戦陣訓

2006年09月30日 | news
私の中の日本軍


今だに戦陣訓神話を信じる読売新聞の渡辺恒雄は、死の前に「私の中の日本軍」(山本七平著/文春文庫)に収録されている山本七平氏と安岡章太郎氏のマスコミ批判を読め!と言っても既に手遅れか…。
  

 「私の中の日本軍」は、戦史を研究する者、マスコミを批評する者、そして国防軍の再建をめざす者の必読書である。

 占領憲法有効論者の中には、職業軍人が我が世の春を謳歌する時代に逆戻りすることを恐れる余り帝国憲法復活改正論に反対する人がいたが、満州事変が国民の親軍感情を引き起こした後も、帝国軍人に対する待遇は驚くほど低いものだった。これは、日本が経済小国で、職業軍人を含め国民の圧倒的大多数が貧乏を甘んじて受け入れなければならなかった時代の定めとも言えるが、国民の代表である政府と議会が国防という重大な任務を遂行する軍人に対して任務に相応しい待遇を与えないと、軍人は必ず国民に仇をなすということを我々は肝に銘じなければなるまい。

 山本七平氏は「私の中の日本軍」を執筆した動機について次のように語っている。


 「本書執筆の動機の一つは、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の百人斬り競争という昭和十二年の、まことに悪質な戦意昂揚記事という名の虚報に接したことであった。この記事は、資料として全文を掲げてあるから、本書を読まれる前に、まずこの記事を精読していただきたい。しかしいかに精読しても、戦後の読者にはおそらく、なぜこれを虚報と断定しうるのか、わからないであろう。無理もない。昭和十二年の時点でも、これだけではわからなかったぐらい巧妙なのである。

 そのことは、帝国陸軍というものが、さらに日華事変、太平洋戦争なるものの実態がその時点ですでにわからなくされていたからに外ならない。そして戦後の言論の自由は、この種の虚偽をはぎとるべきなのに、驚いたことには、朝日新聞の本多勝一記者が、殺人ゲームという記事を虚報と批判されたとき、断固たる事実である証拠として提出したのが、この百人斬り競争であった。

 何ということであろう。戦争中の虚報が戦後三十数年たってもなお、断固たる事実として通用するとは!

 私にはこれが不思議であった。戦争中の虚報を事実とすることは決して『戦争体験を忘れるな』ということではない。否、このような戦意昂揚記事という名の虚報で国民を欺いたことこそ、新聞にとっても読者にとっても、忘れてはならない戦争体験の一つのはずである。ところが不思議なことにこういう考え方はされず、かつての戦意昂揚記事の信憑性を少しも疑わず、これを対中国懺悔の資料とすることが正しい態度であり、これを疑問視することは反省の足りない証拠だとされる始末であった。

 まことに不思議である。昭和十二年当時、もしこの記事を虚報だと論証したら非国民だっただろう。そして戦後三十年余たつと、別の観点からこの記事を虚報とすれば、やはり別の意味の非国民とされるのである。そして虚報の奥の実態は触れようとせず、それでいて戦争体験を忘れるなと言っているのである。

 もっともこれは一つの動機であって、それ以前から日本軍や今次の戦争について、実に確固たる戦後神話とも言うべきものが出来あがっていることも、折に触れて感じてはいた。

 たとえば横井さんが出て来たとき、すぐにその原因は戦陣訓ということになり、私自身も取材を受けたが、私は戦陣訓など読んだことはないし、部隊で奉読されたこともないと言っても、その人は信用しない。私は自己の体験を語り、その人は戦後生まれで軍隊を知らないのに信用しない。

 また私自身、軍刀をぶら下げていた人間であり、本書に記したように、それで人体を切断した体験のある人間だが、その体験者が百人斬りなど日本刀の強度からいってあり得ないと言っても、人は信用せず、相変わらず戦時中の虚報や戦後神話を信じ続けているというのが、戦後の実態であった。それでいてその人は、戦争中の日本人が、大本営発表や新聞の戦意昂揚記事に、いとも簡単にだまされていたことを不思議がるのである。
 これはいったい、何としたことであろうか。」


 安岡章太郎氏は山本氏を補足して次のように解説している。


 「山本さんは自分がフィリピンの山奥で苦労した話が書きたくて、これを書いたのではなかった。書いたのは、こんどの戦争で大勢の兵隊が死んだが、それは無謀で愚劣な作戦に巻き込まれたためであって、何も戦陣訓に支配され拘束されていたためではないということが言いたかったのと、それを何も知らないマスコミ・ジャーナリストたちが、さも戦陣訓が日本軍隊を魔術にかけて支配し、一人一人の兵隊はみんなそれにダマされて死んで行ったように、頭から信じ込んでいるのが我慢ならなかったからである。

 山本氏のこの怒りの中には、現代のジャーナリストが、戦時中の日本人が大本営や当時のマスコミにダマされていたと思いこんで疑わないのは、じつは彼等自身、現在の日本人をマルめこんで指導している気になっているからだ、という思いもひそんでいる。

 戦陣訓に戻っていえば、私自身も一年半の軍隊生活で戦陣訓を強制的に講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。
 しかるに現代のマスコミは、なぜ戦陣訓を重視したがるのか?それは山本氏も言うように、戦陣訓は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか。」


 豊富な戦場体験を持つ山本氏と安岡氏のマスコミ批判は、辛辣を極め真実を穿っている。
 「私の中の日本軍」の文庫版が刊行された1983年から23年もの歳月が流れ、良かれ悪しかれ日本の社会は大きく変貌したのに、その中で日本のマスコミのみが変わらない。とくに朝日新聞に代表される左翼マスコミがそうだ。彼らの頭脳は完全に化石化して進歩できないのだろう。

 拙者が推測するに、現代のマスコミが、依然として「戦陣訓」の本訓其の二第八「名を惜しむ。恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、愈々奮励して其の期待に答うべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」を重視したがるもう一つの理由は、陸軍大臣として昭和16年1月8日に戦陣訓を布達した東条英機の敗戦責任を少しでも重くして、日本の総理大臣や内閣閣僚が靖国神社を参拝することはケシカランという論陣を張りたいがためであろう。

 戦陣訓第八中に「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」いう一節が盛り込まれたのは、支那軍が食人風俗を丸出しにして日本軍の捕虜を虐待虐殺していたからなのに…。

 だから東条英機の評価を上げる数々の史実、例えば戦陣訓が無視されていたこと、東条英機が関東軍参謀長として満州国に逃れてきたユダヤ人の救出に協力し、首相兼陸相として日米和平交渉をまとめようとしたこと、インド政府がインド独立の恩人として東条英機と帝国陸軍を挙げ、日本に感謝を表明したこと等々を、日本のテレビ・マスコミは絶対に報道しない。

 連中は日本国民をマルめこみ、支那や朝鮮の言い分を通すためならば、平然と偏向捏造拒否歪曲隠蔽報道をやってのける。

 マッカーサーらGHQの対日占領作戦の中で最も罪深いものは、朝日新聞と毎日新聞を解散させなかったことだ。


大東亜戦争の真実を伝えたい何でもそろう便利屋です: 私の中の日本軍
http://oncon.seesaa.net/article/17542111.html





2006/08/29 6:44 PM posted by: 某
戦陣訓はCoolさんが考えるようなボリュームを持っていないのです。
左翼によって粉飾されているだけ。
つまり、「東条は戦陣訓によって兵隊を餓死させた!にもかかわらず己は虜囚の辱めを受けた!卑劣漢だ!ああ大日本帝国は醜い!」という物語を作る為に、ボリュームが粉飾されたのです。

これは、いわゆる「脱亜論」と同じ構図ですね。
いわゆる「脱亜論」も、本来は時事新報(現在の産経新聞)の社説に過ぎないのです。
しかも脱亜論というタイトルさえありませんでした。
歴史を動かす力などありません。

現在の産経新聞の社説…例えば昨日の社説でも良いですが、それに歴史を動かす力があるでしょうか?
あるわけが無い(笑)

それに、いわゆる「脱亜論」とは、勝海舟が提唱していた「興亜論」に対する反論に過ぎなかった。
そして、代表的な興亜論者だった樽井藤吉が『大東合邦論』を書いた。
『大東合邦論』こそ、日韓併合や大東亜戦争のファンデーションです。

つまり、日本を破滅に導いたのは、いわゆる「脱亜論」とは正反対の思想だったのです。
「アジア主義」という現実を見ない理想主義が、容赦の無い現実の前で変質し、結果として、ああなった…という事です。

ところが、現在の左翼はおおむねアジア主義者ですから、この事実が辛い。
だから、福沢諭吉に濡れ衣を着せる為に、時事新報の社説を大々的に粉飾した。
そして「脱亜論神話」が完成した。

…山本七平が言う「戦陣訓神話」の成り立ちとそっくりです。
今や石原慎太郎みたいな人までが、この「戦陣訓神話」を使って、東条を罵っている。

では「戦陣訓神話」を使用して世論を誘導する人々が、本当に「戦陣訓神話」を妄信しているのか?と言えば、実はそうでもないのです。
使いやすいから使っているだけなのです。(笑)

東京裁判の諸判決をサンフランシスコ条約で受け入れる事で戦後秩序が完成した。
この戦後秩序はフィクションです。
フィクションをフィクションとして受け入れれば良い。
それだけの事です。

ところが「これはフィクションだ!」と言って、戦後秩序を破棄しようとする人がいる。
愚かな事です。
しかし、フィクションをノンフィクションであるかのように偽装する事は、もっと愚かな事のような気がする。
こういうのを「原理主義」って呼ぶのでしょう。

ちなみに東京裁判では日韓併合は無罪です。(東京裁判は満州事変まで)
つまり日韓併合に対して謝罪しない事が、「フィクションとしての戦後秩序を守る事」なのです。(笑)
サンフランシスコ条約って、実は日本の大切な武器なんですよ。



山本七平氏の『私の中の日本軍』です。(上巻 P.146)

(ジャングルの中で飢えとマラリアにバタバタと兵士が倒れる状態の中)
『ではそんな状態にいて、いずれ近々死ぬことが分かっていて、なぜ投降も降伏もしなかったのか、という疑問は、当然誰の頭にも浮かぶであろう。投降も降伏も念頭になかったのは、もちろん明確な具体的な理由があるからである。(中略)ただはっきり断言できることは、私たちの場合は『戦陣訓』はなんら関係が無かったということである。私自身『戦陣訓』を読んだこともなければ、読まされた記憶もなければ、講義されたこともない。第一、一度も手にしたことがないから、一体全体どんな本なのか、その外観すら知らない』。

(同書下巻 P.339)
『横井(庄一)さんのとき、まず驚いたことは、マスコミがいきなりそれを『戦陣訓』に結びつけた事であった。(略)『報道の偏向』とは実に恐ろしいことである。横井さんの時、私はある週刊誌記者に、私自身『戦陣訓』を読んだことも、読まされたこともないし、軍隊でこれが奉読された記憶もない。従ってその内容も体裁も知らない、と言ったが、その人は私の言葉を信用しなかった。(略)その人は戦後生まれだから日本軍なるものを全く知らない。それでいて、『戦陣訓』が一兵士に至るまでを拘束し、戦後三十年近く横井さんを拘束し続けたと信じて疑わないのであった」。


(同書上巻 P.168)
『横井さんの時も、多くの記者が取材に来たが、「二十七年間のジャングル生活を『戦陣訓』が規制し続けたなどということはあり得ない』と私がいくら言っても、誰一人うけつけず、「本当ですか」「考えられませんね」「それこそあり得ないと思いますね」を連発するだけであった。

安岡章太郎氏は、(同書下巻 P.340)

『『戦陣訓』に戻って言えば私自身も一年半の軍隊生活で、『戦陣訓』を強制的に読まされたり、講義されたりしたことは一度もない。それは軍隊内で、いわば体よく無視されていたと言えるだろう。しかるに現代のマスコミは、なぜ『戦陣訓』を重視したがるのか?それは山本氏も言うように『戦陣訓』は実は当時のマスコミにかつぎ上げられてマスコミの中だけで拡まっていたものであり、それは現代のマスコミにも体質的に通い合うものがあるからではないか』。

coool! | 歴史事実と歴史認識
http://coool.jugem.cc/?eid=281#comments





722 名前: マンセー名無しさん 投稿日: 2006/08/22(火) 15:10:26 ID: glZmuSvk
 8月19日(土)のウェークアップ・プラス(よみうりTV系)で、靖国参拝に関する討論会がありました。
その中で民主党の仙石議員が、「『生きて虜囚の辱めを受けず』という“戦陣訓”が、南京大虐殺を生んだ」という
意味の発言をしていました。
皆さんもご存知の通り“戦陣訓”は昭和16年、いわゆる“南京大虐殺”があっととされる年は、昭和12年です。
自虐史観に染まった左翼人士の、史実に関する基本的知識の欠如を露呈した格好でした。

仙石議員の寝言はともかく、問題なのは世耕・稲田両議員がその場にいながら、この発言に対してたいした反論を
しなかったことです。(そんなバカな?と言う声が聞こえた程度です)
特に稲田議員は「100人斬り訴訟」にも加わった、いわばこの件に関するエキスパートです。
仙石のあまりのお馬鹿ぶりに、呆れて固まってしまったのかもしれませんが、やはりあの場では時系列を示したうえで。
きっちりと討ち取って、左翼の妄想癖を視聴者に晒してもらいたかったです。

この件に関して稲田議員と関係の深い日本会議にメールをしたところ、
「情報提供に感謝します、さっそく稲田事務所に連絡しました」との返事を頂きました。

※問題のシーン(壇君より、16分あたりから、右クリック→対象をファイルに保存すれば、早送りができます)
http://kamomiya.ddo.jp/Library.html
2006年8月19日 ウェークUP/小泉首相の靖国参拝是非・後編、他

*「『生きて虜囚の辱めを受けず』という“戦陣訓”が、南京大虐殺を起こした」、「日本人がそう考えていたから敵国の捕虜も必要ないという心理が働いた」と発言。



<戦時中の米国の対日行為>

 以下は本で知った話です。戦時中米国のグラフ雑誌の表紙に、少女が前線の兵士に手紙を書く場面が写されていますが、そこに前線の兵士から送られた、死んだ日本兵の"しゃれこうべ"が置かれていたのです。これは戦時中日本で報道され、"鬼畜米英"のフローガンの原点になったらしいが、こんなことの報道は勿論占領期間中は厳禁されています。ですから、今の日本人には戦時中の"鬼畜米英"のスローガンは、人道的な米軍の実態とはかけ離れた、日本の軍国主義の宣伝に国民が嫌々従ったものと理解されているのです。日本の民間人の集団自決が日本軍の命令によるものであるかのように伝えられ、自決せずとも"人道的な"米軍に助けられたと言う風に思われているようです。でもグラフ雑誌でアメリカ人の本性を知っていた戦時中の日本人は本当に"鬼畜米英"と思っていたはずです。

 戦争中には、聯合国による戦争犯罪行為もかなりあったことは、インバール作戦などの戦記にも負傷した日本軍将兵にガソリンをかけて焼き殺した光景が遠くから見えたとの記述に残されていたと記憶します。その最大の残虐行為は非戦闘員に対する原子爆弾による無差別殺傷です。


<原爆被害写真>

 検閲、言論統制が厳格に守られたのは広島・長崎の原子爆弾の被害写真でした。小学校時代5年生の時、サンフランシスコ平和条約が発効した昭和27年ですが、我々は初めて、アサヒグラフで原子爆弾の凄惨な写真に戦慄したのです。

 これは占領期間中は絶対に報道されませんでした。仮にポツダム宣言による報道、言論の自由が確保されていれば、戦後直ぐにこの写真は公表されていた筈です。その場合に果たして、聯合国が極東軍事裁判が「平和に対する罪」「人道に対する罪」で日本の指導者だけを裁くことが出来たでしょうか。原爆被害写真が公表されるのは「閉ざされた言語空間」の中で日本人が、占領軍が与える材料と統制、管理の結果、米国が望むような戦争観、米国観を日本人が抱くように出来上がってからのことなのです。つまり、原爆被害写真を見ても、日本人は、米国には無害化されていたのです。

「あの戦争に何故負けたのか」(文春新書)から考える(二):西尾幹二のインターネット日録
http://nishiokanji.com/blog/2006/08/2_4.html


戦陣訓 - Wikipedia

戦陣訓(せんじんくん)は、1941年(昭和16年)1月8日、当時の陸軍大臣・東条英機が示達した、陸軍軍人としてとるべき行動規範を示した文書。島崎藤村が文案作成時に参画した。
敵の捕虜となることを戒める本訓其の二第八「名を惜しむ」の「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の一節が特に有名であるが、反面、占領地住民に関して「仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」との注意もあった。
太平洋戦争中の日本陸軍兵士の行動を強く支配し、捕虜になる事を拒否しての投降呼びかけ無視・おびただしい集団自決、沖縄戦における住民虐殺や敵軍の捕虜への虐待などを引き起こす原因となったとの説もある一方で、陸軍で小隊長を務めていた経験のある司馬遼太郎が「そんなものがある位の事は知っていたが、特に意識もしなかったし、暗誦させられたこともなかった」とエッセイで語ったように、実際にどれほどの拘束力があったのかは不明とする見方もある。ただし、太平洋戦争を通じて日本軍が組織的な降伏を行ったことは皆無であり、この戦陣訓が守られていたこと自体は事実であると言える。
内容から、葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」の一節と混合されるケースがあるが、この一節は「自身の死を意識して常に真剣に生きる」と言う意味であり、「生きて虜囚の辱めを受けず」とは意味が違う。




訃報:ガバルドンさん80歳=「サイパンの笛吹き男」

 ガイ・ガバルドンさん80歳(太平洋戦争中、サイパン島上陸作戦に参加した元米海兵隊員)ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)によると、8月31日、フロリダ州で心臓病のため死去。 44年6月、海兵隊2等兵として南太平洋のサイパン島上陸作戦に参加。同紙によると、玉砕戦を挑む日本軍に対し、「一匹おおかみ」と自ら名付けた「説得作戦」を提案し、実行した。日本軍が潜む洞くつなどに1人で夜間に潜入。片言の日本語で降伏後には尊厳をもって取り扱うことや、日本への帰還を約束、1日に約800人の日本兵を連れ出すなど計1000人以上を降伏させ、「サイパンの笛吹き男」と呼ばれた。この活躍ぶりは後にテレビドラマや映画にもなった。(共同)毎日新聞 2006年9月5日 13時36分

訃報:ガバルドンさん80歳=「サイパンの笛吹き男」-訃報:MSN毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/fu/news/20060905k0000e060086000c.html

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