21世紀中年

昭和オヤジのときめき、ひらめき、感激、嘆きを思いのままに書き連ねます

ラグビーW杯と母の死

2015-11-01 19:52:35 | 雑記帳

 ラグビーW杯の決勝VTRを見ているのだが、そうか、あれからもう1か月以上経ったのかとしみじみ思ってしまった。

 母が入院先の病院でひっそりと息を引き取ったのは、ちょうど日本対スコットランド戦が行われる日の深夜。日付が変わって間もなく、枕元の携帯が鳴った。病院からだった。

「お母さんの容態が急変しました。すぐに来てください」

 冷静な看護師の声に、すぐ行きますと返事をし、服に着替えて徒歩5分の至近距離にある病院に向かった。裏口から2階の病室に直行するといつもの開けっ放しの引き戸が閉められ、明かりがついていた。間に合わなかったかと思い、引き戸をそっと開けると、医師と看護師がいた。脇には酸素マスクと点滴の管が外された状態で母が眠っていた。そっと頬に手を当ててみた。

 「まだ、あったかいですね」

 「12時35分でした」

 「お世話になりました。ありがとうございました」

 「看護師から急変したと連絡を受け、すぐにかけつけたのですが、まもなく心肺が停止しました。苦しんだ様子もなく、安らかでした」

 確かに母の表情は安らかだった。

 それからが、目まぐるしく奇妙な1日の始まりだった。

 遺体の処置をする間、一旦、家に戻り、これからどうするか考えなければならなかった。とにかく、母を迎えるために部屋の片付けを始めた。覚悟はしていたが、いざ、その日が来ると何から手をつければいいのか考えつかない。葬式はどうするか、いやまて、その前に誰に知らせるかだ。いやいや、まずは遺体を移すことが先だろう。

 とりあえず、母が加入していたベルコに電話をした。担当者と話をしたら、マンションでしたらご自宅よりホールに移されたほうが落ち着かれるのではと勧められ、そうすることにした。葬儀については後ほど相談することにして、搬送を依頼した。

 片づけを中途で止め、母の弟に電話をした。兄弟のまとめ役だったので、ほかは知らせてくれるはずだ。次に娘にメールした。たぶん、葬儀には来られないだろうが、連絡だけは入れておいた。

 時計を見ると、葬儀屋が迎えに来る時間が近づいたのので病院に向かった。待っていると、間もなく葬儀屋が来て、その車に便乗させてもらいホールに向かった。これから母を安置する準備をするというので、車で送ってもらい一旦家に戻り、準備をすることにした。ホールには昼頃来てほしいということだった。

 家に着くと夜が明け始めた。とりあえず、風呂に入り眠気を覚まし、これからの段取りを考えることにした。

 風呂からあがり朝食のパンをかじりながら、ネットであれこれ調べ始めた。葬式にはどんなスタイルがあるのか、どのくらい費用がかかるのかまったく知識がなかった。母にはすまないが金がないので大げさなことは何もできなかった。カレンダーを確認すると、翌々日が友引だった。つまり、今晩通夜、明日告別式か、明後日通夜、明々後日告別式の2パターンしかなかった。日がたてば当然、人に知らせなければならないし、費用もかかると思い、ひっそりと行うことにした。葬儀屋の担当にはとにかく金はかけられない、人も大勢呼ぶつもりはない、簡素簡略の方法で検討してくれといっておいた。

 いろいろ調べた結果、簡単に火葬式のみ行うのが、最も金のかからない方法だった。しかし、通夜も告別式も行わないというのは、母親の兄弟が何というか。しかし、菩提寺の僧侶を呼ぶとなれば葬儀屋の話ではそれだけで軽く10万以上かかると言ってた。正直、つらい。

 そうこうしているうちに叔父から電話が入り、「明日の朝行く」と言ってきた。どうやら、母の兄弟たちは皆、明日の朝来るようだ。てことは、坊さんを呼んで通夜をやっても自分一人ということになる。決心がついた。菩提寺には知らせず、ここは火葬式のみでいこう。

 昼にホールを訪ねると広い控室に備えられた安置所に祭壇設えられ、その脇に母が寝ていた。生前通っていたデイサービスから枕花が届けられていた。線香をあげ、母の顔を見て、何もしてやれなくて申し訳ないと頭を下げた。

 葬儀屋と打ち合わせ、意向を伝えると、あっさり了承してくれた。よほどわけありと思ったようで、若い担当者は親身になって金の掛からない細やかな式を提案してくれた。ありがたかった。

 その夜、広い控室で私はたった一人の通夜を経験することになった。8時過ぎにデイサービスの施設長と担当がお参りにやってきた。

 「本当に一人なんだ」

 「はい、みな明日来るみたいです」

 病院の話や生前の思い出を30分ほど語り合い、二人が帰ってからは本当に自分一人だった。施設長が酒や寿司やつまみを大量に持ってきてくれたのは、ありがたかった。本来、飲食の持ち込みは禁止だが、「今日はほかに誰もいないから大丈夫ですよ。お風呂もありますから、ゆっくりお別れしてください」と担当者がいってくれていたので、ビールを飲み、寿司をつまんで、たった一人の通夜を始めた。

 貴重な経験といえば言えないこともないが、にぎやかなことが好きだった母に不似合いなあまりに寂しい別れではないか。もし、兄弟と絶縁していなかったら、こうはならなかっただろう。何と親不孝なことを私たち兄弟はしているのか。それでも、近所に住む兄に母の死を知らせる気は起きなかった。もし知らせたら、間違いなくひと悶着起きるのは目に見えていたし、それより「何を今さら知らせてきたんだ、勝手に葬式でもなんでもやれよ」と言われるのが容易に想像できた。それほど、兄弟関係はずぶずぶだったのだ。

 もともと母はおやじが建てた家で、兄夫婦と同居していた。ところがソリがあわず、しょっちゅうぶつかっていた。10年ほどで母は自ら家を出てしまった。本来なら兄夫婦が出ていくのが筋だが、どういうわけか母が自分の家を捨て、飛び出してしまった。私が知らされたのは出た後だった。そのころ私は仕事が大変で、親兄弟にかまっている余裕がまったくなかった。

 やがて、親父の法事の席で兄ともめ、その数年後に母が兄に家を完全に取られてしまった。いくら関心がなくても、さすがにキレた。相続人である私に何の相談もなく、兄夫婦が母から家を買い取ったことにして、自分のものにしたのである。

 兄が親の面倒さえみていたら、私は一切の相続権を放棄するすもりだったが、母が家を出た時点で考えを改め、母の面倒を見る以上、家は売るなりなんなりしても、すべて兄たちに与えるつもりはなくなっていた。ところが、それを察知したのだろうが兄夫婦は何の断りもなくさっさと家を取り上げてしまったのだ。大した財産ではないが、親父が死ぬ直前に退職金で建てた家である。

 まあ、それだけが原因ではないが、私たち兄弟は赤の他人よりも冷たい関係になっていた。当然、母に対しても冷たさは変わらず、一人暮らしの母を訪ねることは一度もなかった。したがって、私が7年前に母と同居してからのことは兄たちは一切知らない。母が乳がんになって手術したこと、転んで足の骨を折って手術して1年近くリハビリ入院していたこと、認知症になったこと、2年近く私がつらい介護をしたこと、最後は頭の中から私以外の身内が消えたこと、何も知らないのだ。

 周りはそんなことは知らないので、何と薄情な兄弟なのだろうと思ったはずだ。

 母との別れの夜、不思議と兄たちのことなど一切考えなかった。かといって母との思い出もろくに頭に蘇らなかった。たぶん、ものすごく疲れていたのだと思う。広い部屋の隅でビールをちびちびやり、テレビで日本とスコットランドのゲームを眺めていた。少し、酔いも回り、テレビを消し、横になったが、疲れてはいても眠れるはずもなかった。うとうとはするが、すぐに目が覚め線香をあげたり、ぼーとしたり、その繰り返しだった。

 やがて夜が明け、母の兄弟たちがやってきた。最初に妹夫婦、そして弟と妹が来た。道内に住む3人の兄弟だ。腹の中ではどう思ったのか想像がつくが、私が選んだ別れの儀式に一切文句をいうことはなかった。無事、最後のお別れに棺に花を手向け、火葬場に行き、最期を見送った。

 火葬場から帰って、初七日、四十九日の繰り越し法要も行わず、ホールに戻り解散した。

 なんともあっけない別れの儀式ではあったが、私はそれでいいと思った。母が知ったら、せめてお寺さんくらい呼んでよと叱られただろうが、今の私には甲斐性がなかった。申し訳ないが貧乏だった。

 間もなく四十九日である。菩提寺に出向いて、非礼を詫び、お参りに来てもらい、父が眠るお墓に納骨をすまさなければ。それにしても、ラグビーのW杯てえのは長いことやってるものだ。母が死んで1か月がたつというのに、まだ続いていたのだ。

 今日、ニュージーランドが優勝し、長い戦いの幕が下りた。日本が3勝したのがなんだか遠い昔のことのように思える。

 


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