空想の産物だが、新約聖書の「ヨハネ黙示録」に出てくる竜は、大きさが宇宙の端から端まであって、尻尾をふると星が落ちてくると書いてある。

ところが、日本の竜は、せいぜい猿沢池(さるさわのいけ)で水を飲み、雲を呼んで天に昇るくらいが限度で大きさにとんでもない差があり、日本人の空想力は小さいと結んでいる。

山本七平氏は、プールサイダー以外にも「語呂盤」というおもしろい視点があるのだが、いずれ紹介したいと思っています。

60歳過ぎてから聖書を身近に感じている自分としては、ようやく山本七平の読者としての最低要件を満たせるようになったような気がしている。

これも先週ブログに書いた、シンクロニティなのだろうと思っています。

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