靖国神社に参拝する朝鮮皇族の写真…韓国初公開 ~ 強制参拝ニダ!

2006年08月14日 | 支那朝鮮関連
靖国神社に参拝する朝鮮皇族の写真…韓国初公開

 朝鮮皇族らが1941年10月に日本の皇族とともに靖国神社を参拝する様子を写した写真が韓国で初めて公開された。

 写真収集家の鄭成吉(チョン・ソンギル)氏(大邱・東山病院博物館名誉館長)は13日、日本の皇族らの靖国神社参拝風景を収めた写真が掲載された『靖国神社臨時大祭記念写真帖』を本紙に公開した。

 1853年の開港以後、日本が行った11の戦争における戦没者、計246万人を祀っているのが靖国神社だ。1978年に東条英機など太平洋戦争のA級戦犯14人が合祀されたため、日本の首相らが靖国を参拝することに対して韓国と中国が強く反発している東アジア外交紛争の現場でもある。



 この写真帖には昨年7月に亡くなった大韓帝国最後の皇世孫・李玖(イ・グ、高宗皇帝の孫であり、英親王の息子/右から3番目)をはじめ、イ・グン(一番右)、イ・チュン(右から2番目)ら朝鮮王族3人が日本の皇族らと並んで靖国神社を参拝する写真が含まれている。イ・グン、イ・チュンは義親王(高宗皇帝の次男)の孫だ。



 のみならず、この写真帖には日本に人質として連れていかれた朝鮮最後の王族・英親王の妃である李方子女史(右から2番目)も登場する。李方子女史は天皇皇后両陛下のすぐ後ろ、2番目の列で靖国神社参拝の列に加わっている。また、王族らの後に続き、太平洋戦争のA級戦犯・東条英機が参拝する姿も写真の中に収められている。

 この写真帖に掲載された写真は皇室専属の写真家が撮影したもので、皇族や祭礼に出席した人にのみ配られる非売品であることが判明している。

 ソウル大国史学科の李泰鎮(イ・テジン)教授は「1941年は日本が太平洋戦争を目前に控えた時期であり、戦争を前にして朝鮮人の動員を引き出す目的で強制的に靖国神社に参拝させたようだ。これは朝鮮を植民地として服属させたということを意味するものであり、絶対に自発的な参拝ではないだろう」と説明した。 朴蘭姫(パク・ランヒ)記者 朝鮮日報

朝鮮日報 Chosunilbo (Japanese Edition)
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/08/14/20060814000037.html

【韓国】強制留学もなんのその・・・新しく吹き始める皇室ブーム
【韓中】 「私は日帝占領時に密かに中国に逃れた朝鮮最後の国王の子孫」70代中国人主張[08/18]






【民団】共生の長丞…高麗神社に寄贈-埼玉[10/26]
http://mimizun.com/log/2ch/news4plus/1130306376/

民団が寄贈 共生の長丞…高麗神社に
写真高麗の地に立つチャンスン。除幕を喜び、農楽隊も盛り上げに一役かった=23日、埼玉県日高市の高麗神社
時空超え韓日結ぶ

 【埼玉】渡来人と縁(ゆかり)の深い高麗神社(埼玉県日高市)に、韓国で制作された石造りの長丞(チャンスン)が建立され、その竣功祭・除幕式が23日、盛大に執り行われた。これは民団中央が韓日国交正常化40周年と韓日友情年を記念して寄贈した。民団の共生理念を込めた長丞は、古代と現代、韓国と日本が時空を超えて結ばれる高麗神社の、新たなシンボルになる。

 この長丞は慶尚北道禮泉郡の長丞マウルで、彫刻家・金壽浩氏が1本それぞれ8㌧の花崗岩から2カ月かけて制作した。第2鳥居近くの特設スペースに、左に天下大将軍、5㍍の間隔をあけて右に地下女将軍が、地上部の高さ5㍍、直径70 ㌢の堂々たる風貌で立つ。

 その長丞を前に行われた式は、「修祓の儀」から「昇神の儀」まで高麗文康禰宜を斎主に厳かに進行した。金宰淑中央団長、関東地協の李時香事務局長(東京本部団長)、埼玉本部の鄭平普団長など民団・傘下団体役員や公館関係者、長丞寄贈事業を支援した民主平統日本地域会議の金龍濤東部協議会会長のほか、地元選出の県議や市議、日高市役員らが参席し、羅鍾一駐日大使や高麗澄雄宮司が見守った。

 この日はちょうど、「10月マダン埼玉民団祭」が行われるとあって、高麗神社には地元団員はもちろん関東各地の団員がバスを仕立てて来場しており、多くの参拝客や駆けつけた地域住民らとともに、式場を囲むように人垣をつくった。また、30余人で構成された民団埼玉の農楽隊が、式次第に合わせて演奏を行い、祝祭ムードを盛り上げた。

 式に参席した白眞勲参議院議員は、「高麗の里を切り開いた渡来人も、晴れ晴れとした気持ちでいることでしょう。チャンスンは日韓友情の証として多くの人に愛されると思う」と語った。金中央団長とともに、「玉串を奉りて拝礼の儀」に代表で臨んだ小谷野五雄県議は、「在日の方の努力で素晴らしいものができて嬉しい。韓国とのいっそうの友好に努力したい」と述べた。

 高麗神社の主祭神である高句麗の高麗王若光が、渡来人集団の長として高麗郡に赴任したのは716年。同神社では2016年に向けて「高麗郡建郡1300年記念事業」を推進中だ。

 第60代宮司に予定されている文康禰宜は、「石なので半永久的に高麗神社に立ち続け、住民に親しまれることでしょう。このことは日韓関係の永続的な発展を象徴します」と話し、「立て替えようと思っていた矢先だけに、自ら資金を捻出して奉納してくれた在日の人たちに感謝したい」と強調した。

 民団が92年に寄贈した木製の長丞は、事故で破損し腐食した。花崗岩の新しい長丞は、時が経つにつれ味わいが醸し出されるという。

(2005.10.26 民団新聞)
http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=12&newsid=5767



高麗神社 - Wikipedia



入口には将軍標(しょうぐんひょう・ジャングンピョ)がある。1992年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって木製のものが奉納されたが事故で破損し腐食したため、2005年になって現在の花崗岩で制作されたものが民団中央により寄贈された。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高麗神社の由緒と歴史

■ 高句麗

高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。

若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。

『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。


■ 高麗郡健郡と高麗神社

若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。

高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。

第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。

http://www.komajinja.or.jp/rekisi.html

(高麗神社HPより転載)      
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


>チャンスンは朝鮮半島の古い風習



朝鮮民族はバイカル湖がルーツ、容貌酷似が理由=韓国

【韓流】 日本の韓流ファン、韓流スターと高句麗時間旅行~高麗神社訪問イベント開催






━━━━━━━━━━
忘れられぬ文世光事件
━━━━━━━━━━


        渡部亮次郎

文世光事件が起きた時、私はNHK大阪放送局でぶらぶらしていた。
2006年の今から数えると32年前のこと。知らない人も多いだろう。

文世光事件(ムン・セグァンじけん)は1974(昭和49)年8月15日に元大韓
民国大統領・朴正煕の夫人、陸英修さんら2人が大阪から出掛けて行った
在日韓国人の文世光(ムン・セグァン)に射殺された事件である。

この日の韓国は日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事がソウル
の国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席していた。

事件当日、文は日本政府高官になりすまして国立劇場に入り、朴大統領
が祝辞を読みあげている途中、壇上に向け何発か拳銃を撃った。が、元
軍人の朴大統領は反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた。

目標を失った文は大統領夫人の陸さんに向け4発撃った。 陸はその後病
院に搬送され5時間40分にもおよぶ手術もむなしく、死去した。また式典
に合唱団の一員として参加していた女子高生1名も銃撃を受け、死亡した。

一報が報じられた途端、「あいつ、わいのだちこうや」と出入りフィル
ム運搬会社の職員が叫んだ。何やて、そらまたどうしてや。身元の確認
が警察よりも早かったわけで、NHKの特種となった。

このとき大阪府警の担当記者をしていたのが石岡荘十さんだった。交番
でのピストル盗難事件のお宮入りで腐っている矢先だった。

もともと、当選半島の赤化統一を目指した文は1973年10月ごろ、朴大統
領の暗殺計画を思い立った。その後朝鮮総連の支援を受けながら、用意
を着々と進めて(大阪府内の派出所で拳銃を盗んだり、韓国への偽造ビ
ザや偽造パスポートを作成した)8月6日、韓国に入国した。

一方の朴大統領は、1963年8月に軍を退役し、大統領選に出馬。前大統領
の尹フ善を破り、自らが大統領の座に就く。1965年6月22日には、国民の
反対の声がありながらも日本との国交を回復(日本国と大韓民国との間
の基本関係に関する条約)。

またベトナム戦争への派兵も決定するが、西ドイツへ労働者を派遣やそ
の給与を担保に借款を受けたことに始まり、日韓基本条約の締結やベト
ナム派兵により有償・無償の資金供与を日米等から受ける様になる。

内政においては典型的な開発独裁で、国家主導で産業育成をはかるべく
財閥、国策企業を通じ、重工業にカネ、モノを重点的に投入した。これ
によって作られた代表的なものに浦項製鉄所がある。

この結果、世界最貧国圏から国民所得にして10倍の「漢江の奇跡」と呼
ばれる飛躍的な発展を遂げたものの農業の遅れが目立つようになり、そ
れを取り戻すべく、農業政策においてはセマウル運動を展開し、農村の
近代化を果たした。

政治的なスローガンとしては「維新体制」を標榜したが、開発独裁とい
われる朴正煕の経済開発手法は彼が実際に見聞した満州国における政府
主導の重工業化からヒントを得ているとする分析がある。

また、数次にわたる5カ年計画方式は、北朝鮮の計画経済をモデルにし
ているといわれ、必要と思えばイデオロギーに関係なく何でも取り入れ
る現実主義的柔軟性は注目される。

こうした実績を見れば、共産主義体制による韓国併呑を企図している北朝
鮮の焦燥感、反朴感情の高まりは当然だったから、事件の陰の北朝鮮の
存在は疑われた。

それを裏付けるかの如く1968年1月21日には北朝鮮のゲリラ部隊に大統領
官邸を襲撃される(青瓦台襲撃未遂事件)が、1970年8月15日の演説で平
和共存を提案し、1972年7月4日には南北共同声明を発表した。

(この襲撃未遂事件で犯人側の唯一の生き残りにKCIAで1973年にインタ
ビューした話は以前、書いた)。

一方、国内では、10月17日に非常戒厳令を発する(十月維新)など独裁
色を強め、金大中事件など中央情報部による強権的な反政府運動弾圧を
も行った。

自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制
を維持し続けていたが、1974年8月15日、日本統治から「解放」されたこ
とを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人・文
世光に銃撃を受けたのだった。

この際に用いられた拳銃が、文世光が日本で警察官を襲撃し日本警察か
ら強奪したものであったこともあり、日韓両国の政治問題へと発展した。

この一連の事件の為、日韓関係は国交正常化後、最悪に陥った。理由は、
朝鮮総連が関連している事件であるのは韓国側の捜査で明白だったのに
対し、日本側は総連の関与はないという姿勢を見せた事、文が所持して
いた拳銃が大阪の派出所より盗まれた物であった事に因る。

謝罪のない日本側(田中角栄総理)に対し、朴大統領は「日本は本当に
友邦なのか?」と問いただし、ついには「日本は赤化工作の基地となって
いる」という言葉まで出た。 その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前
までいった。

しかし、大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が
水の泡になってしまう」と説得し、最悪の事態はまぬがれた。 なお、日
本を「赤化(共産化)工作基地」とみなす認識は、韓国人にとってしば
しば反日感情を正当化する根拠の一つでありつづけた。今では想像もつ
かないだろう。

10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋で犯行を認め、
1審、2審、終審の全てで死刑が宣告された。宣告から3日後の12月20日、
ソウル拘置所で文の死刑が執行された

朴大統領自身は、釜山・馬山で民主化暴動が起こっていた1979年10月26
日、側近の金載圭KCIA部長によって射殺された(10・26事件)。遺体は
国葬となり、現在、国立墓地、顕忠院に葬られている。葬儀には岸信介
元総理が政府代表として参列した。このとき私はNHKを退職し、外務
大臣秘書官だった。

次期大統領選の有力候補の一人であるハンナラ党党首・朴槿恵は彼の娘
である。思い起こせばあの時代の半島は共産主義思想を懸隔として死闘
を展開していたのだが、今は民族主義だけが前面に出てしまっている。
果たして、これで韓国の将来はいいのか。
参照: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2006・08・15





最新の画像もっと見る