昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

政治ネタ

2011-01-28 23:41:38 | ものおもい
増税のことなのだけれど,社会保障費は増大するし,費用捻出のためには負担をシェアするしかない。だから増税,というのは分かる。
もっともこれは,私が無収入世帯ではないからかもしれない。国民年金しか貰っていない私の母であれば,別な主張をするだろう。

さて、通常国会がはじまり,総理は議論を尽くす旨所信表明された。
以下に、私の期待するところを記す。

民意がどういうものかというと,社会保障は手厚く,負担は軽減しろ,である。
こういった民意は合理的ではない,が,たとえ個々の選挙民が合理的に考えても,マスとなった場合や投票行動においては,その合理的な判断に従った結果が現れない。
結果,民意はいつも上記に落ち着く。
合理的な結論が「流行」になればまた別だが,それは「合理的であるが故」とは違うだろう。

さて、民意が非合理的である場合、政治家はいかにすべきか。

私は,現政権には,「次の選挙で負けることを織り込み済みで,増税法案を通す」ことを望む。
そうするしかない。

増税が必要というのは,与党も,主だった野党も,おおむね同じ認識である。
つまり,次の衆議院選挙で,自民党政権となったとしても,おそらく,民主党政権が導入した増税路線は引き継がれる。
(微修正はあるかもしれないが)
あとは「どのタイミングで実現するか」である。

増税という政策が、国のために真に正しいと思った政策なのであれば、その導入に成功したあとは、後継政権に委ね、その帰趨を見守ってもよいのではないか。
少なくとも、自らが主張する政策が実現すれば、「最悪は避けられる」という確信くらいは、あるのだろうから。


いま自分がやれば、自分が次の選挙で負ける。だから、結論を先延ばしにする。
あるいは、野党も合意の上だった、つまり増税という政策については、与野党責任に差がない。これなら次の選挙でも負けないかもしれない。
もし、政治家がそんなことを考えているとすれば、それは、実に嘆かわしい。

青臭いことを書くが、政治家が,国の将来を真剣に考えるのであれば,ここで増税が必要と判断したのだから,とにかくそれを実現すべきである。
その結果,自分が野に下り,あるいは議員の職を失ったとしても。
そのくらいの気概はないものか。
そういう気概を持てば,分かってくれる人もいるだろう。その次に期待が持てるかもしれないではないか。

私が不満なのは「現在の地位」を何としても守り抜きたいと思っているようにしか見えない,政治家諸氏の「胆力のなさ」にある。
それでよいのか,政治家よ。

タイガーマスク運動と寄付文化について(遅ればせ)

2011-01-14 22:37:41 | ものおもい
「タイガーマスク恩同」と名がついた一連の「伊達直人」その他多くのキャラクターを仮称する匿名人物からの寄付。

寄付文化が足りないと言われた日本にして,珍しいことだが,報道を契機に模倣が多発するのは,いつもの光景ではある。
はてブで紹介されていた下記2記事は,秀逸と感じる。


http://saereal.saereal.net/?eid=1587660


http://d.hatena.ne.jp/lessor/20110111/1294774406

どちらも,善意の陥穽について述べられている。
上では,善意の行使は「自己満足」でしかなく,かつ,相手からの感謝を要求する傲慢な行為であることへの強烈な自省。
下では,一連の運動が寄付文化的な何かとは異なる動機によるのではないかという直観。

筆者はどちらにも,ほぼ同意。

そもそも寄付をするならモノじゃないほうがいいに決まっている。
なのになぜモノを配るのか?日本人はどうも「現ナマ」による寄付を忌避している気がする。
「あからさますぎる」と感じるのではないか。婉曲文化の一端ではないか。

また,同運動は社会的注目を浴びる。おそらく報道に乗りたいという欲求が後押ししている。
しかも,流行に乗るという快楽も伴う。

妻にそう話しかけたら,一部反論があった。
「現金でないのは,大人が使い込むのではないかという不信感からではないか」と。

どうなのだろう?そういう心情もあるかもしれない。
もともと発端となったランドセルは,ありがちな物語としては「孫に贈る」ものだったりする。
そういう物語と,本来意図しない層へ(ひょっとしたら着服として)配分されることの忌避とが,結びついた結果かもしれない。

この文章は、結論を述べたくて書いた文章ではないが,ひとつ言えることは,この運動が「寄付文化」となることはないのだろう,ということ。
やはりこの運動,本質は「物語性への欲求」なのだろうから。
ひとつは架空の,あるいは歴史上のキャラクターがまとう「物語」への仮託。
あるいは,報道された流行現象という「現在、共有され費消されつつある物語」への合流。
そして「匿名の善意」というありがちな物語と,そこに認められている価値。

本来は,寄付は使い勝手を考えれば,まず現金,又は貨幣と交換可能な何か以外にはありえない。(困っているものを必要数きっちり,というのはまた別。)
それを選ばない時点で,本人の欲求の先は「相手」ではなく「自己満足」にある。
汚らわしいと思っても現金で寄付するのが,相手のことを純粋に考える行為に近い。

良い点は「物語は寄付へのハードルを下げることができる」という点だろう。
以前は「ホワイトバンド」がそうだった。
あれもまた,のちに,否定された。
物語は寄付へのハードルを下げるが,寄付文化は,根付かない。

つらつら考えたが,日本では「できることをお互いに配慮する」ことが美徳とされるように思う。
つまり,強烈に滅私的に相手のために何かをする,という動機付けに乏しい。
「お互い様」の精神といったらよいか。
無論,親しい隣人などのあいだで,必死に相手のためを思った行動などは出てくる。
ただ,寄付とは,やはり違うのだと思う。
寄付は,少なくとも西洋的な寄付は,「喜捨」である。それは「捨てる」のだ。「天国での平安」のために。
そういう感覚は,われわれの文化では,把握しがたい,
どうしても。

日本的な寄付は,だから,今後もこのようなものとして,続くのだろう。