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21世紀中年

昭和オヤジのときめき、ひらめき、感激、嘆きを思いのままに書き連ねます

佐村河内問題と同情色眼鏡

2014-02-07 21:38:17 | 雑記帳
 佐村河内氏のゴースト報道が激化しているが、佐村氏を非難すればするほど、いたたまれない気持ちになってくる。彼が被爆者2世の難聴障害者であることから、日本のベートーベンともてはやし、コンサートは日本各地でひっぱりだこだった。しかし、今回のカミングアウトにより、彼の音楽(たとえ別人が作曲したにせよ)は、完全に色あせてしまった。

 正直、彼の楽曲は一度もまともに聞いたことがないのだが、それなりの水準にあったことは確かだろう。しかし、彼が作曲は自分ではないとカミングアウトし、ゴーストの作曲者が名乗り出たことで、彼は攻撃の矢面に立たされた。自業自得ではあるが、非難が「難聴は嘘」など、あらぬ方向にむかっていることが情けない。非難するのは結構だが、それでは非難する方々は彼の作品の何が良くて評価していたのか。それを考えるとなんだか切なくなってくる。

 障害を売り物にしたと非難するのは結構だが、障害を買い物した方は一体どういう神経をしているのかといいたい。結局は音楽の良しあしなど二の次で、障害に対する同情にすぎなかったのではないか。

 彼の音楽性が高いか低いかはこの際、置いておくとして、障害が作品の付加価値となっている現状はなんとかならないものか。目が見えなかろうが、耳が聞こえなかろうが、要は発信される音楽が素晴らしいか否かしかない。

 スティービーワンダーを同情という色眼鏡で見ている人はあまりいないだろう。

 確かに佐村河内氏の場合、色眼鏡で見られることを前提に音楽を発信し、受ける側も色眼鏡で見ていた。まさに一蓮托生ではないのか。もし、佐村河内氏のゴーストが発覚しても、ゴースト作品だろうがなんだろうが楽曲は素晴らしいと評価が変わらなければ、著作権だけの問題になる。彼が本当は聞こえるとか、そんなことはどうでもいいことだ。同情を裏切ったなど、それこそ論外だ。

 大体、タレントやスポーツ選手、政治家の著作のほとんどがゴーストであることは、誰もが知っていることだ。それが障害者であったとしても同じことではないのか。同情という色眼鏡こそ、恥るべき行為ではないのか。

 

 

 
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