つらつら日暮らし

江戸時代の僧侶教育と『正法眼蔵』について

ちょっと興味深い一節を見出したので、参究してみたい。

一 行鉢は朔望二十八日、毎月三度なり、故へあれば侍者寮より触れ出し休むる也、袈裟を搭することは、暁天より夜坐に至る迄、一座もかく不可、行鉢は新到初心の僧に能く教訓ある可し、此の事諸山になしと云て、悪言を吐く雲衲は好与無数棒たるべし、これを永祖の親伝を未夢不見の漢と云て、近くは鉢盂の巻、袈裟功徳等の巻を拝看すべし、衣鉢の護持は九旬中方丈和上より教訓ある可し、
    『太平山諸寮日看』「侍者寮要看」、『曹洞宗全書』「清規」巻・750頁上段


まずは以上の通りだが、現在の埼玉県内に所在する太平山龍淵寺山内で用いられていた『諸寮日看』の一部を採り上げてみた。これは、「行鉢」とあるので、いわゆる鉢盂(応量器)を用いた食事についての話をしているものと思われる。そして、当時は毎月3回程度しか行っていなかったようなのだが、その3回も、他に理由があれば休む場合もあったことが分かる。

それにしても、拙僧が気になった理由は、「意外と行鉢してなかったのか」という印象を得たためである。当日看は内容から、明和9年(1772)以降の成立が確実だが、その時代に、余り行鉢していなかったということになる。そのため、上記の内容は、極めて初心者向けの教示となっているのである。

ただし、気になる指摘も見られる。まず、袈裟を着けている時間だが、暁天(後夜)から、夜坐に至るまで、一座も欠いてはならないとしている。しかし、本来大衆は、暁天は着けないし、途中の晡時なども着けなかった。これは『弁道法』を見れば一目瞭然だが、意外と共有されていなかったのだろうか?

そう思わせた原因として、続く文章はいわゆる「行鉢」についての指摘だが、それを実施するために、新到(同寺の安居に来たばかりの僧侶)や初心(そもそも仏道修行の初心者)に対して、教訓をすべきだという。一方で、慣れていなかった新到・初心から、「他のお寺では行鉢をやっておりませんが」みたいな悪言を吐かれた場合は、無数の棒をくれてしまって良いとしている(現代は、コンプライアンスの問題から、これは避けるべきであろう)。

そして、当日看では、そういった行鉢に否定的な者を、「永祖の親伝を未夢不見の漢」と断定し、その上で、『正法眼蔵』「鉢盂」「袈裟功徳」巻などを学ぶように促すべきだとしているのである。ただ、この辺、拙僧的には「?」となった。確かに、「鉢盂」「袈裟功徳」両巻は、「衣鉢の護持」についての理解は進むと思う。よって、文末の方丈和上(要するに住職)からの教訓に繋がることは分かるが、とはいえ、作法的な問題は解決しない。

その辺はやはり、『赴粥飯法』なり、『弁道法』なりを読んで、理解すべきだといえる。だが、先ほども指摘したように、袈裟を着けている時間の指示でも、『弁道法』が参照された形跡が無いので、どうやら同寺には『永平清規』6巻が収蔵されていなかったようである。一方で、加賀大乘寺の山内清規『椙樹林清規』は参照されているため、まったく情報が無かったわけでもないであろうし、『永平清規』は寛文年間の開版以降、一定数は世に出ていたはずなので、拙僧的には理解に苦しむが、当日看からだけでは知り得ない理由でもあったのだろう。

拙僧的にはそういった些末なことより、新到・初心の雲衲にまず、『正法眼蔵』を使って指導しようとしていたこと、それ自体を評価したいと考えているのである。

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