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明石元二郎さんのお話 その3

2006年12月08日 13時08分29秒 | Weblog
先日に続きます。

 帝政ロシアは、東アジアでの南下政策を進め、日本と対立するわけですが、ヨーロッパ側では、スウェーデン・フィンランド・ポーランドなど、ロシアの威圧・従属下にあった地域があります。また、国内には「農奴」とよばれる下層の人たちもおり、帝政ロシア内部には不安要素がたくさんありました。
 こうした状況を分析し、明石元二郎は、日本政府から10万円(現在では100億円の価値)の機密費を得て、反ロシア勢力に資金提供をし、活動を支援したのです。この結果、ロシア国内では、ストライキ・デモ・ロシア軍の動員妨害、反戦運動などが頻発するようになります。

 1905年1月9日には、待遇改善を求めてロシア皇帝に直訴しようとした数万人の労働者に軍が発砲し、多数の死者を出す「血の日曜日事件」が発生し、ロシア皇帝に対するロシア民衆の支持が薄れます。これも、明石元二郎に資金提供を受けたガボン神父が画策したものです。
 また、日本海海戦で我が連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を殲滅した後も、いっそうロシア国内の社会的不安を増大させるため、6月29日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで下士官兵の反乱を扇動させました。
 こうしてロシアは、国内の不安定要素が積み重なり、1905年9月5日に日露の講和条約が結ばれるに到ったのです。

 こうした一連の動きを「明石工作」と呼びますが、明石元二郎一人の活躍が、陸軍10個師団に匹敵するとも言われます。
 また彼は、反ロシア勢力に大盤振る舞いする一方で、自らの生活は切りつめ、最終的にはその3割程度を日本政府に返金したと言うことです。
 日露戦争では、「乃木希典」「東郷平八郎」という英雄の活躍も見られますが、明石元二郎という人物の活躍がなければこの戦争の勝利はなかったとも言われます。
 
 この明石元二郎は、後に台湾総督となり、台湾人と日本人が均等に教育を受けられるようにしたり、水力発電所を建設したりと台湾統治に善政を引き、1919年に亡くなります。その後、遺骨は台湾に埋葬されているそうです。

 本日12月8日は「大東亜戦争」開戦の日ですね。戦争は、ただ領土的野心・天然資源確保のみを目的としているものではなく、様々な交渉の末やむなく行われることが多いです。日露戦争で立ち上がった我が国に対し、アジアアフリカの有色人種や、東ヨーロッパの国々はかなり勇気づけられたというエピソードはたくさんあります。こういう歴史の側面も、我々の歴史として知っておく必要はあると考えます。
(文責:畑雄基)

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