コットンボール

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気がつけば…

2008-10-18 17:39:23 | 007 暮らし
cosmos.jpg気がつけば早や1週間。
5年ぶりに帰省してきた。
急死した叔父に会うために・・・
滞在はたったの3日間。
温泉も1回だけ。旧友にも連絡せず、街の様子を窺う事もなく、とんぼ帰り。
お通夜、告別式、初七日と慌ただしく終えて帰宅。

鹿児島空港からは約1時間、熊本空港からは約2時間、福岡空港からは約3時間という実家。
今回はさすがにお迎えも頼めないので途中で妹に拾ってもらう為に、福岡空港に降り立った。

名古屋からは新国際空港、通称セントレア空港から。
通常の帰省であればセントレア名物?の大浴場に入ったり、館内を見学したり、ブログ用の写真を撮ったりしたかと思うのだが、さすがに弔事なので全て差し控えた。

私の母方の叔父・叔母は、私が生まれた時はまだ、小学生~高校生。
とてもとても若い叔父・叔母達だったので、今回の叔父も兄貴のような存在。
実際、○○兄(あん)ちゃんという呼び方をしていた。

今、少し落ち着いて、改めてあんちゃんの存在の大きさに気づいたところである。



”農家の長男に学歴はいらん!”という、頑固な祖父の言いつけを守り、担任が何度も進学させて欲しいと足を運ばれた程、頭脳明晰で、本人も勉強したいという意思を持ちながらも限られた環境の中で精いっぱい、人生を全うする道を選んだ叔父。

自分の懐を温めることしか考えない政治家が多い昨今、叔父は町内会長を十数年務める中で、自分の家・田畑を担保にして、公民館を立てる為の融資を受けたという。
たとえ、町内会でも、担保がないとお金は貸せないという農協。
助役他、当然のことながら誰も個人の資産など担保に差し出すのは嫌がる。
仕方なく、叔父は自分一人だけで家・田畑を担保に公民館設立の為の融資を受けた。

この話もお通夜・告別式・初七日と済んだ後に叔父の奥様がぼそっと呟かれたのを聞いて、初めて兄弟たちもその事実を知った。

そんなエピソードは他にもたくさん聞いた。
7人兄弟、3人の子どもたちとそれぞれに、尽力を尽くしていたにも関わらず当人以外はほとんど誰も知らない。
全ての行事が終わった後に、皆がそれぞれに初めて知る事実にただただ驚くばかり。
自分の力を誇示する事もなく、みんなを力強く支えてきた叔父だった。


また、とても丁寧な仕事をする叔父だったので、後継者のいない近所の農家からもたくさんの人が、田畑を作って欲しいと依頼を受けていた。

生まれつき商魂たくましい私の母がそれを聞いた時は、「今どき、お金を払うからやってくれ」という人の方が多い時代なのに、そんなに一人で引き受けてしまって、人が良すぎる!」と叱ったそうだが、叔父は断り切れず、面倒を見ていたとも聞いた。
やたらめったら人に田畑を貸すと返って荒れるらしいので、丁寧な仕事の叔父にやって欲しいと言う人が後を絶たなかったのだそうだ。

川辺川ダム建設が中止になり、熊本県知事もだいぶつらい立場にあるらしいが、立場上、ダム推進派の位置づけにあった叔父もそのことでも責められることが大分あったのかもしれない・・・とも思う。

各行事が進む中、個性の強い次男以下が次々と騒動を起こす。
母は問題が起こるたび、つい叔父を探してしまったと言っていた。
そして、「あ、もう ○○はいないんだ。それじゃこれは私の役目なのか?」と、弟たちを仕切った。
私の祖母は早くに亡くなっているので、長女である母が皆の母親代わりのような位置づけでもあったので、どうにかとりなしはできるけれども、叔父のように冷静沈着に戒めるような事はとてもできないと母は言っていた。
きっと段々落ち着いてきて、兄弟や子ども達は、叔父の存在の大きさに嫌でも気付かされる時が来る。


私は小さい頃、大きくなったらなんになりたい?と聞かれるとよく「本屋さん!」と答えていた。
それを聞いた叔父は、何の行事でもない時に思い出したように本を買ってくれていた。
帰省すると米とか野菜とか焼酎などをいつも持たせてくれた。

他の叔父たちは、お年玉だったり、入学式や卒業式のプレゼント、遊園地や動物園や巨人軍のキャンプ地へ連れてったり。。。
そんな可愛がり方だった。
他の叔父たちは、いつも宴会になると競って私とのそういった思い出をアピールして何度も同じ話をするのだが、亡くなった叔父だけはそういったことは一切なかった。

ただ、私の事で生前、繰り返していた話しと言えば。
小学4年生の時、大好きな祖母が亡くなった。
悲しくてつらい時に、あわただしく葬式の段取りで動く大人たち。
それを見ていた私は、(今回亡くなった)叔父もさぞやつらいだろうに、現実的な話に追われ、挙句、みんなの前でお礼の挨拶までさせられる・・・

「どうしてそっとしておいてあげないの?一番悲しい人になんで人前なんかで挨拶をさせるの? お礼の言葉ぐらい変わりの人がやってあげちゃいけないの?」と言ったらしいのだ。
(よく覚えてないのだけれど(^_^;))

そのことを覚えていたのは、叔父一人。
やはり叔父だけ感性が違うのかな。
何度も感激したと言ってその話をしていたらしい。


本当にさり気なく謙虚に、でも一番多くの人を支えてきた叔父。
告別式には、新・旧の市長も本人直々に弔問頂き、市議会議員並の人数の人が弔問に訪れた。

私は最後のお別れにさよならがどうしても言えなかった。
やっとの事、最後の最後に、火葬場で一言

「じーちゃん、ばーちゃんによろしくね」

と声を振り絞って囁いた。
初孫だった私は、ばーちゃんっ子だったのでそれがやっとだった。
でも、本当は「ありがとう」の一言も言うべきだったね。

安らかに眠って下さい。合掌。