昨日母、姉家族、とダビデと一緒に鎌倉に行って来ました。初めてです。姉夫婦は3回目ぐらいと母は2回目でした。日本の歴史、文化にとしてすごく大切な場所で、行って良かったかな。。。けど面白いと言うよりも私はずいぶん悲しい、空しい気分でした。
最初に鶴岡八幡宮に行きました。その後長谷に行って、大仏と長谷寺に行きました。
大仏の中に入るとダビデが言たのは「Today, I really got into Buddha but I discovered it was empty.」という冗談を言いました。「今日仏教に入ったけどカラポと分かった。」けど偶像礼拝はその通りですね。
イザヤ44:9-20はそれについてはっきり語っています。けど長い過ぎで自分んで読んでね。ここに書くのは詩篇115:3-8です。
「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
これを作る者も
これに信頼する者もみな、これと同じである。」
けど空しい偶像の印象よりも今回売店、商売のことがすごく気になりました。どこに行っても、売るもの、売るもの。。。ろうそく100円、祈りに書ける木(ごめんね、名前をわからない)300円、400円、おみくじ100円、お守り300円、600円、大仏に入るには20円、寺、神社に入るに600円、このカップに祈りを書く500円、この小さいな像を買っておく300円。。。
姉が「教会にサポートをするなれば、何かきれいな十字架を立って、見るには100円をして、祈りを書いて300円をすれば。。。」と冗談に言いましたけど。。。それはより悲しく、空しく感じました。祈りはただでどこでも、いつでも出来るもので。。。かわいそうな。
鎌倉一度行って来ました。けど二度も行きたくない。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、転地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」使徒17:24
逆に私たちは神様の中に住まわせ、神様は私たちの中に住んでおられます。いつも共におられます。感謝です。
最初に鶴岡八幡宮に行きました。その後長谷に行って、大仏と長谷寺に行きました。
大仏の中に入るとダビデが言たのは「Today, I really got into Buddha but I discovered it was empty.」という冗談を言いました。「今日仏教に入ったけどカラポと分かった。」けど偶像礼拝はその通りですね。
イザヤ44:9-20はそれについてはっきり語っています。けど長い過ぎで自分んで読んでね。ここに書くのは詩篇115:3-8です。
「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
これを作る者も
これに信頼する者もみな、これと同じである。」
けど空しい偶像の印象よりも今回売店、商売のことがすごく気になりました。どこに行っても、売るもの、売るもの。。。ろうそく100円、祈りに書ける木(ごめんね、名前をわからない)300円、400円、おみくじ100円、お守り300円、600円、大仏に入るには20円、寺、神社に入るに600円、このカップに祈りを書く500円、この小さいな像を買っておく300円。。。
姉が「教会にサポートをするなれば、何かきれいな十字架を立って、見るには100円をして、祈りを書いて300円をすれば。。。」と冗談に言いましたけど。。。それはより悲しく、空しく感じました。祈りはただでどこでも、いつでも出来るもので。。。かわいそうな。
鎌倉一度行って来ました。けど二度も行きたくない。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、転地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」使徒17:24
逆に私たちは神様の中に住まわせ、神様は私たちの中に住んでおられます。いつも共におられます。感謝です。