「武則天」のドラマの中で、
主人公を排除するために、主人公の部屋の中に、皇帝を呪い殺す道具を忍ばせられます。
これが見つかれば、主人公は必ず罰を受けて殺されます。
主人公は危うい所で助かるのです。
この時代は、
日本では舒明天皇の頃のようです。
この話を聞くと、
光仁天皇の時代を思い出します。
光仁天皇の皇后、井上皇后のお産みになられた他戸皇子は、皇太子となられていました。
772年、
井上皇后は、他戸皇太子を天皇とするために、光仁天皇を呪詛した罪で、皇后を廃されます。
他戸皇太子も、皇太子を廃され、共に幽閉されます。
井上皇后と他戸皇太子は、幽閉先で同日に崩御、薨御されます。
毒殺されたのではないかとも言われています。
他戸皇太子を廃し、
新たに皇太子となったのが、
後の桓武天皇です。
御二方は、
呪詛の濡れ衣を着せられた無実の罪で、無念の内に殺された。
と、桓武天皇はお思いになられたようです。
井上皇后の祟りが、
身内の死や、天変地異の理由とお考えになられて、
皇后位を廃された井上内親王に皇后位を復位させます。
この話はとても違和感があります。
皇后である井上皇后が、
皇太子である他戸皇太子の為に、
夫である天皇を呪殺しようとする。
そのようなことが、
本当にあったとは思えません。
他戸皇太子の言動に元々問題があり、皇太子を廃されのではないのです。
光仁天皇はご高齢で、
他戸皇太子はたとえ天皇への野望があったとしても、ただ待っていれば良かったのです。
光仁天皇は、
称徳天皇の次に天皇になられたお方です。
称徳天皇は、女性ながら、皇太子となられ、孝謙天皇として即位されました。
この時代、
皇太子は、必ず即位できたのです。
光仁天皇は、天武天皇系の天皇が続き、
ようやく天智天皇系の血統に天皇が移った最初です。
井上皇后は、
天武系である聖武天皇の皇女でした。
天武系の直系が断絶し、
皇統が天智系に移る時、
古代の例に習い、
先先代の天皇の皇女の嫁いでいる皇子を天皇に立てた。
これは、
日本では常識でした。
その頃の唐(中国)でも、それは行われていましたが、
逆に、後宮におられる皇女が殺されたり、皇女の子供が暗殺されることも当たり前に行われていたようです。
どうも、
後宮の女性や皇子を暗殺する。
無実の罪(誣告)で殺す。
という文化が、
大陸から輸入されたようです。
取り入れたのは、もちろん、藤原氏なのでしょう。
大陸では、
易姓革命が信じられていました。
王朝が滅びるのは、徳のないせい。
新たな王朝が立つのは、徳があるから。
という概念です。
ですから、皇帝を殺すのは当たり前でした。
殺されるのは、徳がなかったからだという逆点の発想も信じられていたのです。
この概念が、
天皇と、皇室を危険に晒した始めの事件。
なのかもしれません。
天皇を滅ぼそうという悪意がやってきた時代とは、
聖徳太子が活躍する少し前かもしれませんが、
堂々と姿を現し始めのは、
この時代なのかもしれませんね。
主人公を排除するために、主人公の部屋の中に、皇帝を呪い殺す道具を忍ばせられます。
これが見つかれば、主人公は必ず罰を受けて殺されます。
主人公は危うい所で助かるのです。
この時代は、
日本では舒明天皇の頃のようです。
この話を聞くと、
光仁天皇の時代を思い出します。
光仁天皇の皇后、井上皇后のお産みになられた他戸皇子は、皇太子となられていました。
772年、
井上皇后は、他戸皇太子を天皇とするために、光仁天皇を呪詛した罪で、皇后を廃されます。
他戸皇太子も、皇太子を廃され、共に幽閉されます。
井上皇后と他戸皇太子は、幽閉先で同日に崩御、薨御されます。
毒殺されたのではないかとも言われています。
他戸皇太子を廃し、
新たに皇太子となったのが、
後の桓武天皇です。
御二方は、
呪詛の濡れ衣を着せられた無実の罪で、無念の内に殺された。
と、桓武天皇はお思いになられたようです。
井上皇后の祟りが、
身内の死や、天変地異の理由とお考えになられて、
皇后位を廃された井上内親王に皇后位を復位させます。
この話はとても違和感があります。
皇后である井上皇后が、
皇太子である他戸皇太子の為に、
夫である天皇を呪殺しようとする。
そのようなことが、
本当にあったとは思えません。
他戸皇太子の言動に元々問題があり、皇太子を廃されのではないのです。
光仁天皇はご高齢で、
他戸皇太子はたとえ天皇への野望があったとしても、ただ待っていれば良かったのです。
光仁天皇は、
称徳天皇の次に天皇になられたお方です。
称徳天皇は、女性ながら、皇太子となられ、孝謙天皇として即位されました。
この時代、
皇太子は、必ず即位できたのです。
光仁天皇は、天武天皇系の天皇が続き、
ようやく天智天皇系の血統に天皇が移った最初です。
井上皇后は、
天武系である聖武天皇の皇女でした。
天武系の直系が断絶し、
皇統が天智系に移る時、
古代の例に習い、
先先代の天皇の皇女の嫁いでいる皇子を天皇に立てた。
これは、
日本では常識でした。
その頃の唐(中国)でも、それは行われていましたが、
逆に、後宮におられる皇女が殺されたり、皇女の子供が暗殺されることも当たり前に行われていたようです。
どうも、
後宮の女性や皇子を暗殺する。
無実の罪(誣告)で殺す。
という文化が、
大陸から輸入されたようです。
取り入れたのは、もちろん、藤原氏なのでしょう。
大陸では、
易姓革命が信じられていました。
王朝が滅びるのは、徳のないせい。
新たな王朝が立つのは、徳があるから。
という概念です。
ですから、皇帝を殺すのは当たり前でした。
殺されるのは、徳がなかったからだという逆点の発想も信じられていたのです。
この概念が、
天皇と、皇室を危険に晒した始めの事件。
なのかもしれません。
天皇を滅ぼそうという悪意がやってきた時代とは、
聖徳太子が活躍する少し前かもしれませんが、
堂々と姿を現し始めのは、
この時代なのかもしれませんね。