「こんな就活もうイヤだ!!」就活くたばれデモ@札幌実行委員会blog

「就活くたばれデモ」は、問題だらけの就活の現状に、異議申し立てするためのイベント!2010年11月23日開催予定!

就活くたばれデモ!無事、終了しました!

2010-11-25 04:31:15 | 日記

ここ一ヶ月ぐらいずっと準備していた就活デモですが、23日に、大きなトラブルもなくデモ行進を実行することができました(各地のデモも同様だそうです)。

 

前日の準備段階では、用意した発電機が動かないなどのトラブル(これは本当にヤバかった!)が発生しましたが、なんとか代わりのブツを用意して、CDJとスピーカーをフル稼働させることができました。リヤカーはサウンドデモにおいて、十分に実用的なものだと確信しましたw

 

今回のデモで驚いたのは、無茶苦茶メディアの取材が多かったことです。「もう参加者数を上回るんじゃないか」と思うぐらいの数。たぶん、札幌のテレビ局は全局来てたんじゃないかと思います(ちゃんと名刺をくれなかった人がいるので、正確な数は把握できませんが)。報道してもらえるのはありがたいことですが、一部ちょっとカメラが多すぎて異様な雰囲気だったのもたしか…それだけ就活の現状に対して注目が集まっているということでしょう(個人的には、UHBとNHKの取り上げ方が素敵だと思いました☆)。

 

で、デモ本体の、参加者は(人数を数えてないのでよくわかりませんが)結局3、40人ぐらいという感じでした。去年が20人ぐらいだったので、それよりは多い感じ。正直、100人ぐらい集まってほしかったんですが、やっぱり「デモ」というもんの敷居が高いのか…(実際は、とってもピースフルなお祭りなんですが…)

 

デモ行進は、予定通り、大通り、すすきのなどを回りつつ、スピーカーから爆音を流し、参加者がコールを上げたり、仮装した変態たちがはしゃいだり、参加者の一人が拡声器でフリースタイルでラップを披露したりと、大盛り上がりでした!

寒い中、参加してくれたみなさん、本当にお疲れ様でした!!

 

デモ中は、通行人の注目も集めたし(僕は直接は見てないんですが、途中タクシーの運転手さんが応援してくれたりしたみたいです)、メディアに大きく取り上げられたので、それをきっかけにこの問題について知る人が出たり、議論が起こったりすれば、デモ本体の目的としては十分に達成されたのではないかなと思います。賛否両論上等でありますw

 

また、札幌の今回のデモでは、参加した人の中から、「デモというのがこんなに楽しいものだとは思わなかった!」という声が聞かれたりしました。

 

「街の中であんなに派手なパフォーマンスをしてもいい、というのは驚きだった」

「くたばれリクルート、と言うのが快感だった」

「自分がずっと不満に思っていたことを口に出せて良かった」などなど…

 

デモというのは、確かに自分達が提起する問題の解決を目指すものですが、しかし重要なのはそれだけじゃない。参加した人達がアピールすることを楽しみ、そしてそれをきっかけにおのおのデモでアピールした問題や、それからデモというものについて考えを深めてくれることが大切だと思います。

つまり、「問題の解決」など「大きな成果」をうんぬん言わずとも、それを目指す過程自体に紛れもなく、得られるものがある、ということです。その意味で、今年の札幌のデモも、成功に終わったのではないかな、と思います。

 

デモ解散後は、北大に戻り、打ち上げをし、遅くまで騒ぎました。

 

ということで、「就活ってなんかおかしいよな!」という感情を表現し、共有できた素晴らしい勤労感謝の日でした。

 

準備から、当日の参加、報道まで、協力してくれたみなさん。

本当にお疲れ様でした!

 

またなんか騒ぎをおこしましょうww

 

(O瀧)


もはやくたばれに拘泥しない

2010-11-07 00:04:30 | 日記
どうも、飛べない豚です。
少ない時間を利用して、就活に関して徒然なるままに書いていきたいと思います。
今回は上のようなテーマで。
就活デモに関連してよく聞く批判というものがあります。
「就活を批判するなら、就活するな」或いは、「就活するなら、就活を批判するな」
というものです。
確かに、就活の当事者としての学生(自分もそうでした)からすれば、就活に何がしかの問題点を感じつつも就活に対して批判的な物言いをした瞬間、人生の全てから遠ざかってしまうような感覚を抱くことはありうることです。
まして、就活“くたばれ”なんて言ったら最期、その人は自分の人生を諦めたのも同様に思えることでしょう。
しかし、私たちが批判したいものの一つは、まさに上のような就活を所与のものとする価値なのです
もし就活というものが、本当に抗うことの出来ない自然力・制度であるならば、私たちは沈黙しなければならないでしょう。
しかし、本当にそうでしょうか?
最近、政府はじめ、企業、マスコミ等でも現行の就活システムを変えようという動き、議論が少しづつですが出てきました。
どうやら、就活に関して何らかの問題があると思っているのは私たちだけではないようです。
そういう意味では以前よりも少しは進展したかと思っています。
しかしそれだけでは足りないとも思っています。
なぜなら、議論しているのはいつも大人達だからです。
就活の一番の当事者である学生の生の声抜きに、腹に一物抱えた大人たちの議論のみで根本の問題の解決になるのでしょうか。
学生はただ受身で、選ばれるだけの道具的な存在ではありません。
人格をもち、自分で決めた人生を歩む権利をもった存在です。
就活の構造的な問題に異議申し立てをする権利は学生の側にあってしかるべきです。
就活では学生は常に「主体性」や「一歩前に踏み出す力」を要請されます。
しかし、大学生のある一時期に横並びのスタートを切って、その時期に内定を逃したら即失業者として社会に放り出される、
そんな就活制度の下で、首に輪っかを付けられた状態で、学生が本来の主体性を発揮することなどできるのでしょうか。
半ば強制的な仕方で自分の未来を人質に取られて、一歩前に踏み出す勇気を持っている学生はどれだけいるでしょうか。
社会に問題関心をもって、深く考えている学生ほど、今自分が置かれてある就活という状況に疑問を持たざるをえない状況です。
そんな中、批判的な意見すら言えない状況は端的に社会として不健全といわざるをえません。
今こそ就活の当事者である学生が、就活そのものを批判的に議論する場が必要なのではないでしょうか。
デモはそのきっかけに過ぎないと考えています。
正直に言います。
私たちはもはや“くたばれ”に拘泥しません。
なぜなら、“くたばれ”といってくたばるほど就活は単純なものではないし、現実はもっと多様だからです。
これからは就活に関わるあらゆる立場、意見をもつ人との議論を通して、共通の問題意識を模索し、
学生の側からのより建設的な訴えをしていくことを目指しています。
しかし一方で、やはり私たちは素直な感情として叫ばずにもいられないのです。
「就活くたばれ!」
と。
それは当事者の生の感情として、私たちの出発点として大切にしていきたいものなのです。

くたばれを「反復」する

2010-10-16 02:34:38 | 日記
第1回就活くたばれデモから早くも1年近く経過した。

周知の通り、私たちのしたことがネットでも多少話題となって様々な論点から議論がなされた。
デモ当事者ら自身もイベントやシンポジウム、普段の議論を経て就活に関する見識や問題の所在或いは議論の枠組みなどを整理し、考え、深化することができただろう。

個人的には①就活の当事者である学生が就活問題を議論するための窓口を作ったこと、そして②これからの就活を語る上でそれを語らなければ語るものの不誠実となるような「学生が反対した」という事実を作ったこと、この2つにデモの大きな意義があったように思う。

それらの点から言っても、O瀧氏の目論見であるデモによる「問題提起」は成功したと言っても大方良いのではないか。

ところが、第2回を開催するとなれば少なからず事情は変わってくる。
「問題提起」というだけではいささか進歩が無いし、デモの効果も前年より期待できなくなる。
この1年間の反省を踏まえある程度軸のあるコンセプトを打ち出さなければ、活動そのものの説得性すら欠くことになるからだ。
「お前ら一年間何をしていたのか」と言われても反論できない。
だから、そこらへんをもう少し話合って、デモにおいてそもそも私たちは「何を批判し」、「何を要求しようとしているのか」について改めて明確化していくことが必要になってくる。

就活を取り巻く社会の状況は大きく変わりつつある。
私たちもまた、運動変化しなければならない。

そのためには、無い内定者あるいは反就活派のみならず意見を全く異にする層(いわゆるイケイケな就活勝ち組とか)をも巻き込んで議論していくことが重要になってくるだろう。

そしてなにより忘れてはならないことは、内容においても姿勢においても過去に固執してはならないこと、
まさにそのことである。

私たちは過去の「くたばれ」を解体しつつも、現在、まさにこの瞬間において絶えず新たな「くたばれ」を反復していくべきである。

単なる過去の追想に堕してはならない。



(飛べない豚)