書き忘れていたことがある。
これまで読んだ伊坂作品では、問題の解決は非日常が担っていた事が多い。
『砂漠』は、そうではない。事件(問題)自体がミステリに比べて小規模だということもあるが、本作で『非日常的な解決』にこだわる西嶋の役割は、そこにはない。むしろ彼のそういう「主義・主張」が、その意図とは異なる形で力を発揮する。仲間の力を借りて。
また、非日常性を担うもう一人の南は、徹底して「明るくも控え目」な性格として描かれる。彼女もまた「自分だけ」では、問題解決をするキャラクターにはなれない。
ならば本作ではどうなっているのか。この作品では、問題を起こすのも解決するのも彼ら自身だ。無論、意識的であれ無意識的であれ、つるんでいる仲間の影響、助け、励ましがあってのことだ。そこに、これまでのような「解決を非日常に委ねざるをえない」というペシミスティックな構図は見られない。
それは、作者の大学生活を反映しているからなのか、作家としての構成の故か。
いずれにせよ、そうでなければ面白くないのだ。そのストレートさだけは、変わらない。
これまで読んだ伊坂作品では、問題の解決は非日常が担っていた事が多い。
『砂漠』は、そうではない。事件(問題)自体がミステリに比べて小規模だということもあるが、本作で『非日常的な解決』にこだわる西嶋の役割は、そこにはない。むしろ彼のそういう「主義・主張」が、その意図とは異なる形で力を発揮する。仲間の力を借りて。
また、非日常性を担うもう一人の南は、徹底して「明るくも控え目」な性格として描かれる。彼女もまた「自分だけ」では、問題解決をするキャラクターにはなれない。
ならば本作ではどうなっているのか。この作品では、問題を起こすのも解決するのも彼ら自身だ。無論、意識的であれ無意識的であれ、つるんでいる仲間の影響、助け、励ましがあってのことだ。そこに、これまでのような「解決を非日常に委ねざるをえない」というペシミスティックな構図は見られない。
それは、作者の大学生活を反映しているからなのか、作家としての構成の故か。
いずれにせよ、そうでなければ面白くないのだ。そのストレートさだけは、変わらない。