たろおの小屋

昼間は「聖職者」を演じる永遠の若造「たろお」のつぶやき。
仕事,家族,後遺症・・・。感謝の日々を綴っています。

黎明編【「この人には教員しかできないから!」】

2024-03-25 14:44:21 | 脳出血・失語症
 社会復帰にあたり、医師やリハビリの先生方と、ソーシャルワーカー、そして私と家内で「会議」を設けた。
 私は「座っているだけ」であったが、いくつかの「新しい職場」の資料が示されていた。
 それに対してと、家内の一喝で会議が終わったことを記憶している。
「この人には教員しかできないから!」

 そして、言語の先生とソーシャルワーカーが顔を見合わせて、困った表情をしていたことも…。病院におると、
「教員という仕事がどんが具体的に何をするのか?
 どんな支援が必要になるのか?
 まして、教育委員会ではどんな仕事をするのか?
 私たちには前例がないので、復帰のための支援ができないのです。」
という内容であったらしい。

 その後、
「年越しは家庭で迎えたい。」
という私の強い希望によって12月末に退院。家内曰く、
「1月まで、できるだけ長く入院していた方が、保険が多く貰えたのに…」
という思惑があったらしいが、私は兎に角、家でのんびりと過ごしたかった。

「12月末に退院⇒在宅療養⇒4月に職場復帰…」
と、7か月の療養休暇を終えた。
 その後も
「毎週⇒隔週⇒毎月…」
のリハビリ通院を半年間続けた。先生からは
「せめて1年間のリハビリを…」
と勧められたが、
「指導主事の仕事の内容や通勤、他人を会話すりこと…それ自体がリハビリ。
 休日は療養したいので…。」
と半年で「卒業」させて頂いた。

 その中で、先生から
「仕事の内容は詳しくはわからなかったけれど、学校という職場は仲間に優しいのですね。
 社会復帰の過程で同僚から認められずに退職する人が多い。
 岡本さんは幸せですね。」
と教えてもらい、
「まったぃ、その通りです。」
と答えた。

今から思えば、市教育委員会として
「過重労働で訴えられる可能性がある。」
という懸念もあったのだろうか?
 実際に、
「訴える!」
といきり立っていた家内を、私が
「仲間を訴えたくない。」
と止めたらしい。
 その教育長の思惑と、私自身の判断が正しかったのかどうかは、数年後に明らかになる…かどうかは定かではない。

 家内の一括と同僚の思いやりに支えられて、私は職場に復帰することができた。



【再起動編】へ続く…



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