時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

ローマ教皇がやって来た。

2019年11月26日 | 時のつれづれ・霜月 

多摩爺の「時のつれづれ(霜月の1)」
ローマ教皇がやって来た。

82歳という高齢にも拘わらず、3泊4日(11月23日から26日)という厳しい日程で、
第266代のローマ教皇・フランシスコが笑顔で来日した。

休む間もなく長崎、広島の被爆地を訪れると、核兵器廃絶のメッセージを発し、
東京に場所を移してからは、天皇陛下との会見に続き、安倍総理や各国大使館の代表と懇談
さらには、東日本大震災で被災した人々との交流会を含め、
本来の宗教活動の他にも精力的な足跡を残すなど、

傍目にみても、高齢者にとっては極めてハードなスケジュールを難なく務めきった。

信仰という視点だけで捉えれば、仏教徒である私とは主観が違うため、
カトリック教徒のように、教皇のことを素直に「パパ」と呼ぶことは出来ないが、
平和を望み、核兵器を憎むという思いは共通であり、
信ずる対象は違っても、現世を生きる人としては・・・ 何かしら相通じるものがあった。

立場が立場の人だけに、そこら辺りをブラブラしてる爺さんが、偉そうに物申すのは、
誠におこがましく、大変に失礼なこととは存じつつ、あえて一つだけ言わせてもらうとすれば、
我が国のように、信教や思想信条に寛大で、ある意味で節操がないぐらい、
誰でも歓迎してくれる国々を訪問して、
いくら有難い説教をしても、
いくら心に響く素晴らしい講演をしたとしても、

数日も経てば、その言葉を覚えている人は・・・ そんなに多く居ないのじゃなかろうか。

けっして、いちゃもんを付けてるのではない。
確かに我が国は、地球上で唯一無二の被爆国だから、核兵器廃絶を訴える権利は有しているが、
一方で世界に目を向けてみれば、核を保有した戦勝国は、経済という新たな戦場で日々火花を散らし、
独裁者が牛耳る途上国では、核兵器を頼りに身の丈を越えた背伸びを謀り、
開発に躍起になっている。


穿っているかもしれないが、そういった視点で捉えてみると、
ローマ教皇が、核の廃絶を真剣に訴えなきゃいけない国や地域は、我が国のような安全な国じゃなく、
別の場所があるのではないのか・・・ ?
そういった思いが、頭の片隅から離れない。

さらに・・・ 問題は核兵器だけではない。
人権と言った視点も加味れば、我が国のお隣にある大陸や半島で、
さらには一触即発の緊張が続く中東で、

なぜ、同じような言葉を発する機会を、設けることが出来ないのだろうか?

安全で成熟した国々での人権は、LGBTを中心に問題視されることが多いが、
一方で前述したお隣の大陸や半島、並びに中東などの国々で人権といえば、生死の問題になっている。

LGBTのことを軽んじるつもりは、さらさらないが、

もし、そういった国々にローマ教皇が訪問し、
為政者を諭し、その国の民にスピーチする機会があれば、

その言葉には、世界が注目するとともに、記憶に深く刻まれ、記録として残ると思うがどうだろうか?

もう一度言う。
けっして、いちゃもんを付けてるのではない。
被爆国にやって来て、被爆地に立ち、その場から自らの声で核兵器の廃絶を訴えたことが、
世界の国々には、どのように発信されて、それを見た人、聞いた人の心に、
果たして刺さったのだろうか?

申し訳ないが・・・ 単純にそう思っている。

我が国は74年前に被爆し、
今もなお核兵器を持つ近隣の国々と、領土を含む様々な懸案を抱えている。

しかし、現在進行形の視点で捉え、核を廃絶して第二、第三の被爆国を防ぐことに注目すれば、
その発信地は、被爆国ではなく、核保有国に場所を移し、
まずは、その国の民に問いかけることが最も肝要で、最も意味があることじゃないかと私は考える。

そして、もう一つ・・・ 政治と宗教についても、少し触れておかねばならない。
今回のローマ教皇の来日に当たって、
ローマ教皇(宗教)が核兵器廃絶(政治)にメッセージを発することに対し、

称賛の声はあったと思うが、批判する声は殆んど聞こえてこなかった。

にも拘らず・・・ この国の政権与党に、公明党(背景に創価学会)がいることについては、

政教分離を持ち出して批判し、異を唱える人が多くいる。

そもそも政教分離とは・・・ 何なんだ?
憲法の解釈では、政治が特定の宗教に加担(戦時中の国家神道)してはいけないということで、
宗教を熱心に信仰している人々が、政治上の役職に就いたり、
政治に口出しをしてはいけないということではない。


よって、ローマ教皇の発言は、政教分離という視点で捉えても、何ら問題ないことから、
同じ視点で捉えれば、公明党が創価学会を国家的な
宗教にしようとすると、政教分離に反するが、
創価学会が政治的な発言や行動をすることは、
ローマ教皇の発言や行動と同じく・・・ 何ら問題にはならない。


誰にでも・・・ 好き嫌いはある。
しかし、好きか嫌いかで、政教分離にこじつけて批判するのは、
憲法の主旨を理解してなく、単なるいちゃもんであって、全く持っての筋違いと言わざる得ない。

公明党や、創価学会の肩を持ちたいわけじゃないが、

宗教と政治の関係は、心と日常生活のように極めて密接なことであって、
冷静に考えれば誰にでも分かることだ。


まっ、ローマ教皇の足跡に対して不満がある訳じゃないので、私の思いはこれぐらいにするが、
昭和天皇の写真を焼いて、これを表現の自由だと訴える芸術家が評価され、
税金を使って展示会を催すような国で、

ローマ教皇の滞在中に、ローマ教皇の写真を焼き、
表現の自由だと放言を吐くようなバカ者が居なかったことは、
本当に幸甚だったと言わざる得ない。

それにしても・・・ 核兵器廃絶、人権、政治と宗教、表現の自由などなど、
要らぬ心配とはいえ、様々な事柄が頭のどこかにポッと浮かんできて、
僅か4日とはいえ、何気に慌ただしい日々だった。
とっても大事なことなんだけど・・・ やれやれかな?


ソフィア通りに面した上智大学の入り口には、ローマ教皇フランシスコを歓迎する横断幕が掲げてありました。

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