STONEWALK HIROSHIMA

ストーンウォーク・ジャパン2005のその後をお知らせします。

来訪者(2005年9月15-16日、9月23日)

2005年09月27日 | Weblog

(写真説明:戦前に原民喜の自宅があった平和記念聖堂敷地内で説明を聞いている学生たち)

先週9月15日~17日の3日間、東京経済大学の学生が原民喜の足跡を辿るために来広しました。 徐京植教授とそのゼミ生8名は、「紛争や文学の現場に出向いて平和を考える」をモットーに、昨年はアウシュビッツでもフィールドワークを行っています。 今年は原民喜の著作を読み込み、広島花幻忌の会、海老根さんの案内でフィールドワークを行いました。 学生の一人は、「広島が原爆の跡もわからないほどきれいに復興している中で、川だけがあのときの面影をたたえているような気がした。何十万人も死んだけれど、人間を数字では表せないと思う。一人ひとりにそれぞれの人生があって、大切な人がいたことを忘れないようにしたい」と、旅の感想を話してくれました。 佐々木 崇介より

ps: 9月23日には、全行程をほぼ歩かれた、井上さんが碑石に会いに来られました。


デリル・ボドレー氏の追悼式ご案内

2005年09月25日 | Weblog

                     〔ピースフル・トマロウズのホームページより)

デリル・ボドレー氏は9・11遺族の会、ピースフル・トマロウズの創設者の一人で、当委員会の推進力でした。 氏の追悼式のご案内をさせていただきます。

日時:9月30日、金曜日 午後1時30分

場所:モリス礼拝堂 カリフォルニア州ストックトン、パシフィック大学内

ストックトンへは、サクラメント空港利用が便利です。

遺族はビデオ上映の準備をしています。デリルさんに関するビデオまたは写真などありましたら下記の住所に送ってください。

Eva Rupp: 3733 Fourteen Mile Dr., Stockton, CA 95219 USA

デジタル写真は下記にお願いいたします。

nmangum@inreach.com

また、遺族はデリルさんの孫のセオドアのために追悼記を作る用意をしています。デリルさんに関する文章を上記の住所かE-メールアドレスにお送りください。

(アンドレア・ルブランさんからのメールより)


悲しいご報告

2005年09月23日 | Weblog

写真説明:8月4日到着式で「デオラ~平和へのあゆみ」を歌っている福岡メンバー

ストーンウォークへ心を寄せていらっしゃる皆様へ、

こんにちは。ストーンウォーク福岡の徳永です。ひさびさのメールでこういうことをお伝えするのは残念ですが。。。

今朝、ピースフル トゥモローズのアンドレア ルブランさんより、以下のメールが届きました。ピースフル トゥモローズのメンバーで「デオラ~平和へのあゆみ」の作曲者でもあるデリルボッドレーさんが昨日、お亡くなりになったそうです。オートバイの事故だそうです。私は、いまショックを受けています。

彼は、7月に短期間ではありますが、ストーンウォークに参加されました。滞在中、山口でお会いしました。3日ほどストーンウォークに参加した後、広島で数日間滞在されました。広島滞在中は、電話とファックスでやりとりをしていました。デリルさんは、「コードの入った楽譜をつくっていただけますか?」という私の願いにうれしそうに応じてくださり、ホテルの部屋で楽譜をつくってくださいました。そのデリルさんの努力のおかげで、広島の閉会式にはバイオリン、キーボードも入った素敵な演奏で歌うことができました。「このすばらしい歌を日本で広めたい」との素直な思いで、碑石が到着した広島の原爆ドーム前で、NEWS23で演奏した坂本龍一さんにCDを渡そう!として準備したのですが、あまりの人の多さに渡せなかった悔しい思い出があります。 デリルさんの訃報をお伝えしなければならないのは残念ですが、とりいそぎお知らせいたします。これから私は外出しなければならないので、訳が途中で申し訳ありません。また、帰ってから訳をしてお送りします。 歌は、ストーンウォーク福岡のホームページを開くと流れてきます。ご冥福をお祈りします。

ストーンウォーク福岡サイト http://members2.jcom.home.ne.jp/stonewalk_japan/fukuoka/

"Steps to Peace" music link(英語) http://www.peacefultomorrows.org/downloads/StepsMono.mp3

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お待たせいたしました。
アンドレアさんからのメールの全訳をお送りします。拙訳お許し下さい。

訳をしながら、ストーンウォークでのデリルさんのことが走馬灯のように頭をかけていきました。ストーンウォークには、仕事の関係で、山口県の数日間しか参加できなかったのにも関わらず、それでもはるばるアメリカから来られた想いを想像しました。宿泊所へ着くや否や、インターネットができる方法を見つけ出し、アメリカにいる学生とやりとりをなさっていました。ご多忙のデリルさんではありましたが、もっとお話したかった。。。それが心残りです。彼の平和への想いを私なりに受けとめたいと思っています。

もし、デリルさんが写っている写真をお持ちの方がいらしたら、下記のメールアドレスへ送ってください。喜ばれることと思います。
よろしくおねがいします。

徳永よしみ(福岡)


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(ピースフル トゥモローズメンバー、アンドレア ルブランさんからのメール 9月23日付)

デリル ボッドレー氏(1945~2005)を偲んで  

悲しいニュースです。あなた方の中にも、7月にストーンウォークに参加したデリルボッドレー氏をご存知の方もいらっしゃるでしょう。彼は、あの美しい曲、「デオラ~平和へのあゆみ」(日本語タイトル)の作曲者です。この歌はストーンウォークジャパンのときも日本語と英語で流れ、閉会式には広島で歌われました。デリルさんは、昨日(9月22日 奇しくも彼の誕生日)、バイクの事故でカリフォルニアにて亡くなりました。このニュースは、今朝私たちの元に届き、ピースフルトゥモローズのメンバー全員や彼を知り彼を愛していたすべての人が悲しんでいます。私たちは、もうひとりの家族を失った気持ちです。デリル氏に対する私たちの愛は深く、彼が行ったすべてに対して深く敬意を抱いています。世界は、穏健で献身的な平和の探求者(ピース シーカー)を失ってしまったのです。あなた方もこの訃報に接して悲しんでいらっしゃることと思います。

デリル氏は、2001年9月11日に当時20歳の娘ディオラさんを失い、その深い悲しみを2002年1月にアフガニスタンへ行くことで積極的な行動にかえました。アフガンでは、同じように子どもをテロで亡くした親たちに会いました。彼は、娘のディオラさんが書いた詩に曲をつけて、それを社会に分かち合いました。ピースフル トゥモローズのサイト<www.peacefultomorrows. org> を見てください。デリル氏の ことやストーンウォークジャパンの一部にもなった曲を聴くことができます。あなたの思いをそこで分かち合ってください。

この訃報は、あなた方にも大変なショックだと思います。どうぞ、この訃報を、私がアドレスが分からずに送れなかった人たちにも伝えてください。この素晴らしい男性のことを想い、悼んでください。デリル氏は、平和の名のもとに何度も日本を訪れました。彼の音楽が、平和に暮らしすべての人の平和な未来を作るために働く日本人のハートに伝わったことをとても喜んでいました。

悲しみのなかで
アンドレア ルブラン
ピースフル トゥモローズ 9.11遺族の会


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(ピースフル トゥモローズのスタッフおよび運営委員会より)

ピースフル トゥモローズのメンバーの方々へ、

ピースフル トゥモローズの創設メンバーであるデリル ボッドレー氏が、昨日、彼の60歳の誕生日にバイクの事故で亡くなった悲しいニュースをお知らせしながら、いまだにショックを受けています。デリル氏は、大きなエネルギーと茶目っ気たっぷりのユーモアと魅力をもち、素晴らしい音楽の才能がありました。

あの9月11日、デリル氏は93便に乗っていた娘のデオラさんを失いました。 その死から何日もたたないうちに、パシフィック大学のサクラメントシティカレッジの音楽と教育工学の教授である彼は、「私たちはともに平和な社会に住む方法を見つけるべきだ」と世界に語りだしました。

デリル氏は、亡き娘のためそして平和のために疲れを知らない提唱者だ、と言うならそれは控えめな表現になります。彼は、2002年1月、グローバル・エクスチェンジの代表団に加わってアフガニスタンへ赴き、アメリカの爆撃で殺された家族と会ったのです。彼は、アフガニスタンのミュージシャンと一緒に演奏し、ポータブルのキーボードで「この老人:This Old Man」を教えながら、楽しそう な子どもたちに囲まれていたことをうれしそうに語っていました。2年後の2004年1月には、アフガンへ戻って、以前出会った人々に再会し、彼らの家や生活の再建があまりなされていないことを報告したのです。

デリル氏は、さまざまな天候の中、何度も私たちと歩き(マーチし)ました。2002年4月20日、始まったばかりのピースフル トゥモローズの最初の大集会をワシントンD.Cで行ったとき、彼は “Each to Give”というオリジナ ルソングを演奏しました。また、2002年2月15日に、ニューヨーク市の身震いする寒さをものともせず、差し迫ったイラク戦争に反対する大規模の集会でピースフル トゥモローズを代表して開会のスピーチをしました。最近では、機会があればワシントンのUFP集会で話をしたいと言ってましたし、ピースフル トゥモローズの事務所のテーブルに、彼のパキスタンから来たキーボードを置いて演奏できる場所があるかどうか尋ねていました。

彼のエネルギーには限界がありませんでした。ピースフル トゥモローズが「アメリカン・フレンズ・サービス・コミティ」と協力して “Eyes Wide Open”(「目を大きく開く」)というイベ ントを開催し、軍のブーツやイラクの死者を表した一般市民の何千という靴を展示したとき、彼のトラック、“ビック バーサ”を靴の輸送に使うよう申し出てくれたり、カリフォルニア州のサンフランシスコやサクラメントでの展示会開催の手伝いをしてくれました。この展示会は、彼の助けなしには実現できなかったでしょう。 また彼は、何度も日本で話をし、最近ではストーンウォークジャパンに参加しました。 さらに、2004年にもボストンからニューヨークまでストーンウォークに参加しました。

なにより、私たちは彼の音楽を忘れないでしょう。娘の死後まもなく、彼は「平和へのあゆみ」を作曲しました。この歌は、「すべては大丈夫」という娘からのメッセージだと話していました。彼はまた、この歌を93便に搭乗していた遺族のためにホワイトハウスで開かれたレセプションでブッシュ大統領に手渡し、そしてピアノを乗っ取りその歌を歌ったのです。そのときの歌が、”Steps to Peace”(平和 へのあゆみ)で、ピースフルトゥモローズの最初のビデオのタイトルにもなり、私たちの最新版DVD、”Beyond Retribution”(報復を超えて)で紹介されています。2005年9月11日、 デリル氏はディスカバリーチャンネルの93便のドキュメンタリーにも出演して歌を披露しました。

(同時多発テロは、)私たちにもたらされた悲劇ではありましたが、それによってデリル氏と共に過ごせた時間に感謝しています。彼がより良い世界をめざして動いた娘ディオラを悼んだように、私たちも同じように彼を悼むでしょう。そして、彼は私たちの心の中にずっといることでしょう。

― ピースフル トゥモローズのスタッフおよび運営委員会より
(The Staff and Steering Committee of Peaceful Tomorrows)


デリル氏へのメッセージなどを以下のホームページで受け付けています。デリル氏をの思い出や写真があれば、送ってください。

Nabil Ashour, nabil@peacefultomorrows.org.


"Steps to Peace"  音楽のリンク先

http://www.peacefultomorrows.org/downloads/StepsMono.mp3

 

 

 

 


記録集を作りませんか

2005年09月10日 | Weblog
ストーンウォーク・2005に参加されたみなさまへ

 ご無沙汰しております。広島の佐々木です。アメリカでも日本でも自然災害の惨禍が各地で痛ましい最中ですが、みなさまいかがお過ごしですか。
 ストーンウォークが終わってから一ヶ月が過ぎました。みなさんの心の中にいろいろなものを残していってくれたと思います。自分を振り返ってみれば、失敗の連続でした。ご迷惑をかけたみなさま、ごめんなさい。
 さて、いろいろ思い出してしまいますが、本題に入ります。ストーンウォークの記録集を作りませんか。平和と和解を訴えて、アメリカと日本そして長崎・佐賀・福岡・山口・広島の各県合同で行ったこのイベントは成功し、被爆60年の行事の中でキラリと光る存在だったと思います。しかし、他県のこととなると、いまだに実際通った正確なルートすらはっきりとしません。長崎から広島まで、毎日どんなルートを通り、どこに泊まり、どんな人が参加して、どう感じたのか、まとめる必要があると思います。
 広島では、私と海老根さんが編集担当を引き受けることになりました。当面は、各県ごとに記録を編集して、そのあとに合同編集委員会で完成させるということでいかがでしょうか。ご意見をお聞かせください。

  佐々木 崇介より

アンドレア・ルブランさんからのお便り

2005年09月08日 | Weblog
                        写真説明:8月4日平和公園到着

皆さんへ 連絡ができなくて、すみません。。でも皆さんのことを考えていなかったというのではありません。 最後に誰に何を話したか、思い出せません。(ストーンウォークのウェブサイトをご覧になったと思います。)

 日本で、7月23日に私の足がケーソンの車輪に引かれて損傷したことをご存じと思います。足指の一つにひびが入っただけでしたが、挫滅の傷は、私が信じようとしていたのよりも悪い状態です。全行程の3分の2の260マイルを歩いたところで、ストーンを離れなくてはならなくなったことは、とても悲しいことでした。25日に私は車で広島へ送られ、そこで医師にかかりました。原水禁世界大会でのスピーチはなんとかこなしましたが、東京での会議(新幹線で片道5時間の道程)や長崎での最終会議には行きませんでした。一週間の間、オーガナイザーの一人が所有するひと気のない家に一人きりでいて、たいてい畳の上に布団を敷いて足を上げて横になって過ごし、ときおり松葉杖をついて歩き回っていました。

 ストーンウォークが広島に到着すると、私は一行に参加して、最後の数日間ケーソンを運転し、クロージング・セレモニーで「日本の人々への謝罪の手紙」を読み上げ、そして8月6日の夕方には原爆ドームのそばで、火傷とのどの渇きからの救済を求めながらそこで亡くなった全ての人々を追悼した灯籠が川に流されるのを見ることができました。水を飲んだ人々はその後、放射能障害によって亡くなりました。

 私は8月9日の午前中に家に着きました。足の腫れがまだひどく、到着した日にここの医師の診察を受けました。医師は腱などの状態を心配し、必ず皮膚移植が必要になると告げました。その週はメーン州で子どもたちと一緒に過ごす予定だったため、なんとか手術を遅らせようとしましたが、17日の再診(通常診療だと思っていました)に行ったところ、彼は私を入院させてしまい、足が全く床に着かないようにしてしまいました。医師らは負傷箇所を除去して、真空に保つ(ヒルのような)包帯を私の足に取りつけたので、機械や点滴にもつながれました。またおそらく飛行機の旅のために、ふくらはぎに小さな凝血ができていたので、クマジンを飲んでいます。

 27日に退院できたのは、Nissaがその週末にここを訪れていたためです。10日間もの間、足を吊って仰向けに寝ていたわけです! 幸いにも子ども達はその週のほとんどを湖のほとりで過ごすことができ、私もSilasと4日間を一緒に過ごしました。 JohnとDeirdreと彼らの生後10週間の息子のOlinはメイン州に発ってしまったので、彼らには少しの間しか会えませんでした。

 月曜日には、真空包帯を取って移植の状態を診てもらうために、再び医師のもとに戻りました。医師らは移植組織の生着を向上させるために、高圧酸素室療法を始めることに決めました。そういうわけで、毎日5時間をかけて、ポーツマスに通い、アクリル製のチューブ状タンクに横になって気圧の2倍の酸素を呼吸する治療を受けています。このとても風変わりな治療には、心構えが必要になります。幸いにも、90分の「治療」の間、DVDの視聴ができます。30分かけて「潜水」し、さらに15分程度かけて「再浮上」します。 この治療はあと5回から20回必要になるだろうと告げられています!

 大工のPeterは、まだ「古い」リビングの仕上げをしています。。壁板が配され、天窓がひとつ取りつけられ、カテドラルのような天井にする一方で、垂木は壊されて移設しなくてはいけません。そのため家具があちこちに散らばり、石膏のホコリがすごいです! 私は車椅子に乗っていますが、皮膚移植した下の組織が腫れるのを防ぐために足は上げたままです。操縦は難しいのですが、乗り切る仕方を身につけつつあります。こうしたこと全てが、私が考えていたよりもはるかに大きな事態になってしまいました。それは「もっと」悪くなり得たのです。私には足指が残っています!しばしば私は、子供たちが今にでも地雷で手足を吹き飛ばされ、誰も治療しない問い事実について考えます。人生は公平ではありません。時々理解することすら難しいほどに。

 9月10、11日の週末には、Kjellに会いたいと思っていました。10日はKjellの誕生日です。彼の子ども達には、4月以来会っていません。でもそれまでに5時間半のドライブができるようにはなっていないでしょう。彼らは仕事を離れられないので、こちらに来ることはできません。でも「これもまた過ぎ去る」、そしてうまくいけば回復してやがてまた運転ができるようになるでしょう。

 ストーンウォーク・ジャパンでの体験について、私はまだ皆さんに何も書くことができていません。本当にたくさんの事があり、それが人々の人生を変えたことを知っています!驚くべきことですが、それは本当なのです!私はまだその体験を消化しているところです。友達になった日本の方々すべてにお手紙したいと思っています。長崎のオーガナイザーの一人の方が、17日にここで一週間ほど滞在します(以前から計画されていた訪問)。友人の多少の助けも借りて、少しでも彼女を歓待できればよいのですが! 私のもとには山のように返事の必要なメールが届いています!庭の雑草は私の目の高さまで茂りました。(除草人を雇いました!)つくづくと自分自身を役立たずのように感じますが、我慢強くなろうとしています。 皆さんすべての御健康をお祈りしています。この夏がみんな過ぎ去ったのだと理解することは難しいことです。「潜水」のとき以外は自宅にいます。もっと連絡を取るように努めるつもりです。

愛情をこめて、A

藤村寛訳
平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)
ストーンウォーク・ヒロシマ