寺子屋ブログ

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樋口一葉について(島原de寺子屋)

2009年01月26日 09時29分41秒 | Weblog

 土曜日に、長崎県の島原市にある島原市立森岳公民館にて寺子屋を実施いたしました。

 この公民館では、地域の小学生(主に学童の子らしいです)を集めて、『放課後子供教室』と題して、普段から漢文や古典などの素読を行っているユニークな公民館です。

 こちらの職員の方で、私共の事業に関心を示してくださり、以前より「水天宮de輪読会」や「赤煉瓦de偉人伝講座」に長崎から参加してくださった方が、今回のきっかけを下さいました。

 今回は、主任講師の三林浩行が、「イチローと樋口一葉」を話しました。

 大牟田の三池港から船便もあるようですが、当日は天候の不安があったため、電車を用いて向かったようで、片道3時間かかったようです。

 おかげさまで、地域の子供達やその保護者たち、合わせて100名程度の参加をいただき、大変盛会でした。終了後、子供達が、「パネルを見せて欲しい!」と講師の近くに寄ってきてくれた写真がありますので、ご紹介します。
 (ちなみに、三林の身長は公表しておりませんが、ご覧の通り背が高いです。登壇時に前に座っていた子供さんが「うわぁ…」と言ったそうです。)

 さて、今回は「樋口一葉」について少しご紹介します。

 森岳公民館でも、子供達に樋口一葉の言葉
 「わがこころざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといへども賞をまたず、労するといへどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろがるべし」
 を素読させました。


 現在五千円札の肖像にもなっている彼女は、明治5年~明治29年というわずか25歳の生涯でした。
 17歳で父を亡くし、家を継いで母と妹を支えながらの生活を余儀なくされますが、『小説家になって家計を支えたい』と考え、小説の勉強をしながら、駄菓子屋兼雑貨屋を営んだりしていたようです。

 この生活がのちに「たけくらべ」という小説につながっているようです。

 私が感動したのは、彼女が無名時代に記していた「塵中日記(じんちゅうにっき)」には、ひがんだり、くさったりするのではなく、日清戦争をむかえつつある我が国と周辺国の国際関係や、政界の腐敗などに対して自分なりの見解をしっかりと持っていたところです。

『…よしや物好きの名に立ちて、のちの人のあざけりをうくるも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねて、なすべき道を行はんのみ。』

 として、物好きが、と、後の人々に笑われるかも知れないが、この(混沌とする)時代に生まれ合わせた身であるならば、何もしないで終わるわけにはいかない、そのために、自分のすべき使命を見つけ、その使命を果たしていくことが必要だ、と解釈できると思います。
 その上で、

『 さても恥ずかしき女子の身なれど、
  吹きかへす秋のゝ風におみなへしひとりはもれぬのべにぞ有りける   』
 

と「女の身であるが…」としながら和歌を詠んでいるのです。

 「吹きかへす秋のゝ風」とは、日清戦争前夜の日本の様子と、帝国議会の混乱ぶりを、吹きすさぶ秋風にたとえています。


 「おみなへし」とは「女郎花」とも書きますが、秋の七草の一種です。秋のの風に吹かれる女郎花を自分と重ね合わせているのです。

 「ひとりはも(漏)れぬものにぞ有りける」とは、女性ながらも自分一人がこの局面を傍観するわけにはいかない、と、気概を込めた表現だと言えます。

(草思社刊『名歌でたどる日本の心』より抜粋引用)

 肺結核でわずか25年しか生きていない樋口一葉。ちょうど注目を集め始めた頃に他界したわけですが、私は、彼女の作品もさることながら、こうした日々の「気概」のようなものこそ、彼女が努力できた要因であり、また彼女をお手本としたい姿の一つだと考えています。

 尚、途中で紹介しました「名歌でたどる日本の心」(草思社刊)は、弊社代表の山口も分担執筆しております。弊社にも置いておりますので、ご希望の方には販売いたします。どうぞお申し付け下さい。

(文責:横畑雄基)


 


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