「日本に来たがってたの、大勢いたんだ」~大半、自由意志で居住 在日朝鮮人のうち戦時徴用は245人

2006年04月29日 | 支那朝鮮関連
朝鮮人「強制連行」問題とは何か

「人さらい」同然の連行、「使い捨て」さながらの酷使、それに堪えかねて逃亡する朝鮮人……しかし、そうした「強制連行」論は、あまりにも戦時動員や労務事情と違っている。

『明日への選択』編集長 岡田邦宏



ゆるやかだった朝鮮の戦時動員

 では、この「強制連行」問題を検証する際に、踏まえられるべき事実とは何であろうか。

 一つは朝鮮に対しては内地と比較してかなり緩やかな戦時動員が実施されたという事実である。昭和十四年、前年に成立していた国家総動員法に基づいて国民徴用令が発せられ、戦時動員が開始される。しかし、朝鮮ではこの国民徴用令が三段階にわたって緩やかに実施された。

 まず、同年九月から「自由募集」という形で戦時動員が始まる。これは、炭坑、鉱山などの内地の事業主が厚生省の認可と朝鮮総督府の許可を受け、総督府が指定する地域で労務者を募集し、それに応じた人たちが内地に集団渡航するというものである。

 実は、戦前の日本政府は、朝鮮人の内地渡航に対しては治安や労務面で社会問題があるため就職や生活の見通しを持たない朝鮮人の渡航を制限する行政措置を講じていた。日本への渡航には証明書を必要とするとか、釜山など出発港において就職先や滞在費を持たない渡航者の渡航を認めない渡航諭止制度を設けるなどしていたのに対して、この「募集」制度は、戦時動員の一環としての「募集」手続きに従った内地渡航に限っては渡航制限の例外としたのである。

 こう見てくると、朝鮮での戦時動員は内地より遅れて、しかもはるかに緩やかに実施されたということが分かる。また、内地と違い朝鮮では最後まで女子には適用されなかった。徴用だけでなく朝鮮においては徴兵も昭和十九年十月になってようやく実施されている。なお、「徴用」による日本への送り出しも翌二十年三月末には関釜連絡船の運行が止まり、わずか七ヶ月で終わる。

 「徴用」は、まさに強制力を伴った戦時動員であった。それを「強制連行」というであれば、既に全面的に実施されていた内地の日本人はほとんど「強制連行」されていたということになる。


動員前からあった朝鮮人移住者の奔流

 第二に重要なのは、内地に渡ったのは動員による朝鮮人だけではないという事実である。あまり知られていないが、戦前の日本には戦時動員とは別に自らの意志で内地に渡ってきた大量の朝鮮人移住者がいたからである。

 どういう人たちが内地に渡ってきたのかというと、「一般の海外移民のように、一家をあげて指定された移住先に定着するというのではなく、出稼ぎ的労務者として、日本内地に渡航し、職や住所を転々としつつ漸次生活の基盤を開拓し、その家族をよびよせたのであり、かつ、たえず朝鮮の故郷の地と往復していた」(森田芳夫『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』)という。


動員の三倍にのぼる「出稼ぎ」労働者

 さらに重要なのは、昭和十四年に戦時動員が始まってから後も終戦まで、そうした出稼ぎ渡航が一貫して続いているという事実である。

 「募集」期間に相当する昭和十四年から昭和十六年の三年間で、内地に渡航した朝鮮人は約百七万人であるのに対して、そのうち「募集」制度に則って内地に渡航した朝鮮人は約十四万七千人(厚生省統計)に過ぎない。つまり、「募集」以外に約九十二万人もの渡航者がいたのである。全渡航者のなかには内地から一旦朝鮮半島に帰り再度内地に渡航したものも含まれているが、「募集」という戦時動員による渡航者が、朝鮮人の内地渡航者全体のわずか一六%に過ぎないことは注目に値する。

 さらに、西岡力氏の分析によれば、この三年間で内地の朝鮮人人口は約六十六万九千人増加している(昭和十三年末の人口は約七十九万九千、昭和十六年末のそれは百四十六万九千)。ここから内地での自然増(家族の呼び寄せなど家族で生活している多数の朝鮮人がいたので内地でも二世が生まれている)の八万一千を引くと、朝鮮半島からの渡航による人口増は五十八万八千となる。この間の「募集」による動員数は十四万七千だから、「募集」以外の渡航者によって約四十四万が増加したという実態が見えてくる。つまり、戦時動員期間でも、動員の三倍以上の人たちが自らの意志で日本に渡ってきていたのである。

 この流れは「斡旋」「徴用」の時期についても変わらず、昭和十七年一月から二十年五月までの内地への動員数は約五十二万。この同じ期間に朝鮮半島からの渡航者数は百三十万七千人だから、ここでも渡航者の約六割が動員以外ということになる。

 こうした渡航・移住によって、終戦時には約二百万の朝鮮人が内地にいたと推定されている。しかし、終戦当時、動員先の職場にいた朝鮮人は約三十二万二千人。それ以外に朝鮮人の軍人・軍属が約十一万二千人。併せて、動員された者は四十三万五千人となり、終戦時の朝鮮人人口の約二二%にしかならないということになる。

 いずれにしても、戦時動員と並行して、かくも膨大な朝鮮人が自らの意志で日本に渡航していたわけであり、その事実を踏まえれば、嫌がる朝鮮人を無理やり日本に連れて行ったという「強制連行」イメージは明らかに虚像と言わざるを得ない。


「日本に来たがってたの、大勢いたんだ」

 実は、いま出回っている「強制連行」証言を子細に見ると、そうした事情を裏付ける証言がいくつも見つかる。 以下は、「斡旋」の時期に渡航してきた人たちの証言であるが、当時の「斡旋」によって渡航した人たちの事情がよく理解できる。 (いずれも引用は『百万人の身世打鈴』から)。

 例えば、姜壽煕という人は、昭和17年に面長(日本の村長にあたる)と駐在所の所長から「日本に行け」と言われて日本にやってきたのだが、こう述べている。

「目本は天国だと思っていました。村から日本に行った人が帰ってくると、洋服を着て中折れ帽子を被って革靴を履いているんです。親は親で、『うちの息子は日本から帰ってきて、革靴を履いている』と自慢していました。…その頃は、朝鮮では村一番の金持ちの子どもでも革靴など履けなかったのです。…ですから、『日本に行け』と言われたとき、そんなに抵抗感もなかったのです。」

 また、李斗煥という人も同じ頃に「斡旋」を受けている。 

 「役所に呼び出されて『日本へ行ってくれ』と言われた。いやとも言えないしな。まあ正直いえば嬉しかったの。日本に来たくてもなかなか来られないんだから。韓国にあっても、仕事ないし、百姓ぐらいだから。おれだけじゃなくして、日本に来たがってたの、大勢いたんだ」

 「斡旋」は、「募集」とは違って朝鮮総督府の行政機関が関わり、罰則はないもののある種の圧力を感じていたことも分かるが、それ以上に日本への渡航熱が窺える。

 こうして見ると、戦時動員とはいうものの、特に「募集」「斡旋」については、実態としては大量の「出稼ぎ」の流れを、戦争遂行のための炭坑、鉱山、軍需工場へ転換させようとしたとも言えるのである。


相当高額だった朝鮮人労務者の収入

 とは言え、証言集などを読めば、炭坑での坑内作業やダム工事での過酷さ、少ない配給食糧による飢餓、朝鮮人に対する差別、そして堪りかねての逃亡……というエピソードが溢れている。こういう話を聞けば、制度としての動員とは別に、現場の実態は「強制労働」ではないのか、という疑問は残る。

 しかし、話はそう単純ではない。当時、何度か朝鮮人移入者の労務調査が行われているが、食糧の配給については職種(例えば炭坑では坑内作業と坑外作業)での配給量の違いは見られるものの、日本人と朝鮮人を理由とした違いは見られない。また、給与についても熟練度による違い(戦時期には日本人は比較的高齢の労働者しか残っていない)はあるものの特に差別があったとも思えない(昭和十八年・労働科学研究所「半島労務者勤労状況に関する調査報告」などによる)。

 むしろ、戦時にあっては動員された朝鮮人の大半が就労した炭坑や鉱山、土木事業は、労働環境は厳しかったが、その分厚遇されていたというのも事実である。昭和十九年頃の九州の炭坑での賃金は一日四円~八円(平均五円)で、これに各種手当がついて月収は百五十円~百八十円、勤務成績のよいものは二百円~三百円であり、同じ職種では日本人徴用者に比較して「はるかにいいのが実情である」と指摘されているくらいである。従って、朝鮮の親元への送金や貯金(徴用時は強制貯金)も行われ、「半島労務者の送金は普通三〇円~五〇円程度」であったという(大内規夫「炭山に於ける半島人の労務管理」昭和二十年五月)。

 ちなみに、当時、巡査の初任給が月額四十五円、事務系の大学卒の初任給が七十五円、上等兵以下の兵隊の平均俸給が十円弱だから、朝鮮人労務者の収入が相当な高額だったことが分かる。


動員とともに増えた不正渡航者

 動員先での待遇だけでなく、朝鮮からの渡航についても、いわゆる「強制連行論」ではとても理解できない事実が存在する。

朝鮮人の渡航者についての統計は前回に紹介したが、昭和15年(「募集」による動員の時期に当たる)を例にとってみると、戦時動員による日本への渡航者は5万3千人(厚生省統計。数字は便宜のため百の単位以下は切り捨てで表記)。しかし、同じ年の朝鮮からの渡航者の総数は38万5千。つまり、戦時動員以外に約33万人が日本に渡航しているのである。むろん、このなかには一旦出身地に帰って再渡航したり、既に定住していた者が家族を呼び寄せたケースも含まれるが、その多くは戦時動員以外で日本へ職を求めての渡航者であった。こうした戦時動員数を渡航者数が大幅に上まわるという事実は統計が残っている昭和19年まで変わらない。

 つまり、戦時動員と同時に、それを大きく上まわる大量の出稼ぎ的な渡航が並行的に存在していたのである。 動員が「強制連行」であれば、無理やり日本に「連行」される人たちと同じ日本へ、自らが旅費を払って出稼ぎに行く人たちとが同じ船に乗り合わせていたということになる。「強制連行」のイメージからすれば何とも奇妙な構図である。

 一方、当局は正規の手続きを踏まない渡航を止める努力をしていた。西岡氏によれば(前出論文)、大正14年から戦時動員が始まる昭和13年の間、証明書など所定の条件が不備のために渡航を差し止められた朝鮮人は労働者、家族を含めて16万3千人にのぼる。また、昭和8年から13年までに朝鮮の出身地で、渡航を出願したものが108万7千人。それに対して6割の65万1千人が「諭止」されている。

 それでも正規の手続きをとらない不正渡航が後を絶たなかった。内務省の統計によれば、昭和5年から17年までの13年間で、不正渡航者は発見されただけで3万9千人にのぼる。しかも、西岡氏によれば戦時動員の始まった昭和14年から17年までの4年間は、発見された不正渡航者が2万2千人(13年間全体の58%)と動員前に較べて急増している。

 では、内地の取締当局はこうした不正渡航者をつかまえて、これ幸いとどこかの炭坑にでも送り込んだのだろうか。話はまったく逆で、当局は不正渡航を取り締まり、朝鮮へ送還している。ちなみに昭和14年から17年までに、1万9千人が日本の港から朝鮮へ送還されている。「強制」というなら、まさにこの朝鮮への送還こそ「強制」であった。

 こうした不正渡航の取締まりに当たっていた福岡地方裁判所の検事はこう述べている。「本県に於きましても、毎月200名内外の密航者を掴まへて、勿体ない様でありますが、之を送還する為、1人当り2円とか3円とかと云ふ旅費を使つて送還して居る状況であります。県内に労働力の不足して居るのに勿体ない事でありますが、今日では已むを得ない事であります」(昭和14年3月「福岡県下在住朝鮮人の動向について」・『在日朝鮮人関係資料集成』第4巻)

 この検事はこうも述べている。「現在の鮮内、と申しましてもそれは主として北鮮地方でありますが、非常に重工業が発達して参りまして人的資源が不足しているのであります。で如何にして南鮮地方のものを北鮮に移住せしむるかと云ふことを苦慮して居るのであります。…処が朝鮮人は北鮮に移住するのを好まない傾向がありまして、内地に渡来したいと云ふ希望が相当多い様であります。

 …密航してくる朝鮮人は…大抵最低30円乃至40円位の金を密航ブローカーに渡すそうであります。其の金を作る為に自分の家、屋敷、田畑その他を売つて裸一貫になつて内地に密航して来るのであります。それが掴まつて朝鮮に帰されるのであります。…密航と云ふ事自体が、犯罪として取り扱ふ事の出来ない結果、又密航ブローカーを厳重に処分する法規がない為、私共の活動其他朝鮮当局の取締あるにも不拘(かかわらず)其の数なり活動が一向に減じて居ないのであります」

 「強制連行」論者は、これらの不正渡航者は、借金までして自ら進んで「連行」されようとした、とでもいうのだろうか。

〈『明日への選択』平成14年11月号掲載〉
http://www.seisaku-center.net/node/260
http://www.seisaku-center.net/modules/wordpress/index.php?p=130
http://www.tsukurukai.com/14_web_special/text_webspecial/webspe_rachi_topic04.html




「岩波講座 世界歴史19 移動と移民」 水野直樹・他 1999年 岩波書店

1930年代後半、西日本で『密航』の取締りが厳しくなされ、毎年2000人から5000人ほどの密航者が摘発され(1939年は7400人)、大半が朝鮮に送還された。その多くはブローカーの斡旋で労働を目的に渡航した者であったが、なかには『内地人を仮称』して連絡船に乗り込んだたため摘発された者もいる。



当時の新聞に見る朝鮮人の不法入国

『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17
『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20
『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21
『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3
『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12
『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13
『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18
『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕
『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14




【戦前・戦後の朝鮮人入国者の実態】

<戦前>
川崎在日コリアン生活文化資料館 2006年聞き書き事業報告

集団就職の募集に応じて(16歳)
キム・ムンソンさん (女性 81歳)/足跡: 韓国慶尚南道釜山→静岡→川崎

〈田舎の生活を免れるために渡日を望む〉
うちは百姓だったから、畑行って草とったりやってたのですよ。熱いときとか大変でね。「こんな仕事嫌だよ。日本に行きたいよ。」と言っていました(笑)募集があったときに「行くんだ。行くんだ。」って行ってね。それで試験に通ったのです。 そのとき、韓国から260人くらい来たのですよ。プサンからね。
http://halmoni-haraboji.net/exhibit/report/200608kikigaki/hist009.html


結婚して(18歳)
カン・トッチョルさん (女性 80歳)/足跡:韓国慶尚南道→東京→鶴見→埼玉→鶴見

〈日本に憧れていた〉
 (おばが)日本の新宿にいるわけよ。暮らしがよかったからよくいろんなもの送ってくれたの。そういうの見てから、「日本はやっぱりいいんだ、日本はいいんだ」って思ったのよ。私も日本へ行ってみたいなぁって気になって。ちょうどおばさんが帰ってきて、たまたまそういう話(縁談)もちだしたから、親が「おまえ、日本行くか」って聞くから、「うん、日本行く」って喜んで乗り気になっちゃって。
http://halmoni-haraboji.net/exhibit/report/200608kikigaki/hist020.html


夫が徴用されて(21歳)
イ・プンジョさん (女性 87歳)/足跡:韓国慶尚北道→福岡→川崎→栃木に疎開→川崎

〈終戦直後の川崎で〉
 うちも朝鮮へ帰ろうと思ったけど、切符がなかなか取れなかった。その時はヤミでしか手に入れられなかったから。川崎の駅のキング通りは終戦直後は、みんな焼け野原で店は一軒しかなかった。土地は誰のものでもなくて、みんな勝手に自分の土地にした。うちは韓国に帰るつもりだったから、そういうことはしなかった。向こうのみんなが日本に帰ってきたから、自分たちも帰るのをやめた。今ある川崎駅近くの店は、一軒残っていた呉服屋以外、みんな戦後勝手に振り分けた土地の所有者が代々継いできた店。
http://halmoni-haraboji.net/exhibit/report/200608kikigaki/hist007.html



<戦後>
生野の街と在日朝鮮人 

 生野区聖和社会館館長(当時) 金徳煥
 *1996年6月19日生野区中川小学校教職員研修会における金徳煥(キム・トックァン)さんの講演テープをおこしたもの。

よく、朝鮮半島から労働力としてたくさんの人々が強制的に連れてこられた云々の話があるのですけれども、ちょっと、それだけですっと言ってしまうのはどうでしょうか。確かに埴民地支配と戦争、日本と朝鮮との歴史の中にそのことは重大な問題として忘れることは出来ないのですが、全て一括りにして、強制連行・強制徴用ということにしてしまうと、そこでは人の生活とか、人の生きる息吹とか、そういったものをなかなか感じとることができない。もうちょっと、そういう意味では、在日朝鮮人がこの地域でどういうふうに生きてきたのかということを見ていくべきだし、そこからこの地域社会を知っていくと いうことは、これは在日朝鮮人自身にとりましてもそうですし、日本人にとっても重要なことではないかなあと思っているわけです。

<生野の街の”三多”>
 1965年の日韓条約の締結は、当然のことですが、在日朝鮮人の生活に大きく影響を与えました。朝鮮半島の南の半分だけと日本との国交回復という、その是非は別としまして、国交回復が行われるということは、人の行き来やいろんな意味で影響を及ぼしていくわけです。ご存知のように、この当時というのは日本は東京オリンピックを前にして、高度経済成長へ向け突っ走っている時代でした。

 こうして産業が興ってきたときにどうしたかと言いますと、さっきの話ですが、済州島にいる人たちを、親戚関係・ムラ社会を通じて、どんどん招ぶわけです。「日本に来て働かんか。金儲けになるで。」というわけで、たくさんの人たちが日本にやって来ます。ただし、パスポートはありません。いわゆるドンドコ船と言いましたが、1週間、2週間、飲まず食わずで、漁船の底に潜んで日本に来るのです。日本に来て、親類の人の所へ着けば、それでもうなんとか匿われるわけですから、どんどん密航という形で、大阪へ、生野へやって来るわけです。日本に来て、親類の人の所へ着けば、それでもうなんとか匿われるわけですから、どんどん密航という形で、大阪へ、生野へやって来るわけです。

http://kangaerukai.net/150kim.htm
http://zenchokyo.web.fc2.com/150kim.htm






【朝鮮人渡航者(密航者)に関する一次資料】

朝鮮人移住対策ノ件
昭和9年10月30日 閣議決定

朝鮮南部地方ハ人口稠密ニシテ生活窮迫セル者多数存シ之カ為南鮮地方民ノ内地ニ渡航スル者最近極メテ多数ニ上リ啻サヘ甚シキ内地人ノ失業及就職難ヲ一層深刻ナラシムルノミナラス従来ヨリ内地ニ在住セル朝鮮人ノ失業ヲモ益々甚シカラシメツツアリ又之ニ伴ヒ朝鮮人関係ノ各種犯罪、借家紛議其ノ他各般ノ問題ヲ惹起シ内鮮人間ニ事端ヲ繁カラシメ内鮮融和ヲ阻害スルノミナラス治安上ニモ憂慮スヘキ事態を生シツツアリ
之ニ対シテハ朝鮮及内地ヲ通シ適切ナル対策ヲ講スルノ要アリ即チ朝鮮人ヲ鮮内ニ安住セシムルト共ニ人口稠密ナル地方ノ人民ヲ満洲ニ移住セシメ且内地渡航ヲ一層減少スルコト緊要ナリ
而シテ是等方策ハ内地朝鮮全般ノ利益ノ為一体トシテ之ヲ実施スルコト必要ニシテ財政ノ許ス範囲ニ於テ左記要目ニ掲クル事項ヲ実施スヘキモノトス

http://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00103.php


件名標題(日本語) 朝鮮人移住対策ノ件
レファレンスコード A03023591400
作成者名称 内閣
記述単位の年代域 昭和6年~昭和18年
内容 内務省 昭和九年 内甲一四九 朝鮮人移住対策ノ件 十月三十日

朝鮮南部地方の人口は過密で生活困窮者が多数存在し、この為南朝鮮地方から内地(日本)に渡航する者が極めて多数に上り、内地の失業、就職難を一層深刻にしている。これに伴い朝鮮人関係の騒乱・その他の犯罪・家賃踏倒し・借家の損壊等の借家紛議・ 衛生風俗上の問題等、各般の問題を惹き起こし 又、借家の困難に伴い土地を不法占拠し不潔な陋屋を密集して建て治安上憂慮すべき事態が生じている等々、朝鮮人密航者を食い止める事が緊急の要務だと報告されている。

国立公文書館アジア歴史資料センター 
http://www.jacar.go.jp/index.html  






「労働調査報告28 朝鮮人労働者問題(大阪市)」(1924)より

 P8~

  かくて、朝鮮人の渡来に対しても、相当制限を付せしが、世界戦争中労力供給者欠乏せし際には、比較的寛大に、朝鮮人の来往を許可していたのであった。
  しかし同じ領土に生活する、同じ国民の間に、交通移転の自由が保障されないほど国家として恥辱なものはなかった。ついに、大正11年12月自由渡航の制は布かれた。即ち

  朝鮮総督府令153号
 大正8年警務総監部令第三号は之を廃止す
 本令は発布の日より之を施行す
  大正11年12月15日

  ここに於いて、朝鮮人の内地渡来は自由になった。それと同時に朝鮮下層民、換言すれば小作農夫の来往は決河の勢をもって増加した。時正に、朝鮮における新施政として、いわゆる文化政治がようやく朝鮮全土に普及し、対鮮人同化政策の標語たる一親同仁の宣伝が、一層朝鮮人来往者を力づけ、内地移住の要求を強めた事は事実である。

  ここに、旅行証明書制度を廃止せし12月15日を境界として、その前後一ヶ月間の渡来者を鉄道省関釜連絡船の便乗者につき比較せしに、僅か1ヶ月間において、しかも僻地には未だ自由渡航制度の一般に知られ渡らざる以前において、既に6524人の増加を示している。
  また、別に、来往の状態を月別に比較調査せしに、7か月間に28206人、平均1ヶ月に、4000余人の増加となっている。

弘文堂書房(大正13年)著者:大阪市社会部調査課 編
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976638/10

日本軍の勝利に歓喜する戦前の韓国人は、日本人以上の日本人だった…
日本統治時代の朝鮮 ~ 朝鮮人の日本内地への移入

パク・チョンヒ元大統領、併合時代に日本人として満州国軍への参加を熱烈に志願 韓国ネチズン衝撃






大半、自由意志で居住 戦時徴用は245人


1959年7月13日 朝日新聞

「在日朝鮮人の徴用者は245人」
・終戦直前、日本には200万人の朝鮮人がいた。
・その内、140万人は終戦直後に朝鮮に帰った。
・更に北朝鮮帰還事業などで10万人が朝鮮に帰った。
・つまり200万人のうち、150万人…つまり75%が帰国した。
・国民徴用令は1939年7月から施行された。(日本人と台湾人)
・しかし朝鮮人には1944年9月まで適用されなかった。(つまり優遇されていた)
・1945年3月には日韓フェリーが停止されたので、徴用が可能だった時期はたったの7ヶ月。
・1959年の調査では在日における「徴用者」の人数は…たった245人だった。
・現在、日本に残留している朝鮮人は「自由意志」による残留である。(犯罪者を除く)

在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人 外務省が明らかに






吉田茂がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書
(1949年8月末から9月初旬ころのものと推定される)
 
朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。
彼らは総数100万にちかく、その半数は不法入国であります。
私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。
その理由は次の通りであります。

(1)現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。
米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。
このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。
朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。

(2)大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献しておりません。

(3)さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。
彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。
彼らの多くは共産主義者ならびにそのシンパで、最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。
戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次の通りです
[詳細省略、1948年5月末までで、9万1235名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている]。
さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。

(1)原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。

(2)日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。
許可は日本の経済復興に貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。 
上述のような見解を、原則的に閣下がご承認くださるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。
                        敬具 吉田 茂

(田中宏「在日外国人」より)



吉田茂=マッカーサー往復書簡集 [1945-1951] (講談社学術文庫)
袖井 林二郎 (編集)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062921197

下記の文書は上記の書籍から引用しました

--448page--
122
一九四九年8月末か 吉田→マッカーサー
在日朝鮮人の全員送還を望む(無署名)

 〔日付なし・一九四九年8月末から9月初旬と推定される〕
 (総理府用箋)
 〔右上に「シーボルトへ---君はどう思うかね? 一五九〇マック〔数字の意味不明〕と自筆で書き込んである」〕

連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下

親愛なる閣下

日本の戦後の諸問題のうち朝鮮人と台湾人に関するものがありますが、彼らはかつて日本国民であり、現在もこの国に依然として滞在しているものです。

ここでは台湾人については、彼らが比較的少数であり、それほど問題を起こしておりませんので、しばし触れないことに致します。しかし、総数約一〇〇万人、そのほぼ半数は不法入国者であるところの在日朝鮮人の問題について、われわれはいま早期の解決を迫られております。私はこれら朝鮮人がすべて、彼らの生国の半島に送り返されることを欲するものです。その理由は以下のとおりです

日本の食糧事情は、現在もまた将来においても、余分な人々を維持することを許しません。アメリカの厚意によって、われわれは大量の食料を輸入していますが、その一部は在日朝鮮人を食べさせるために用いられています。これらの輸入は、将来何世代にもわたって我が民族の負債となることでありましょう。もちろん、われわれはそのすべてを返済する覚悟を固めておりますが、この対米負債のうち朝鮮人のために生じた分まで、将来の世代に負わしむるのは、公正なこととは思えません。
これら朝鮮人の大多数は、日本の経済の債権に貢献しておりません。
もっと悪いことには、これら朝鮮人は犯罪を犯す割合がかなり高いのです。彼らは我が国の経済法規を破る常習犯です。かなりの数が、共産主義者かその同調者であり、最も悪質な政治的犯罪を犯しがちなのです。投獄されているものは、既に七〇〇〇人を超えています。
戦後今日まで裁判に付せられた、朝鮮人による刑事事件は以下のとおりです。

年次事件数朝鮮人関係者数
一九四五(八月一五日以後)五、三三四八、三五五
一九四六一五、五七九二二、九六九
一九四七三二、一七八三七、七七八
一九四八一七、九六八二二、一三三
合計七一、〇五九九一、二三五

さて朝鮮人の送還計画としてわたしが考えるのは次のようなものです。

原則として、朝鮮人は全て送還され、その費用は日本国政府の負担とする。
日本に在住を希望するものは、日本政府に許可を申請すべきものとする。在住許可は、日本経済の再建に貢献しうると見なされたものに与えられる。
以上述べました私の考えが、期間によって原則的に承認を得られた場合は、送還に伴う予算その他の具体的措置について、改めて案を提出いたします。

敬具
〔サイン無し〕
吉田 茂


http://ujitv.byethost5.komu/blog/yoshida.html





<戦後における朝鮮人の密入国問題>

衆議院会議録情報 第022回国会 法務委員会 第23号
昭和三十年六月十八日(土曜日)
   午前十時五十九分開議
 出席委員
   委員長 世耕 弘一君
   理事 三田村武夫君 理事 馬場 元治君
   理事 福井 盛太君 理事 田中幾三郎君
      今松 治郎君    椎名  隆君
      高木 松吉君    長井  源君
      林   博君    横川 重次君
      猪俣 浩三君    神近 市子君
      細田 綱吉君    吉田 賢一君
      志賀 義雄君
 出席政府委員
        法務政務次官  小泉 純也君
        法務事務官
        (矯正局長)  中尾 文策君
        法務事務官
        (入国管理局
        長)      内田 藤雄君
 委員外の出席者
        専  門  員 村  教三君
        専  門  員 小木 貞一君
    ーーーーーーーーーーーーー
本日の会議に付した案件
 出入国管理令の一部を改正する法律案(内閣提
 出第一〇六号)
 人権擁護に関する件
    ーーーーーーーーーーーーー

○神近委員 出入国の関係の問題は、前国会からもしばしば問題になっているのでございます。ただいま大臣であられる花村氏が出入国管理の小委員会の委員長をなさっていらっしゃって、この問題ではしばしばお話し合いをいたしたことがあるのでございますけれども、この密入国の緩和ということでは非常に御熱心にお考えになっていた。今の事態は歴史にも珍らしい韓国人の民族的不幸だというふうに考えまして、私どもも、既往日本人であったという立場から、その扱いにはもう少し人道的なものがなくてはならないという考え方から、入国管理局にいろいろ申し入れをしたり、あるいはいろいろお願いに上るということを始終してきたのですけれども、この問題は幸いにして花村氏が法務大臣になっておられますので、その在野時代の感覚をもって考えていただきたいと私どもは熱望しているわけでございます。それで私は少し素朴かもしれませんけれども、今六十万の朝鮮の方々がいる。そしてその方々が日本の失業状態のあおりを食って、なかなか仕事が得られない。仕事が得られないために犯罪をたくさん犯す。これは私憎みたくないけれども、いろいろの新聞その他に出ております犯罪にとても朝鮮の人が多い。それから私どもが視察して参りました基地の周辺におけるあってほしくないいろいろの事柄にも全部あの人たちが出ていて、ちょっと私どもが近寄るのが危険なくらいに感ぜられる。一体そういう状態にほうっておいていいか。私ども日本人としても困るし、あの方々も、自分の民族の間に帰ればあれだけ思い切った犯罪はないと私は信じております。というのは自分たちの婦人と自分たちの子供には非常に親切で、そして絶対に手をつけない。異民族である日本人にこれが襲いかかっているという傾向が明らかなのです。ですから私は非常に素朴な考え方かもしれませんが、帰りたい人を早く帰して、そうしてどうしても日本に来なければ父親とか両親とかに会えない。そして夫に会えない、扶養者に会えないという人たちには緩和していただきたいというのが私の根本的な考えでございます。それでいろいろお尋ねするのでございますが、一応北鮮の問題を後まわしにして南鮮との話し合いを進めたいというのが当局のお考え方であったのでございます。今日そういう動きに対して、幾らかでも進展する情勢があるのでしょうか。あるいはこれは絶望的なものでしょうか。大臣でなくてちょっとお気の毒ですけれども、あなたが御存じの程度で伺わせていただきたいと思います。

○小泉政府委員 韓国人が、日本に生活をしたい、また戦争中疎開いたしまして、子供が日本に在留しておられる両親のもとで生活をしたいと申して、その手段方法を選ばず日本に入ってくるというようなことは、ただいま神近先生がおっしゃいましたように、人道的な問題といたしましては、夫婦を一緒に生活させ、親子を一緒に生活をさせたいということは、管理局の取り扱われる方々も常にその苦衷を訴えておられるのでございます。私どもも最初、両親が日本にいて子供が日本に入ってくる、かわいそうじゃないかというような考えを持っておったのでございますが、いろいろと実態に触れて研究をして参りますと、人道的、人情的には非常に忍びないものがございますけれども、それがあまりにも数が多い。最近においては、子供だけ三十人くらいの団体を連れて密航をして、大人だけは完全に逃げてしまっている、がんぜない子供だけがつかまっておるというような事実もありまして、この取扱いには非常に係の者も苦慮いたしておるようでございます。神近先生(社会党)がおっしゃいましたように、日本に住まいたい者を住まわせて、韓国に帰りたい者は返す、こういうふうに参りますと事は最も簡単で、いろいろの難問題が漸次解決をするのでありますが、問題はそう簡単でなく、極端かもしれませんけれども、六十万と推計をせられる朝鮮人のうち、日本から母国に帰りたいという者は一人もいないといっても大した言い過ぎではない。一方向うからは、入れれば、それこそ手段方法を選ばず、命がけでも密航をして、方法さえつけば怒濤のごとくどんどん入ってくる。そしてこちらから強制送還をしようといたしましても、韓国の政府がこれを容易に受け付けないというところに、人道問題だけでは解決しない大きな国と国との外交問題と申しますか、もう入国管理局だけでは手に負えない大きな外交問題となってここに横たわっておるのは、私が申し上げるまでもなく、御理解をいただいておると思うのであります。ですから、要するに、こちらは国際的ないわゆる紳士としての態度をもって韓国に接しましても、韓国の方は、紳士的でないとは申しませんが、御承知の通り李承晩ライン、その他漁船の拿捕の問題、こちらから、密航した者を密航したという確証をあげて韓国に申し入れましても、その送還を容易に受け付けない、こちらは向うから出てきた者を受け入れっぱなし、不法入国であろうが何であろうが、返すことができないで、大村収容所にはますます人員がふえていく、それをみな国費で、国民の血税で養ってやらなければならない、その取扱いについても、きわめて懇切丁寧にしなければ、人権じゅうりんというような問題まで起きてくる。これを大まかに考えますと、一体日本のためにやらなければならないのか、日本国民の血税の犠牲において、韓国人をまず第一義として大事にしてあげなければならないかというようなところまで、考え方によっては行く問題であると私は思うのであります。

○椎名(隆)委員 どうも朝鮮の連中は、おいらの方は戦勝国だ日本は戦敗国だというので、向うはだいぶいばっているのです。李ラインを越すといい船だったらみんなふんだくって返してよこさない。ただし人間だけは辛うじて帰してよこすというような状態になっておるのですけれども、今向うに抑留せられておる日本人は一体何人ぐらいいるかおわかりになりますか。

○内田政府委員 私ども責任を回避するわけじゃございませんが、この問題な主として外務省の方でやっておりますので、そこから聞いておりますところでは、現在のところたしか百三十くらいではなかったかと思います。

○椎名(隆)委員 人のふり見てわがふり直せで、向うさんの待遇と同じ程度の待遇を韓国人にやってやったらどんなものでしょうか。そんなことはお考えになりませんか。

○内田政府委員 これは一つの御意見かと存じますが、しかしわれわれそう偉ぶるわけでもございませんが、ともかく日本の名誉とか信用に関するようなことは、人がやっておるからといってやりたくないと思っておりますし、また実際収容の場合に、機会あるごとにわれわれとして特に注意いたしておりますことは、その取扱いが人道的に問題のないものであるように、またその個人の自由などを不当に制限するものでないようにということを絶えず申しておりまして、われわれとしてはただいまのところ韓国が悪い扱いをするからわれわれも韓国人を悪く扱うということはやりたくないというつもりでやっております。

○椎名(隆)委員 人道的の点からいくなればおそらくそうでなければならないと思うのですが、ところが相手方はそうじゃないのです。戦勝国といっていばりにいばり抜いておる。私たちの町にも漁業家が相当あるが、向うへ行くたびにびくびくして出漁しなければならないという状態です。漁業においても締められておる。いわんや朝鮮人の悪質な連中はヒロポンを製造、販売し、国民の保健を非常に傷つけておる、あるいはこっちに来て酒をどんどん作っておる。しかも国家の酒造税の収入を妨げておる。悪いことばかりしている連中が多い。これはこっちがあまり待遇をよくするから、朝鮮人の連中は、向うで食うに困ったならば日本に行った方がいい、日本に行きさえすれば待遇がいい、日本に行きさえすれば生活ができるというようなところからどんどん入ってくるのじゃないかと思う。向うさんがそうであれば、こっちもある程度人道上の問題も考えずに、日本に行ってもむずかしいのだという観念を与えた方がいいのじゃないかと思うのですが、どんなものでしょうか。

○内田政府委員 一つの御意見かと存じますけれども、政府といたしましてはそういうことをやりたくないと思います。

http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_logout.cgi
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/022/0488/02206180488023c.html

朝鮮戦争時の密航の実態






日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話
1965年12月18日

 次に私は,在日僑胞に対して,一言お願いをしようかと思います。

 親愛なる在日僑胞の皆さん!

 現在60万人以上と推算されている在日同胞のこれまでの苦労がどれくらいつらかったことかを,私は誰よりもよく知っています。

 在日僑胞のその苦労の原因をたどってみると,ひとえにそれは本国政府の責任となる他ありません。

 したがって,これまでに在日僑胞の一部が共産主義者の使嗾に駆り立てられその系列に加担するようになったのも,実は大部分本国政府が在日同胞をより暖く,より徹底して保護できなかった責任であるといえます。

 これより本国政府は皆さまの安全と自由について,より積極的に努力して可能な最大限に皆様の生活を保護するつもりであります。

 これとあわせて私は,一時的な過誤で朝鮮総連系に加担した同胞たちの一切の前過を不問に付して,本国政府の保護下に立ち戻ることを希望します。

 政府は最大限に彼らを暖く迎え,一つの血筋を引いた同胞として,韓国民として保護するでありましょう。

 そうして私は,日本の空の下で韓国同胞たちが再び分裂して相剋することなく,暖い同胞愛の紐帯の中で互いに和睦して親近となり,また幸福な生活を営なむことを希望してやみません。

 これとともに私は,これまで分別なく故国をすてて日本に密入国しようとして抑留され,祖国のあるべき国民になれなかった同胞に対しても,この機会に新しい韓国民として前非を問わないことをあわせて明らかにしておこうと思います。

 再びこうした分別のない同胞がいなくなることを希望しながら,今日からわれわれは新しい気持と新しい心構えで,栄えあるわが祖国を建設する働き手とならんことを,訴えてやみません。

1965年12月18日
大統領 朴 正 煕
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html

犯罪を犯した在日韓国人の強制退去、韓国側が拒否…70年代外交文書で判明





在日韓国・朝鮮人 - Wikipedia

戦後の密入国
戦後の大きな朝鮮人の日本移入の起因となった最初のものとして、1948年の済州島四・三事件がある。韓国政府による済州島民への虐殺は日本への難民/密航者を大量に生んだ[122]。済州島四・三事件の鎮圧を命じられた韓国軍が韓国本土で反乱を起こした麗水・順天事件の際にも日本への密航者が生み出された[123]。1950年に始まった朝鮮戦争時にも韓国政府による拷問や独裁から逃れるために密航者が生み出された[124]。また、経済的理由から密航して来るものも多くいた。例えば、1947年に孫正義の祖父・父ら孫一族は日本に密航船で入国しており[125]、マルハン韓昌祐会長は「韓国にいても稼げないので密航して来た」と2005年のテレビ番組で発言した[126]。作家のキム・ギルホは「1973年、食べていくために日本行の密航船に乗った」と証言した[127]。

戦後にまもなくして来日した彼らは戦後の混乱に紛れ、本来は対象者ではなかったが特別永住資格を得た[126]。日本政府は密入国者の摘発を行ったが、韓国政府は強制送還を拒否するとともに韓国が抑留した日本人の返還条件として密入国者を日本国内に解放するよう要求した[41]。

『朝日新聞』1955年8月18日「65万人(警視庁公安三課調べ)の在日朝鮮人のうち密入国者が10万人を超えているといわれ、東京入国管理局管内(1都8県)では、この昨年中のべ1000人が密入出国で捕まった。全国ではこのざっと10倍になり、捕まらないのはそのまた数倍に上るだろうという」また、『朝日新聞』1959年6月16日「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られているが、警視庁は約20万人ともいわれ、実際どのくらいいるかの見方はマチマチだ」また、『朝日新聞』1959年12月15日天声人語「韓国から日本に逃亡してくる者は月平均五、六百人もある。昭和二十一年から昨年末までに密入国でつかまった者が五万二千人、未逮捕一万五千人で、密入国の実数はその数倍とみられる」また、『産経新聞』1950年6月28日には、「終戦後、我国に不法入国した朝鮮人の総延人員は約20万から40万と推定され、在日朝鮮人推定80万人の中の半分をしめているとさえいわれる」という記事が掲載されている。当時の総理大臣である吉田茂も「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)において、在日朝鮮人の半数は不法入国者で、大多数の朝鮮人は日本経済の復興に全く貢献せず、多くは法の常習的違反者で、共産主義者など政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であることを伝えている。

元秀一は、外国人登録証を所持して日本に合法的に居住できる朝鮮人と密航船に乗って不法入国した朝鮮人で在日朝鮮人が形成されており、後者は主に済州島出身であり、これは済州島出自の在日朝鮮人が大阪市生野区を中心に9万人にのぼることと無関係ではなく、また、大阪市生野区を中心に偏在する在日朝鮮人の縁故を頼っての密入国も多く、大規模な密航は、日本統治時代、戦後の済州島四・三事件、ベトナム戦争時の徴兵逃れの三度にわたり、ほか離散家族の再会・同居、思想的に拘束を受けない日本の大学への留学、病気治療なども移住の理由にあるとしている[128]。1984年には朝日新聞が「法務省の推定では、数万人の密航者が、息をひそめるように生活しているといわれる」と報じた[129]。

 

歴史のなかの「在日」~「在日」とは何か
犯罪を犯した在日韓国人の強制退去、韓国側が拒否…70年代外交文書で判明
韓国政府に3億4000万円賠償命令 朝鮮戦争中の大量処刑
暴かれる韓国最大のタブー「保導連盟事件」

朝鮮戦争時、韓国人25万人が同胞による虐殺の犠牲に、調査進む
「詩人・金時鐘さん『在日を生きる』…李承晩政権に多数の島民が虐殺される中、身を隠すように船で日本に渡ってきた」



この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不法入国・不法滞在に係る諸問題 | トップ | 「従軍慰安婦法案」の審議を... »
最新の画像もっと見る

支那朝鮮関連」カテゴリの最新記事