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昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

2009年6月13日からの三沢光晴

2018-02-05 22:24:49 | 読書
タイトルの本を入手し読んでいる最中である。

8年半前、自宅に帰り、いつものようにネットブラウズをしていたか、TVニュースを見ていた。「プロレスラー試合中に心肺停止 広島」という見出しを目にし「どこのインディーレスラーだろう」と思ったのを覚えている。
それがまさか、あの「三沢光晴」だなどとは夢にも思わなかった。

今、読んでいるのは前半、事故当日のドキュメントである。その日、何が起こったか、医学的にどのような判断が行われたのか。それが書いてある。
受け身の天才と評された選手が、その受け身を失敗したのではなく、それでも死んだ。
しかも、46歳という年齢は、力が衰える年齢ではあるものの、プロレスラーとしては第一線で活躍しておかしくない年齢である。

46歳。今自分がその年齢になった。
三沢光晴は、トップレスラーとして、社長として、この瞬間まで生きていた。
それは苦闘の連続であったはずで、このときも苦境の真っ只中だったであろう。
こんな形で、苦闘に幕を引くとは、思っていなかったはずだ。

色んな事を考える。
プロレスラー三沢光晴を最も間近で目撃したのは、多分、大学卒業後のいつかだ。
その日、宮城県スポーツセンターで「世界最強タッグリーグ戦」の試合が行われる。私は、大学、そして試合会場からほど近い「仙台模型」に入った。そこにひときわ大柄な男性が居た。よく見ると三沢光晴その人であった。
三沢光晴に模型趣味があることは知っていた。その年代の男性の多くがそうであったはずだ。私は、三沢に声を掛ける事はできず、店を後にした。

その後、彼は社長レスラーとして日本のプロレス界を牽引する。力道山、馬場、猪木、前田、天龍などの先輩レスラーと同じく。あるいはそれ以上の足跡を残した。そして、それほどの不世出のレスラーが、トップ選手として活躍している最中に、試合で、落命するという恐るべき事実。
試合中の事故で落命したレスラーは他にも居るが、トップ中のトップがそうなるという事例はなかった。その後も起きていない。
この事故は、日本プロレス界最大の悲劇であり続けるだろう。

人生はほんとうにそれぞれである。それぞれがそれぞれの人生を引き受けて生きるしかないのだ。それ以外、何が出来るというのだ。
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こち亀の最終回

2016-09-22 01:47:49 | 読書
連載40年、単行本最終巻となる200巻同時販売ということで、先週土曜日、住宅地からやや外れたコンビニでジャンプ本誌とコミックスを購入。
まずはジャンプ本誌から読む。
ネットでは、日常系の話、麗子と両津の仲の進展、いつもの部長の怒り「両津のバカはどこだ!」で締めてほしい等色々な希望が出ていたが、内容は御存知のとおり。
その後、コミックス版を読む。こちらの方がいつものこち亀らしいオチだった。
なんか期待はずれだなあと言う感想を私も抱いた。ジャンプ黄金期の80年代から2000年頃まで購読を続けていたので、その時期前後の話がやはり好きだ。100巻に至る前あたりが。それに比較すると、色々考えてしまう。

そして、今日あらためて両方を読み返してみた。
そうすると、ジャンプ本誌のオチはあれがベストな気がしてきた。
毎週ジャンプを購読してリアルタイムで追って来た読者には、あのオチがふさわしい。そして、コミックスの方は、私のようにジャンプ本誌の購読はとっくに卒業して、久々に読んだ読者にも受け入れやすい。単行本の最後の話としてもよい締めくくりになっている。
つまり、これは結構考え抜かれたベストの編集ではないかと思う。

そうなると、こち亀展でのエクストラ話が気になって来る。観に行く時間はない。第一鬼込みらしいし。そのうち分かる日が来るのだろうか。
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ひみつシリーズ

2016-08-20 22:20:46 | 読書
えびはら武司先生の「まいっちんぐマンガ道」を購入したことがきっかけで、学研まんが「大人のひみつシリーズ からだのひみつ」という本が出ているのを知り、ネットで購入。
2013年の出版だが、全く知らなかった。取り寄せた本も初判第一刷である。どうやら、売れ行きは芳しくないらしい。
自分が子供のころにボロボロになるまで読み倒し、隅々まで暗記し、おかげで大学受験までこの時の知識で乗り切った思い出のシリーズ。
これで得た知識が大量にあったので、理科社会分野の勉強では困る事がほとんどなかった(学校で学ぶのが初学ではないので「ああこれ知ってる」というものが多く、勉強の手間がずっと少なかった)のが非常に強みであった。もっとも、それらで得た知識が活かせない数学と英語はボロボロだったが。

自分が購読していたのは小学生までで、中学生になる頃には同じ学研でも「ムー」を読んだり、「科学朝日」を読むようになり、漫画から雑誌へと嗜好が変わっていった。
確か、大学生になる頃までに、ボロボロになったそれらをまとめて処分したように思う。

そして「大人のひみつシリーズ」を検索していて、当時の正調「ひみつシリーズ」をレビューしているサイトが多数あることを知った。
我が家では私がせがんで、シリーズが出るたびにほとんどの本を買いそろえていたが、小学校の友達などで、購読者は記憶に無い。だから、これほどコアな人気と熱をもっている人が多いことはちょっと意外だった。
(全くジャンル違いではあるが、同じように子供時代の思い出シリーズで、誰か「カックラキン大放送」をレビューしてくれないだろうか・・・)

10代の頃は鮮明に覚えていたひみつシリーズの知識は、主に「科学朝日」で上書きされ、教科書等の知識と融合し、そして、社会人となってからは、だんだんと忘れてしまっていた。レビューサイトでそのことをあらためて思い知らされた。
それでも、それらのサイトに掲載されている紹介記事や引用図版などから、当時の記憶が徐々に蘇ってきている。非常に懐かしく楽しい時間を過ごせた(最近では珍しいことだ)。

しかしなにより驚いたのは、それらのサイトが、学研まんがを「漫画」として批評していること。
自分にとっての学研まんがひみつシリーズは「努力せずに楽しみながら知識を得られるという俺得シリーズ」という極めて主観的なもの。
他の人は、それらを作家別に整理し、絵柄、キャラクター、台詞、ストーリー、起承転結のドラマ、ギャグの切れ具合といった「漫画として読んだ時におもしろいかどうか」を評価しているのだ。
自分には、この視点はなかった。確かに、絵柄の好みや、ストーリーの起伏に対する読後感など、シリーズでも好き嫌いはあったが(例えば私の好みはよこたとくお先生。後年トキワ荘グループと知り驚いた。内山安二先生のキャラ等は確かに面白いが、絵柄はあまり好みではなく、同先生のまんが入門も他の作家のそれに比べあまり良いと思えなかった、等)、そういったことを仔細に分析するような視点は持ち合わせていなかった。

しかし、あのシリーズ、ボロボロになり保管場所もないため、残しておく事は不可能だったが、内容の大半を忘れてしまった今となっては、猛烈に懐古的に読みたい気分になってしまう。あの頃は、何ページのまめちしきがどういう文章かまで全て覚えていたものだ。子供ってすごい。記憶って不思議。

恐竜のひみつや、からだのひみつ等の初期シリーズは、3回くらい買い直した気がする。表紙も取れるくらい読み倒したためだ。それでも、上記サイトを見るまで、内容等をほとんど覚えていないこと自体を忘れていた。今見ても読んだ記憶のないページもある。
逆に、変に印象に残っていることもある。終盤の「いる・いないのひみつ」など、ひみつシリーズがオカルトを扱うことにものすごい違和感があったものだ。この本だけ異色な気がし、読後感はかなりがっかりであった。要するに私は、科学知識とオカルト知識を求める媒体をそれぞれ使い分けていたのだなあと思う。

小山田いく先生の漫画はずっと取ってあるのだが、これらも取っておいていればなあと少々残念ではある。でも、この年齢になって、幼少のころ親しんだものを振り返る機会を多く与えられている気がする。40手前からの人生はいいものではないと思っているが、今年は、小山田いく先生の訃報など悲しみの中にあっても、人生の総括というか、まとめの機会を与えられているようで、それなりに意義深いように思う。





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閑談ーオタク書評:長谷川裕一と小山田いく、それとジョジョの奇妙な冒険

2014-04-20 12:49:22 | 読書
「機動戦士クロスボーンガンダム ゴースト」を買って読んでいる。
同シリーズは最初、漫画喫茶で読破した。後日談の「スカルハート」「鋼鉄の七人」は、数年前に鬱がひどく職場を休んだとき、ストレス解消のため一気買いして読んだ。
長谷川裕一は、SFドラマが上手い。惜しいのは、絵柄がモビルスーツを描くのに向いていない。彼の描線は、堅いはずのロボットが堅く見えない。
アクションシーンのコマ割りなどが上手い分、余計に惜しい。
クロスボーンシリーズに登場する「木星じいさん」ことグレイ・ストークが登場する関連エピソード「逆襲のギガンティス」「プロジェクト・エクソダス(初出タイトル「機動戦士Vガンダム外伝」)」が再録された短編も「ゴースト」と共に入手した。これも、初読は漫画喫茶である。
上記短編を読み直して、気づいた点がある。長谷川は少年チャンピオン出身である。そのせいか、絵柄や台詞運び、描線に、小山田いく、たがみよしひさの影響を強く感じるのだ。
それをネットで検索しても、指摘した記事はヒットしない。だが、かれのユーモア感覚など、やはり小山田いくの影響を強く読み取ってしまう。
例えば「逆襲のギガンティス」で、ジュドーとアムロが初対面するシーン。アムロが「えーっと、ルー・ルカさんは?」と尋ねる。ジュドーは同じコマの背景で後ろをむきながら「はーっはっはっは」と笑い、次のコマで「逃げられました」と真顔で答える。アムロは崩れた表情で「さよけ」と返す。
この流れ、特に「さよけ」という台詞で終わるところなどが、初期小山田いく作品、具体的には「星のローカス」辺りに良く似ているのだ。
全く個人的にだが、長谷川はチャンピオン読者として、小山田いくの影響を強く受けていると考える。荒木飛呂彦が初期の作画において、白土三平の影響を強く受けていたように。

さて、アニメ「ジョジョ」は、待望の第三部が始まった。
私自身は第ニ部の「完全生命」というハッタリの効いた設定が大好きなのだが、ジョジョの知名度を一気に上げ、不動の人気シリーズにしたのがこの三部。
それまで長期連載になるヒット作が無かった荒木の出世作、代表作といってよい。
私自身は小学生の時に読んだ「魔少年ビーティー」や、今や再評価されSF中編として名高い「バオー来訪者」を愛読していたので、実はジョジョシリーズにはあまり愛着が無い。リアルタイムでコミックスを買うのも、第三部の中盤で止めてしまったくらいだ。私にとっては初期作品のほうが、そのSF発想のほうが、より魅力的である。
それでもアニメのほうは見てしまう。過去2作のオープニングは、80年代ジャンプのアニメ化作品のオマージュと聞く。第一部は北斗の拳、第二部はキャッツ・アイ。さて第三部は何なのだろうか?妻は「聖闘士星矢ではないか?」と言っていたが、私は星矢の原作は愛読していたが、アニメのアレンジが好きではなくTVのオープニングを覚えていないので、何ともいえないのだ。
ところでジョジョの「ホラー作品」としての発想の端緒は「自分の先祖と因縁のあった敵が復活し、わけもわからないまま戦いに巻き込まれるというのは恐ろしいのではないか?」という点にあったという。であれば、第三部まで進むことが、このシリーズの必然であった。それまで短期連載で、ジョジョ自体も掲載順が前の方に行ったことはほとんどないというポジションだったが、第三部まで進めばこその「ジョジョ」であったことを考えると、感慨深い。
それでも私は「石仮面の謎」と「脳の隠された能力」「吸血鬼」「完全生物」といったガジェットを駆使した第二部が、今でも一番のお気に入りである。
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今度は書く気が起きない。といいつつ書評の一部を記載。

2014-04-12 23:27:31 | 読書
平日の仕事に全力を尽くしていて、ストレスが溜まると仕事以外の文章を書きたくなるけれど、週末になると、疲労蓄積で長文章を書く作業が億劫になる。
そんなわけで、活字欲は専ら読書で発散している。最近は中西準子先生の「原発事故と放射線のリスク学」をちょぼちょぼ読み進め、2/3くらい読み終わったところ。
あとでまとめて書評するつもりだけど、中西先生の特徴というか感心する点は2つ。
一つは「学者目線で書かない」こと。ここまで読んでいて、立花隆の科学系ノンフィクション本を読んでいるような気分になる。
そのくらい「大衆目線」「素人目線」で書かれている。しかも多分、御本人は計算でそうしているのではないと思う。
ある程度「分かりやすくして世間に届けたい」というのは、もうずっと変わらず抱いている思いだから、それがにじみ出るというのが理由の一つとは思うが、恐らく科学的な問題について、ここまで打算無く謙虚に思考を進められること自体が独特の個性なのだと感じる。
もう一つは、自分の関心領域に寄せた話になるが「ヒトが理解するとはどういうことか」を、研究の中に組み込んでいる。これは哲学の領域といってよく、中西先生は、科学で社会的問題に切り込むという前人未到の研究人生を切り開いて来た人だから、そういうことを自然に体現されている。「自分が理解する」ことと「他者に理解してもらう」ということ、さらにはリスク論というのは要するにある種の社会的合意を設定するためのファクトなり判断材料なりを提供するものだから、自然と社会学領域の目線も入らざるを得ない。それらをひっくるめて「ヒト集団全体が、ある問題をどのように理解し、対処していくか」そのものがテーマになっている。
一般向け科学書には、あまりこういうメタ的な視点はない。ここが面白い。
なんだか勢いに任せて、6割くらいの感想を書いてしまった。疲れたので続きはまた次回記事で。



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日本史の軽い読み物を読んで知識をためている状態。それと国立科学博物館。

2014-03-02 23:02:32 | 読書
先週末、妻の許しを得てプチ旅行で国立科学博物館を見て来たのだが、まあ疲れた。
その際に新幹線内で読むため文庫本を買ったが、日本書紀時代に関する私説といった類いで、面白いが、通説との対比が知りたいところだ。
ということで、もう少し調べてから評価をしたい。
さすがに3時間弱で日本館(2時間じっくり)と地球館(50分駆け足)見るのは無理ゲーすぎた。
すなおに30分並んで大恐竜展だけ見ればよかったと後悔。
(でも、日本史ブームの自分的には日本館常設展示の方が大事だった)
ホテルにチェックインし、休憩してからテレビを見、ラーメンを食べに行き(この日初の食事)、おやつを買いに行き、シャワーを浴びて、いつもの「情報7daysニュースキャスター」を見ようと思ったが、疲れて寝落ちしてしまい、見逃してしまった。
もう少し日程に余裕を持たせるべきだったと後悔。

疲れて一泊して、翌朝6時起きで、帰宅。11時前には帰宅した。日曜はぐったりしていた。
次の日からの仕事はハードで、週の半ばから風邪と目の痛み。
土曜日に痛みがひどくなり眼科受診。
日曜日は出勤シフトが入る可能性があったけど呼び出しなく、安静にしていた。

その間、家事とペットの世話は全部妻任せ。
申し訳なくて仕方がない。彼女も2週間前はインフルエンザで苦しんでいた。看病は不十分にしかできなかった。
1月までのハイパー状態が、さすがに肉体が悲鳴を上げた所為で落ち着いた。いまはまた昨年前半の鬱状態に戻っている。

正直,今の仕事は前任者の尻拭いと、汚い仕事の裏側を整理することと、他の機能していない部署の代替業務と、おまけに前の部署でノウハウ経験済みの新規業務の追加で、前任地よりもオーバーフローしている。元はと言えば、10数年前の計画自体に問題があったのだ。その責任を取れと迫られる偉い人は、真摯に取り組んでいる。一方、うちの偉い人は、そういう減点系の仕事を、極端に嫌がる。傷を付けられたくないと思っているのだろう。
その狭間で直属の上司が苦しんでいる。自分は事務量をこなせない。
精神的なバランスはおかしいし、体調も最悪。心は永遠に安定しないのかもしれない。
それが家庭生活に時間を割けないことに繋がっている。私は、この家で只の厄介者だ。

解決方法はわからない。今日はたっぷり寝せてもらって、少し回復したような気はする。
明日からまたきつい仕事だ。できるだろうか。わからない。
とにかく、やるしかない。
自分の今の生きる目的は、「妻とペットの生活の維持」だ。それをしなければ、自分の人生に意味はない。
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書評『トンデモニセ天皇の世界』

2014-02-09 22:08:35 | 読書
所謂現代に続く「御落胤」を名乗る怪しげな人物のみならず、歴史上の王権交代劇等にも考察を広げた内容である。
そもそも日本には南北朝時代があり、この間、2系統の皇統系譜が紡がれている。それの整理にも後世の政治的配慮が影響している。
どの天皇を正当と認めるかは明治以後にも整理がなされており、現在の皇統譜が完成している。

さてこの本は「と学会」の肩書きで著されており、デバンキングの体裁を取っている。あからさまな偽史や捏造に対する筆致は鋭いが、後段になるにつれ、異論・反論の多い分野については、筆致が鈍る。というよりも、状況を仔細に著そうとしすぎていて、構成としてわかりづらい。
これは一つには「伝説」「真相」という対の構成で多くのテーマを書くという形式的制約によるところも大きいが、著者の原田氏自身が在野の歴史学者であり、論争の只中で、決して本流とはいえない自説を持っている事と無関係ではないだろう。
すなわち、他の多くのトンデモ本シリーズであれば、論理的、科学的に誤った主張について、専門的知識を背景に論破すればよいのだが、歴史学では異論が多すぎてそうはいかない。また著者自身もひとかどの持論を有しているため「主流の考え方はこうであり、○○説にはこういった致命的な批判がされており採用は困難だ」とすっきり書く事もままならないという事情もありそうだ。
どうしても本書には、著者の持論における主観的要素が顔を出してしまい、通常のトンデモ本のような痛快さを求めづらい内容となっている感は否めない。
また、日本史に関する背景知識をそれなりに持っておかないと、やはり十分には楽しめない。
同著者の『つくられる古代史』と比較してみた。こちらはテーマを遺跡発掘に絞り込んでおり、誤字脱字が多いことを除けば、筋道がはっきりしていてわかりやすい。本来、原田氏はこういう本を書くのに適したスタイルなのであろう。

さて、古墳時代以前くらいの史跡や神社仏閣を訪ねる旅行したいと思っていたが、今は金も時間も少なく、なかなか難しい。
先週は悪夢で寝覚め際に騒ぎ立て、元妻に迷惑をかけまくりであった。
それを見かねた元妻から「泊まりがけで旅行をして気分転換したらどうか」と提案を受けた。
しかし、この冬で観に行きたいところもそんなにない。
金銭的余裕から、行く場所は関東近辺に限られる。とすれば、東京都内でそこそこ良いホテルに泊まりたいところではあるが、受験シーズンでもあり良い宿も安く泊まることがむずかしい。
そんなことを考えているうちに、南岸低気圧の被害が相当酷そうだということがわかり、結果、旅行は断念した。
いずれリベンジしたいが、これからは繁忙期に入り、休日も待機体制になることが予想される。なかなかに難しい。
ストレスと付き合うのは、本当に、難しい。

今週からは、波が鬱モードに戻ったようで,あまり仕事をがりがりやる気にはならない。周期性があるのだろう。
病気なので、長く付き合って行くしかない。我慢しすぎて不祥事や致命的な健康問題を抱えるよりはましである。
幸い、あさっては休日である。まずは明日を終えることを考えよう。
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書評『タブーすぎるトンデモ本の世界』

2014-01-06 00:04:20 | 読書
トンデモ本シリーズは初回から購入している。筆者も中学からオカルトビリーバーに片足を突っ込み始め(中ニ病というヤツだ)、大学卒業まで約10年間分の月刊『ムー』を保管していた。ある時期から同誌は広告が多くなり、又読者投稿欄が「戦士症候群」で占められる様になり、「どうもおかしい」と考え始めた。
どちらかというと、同誌の中でも最新科学の紹介記事に惹かれていた私は、次第に読書の中心を並行して購入していた『科学朝日』(現在は休刊)にシフトしていた。そういう経過を辿った筆者の立場は、おそらく山本弘会長に近い。
今回も楽しく読ませていただいたが、筆致鋭い山本会長の記事にひとつだけ引っかかる点があった。
それは同書の94ページから始まるコラム「Y染色体を守れ!」「側室制度の復活を!」ー皇室をめぐるトンデモ説という一節。
そこで紹介されているのは、1999年頃の雅子妃殿下御懐妊と流産の経緯を巡る報道に関する記事。当時、皇室を巡る過熱報道が問題とされており、宮内庁から「節度ある報道を」という意思表示がなされている。それを受けての産經新聞「産経抄」が引用・批判されている。
産経抄の記事はこうだ。「かつてコウノトリは日本のどこにもいた。それが明治の初めごろから激減し、いま野生のものは絶滅した。ただでさえ希少なコウノトリのご機嫌をそこなわないためにも、自粛と自戒をしなければならない。事態を静かに見守るときのようである」
これを受けて山本会長はこう批判する。
「皇室はコウノトリか?」「いや、これは目が点になったね。この文章を書いた奴は、皇室の方々を人間だと思っていない。もちろん神様だとも思っていない。希少なコウノトリだと思っているのだ。トキの産卵やパンダの出産と同じレバルの興味で報道していたことを、うっかり自白してしまっているのだ。」

ええー!?それは違うでしょう。
コウノトリは赤ちゃんを運んできてくれるとの寓話で有名。産経抄ではそれを受けて、日本にコウノトリが絶滅したことと、皇室でのお世継ぎ誕生がなかなか周囲の期待通りいかないことをかけているだけ(もちろん両者に因果関係は微塵もないが、要するに赤ちゃん=コウノトリ=日本では絶滅=数が少ないから運んできてくれないという連想を膨らませている)で、「事態を静かに見守り」「コウノトリのご機嫌をそこなわない」ようにして「皇室に吉報が訪れるのを待とう」という意思表示をしている、としか、私には読めない。
全然「皇室をコウノトリのような希少種動物扱いしている」なんて文章には解釈できないぞ。山本会長、大丈夫ですか?
差別報道に熱が入りすぎて筆が滑ったのだろうか。

本日はと学会関連本として、原田実氏の『トンデモニセ天皇の世界』を購入。ASIOSの『謎解き超科学』をネット注文。
余り時間もないが、暇な時間が出来たら読むことにする。
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風化するもの、しないもの

2010-12-05 23:03:56 | 読書
『旧石器遺跡「捏造事件」』(岡村道雄著,山川出版社,2010)読了。

世間的には過去のことでしょうが、なにせ地元でのこと。いまだに県議会では定期的に質問する先生がいるくらいで、ここではまだ話題となることもあるのです。
私自身、地元という事は措くとしても、もともと、自然科学との学際ジャンルとして,先史考古学にも興味があり、科学朝日等の記事を愛読していました。
中島山の接合遺跡や、埋納遺構などの記事をよく覚えています。
一方,そこにも「出土石器の形式が同年代の外国産石器と異なる」という反対意見が掲載されていました。
人類学の馬場先生も、つじつまが合わないと批判していたように思います。

私自身,「なぜ宮城県でばかり多く見つかるのか」という疑問を持っていました。
本県が特段,原人の居住に有利だったとも、開発等が頻繁だとも,考古学研究が進んでいるとも思えませんでした。
(東北大考古学は文学部内に研究室があり,歴史学の一分野という位置づけであったことから,先史考古学に得意な印象がなかった)

大学在学中,歴史に造詣の深い院生の先輩に尋ねたことがあります。
「なぜ,宮城でばかり原人級の発掘が多いのでしょう?」
先輩は,
「発掘箇所が多いから」と答えました。
日本考古学の動態を俯瞰する立場にない私としては,「そんなものかな」という感想しか浮かびませんでした。

捏造報道は,当時勤務していた部署に,月曜日に出勤したときに知りました。
昼のニュースで取り上げられているのを聞き,「何があったの?」と一人言をつぶやいたところ,隣の女子職員が「日曜日にスクープがあったんだよ」と教えてくれました。

以前読んだ科学朝日の記事が脳裏を過りました。
批判記事の一つは、新しい時代の石器の特徴である事、石器制作時の剥片が出土しないといった点を指摘し、暗に「後代の石器を埋めた捏造ではないか」と示唆しているものでした。
当時は「そんなことが可能なのか」と疑問に思っていましたが、結果はそのとおり。
様々な思いが交錯したまま、報道を追っていた記憶があります。
昨今,特に医療報道で叩かれることの多い毎日新聞ですが,このときは良い仕事をしましたね。

日本考古学が半壊したといってもよいこの事件,前半では,著者自らが発掘に参加していた座散乱木,馬場壇Aの両遺跡において,当時最新の科学的手法を用い,詳細に研究が行われた旨が書かれています。
これをもって,捏造現場にいながらにしてそれを看破できなかった専門家の抗弁と取ることもできなくはありませんが,むしろ,ここまで力を尽くした「成果」が灰燼に帰した,その虚しさに慄然とします。

さて、捏造の動機ですが、功名心ももちろんあったでしょうが、もう少し幼稚な感情に根ざしているように思います。
捏造はごく初期から行われていましたが、人を騙す快感というより「ごっこ遊び」的な感じが見て取れます。
それで、思い出されるのは藤子F先生の「ニューイヤー星探訪記」です。
独特の起源神話を持つこの星の民族が、宇宙文明の始祖であるという学説を立証するために、ごく辺境にあるニューイヤー星を訪れた一行。
現在は石器時代の暮しをしている、人の良い原住民族の示唆により、かつて高度な文明が栄えていた事を示す数々の証拠が見つかるのですが、それは、素朴な原住民族が、学者の求める内容を与えてあげたいと、捏造したものでした。
F先生のブラックジョークが背筋を冷たくする、一級のショートショートです。

もちろん、実際にあった旧石器捏造は、そんな素朴な善意によるものではないでしょう。
ただ、私は、捏造者の意図が、学者や世間を欺き、優越感に浸るというものではなく、自らを「神の手」と思い、郷土に太古の人類が居住していたというロマンを実現したいという、空想と現実の区別のつかない、未熟な精神性によるものではないかと思うのです。
いまは静かに暮らしているという捏造者の近況は、雑誌等の記事になったこともあり、ネットで検索すると、確認出来ます。
凄惨なエピソードもあり、なんともいえない気持ちにさせられます。

ただ、捏造事件一般からすると、「一見、十分な学を持たず、捏造者たりえないと思われた者が実行者だった」というのは、割と類型的です。
一緒に発掘をしていた専門家たる著者には「見抜けなかった」ことの悔しさはあるでしょうけど、まあ、人なんて古今東西そんなものだということも、また、歴史が物語る真実ではあります。





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T・Pぼん購入

2009-01-17 17:44:45 | 読書
知る人ぞ知る藤子・F・不二雄先生の名作SFです。1990年代にはアニメ化もされました。
確か兄が近所の書店で単行本2巻を買って来たのが、この作品を知る契機でした。
『ドラえもん』よりハードなSF描写で、当時小学生の私を虜にしました。
コミックスは5巻まで出ており、私は全部揃えていたのですが、中3か高1の頃、コンビニで掲載誌『コミックトム』を立ち読みした際に読んだ記憶のある話が載っておらず、「いずれ続刊が出るのだろう」と思っていたのですが、一向に出ず。
そうこうしているうちに、F先生が逝去。
ネット時代になって、5本の未収録話があることが判明。
希望コミックス全5巻を揃えているのも結構貴重らしかったのですが、未収録5話の掲載された『コミックトム』は古書市場ではプレミアだそうで。私もあのときコンビニで買っておくんだったな。

で、このほど『スペシャル版』として5話中3話が掲載され復刊!
Amazonでは、未収録話掲載巻の3巻は品切れでしたが、めでたくブッキング(復刊ドットコム)で全巻購入できました。
未収録話はこれからゆっくり読みますが、多分私がコンビニで立ち読みしたのは今回収録されていない話と思われます。
(たぶん「ひすい珠の謎」)
ネットでは「加筆修正未完のため完成原稿がなく収録できないのではないか」との設が流れています。コマ断片が販売に出されたとの情報もあるようですので、信憑性もある話かと思われますが、いずれにせよ、雑誌からの復刻でもよいので、残り2話も読んでみたいものです。

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