野老の里

奥武蔵をメインに日帰りの山歩きを中心としたブログです

ブレーキ役が必要だという話

2018年10月25日 | tokoroの日常
駅伝大会で骨折した選手の取り扱いについて世間で騒いでいるようですが、ボクはレースを止めるべきだったという意見です。そしてレースを止めようとした監督さんの判断は称賛に値します。もちろんレースを続行しようとした選手には何も非はありません。選手だったら襷を繋ぎたいと思うのが当たり前だからです。問題は選手が続行の意思を表明したときに周りがレースを中止させられなかったことです。

ボクは常々スポーツの現場では往々にしてブレーキ役がいないことが深刻な問題を招いていると思っています。特にアマチュアスポーツ(主に学校)では顕著で、真夏に行われる高校野球はその典型といってもよいでしょう。例えば投げすぎによる投手の故障は選手の意思が重視されたことによって招いているのは明らかです。甲子園という夢の舞台でプレーを続けたいという思いを止まらせるのはとても難しいことでしょう。プロであればこれからの競技人生を意識して選手本人が思いとどまる可能性も高くなりますが、競技を続けるとは限らない高校生なら身体を壊してでもやり切りたいという気持ちがあったとしても不思議ではありません。問題は選手がそのように希望したのだから身体を故障してしまったとしてもしょうがないよねという思考停止の判断です。プレー中の事故であれば故障も致し方ない面はありますが、故障する可能性が高まっているのに続けさせるのはもはや未必の故意でしょう。故障することが予測されるのにプレーを続けさせるのはスポーツとして健全なのかという議論はなされるべきです。

但し駅伝であれ、野球であれ、あるいは他のスポーツであれ、大半は人の生死には関わってきません。ボクは止めさせるべきだと思う反面、あまり大騒ぎすることでもないなと思っています。本当に深刻なのは学校の組体操であったり、もっと言ってしまえば山岳部の活動であったりします。ブレーキ役を教師が果たさなかったが故に組体操の事故で深刻な障害を負ったり、那須の雪崩のように生死に関わる事故を起こしてしまうことがあるのです。特に那須の雪崩事故は生徒の意思で登ったことがクローズアップされていましたが、雪山経験に乏しい生徒に判断させるほうが間違っています。かつて大日岳で文部科学省主催の登山研修中に事故で大学生が死亡したときは裁判で指導者の責任が認められ、国側が控訴するも責任を認める形で和解が成立しました。雪山経験のある大学生に起きた事故ですら指導者の判断ミスに対して法的責任を肯定するほど雪山登山の指導は難しいものです。ましてや高校生であれば雪山登山の是非を判断させる危険性はもっと認識されるべきでした。

ボクが学校現場に対して懸念を抱いているのは無謀ともいえる挑戦であっても続けさせるのがよいという判断をする指導者が増えているのではないかということです。確かに困難な目標を達成できれば生徒や学生にとっては自信につながるのかもしれません。例えば危険な組体操を行っている学校の教師が強制的に生徒たちに組体操を行わせているとボクは思っていません。むしろ生徒や保護者の側から困難な目標に挑戦したいという希望が多いのではないでしょうか。だからこそ学校というか教師は冷静にブレーキをかけられる役であってほしいと思うのです。社会に出れば無謀ともいえる挑戦が称賛されるよりも自己責任が強調されることのほうが多いものです。だとしたら教育機関が無謀ともいえる挑戦を勧奨するというのは社会のニーズにも反していると言えるのではないでしょうか。下らない校則で学生生活を縛っているのに、無謀ともいえる挑戦を学校として行っているというのはちぐはぐな対応です。普段の学生生活でブレーキ役を担っているのならそれ以外の部分でもブレーキ役を担うべきです。

山を歩いているとどこかで人がやっていないことをやってやろうという気持ちがエスカレートしていくことがあります。しかし遭難を防ぐには自分の中に冷静な判断を行うブレーキ役を養っていくことが必要になります。無謀と勇敢は紙一重です。意思に基づく行動を制止することを咎める風潮は強くなっています。しかしここで一旦立ち止まってブレーキ役の重要性を再認識することは必要なのではないでしょうか。
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