【六人部 ぶらぶら 2008~ 】再改訂版

福知山市六人部学区を清流土師川の流れに沿って撮影した写真を掲載して月二回の日記風に綴った写真版・新六人部見聞風土記。  

楽しかった上六・古道京街道めぐり ①

2008-06-28 14:14:58 | Weblog


ただいま編集中ですが よかったら ご欄ください。

2008.6.28.早朝時点でのアクセス総数のご報告

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楽しかった上六・古道京街道めぐり ① 


2008.6.29.日曜日午前9時 集合場所は萩原新町公園でした。
心配された雨も無く、古道京街道めぐりは始まりました。

リポート①はマツプ18番の郡是製糸工場記念碑~生野区にある
宿場町14番の跡に立つ旧上六保育園までをご紹介します。


①定刻には上六地区の子供達と公民館関係者それに、筆次郎のような地区の希望者が集まりました。


②はじめに 上六公民館長さんの歓迎のご挨拶がありました。後列のみなさんは今回の意欲的な企画・運営にあたってくださった 青少年健全育成会の役員のみなさん方です。ご苦労様ですが よろしく。


③ 今回のメイン解説者の地域活性化部の委員長はこの日すごく気合が入っており、これから訪れる郡是製糸工場跡の概要説明の後、どこから入手されたのでしょう 繭玉の実物を子供達に一つ一つ手渡していただきました。私も始めて うわさに聞いていた繭玉を手にして感無量でした。


④続いて見せていただいたのは この繭玉をつくりだす 生きたおかいこさんでした。桑の葉の上で葉を食べるおかいこさんを見たのももちろん初めてでした。子供達が手にしてみているのは 活性化部会の委員さん手作りの繭玉ができるまでを説明した資料でした。興味ぶかく見入る子供達が印象的でした。


⑤参加されたお父さんもデジカメでパチリ。


⑥ では まいりましょう----と呼びかけられたのは この企画の責任者のお一人の青少年健全育成会の会長さんでした。


⑦こうして改めて画像でみますと、ずいぶんたくさんの地区の大先輩も参加されていました。


⑧ いよいよ現地での説明の開始です。郡是萩原工場跡地に建つ記念碑の前でした。多くの方にも聞こえるようにハンドマイクを使われました。


⑧-2 はそのとき戴いた活性化部会の委員の方々の作成された資料です。

一事が万事で委員のみなさんは、すごく気合入ってました。
私達の郷土上六人部をなんとかしたいという熱気の感じられる資料でした。
記念にその1部をデジカメに収めさしていただきました。画像はアップにしましたが---読めるでしょうか ? 


⑨ これは なんと よむのでしょうか?
  我 等 之 ○? 孫? 。後日調べることにしましょう。
  ご存知の方ありましたら コメントの書き込みで教えていただけませんか。


⑩ さて いよいよ 古道・京街道の分岐点①にさしかかりました。右の大きな道路が国道9号線です。




⑩-2  現在使われている市販の地図で言えば、分岐点①はこの当たりになります。先ほどの郡是工場跡地に建つ記念碑は ①の当たりです。それから写真⑦の道はこの地図でいいますと、水色に塗られている道路です。ここは郡是工場が全盛のころは両側にずらつと商店が並ぶ、商店街どおりのような道です。私は当初古道・京街道はこの道だと誤解していました。古道・京街道はこの地図でいいますと赤色の道です。


⑪ 第②の分岐点です。右の道路は200~300mぐらい進みますと国道9号線に合流します。すぐ上の地図にある分岐点2はこの地点です。


⑫ ここは 昔の古道・京街道の面影を残している数すくない場所の1つです----と説明にありました。道幅と言い、両脇の木立の茂みといい なんとなく往時を振り返ることができそうです。


⑬ 皆さんが見つめているものの先には写真⑭のお地蔵さんがあります。


⑭ これがそのお地蔵さんです。この日もきれいなお花が手向けられていました。
この奥は 萩原区の墓地の一つで 萩原の大先輩達が静かに休んでおられます。

ときおり 親しくしていただいたお方のお墓に参らせていただくのですが、何度が新しいお花に出会いました。
土地の方々によつて守り続けてこられたのでしょう。

このお地蔵さまについての伝承については 土地の古老のお方に伺っておきたいと思っています。

お地蔵さまといえば、この六人部ぶらぶらで何度かご紹介した、萩原橋の袂のお地蔵さまも、そこを訪れるたびに 思わず声をかけたくなるお地蔵さまが、あります。


⑮ ここは上六地区で唯一の現役の酒造所です。


⑯ 委員長が説明の最後に 軒下にぶら下がっている 杉玉について 触れられています。これはその年に新酒が無事にできたことを訪れる人達に知らせる意味があったようです。



⑰ 木札には三輪神社のお名前が書かれていました。

杉玉についてもう少し詳しくしりたかったので、よく使わせていただいている
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で杉玉で検索してみました。

杉玉
杉玉(すぎたま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。「搾りを始めました」という意味である。

吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る。

今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。

起源は、酒神大神神社の三輪山のスギにあやかったという。俗に一休の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである。

スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある。

もう少し詳しく 杉玉について知りたいお方の参考に---
このホームページには三輪神社のことも記されています。
http://www.hpmix.com/home/sugidama/C6_1.htm



⑱ みんなが見つめている先には、素晴らしい屋敷があったようですが、通りかかったときには 解体されたあとに、つかわれていた 素晴らしい 建築材が 並べられていました。最近ではこの古木材を再びつかられるようになりましたので、この古材達も どこかで また 何百年とその家屋を支えてくれるのでしょう。


⑲ 生野関係の説明をしたいただいた活性化部会委員のお方は⑲-2の著作を著された生野地区の生き字引さんです。今は市議会でも活躍中です。



⑲-2 この労作は福知山図書館の郷土資料コーナーで見ることができます。
この著作の表紙には

後世に伝えたい ふるさとの歴史

とかかれています。この活性化事業に携わっておられる委員のお方全員の、お心のように感じました。



⑳ 説明は写真21の絵を使っても説明がありました。


写真 21 この絵は同じく委員の中におられる絵心豊かな


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下記に2008.6.30.両丹日日新聞で当日の模様がリポートされていますので、感謝を込めて画像を紹介させていただきます。


楽しみな古道京街道めぐり

2008-06-23 19:38:25 | Weblog

楽しみな古道京街道めぐり

今度の土曜日 6月28日に私のブログ4月24日に紹介させていただいた京街道マツプを作成された上六人部地域づくり協議会活性化部会のみなさんのお世話になって下記のような企画の集いが行われることになった。

主催は上六人部青少年健全育成会で上六人部公民館が共催される。
最近の地域の子供達の顔を見る機会が少ないので楽しみな集いである。


今から二十数年前にこの地に引越して住まわせていただいているのだが、なかなかこのようなチャンスがなかったのでぜひ参加したいと思う。当日は雨天中止なので、照るテル坊主を作りたい心境です。




京街道マップ


4月24日に紹介させていただいたこのマツプによれば、今回は18番から4番まで徒歩で歩くコースである。この地区に関しては この地に生まれて育つた 小学生達のほうが詳しいので、この際 説明をじっくり聞きながら ポイントとなる所をカメラに収めたい。なんか ワクワクするな----- 自分の第2の故郷になった所を 地域の子供達と共に楽しんで過ごしたい。 



借用した 川合村史 **

2008-06-19 11:37:27 | Weblog

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借用した 川合村史



写真①表紙

今回の主人公の旧川合村は、このブログの舞台となっている旧六人部村のお隣さんである。昔 東部六カ村といえば、上・中・下各六人部村と川合村・細見村と兎原村をさしたと聞いていた。



日本地名大辞典によれば 江戸期より明治22年まで 川合ではなく河合郷六ケ村は
①大原村 ② 台頭村 ③ 上川合村 ④ゆり村 ⑤下川合村 ⑥加用村となっている。本史には地図がないので 天田郡三和町区分図に書き込んでみた。この図で六人部との関係を見るとお隣さんということになる。 

以前から機会があれば ぜひ読みたいと思っていた資料に初めてであったのは2008.6.19.のことであった。
訪問治療に出かけている患者さんから よかつたら これ 読んでみたら----といって貸してくださった。貴重な資料なので1週間だけ拝借します---と期限をつけて借用した。
帰宅してすぐ 奥付けをみた。


写真② 奥付け
安物のカメラなのでうまくとれない。知りたかったのは発行年月である。
こう書いてある。昭和62年7月。同年は1987年であるから、いまから21年前につくられた。この著作は多くの住民の方々の深い想いのこもった労作であることは一読して感じられた。

自分のブログに紹介さしていただこうと思った。
順序として 編纂された方々をまず紹介させていただこう。



写真③ これは194ページに記載された川合村史編纂委員の方々のご芳名である。
感謝して転記させていただこう。( )は貸してくださった方のメモ書きである。

委員長  川村  弘殿 (下川合)

 委員  澤田実男殿 (大原) 大槻信男殿 (大原)  谷 光治殿 (台頭)

     片山佐一殿 (台頭) 土井静夫殿(上川合)  和泉正治殿(上川合)

     土佐太郎殿 (ユリ) 中馬太志殿 (ユリ)  川村 健殿(下川合)

連絡協議会 西村辰夫殿(ユリ)

事務局   加藤庄吾殿(ユリ)

印刷は(株)北星社である。 
     



写真④ 目次1


写真⑤ 目次2


写真⑥ 目次3 資料編

私がこの中で、特に読みたかったのは ご苦労されて 集め編まれた 資料編である。

おいおいご紹介させていただくが、今回は編纂された方々の想いの込められた巻頭の言葉と前書きをご紹介させていただく。

文脈に今から見ると気になるところも若干あるが、全てそのまま転記させていただいた。

巻頭の言葉

 町村制の実施以来、川合村と改称されてから六十有余年、此の間、明治、大正、昭和の三代に亘って幾多の変遷や改革を重ね、名実ともに川合村の誇りと実跡を残して発展してきたことでしょう。

 去る昭和三十年三月、町村合併の法令によつて発展的とはいえ、此の川合村がなくなってしまうことは、当時の村民としては懐旧の念切なるものがあり、また先輩諸賢の残された業績とともに、その苦労の数々を偲び敬仰の念禁じ得ないものがあつたことと思います。

合併以来三和村、三和町となってすでに三十年余、川合村当時の貴重な記録、業績がついつい忘れ去られんとしている今日、何らかの形で一編の史につづり後世に残すことはね幾分かでも昔を知る者の当然の責任であると思います。

今回村史編纂委員会を構成して資料の蒐集、執筆にかかりましたが、元老の士はすでに故人多く、また記録をあさつても終戦直後重要書類の焼却とすいう憂き目に合い、年月の経過とともに分散し、何から手をつけてよいか途方にくれるばかりでありました。

なんとかまとめたとはいうものの、内容は資料の不備、不統一、脱落の事項など、またいろいろの制約に災いされて誤りがないとも言えず決して万全なものとは申せません。


しかしながら本史が消え行く川合村の郷愁を残し、我が故郷としての心の糧ともなり、すでに三和町民として活躍されている若き人々のために何らかの参考になることがあれば 幸いとおもいます。

終わりに本史を編集するにあたり、先輩並びに各区民の皆様から貴重な資料の提供を戴いたことに厚く感謝をいたします。

昭和六十二年 月  
                    川合村史編纂委員会

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以上巻頭のことばの原文のままである。

文章修行のひとつとして 昔から書き写しというものがあるが、今回初めて 人様が書かれた文章を書き写してみて 不思議な経験をした。

一字一句書き進まれた筆者の秘められた想いというものが、じわつと伝わってくる。不思議な経験であった。

続いて まえがきを書き写してみたい。

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まえがき

土師川の上流川合川、並びにそれに注ぐ幾多の小流の沿岸部に細長く点在する農家。
四季おりおりには目にしみるような濃いみどりとなり、また燃えるような紅葉、一面をおおいつくす銀世界、水しぶきをあげ子供達が戯れた小川、豊かな人間性があり、朝早くから夕方遅くまで仕事に励み、山の幸を中心に発展してきた、これが川合村の姿でした。

昭和30年3月、この誇りある村が合併した。三和村そして三和町。
爾来30年町では合併30周年記念式典が盛大に開催され、名実共に三和町の基礎は固まりました。が、その反面川合村の里はどうであつたか、昔の風俗は、習慣は、そして産物は----

これらを懐旧するとき、一編の史に綴り残し先輩諸氏の偉業を偲び、美しい郷土として後世の若い人々の胸に故郷に想いをよせる一助ともなれば望外の幸せと思います。


昭和六十二年 月  
                    川合村史編纂委員会

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先にも記したが、大阪に生まれ育ち 家庭を持つて以後 職場の関係で縁あって家内の里のある三岳を中心とした福知山に移り住んだ私達にとって、福知山は家内や子供達にとっては懐かしい故郷であるが、私はなかなか そんな感慨が抱けなかった。しかし歳月の流れは早く いつしか 移り住んで二十有余年が経過した。

また六十路の坂を途中まで登つた今 縁あって 今年から 六人部ぶらぶら2008 や がんばれ東部2008 などのブログを通して 少しづつではあるが 土地の方々との交流も深まり 今では 福知山は私にも故郷と呼べるようになった。

そんな私は その土地に生まれ育ち活躍された方々がつづられたこれらの文章は 書き写しているうちに 書き手の深い想いに静かな感動をしていた。この感動は段階の世代の少し上の世代の私にも 何か突き動かすものがあった。

機会を見て 本史につづられたお隣さんの資料を 時間をかけて少しづつ ご紹介したいと思った所以です。


写真① この川合村史を貸していただいたお宅からの帰路車窓からの光景です。

写真②よく見ると この当たり一帯は丹波栗の産地である。

写真③ 帰宅早々 栗に関する記載を調べてみたら興味ある資料に出会った。

以下の資料は丹波栗なかでも川合栗に関する資料である。(村史103ページ)


写真④これは大正15年11月9日に天田郡川合村農会に対して皇太子のお世話をされていた東宮大夫伯爵珍田捨巳より送られた 丹波栗一箱献上したことに対する御披露状である。伯爵という爵位が時代をもの語つて興味深い。


写真⑤これは昭和三年に行われた御大礼に際し天田郡川合村に栗調達の下命がありその領収書である。発行したのは大礼使であり、宛名として日下部平三郎さんと西山民吉さんの個人名がしるされている。下命に対する領収という表記が時代を反映している。


写真⑥これは同じく御大礼に川合栗を献上したことに対する京都府知事からの感謝状である。今風に言えば宮内庁御用達といえるようで、当時川合栗は今でいうブランドの1つであつたようである。

丹波栗に関する資料の初見は十世紀に編纂された律令書のなかに栗子三石との記載があることが記されている。
さらに元禄5年に発行された本朝食鑑に丹波の山中より出るものを上となす云々のきさいがある。
さらに(村史104ページ)には非常に興味深い昭和48年5月23日付けの朝日新聞の記事が紹介されている。

天田郡三和町ゆりに樹齢250年から300年と推定される栗の木が今年も花をつけた。
クリの関係者は今年(昭和48年)8月に全国クリ祭りが綾部市で行われるのを機会に全国のクリ栽培者に紹介する。

この長生きクリは三和町のユリ地区の中馬隆一さん(78)のクリ縁に7本ある。
どれも幹周りが2m前後で一番大きいのは2.18mもあり、どの木の20~30㎏の実わつけている。クリの木の樹令は25~30年になると虫がついて枯れてします。

まさに怪物である。

同所の地質は表面から20cmまでは珪石まじりで、さらに深くなると山土、品種は丹波中生だが、元木はクリの実生に接ぎ木したものという。
この付近は大正、昭和のはじめ献上クリとしてよく使われており、良質のものが生産されている。-----と。

参考

銀寄(ぎんよせ) これも代表的品種です。
よく言う丹波栗とはこの栗のことです。
形もいかにもエラそうで、まさしく栗の王様です。

http://www.kobaien.com/hinsyu/ginyose1/ginyose.jpg

★栗とは?

日本名:くり。落ちた実が石のようであることから、小石を意味する古語「くり」からこの名になったそうです。英名は"chestnut"。 ブナ科の落葉高木。

原産地:日本、中国 産地:京都の丹波地方。そのほか、茨城、熊本、愛媛など 日本で取れる栗は粒が大きいことで世界的に有名で、甘栗でおなじみの中国のクリやヨーロッパのクリとは違う品種です。冬と夏、昼と夜の寒暖の気温較差が大きい盆地特有の気象条件と栗の生育に適した土壌が良質の栗を育てます。

★栗の歴史

日本では栗と人々との結びつきはきわめて深く、縄文時代から食糧として栽培され、飛鳥時代には特産物にまでなったといわれています。またその木は建築用材としても利用されてきました。中世になると、丹波や山城には栗林を作り、栗を売って歩く商人が京都を中心に活動していたことがわかります。栗の実は食品としてひじょうに古くから利用されていたのです。

★栄養素

主成分は炭水化物。蔗糖,ブドウ糖も含んでいるので甘みにすぐれています。水分は少なくビタミン類が豊富。ビタミンB1、Cを多く含んでおり、消化・吸収のよい健康食品として引っ張りだこ。強い甘みがあってやわらかく、たんぱく質、脂質、ビタミンなども含まれていることから、幼児やお年寄りなどに最適の滋養食品といわれています。胃腸を丈夫にする働きがあり、疲れやすい人、下痢しやすい人、足腰がだるくて力が入らないなどの症状にも効き目があるといわれています。また渋皮に含まれるタンニンは抗ガン物質として最近、脚光を浴び始めています。

★調理法・保存法

粒が揃っていて虫食いのない、重みのあるもの、鬼皮がみずみずしく艶のあるものを選ぶのが良いでしょう。栗に含まれるでんぷん質は、熱を加えると糖分に変化しますが、取ったばかりのクリは半日ぐらい干してから加熱すると、甘みが増します。また、加熱の際には、茹でるよりも蒸した方が、より甘みが増します。栗の香りは非常に失われやすいので、購入したら、できるだけ早く使いきるようにするとよいでしょう。ただし、茹でたり蒸したりして冷凍保存すれば、長期保存も可能です。

★栗の料理あれこれ

渋皮煮、天津甘栗、マロングラッセ、栗鹿の子、栗金とん、モンブラン、ゆで栗、栗ご飯、甘露煮、栗まんじゅう、ぜんざい、バター煮、クリーム煮、栗おこわ。

★栗の品種

「銀寄(ぎんよせ)」…代表的品種。栗のスーパーブランド「丹波栗」はこの栗のことです。数百といわれる栗の品種の中でも、粒の大きさと色つや、味で群を抜き、王者にふさわしい風格を備えています。丹波にはこの栗を使った数多くの栗菓子や栗酒もあります。

* 丹波栗豆知識*
 平安初期、丹波では既に栗の栽培が始まっていました。土層が深く地下水が低いため、根が張りやすいのと、昼夜の温度差が激しいおかげで寒さに耐えられるよう果実の中に多く養分を蓄えるから実が締まるため、良質の栗が生産されました。また、平地の少ない土地であるため、米の代わりに山の斜面を有効利用する意味もありました。丹波栗は「日本書紀」にも記述されているほどで、時代が下がってからも各藩主たちが競って幕府や朝廷に献上。これが名声を高めることになり、参勤交代などを通じて全国に伝えられました。

「丹沢(たんざわ)」…早生種(わせしゅ)の中では代表的な品種。盆過ぎ頃からでまわる栗はほとんどこの品種で、淡褐色をしていて、艶はあまりないのですが、甘味があり美味しいです。

「利平(りへい)」…ゆで栗の食味は最高で、黒褐色で、実は独特の形をしていて、頭部にうっすら毛がはえてます。甘味強く肉質も良好。

「国見(くにみ)」…とにかく実の大きさ命の品種。イガも大きく見た目は良いけれど、味は大味で加工向けです。

「筑波(つくば)」…代表的品種。実が平均して大きく、豊産性で、甘味があり美味しいです。

「石鎚」…他の栗とは違い、ほんのり赤褐色でツヤがありきれいです。品質がよく加工原料向き、貯蔵性がいいのも特徴。

★栗カルチャー

「大きな栗の木の下で」
大きな栗の木の下で あなたとわたし
楽しく遊びましょう 大きな栗の木の下で

「行く秋や 手をひろげたる 栗のいが」松尾芭蕉

「栗拾ひ ねんねんころり 云いながら」小林一茶

「逗留(とうりゅう)の 窓に落つるや 栗の花」向井去来

「桃栗三年、柿八年」 桃と栗は芽生えてから三年、柿は八年で実を結ぶということ。何事をするにもそれぞれ相当の年数がかかるということを意味する。この下に「梅は酸い酸い十三年」「柚(ゆず)は九年の花盛り」「枇杷(びわ)は九年でなりかねる」などの句が続く。

「火中の栗を拾う」 猿が猫をおだてて、囲炉裏の中の栗を拾わせて、猫が大やけどをしたという、ラ・フォンテーヌの寓話からの句。転じて、「他人の利益のために危険をおかす」「非常な危険をおかす」の意。


銀寄 9月下旬~10月上旬 中大 暗褐色 風味があり品質が良い。形状が他の品種に比べて扁平。結実するのが遅く風に弱いため、収穫量が安定しない。現在 栽培面積は少なくなっている。10年目当たりから収穫。経済寿命が長い。低樹高に向かない。
  クリの豊多摩早生


東京はかつて、クリの大産地でした。大正から昭和の初期にかけて、主に北多摩の農村地帯では、雑木林にまじって広大なクリ園が、果てしなく続いていました。

このクリは、当八幡神社の近くに住む市川喜兵衛(豊多摩郡井荻村荻窪)が明治20年頃、栽培中の茶園内に自生のクリ苗を発見、偶然早く稔る早生の栗ができた事から、明治41年、当時の郡名にちなんで「豊多摩早生」と命名しました。

小粒で収量はあまり多くありませんが、秋まで待たずに、8月中旬から下旬には収穫できるので市場では高値で取り引きされ、全国的にも有名となり各地で栽培されていました。

特に第二次世界大戦後、クリに大被害を与えた害虫・クリタマバチに強い抵抗性をもっている豊多摩早生は、品種改良の一方の親として用いられ、伊吹(農林省果樹試験場で、銀寄に豊多摩早生を交配)という優良品種を生み出しました。


豊多摩早生   市川喜兵衛(東京都杉並区)  早生 樹姿はやや開張性で、樹勢は中位、樹はあまり巨木化しない。枝梢は短く、多肥栽培に適する  毬の大きさ、刺毛の長さともに中位、1毬内の果実は多い。果実は13~15gと小型であるが、極早生としては大きい方である。双子果は少ない。 


タラノキ育苗中  **

2008-06-17 10:07:56 | Weblog

タラノキ育苗中  **

この夏 六人部の萩原からお嫁にでる予定のタラノキの育苗状況を報告します。


写真① この苗はテキストにあった方法(根伏せ繁殖)ではなく、生育中のタラノキの根から芽吹きしたものを育苗したものです。


写真② 写真①ではもうひとつ丈の高さがわかりにくいので視線を下げて、カツターと比較できるようにしました。


写真③ 花嫁が強い紫外線にやられてしまわないように、日陰も作ってやりました。

地下部の細根の発根が今ひとつ少ないので、もう少し育苗して、出す時期は潅水のことなども考えて 7月10日前後に成りそうです。

ついでに ジベレリン処理をした巨峰もみていただきましょうか。

結構大きくなりました。萩原に来て初めての結実ですので 楽しみで----


写真④ おなじ巨峰でも


写真⑤ すこし生育に差があるようです。

ひさしぶりの清野塾 !! **

2008-06-13 05:34:14 | Weblog
ひさしぶりの清野塾 !!

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いつも 変わらずご覧いただきありがとう。
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写真①
福知山から綾部に通じている広域農道は仕事の関係でよく使わせていただいている。信号が少なくて早くつけるからよく使わせていただいているのだが、とにかく田園風景が素晴らしい。

ただいつも時間に追われて成人小学校の方から走ると信号を左に折れて福知山の市内に向かっています。
 時おり仕事の関係でこの橋の側も通るのですが なかなかこの橋を渡る時間がとれませんでした。でも今日は訪問治療先の患者さんの都合で30分ほどの時間があきました。そこで 携帯で 塾長ご夫妻のご都合をおききしました。

いま第三打撃場で作業中ですが 良かったら お尋ねください。-----

奥様のお声に甘えて この橋を久しぶりに渡りました。


写真②

六人部ぶらぶらの読者の方にとっては 清野塾のことは初耳の方もあると思うので はじめに 清野塾のホームページのアドレスをまずお知らせしておきましよう。

http://blog.goo.ne.jp/hatsumitakekiono

素晴らしいホームページをご覧になりたいお方は 

左のブックマークの ようこそ全丹波 をクリツクしていただくと 手間をかけずに一気にごらんいただけます。

このホームページの最新号の冒頭に次の写真が掲載されています。


写真③
この写真を見たとたん これは 六人部ぶらぶらの愛読者にもお知らせしたい---と思って 早速 コメント欄に書き込みをさせていただき この日の訪問となった次第です。

そうですね。せっかく 塾長ご夫妻が心血を注いで運営されている清野塾ですので
野球関係者だけでなく一般の方にもわかるように 少し詳しくご紹介しましよう。

初めて清野塾の存在を知ったのは2008.2.27.でした。

がんばれ東部2008の 2008.2.27の記事参照。

そして初めて福知山市立六中出身の矢乃君の画像を求めて、清野塾をたずねたのは
2008.3.3.でした。

がんばれ東部2008の 2008.3.6の記事参照。


これらの記事は先ほどのの
左のブックマークの がんばれ 東部 2008 をクリツクしてホームページを開け、2月27日と3月6日の数字をクリックしますと、ごらんいただけます。


はじめての方のために 清野塾の場所をお知らせしますと----

住所は  623-0226 京都府綾部市私市町左古31です。

福知山駅からの道順は音無瀬橋をわたり広域農道に入って、桜橋を渡って直進しますと冒頭の写真の しんおがいばし が左手に見えます。右手には福知山から綾部に通じる府道福知山綾部線沿いにある協立病院が見えます。
この 新小貝橋を渡って左折し直進して車で4~5分程度の距離に高速道路の舞鶴道のガードが見えます。このカードをくぐらないで、右折してすぐの位置に 有名な私市古墳公園があります。


写真④
ここまで 来ると もうすぐです。清野塾の位置関係をご理解いただくにはこの古墳の頂上に登るのが一番ですので、上ってみましょう。


写真⑤

この階段はさきほどの看板のあるところの階段を上るとすぐこの古墳の階段につきます。上ってみましょう。
 


写真⑥

古墳の頂上にあがるとこんな感じです。環境は抜群です。左手に走っているのが高速道路の舞鶴道です。

よく見ると 古墳のすぐ下に 水色の外回りに白色の屋根が見えます。これが清野塾の練習に使われているドームです。



写真⑦ これは先ほどの白い屋根の内部です。とにかく ど肝を抜かれる大きさです。大きさをご理解いただくためには、よく奥の方をみていただくと 手を上げておられる清野塾長が見れると思います。

清野塾は 先ほどみていただいた私市古墳のすぐ下にあります。
ご夫妻が手作りで作られた いえ 創られつつある塾の設備など詳しいことは、
先ほど紹介しました ブツクマークの ようこそ 全丹波へ をクリツクしていただきますと とにかく すごいの一言の設備と 野球を通した青少年の健全育成に対する塾長ご夫妻の情熱を感じとつていただけるでしょう。


ちなみにこのブログは日々更新し続けられており、今日のデータもきっちり書かれています。

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6月13日朝現在のアクセス記録      
本ブログ公開日記の試験開設は2008.3.5.(日)               
3月5日→ 6月12日のデータ
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このブログのデータは見る人がみれば一目でわかるのですが、約4カ月でこれだけの数値はこの種のブログでは脅威的です。
特に訪問者率が絶えず50パーセント率を維持されているのは、ご覧になっている方が詳しく精読されているのが印象的です。使用文字数もすごいですが、書き込みされるコメントに対する受け答えも塾長のお人柄を反映して見るたびに塾長の野球に対する情熱を感じます。

さて 清野塾のアウトラインをご理解いただいた上で 今回の訪問の主題にはいります。


写真⑦ この写真の左での水色の建物は先ほどご紹介したドームです。
今回 私がお忙しい作業中おじゃましたのは 建設中の第三打撃練習場の現場でした。無理をお願いして 作業中を撮影させていただきました。

上に上がっておられるのが清野塾長で、 下から いろいろなものの 突き出し役をされているのが奥様です。
以前お聞きしたのですが 本格的なドームは業者に依頼されましたが、その他の設備は全て基本的には このお二人の手作りで一つ一つ 創りだされたものです。

奥様の手助けについて お聞きすると 助かっています----とにこりとされました。奥様の手助けがなければ、いくらタフで情熱家の塾長でも これだけのものはできなかつたでしょう。私のつれあいもタフな相棒ですが-----。なかなかこのお二人のコンビネーションには及びません。


写真⑧これは選手募集の横断幕のかかげられたドームの側面です。


写真⑨この写真には作業につかられているユンボ・バツクフオが見えます。
私も以前勤務していた会社でこの大型建設機械はよく使っていましたので よくわかるのですが、写真を見て改めて感じるのは 基礎工事がきっちり行われていることです。

そうです。画面では9本の鉄製の打ち込まれた基礎杭を見ることができます。写真に写っていないものを含めると いったい何本の基礎工事をされたのでしよう。
なにごとも 基本を大切にされる塾長らしい仕事ぶりがよく理解できました。


写真⑩ドームすぐよこの上部から見るとこんな感じです。


写真⑪写真左手には使われている太いパイプ類が見えます。これを画面のようにお二人で1本づつくみ上げておられました。クランプの締め付けは電動できつちりトルクされていました。既設の設備も全てこの様にされ 台風などの強風に備えておられます。


写真⑫ レベルも本格的な機器を使って計測されていました。


写真⑬ 基礎とパイプ類は要所要所で溶接機を使って止められていました。

おいそがしい作業中にお邪魔した私に 奥様が準備していただいた飲み物をいただきながら 少しお話を伺うことができました。

この第3打撃練習場は16m×7mあり、主として下級生達が使えるようにしたいこと、できれば 夏休みを視野に入れて作業をしていることなどお聞きしました。

私もこの日は仕事の寸暇を惜しんでの訪問でしたので 最後にこうお聞きしました。

今年の新入塾生はどうですか----という問いに対して 一言 本当に楽しみです---とのお言葉をいただきました。塾長の深い想いのこもつた一言でした。

訪問させていただいた私と同じ大阪におられた塾長は、きっちりこの土地に根をはられ、野球が三度の飯より好きな少年少女達のために、心血をそそいでおられる清野塾。ここを訪問させていただくたびに この清野塾から 明日のイチロー選手や松井選手達が、かならずや 誕生するであろう----と ドデカイ夢に明日への元気をいただいて帰路につきました。


写真⑭
ちなみにこの清野塾の表札は保護者の手作りという一事をとつても清野塾の全てをものがたっているように感じるのは 私一人であろうか。



スイカの花 と 2つの受粉

2008-06-11 09:55:36 | Weblog


スイカの花と2つの受粉

今年初めてスイカを植えました。で---- スイカの花を始めてみました。記録を残しておこうとおもいました。



写真①  左 雌    右 雄


写真②-1


写真②-2  雄  雌の子房の部分が小さい


《スイカの花》 説明書によれば
 スイカの花は雄花と雌花があり、葉っぱの付け根に咲きます。雌花はだいたい6節ごとに咲きますが、4番目の雌花を目標に交配を行います。1番目や2番目の花では変形や空洞になる確率が高いからです。----と書いてあります。さらに---
こうつづきます。

《1本の苗から2玉》
 鳥取県の基本的なスイカの作り方は、苗を植えるとき6番目の節のところで芽を摘み取ります(摘心といいます)。するとそれぞれの節目から子づるが伸びてきますので、伸びた子づるの内、よくそろった4本のつる(子づる)を残してあとは取り去ります。
 花が咲き、交配してそれぞれのつるに実がつきますが、その内2本のつるに1玉 ずつ、合計2玉の実だけを残してあとの実はすべて捨ててしまいます(摘果 といいます)。少しもったいないようですが、これもより良いスイカをつくるための大切な作業なのです。-----こんなことまったく知りませんでしたので 今年はいわば 放任栽培になりました。


写真③ 人工授粉  紐は平紐


写真④  自然交配  紐は丸紐で区別しました。

説明書にはさらに こんな記載もありました。
《空洞果》
 「スイカを切ってみたら中に空洞があった」なんて経験はありませんか?なんか損したような気分になりますね。これは空洞果 といって、スイカの皮の成長に比べ中身の成長が追いついて行かない場合によくみられます。でも、切ってみないと外見だけではなかなかわかりません。
 スイカ選果場の検査員(農家の中でもプロ中のプロです)は、スイカをたたいたときの音や振動で空洞果 を見分けます。まさに職人芸です。1日に一人が数百玉、ほとんど毎日、約1ヶ月もの間スイカをたたきつづけます。スイカのシーズンが終わる頃には手がグローブのよう?にはれてしまうそうです。とても大変なのです。(現在では、センサーで判別 できる選果場もできてきました)

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スイカの質疑応答の記載もありました。
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スイカの交配方法について(育種の目的ではなく、着果のため)、教えてください。

一般には午前8から9時までに雄花の花粉を雌花の柱頭につける方法でよいです。しかし、当日の天候によっては(雨天)花粉の出が悪くなるので、前日に採取しておいた雄花を利用するのもよいでしょう。


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スイカを植えたが実がつかないのは、なぜでしょうか。

元肥をたくさんおいた場合はツルボケしているので追肥は待ちます。
ツルの先の立つのが目立たなくなり、ツルさきから60cm以内に花がついてくるようになれば、樹も落ち着いてくるので朝に雄花をちぎって雌花に受粉させて下さい。
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スイカを切ったときに中に空洞ができていたのですが、原因と対処方法を教えてください。

空洞果はスイカの果皮の生長に比べ中身が追いつかない場合によく見られます。16-20節付近の果実を1株に2つ残し、後はすべて摘果してください。

タラノキの増殖実験結果 **

2008-06-08 18:35:54 | Weblog
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タラノキの増殖実験




写真① T3号
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写真②-1 T2号  2008.3.28.にカット後 17日目にカット部の下部より萌芽がはじまった。


写真②-2  T2号は カット後64日目(2008.6.6.)にはこのように立派に成育中。
ただし 主幹は3本にする予定が 2本は順調に生育しているが 残り1本は生育が不良である。

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写真③-1 T1号 2008.3.28にカツトしたタラノキ。主幹は3本です。





写真3-2  T1号 2008.5.5. 主幹は6本が伸長中です。



写真③-3 2008.6.6.には こんなに大きく生育しました。主幹は今年は6本共順調に伸びています。 


写真④参考におきました板の方向に沿って 地下部には根がはしつていますが、この走行している根のところどころから新しく固体になれる新芽が萌芽します。写真⑥⑦がこの走行根から萌芽した新しい個体になる芽です。私がテキストにしているものもこの芽を切り取って新しい個体にする方法を奨励しています。


写真⑤新しい芽のアップ写真です。


写真⑥ 写真④の板に沿って 約10cmほど堀上ますとこんな状態です。


写真⑦ 新しく固体にするものは 芽を中心にして3cmほど根を両脇に残して 鋭利な刃物でスパツトきります。


写真⑧-1  2008.5.5.に写真⑦の方法で増殖したものが---


写真⑧-2  約1月でこのように立派は苗になりました。2008.6.6.撮影


写真⑨










梅雨に入りました。

2008-06-05 17:41:25 | Weblog


6月に入って ようやく北近畿も梅雨にはいりました。



窓越しに2つのものが目につきました。


写真① 近隣の奥様が丹精を込めて手入れされている花畑です。



写真② お聞きすると 巨大輪と呼ぶそうで、国華園のカタログをみると、グローブマスターと書いてありました。1株に1花だけしか開花しないそうです。
そういえば 福知山でも車窓からときどき見かけるようになりました。



写真③ 植物に詳しい患者さんが 先日 あれ 竹の花がさいとるわといわれて
初めて これが 数十年に1回咲き、咲くとその竹は枯れるとも教えていただきました。



写真④苺の収穫はだんだん少なくなつてきました。でも 今年は本当にたくさんいただきました。

これからは おいしくて 形が良くて 沢山取れた株を選抜したいと思っています。


写真⑤


写真⑥ なぜかこのころになると

「唐詩選七言古詩」劉廷芝作「代悲白頭翁」の詩で、

洛陽城東桃李花 飛来飛去落誰家 ではじまり 途中を忘れ
   
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同

ここだけ 印象深く想いだされる。

高校の嫌いだった 漢文の時間に 暗唱の宿題で覚えたものらしい。

なぜか このころになると思い出される 不思議な一節である。

   



葡萄のジベレリン処理  1回目 **

2008-06-01 16:46:50 | Weblog
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葡萄のジベレリン処理  1回目




ようやく巨峰が満開になりましたので、1回目のジベレリン処理を行いました。


写真①品種は伊豆錦 開花には若干バラつきが観察された。


写真②品種はあかりP 


巨峰のジベレリン処理 開花には若干バラつきが観察された。

濃度について

1回目の処置 満開から3日の間 16.67 ppm 

   ジベレリン協和 1包 1.6g→50mg

   1包を1/3分割〔16.67 mg〕して1ℓに溶かすと16.67 ppm

   16.67 ÷ 1000000 = 0.00001667 → 16.67

2008.6.1.【日】~6.3 【火】に残りを実施したい。
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2回目の予定は 満開から10~15日の間なので


2008.6.10.【火】~6.15. 【日】に残りを実施したい。

濃度は  25.0 ppmの予定

残り 33.34 ㎎ を1.337ℓで溶かすと

33.34㎎ ÷ 1337,000㎎ = 0.0000249  → 24.9  ppm



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1ppmとは有効成分1mgを1000ml( 1000、000mg )に溶かした場合の濃度。


例えば ジベレリン 1 万倍液は100ppmとなる。
          10 万倍液は10ppmとなる。  
          100万倍液は 1ppmとなる。 
            うすいほどppm値は小さくなる。

例えば ジベレリン50㎎を4ℓに溶かすと
 
50㎎ ÷ 4、000、000 =  0.000 0125 → 12.5 ppm
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例えば ジベレリン50㎎を1ℓに溶かすと
 
50㎎ ÷ 1、000、000 =  0.000 05 → 50 ppm

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写真③  オオグミも収穫の適期になった。