つらつら日暮らし

10月10日 「目の愛護デー」

今日は目の愛護デーらしい。一〇月一〇日、この「一〇」を縦にすると、眉毛と目に見えるので、「目の愛護デー」になったとのこと。

一 一
〇 〇


こんな感じ。以前なら、この日に「体育の日」もあったが、「ハッピーマンデー」になり、更には「スポーツの日」になり、ということで、大分変わってしまった。そのため、今日に残った「目の愛護デー」を記事にしようと思う。早速、以下の一節をご覧いただきたい。

五葉華開けて六葉を重ぬ、青天白日明無きに似たり、
若し人我れに問わん何色を看ると、此れは是れ瞿曇の老眼睛。
    道元禅師『永平広録』巻10-偈頌88、雪頌六首の一つ


五葉の華というのは、五つの葉っぱがある華、という意味ではなくて、五つの花弁を持つ花の意味であり、梅華などに譬えられる。そして、仏法の悟りにも譬えられる。達磨大師の伝法偈に「一華開五葉」とあるが、これは花弁が五つある一つの華が開いたという意味であり、絶対の一にも、相対の五にもとらわれのない融通無碍なる様子を示した語句でもある。

そして、道元禅師は雪の中に咲く白い華を以て「六葉を重ぬ」としている。雪は六個目の花弁になった。いわば、ここには華が華としてありながら、雪に交じり、雪は雪でありながら、華に交じる様子を示された。また、同じようにこの白一面の世界には、青天も白日も明るさを失った如くに融通しているという。しかし、「六葉」という言葉、まさか、六祖慧能禅師のことを暗示しているのだろうか?無いとは思うが、一応までに挙げておく。

ここまで絶対一元の世界を示して、更に問われる。それであれば一体、この眼は何の色を見ているのか?と。この色とは当然に色彩でありながら、同時に存在そのもの(=色即是空の色)を問うておられる。道元禅師の答えは、瞿曇の老眼睛であるとされる。釈尊の老いた眼だが、これは仏法そのものを指し、その普遍性自体を示される。

恁麼の見成活計は、眼睛なり。山河大地、これ眼睛露の朕兆不打なり。秋風清なり、一老なり。秋月明なり、一不老なり。秋風清なる、四大海も比すべきにあらず。秋月明なる、千日月よりもあきらかなり。清明は、眼睛なる山河大地なり。
    『正法眼蔵』「眼睛」巻


上記一節は、道元禅師が如浄禅師が瑞巌寺の住持だった頃に行われた上堂語から引用して示された提唱だが、見成の活き活きした様子とは、眼睛に外ならないとされ、更に我々にとって対象物とおぼしき山河大地は、眼睛露であるとされる。秋風の清らかなるは、老僧であり、秋月の明らかなるは老僧ではないという。これは、如浄禅師を験しておられる。なお、老僧であるかどうかは、字義通りに捉えてはならない。老僧であるというのはしばらく置くも、老僧ではないというのは、秋月の明らかなる様子がまさに、老僧そのものであり、一体であり、一如であり、今さら両者並列することも出来ないことを示す。

そして、秋風の清らかなるを四大海とも比すべきではないということ、或いは秋月の明らかなるが、あらゆる日月よりも明らかだという時、我々はここに絶対の眼睛を見るべきだという。絶対の眼睛とは、先ほども述べたように、瞿曇の眼睛、釈尊の仏法である。仏陀の眼であるが故に絶対であり、一切が仏陀の眼そのものであるともいえる。我々にとって眼というのは、今この「文字」「文章」を見ているまさにその一器官だと思っているが、実際には我々の「視界」とは「視界」である。そして、「視界」こそ、一切が存在しているように普段は考えている。

ただし、存在は遠くを見ているという「経験」に於いて存在しており、その経験の中に、我々の眼も、対象物もあるとなれば、経験自体が「我が箇裡」にある以上、この経験に於いてある一切は、我が絶対なる事実ということになる。そして、この「我」は、仏法の我である。普段は絶対にそれに気付くことはなく、ただ漫然と、対象物に価値付けているだけの「私」。しかし、その「私」或いは「対象物」、そして「眼」がどこにあるかを反省した時、一切の現象の様相は一変する。

道元禅師が「何色を看る」と問いを発するに、我が信念を任せきる時、我々はその問いと共にあり、そして「何色」を看ていることを知る。瞿曇の眼睛である以上、それは特定の色を示すことは出来ず、いや、常に「何」としか言えない色である。この一定の限定と、限定が無に帰するその「あわい」に位置する物こそ、瞿曇の眼睛であり、「何必なる見成」ともいう。

法だとか、普遍だとか、そういう言葉を述べると、ついつい、何か地平線すら見えないような広大にして堅固なる大地を想像する方がおられるかもしれないが、その堅固さは、イメージとして誤っている。正しきイメージは、そのような事象を捨象して、操作された思念上にあるのではなく、今まさに目の前にある現象そのもの、或いはその現象を現象たらしめている・・・を正しく把握するところにある。目の愛護デーということから、仏法の眼という話に至ってみた。

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