時のつれづれ(北多摩の爺さん)

下り坂を歩き始めたら
上り坂では見えなかったものが見えてきた。
焦らず、慌てず、少し我儘に人生は後半戦が面白い。

草木萌動(そうもくほうどう)

2020年03月31日 | 時のつれづれ・弥生 

多摩爺の「時のつれづれ(弥生の8)」
草木萌動(そうもくほうどう)


本日(令和2年3月31日)をもって、
昭和48年から47年間続いてきたサラリーマン生活を終えることになった。
中国・武漢で発生した新型コロナウイルスが、世界中に猛威を振るいだした2月の後半から、
仕事の進捗を見つつ、有休の消化や在宅勤務などで、家の中に籠る日が続いていた。

さらには、入院していた義父の退院で女房の帰省もあったりして、
慌ただしく過ぎた・・・ 弥生の一か月だったが、
明日からは、目覚めた時から床に就くまで、全ての制約から解放され、
いわゆる、サンデー毎日が始まる。

決まった時間に起きて、決まった時間の電車に乗って、
決まった時間だけ仕事をしていた行動パターンも全て終わり、
正真正銘・・・ 本物のセカンドライフが始まる。

だからと言うんじゃないが・・・ 我が半生の記録として、
大病もなく、47年間続けることができたサラリーマン生活について、
自らの足跡として回顧録を記すことにした。

回顧録 「草木萌動(そうもくほうどう)」
昭和48年、地方の高校を卒業すると同時に、配達の仕事からサラリーマン生活が始まった。
それから・・・ 約5年の月日が流れ、大学に進学していた同級生たちが卒業して社会人になった頃、
私にも一つの転機が訪れ、両親が住む故郷に転勤して経理の仕事に就くことになった。

結婚は昭和52年で23歳の晩秋、11月18日に入籍し、2週間後の12月4日に式を挙げた。
2年後と4年後には子宝にも恵まれ、
薄給だったものの、親と同居してたこともあって生活には不満なく、
小遣いが少なかったことを除けば・・・ 不自由は感じていなかった。

出世欲は皆無じゃなかったが、けっして強い方ではなかった。
時代が時代だけに・・・ 周りを見れば、高卒社員が多かったし、
管理職に就く方々の大半は大卒であって、本社や支社から来ていたしで、
管理職なんて、夢のまた夢、100%無理だと思っていたし、頭の片隅にもなかった。

できることなら、退職する時には係長ぐらいになりたいな、
その程度の・・・ 出世欲しかなかった。

子供の成長以外は、夢とか将来とか考えたことがなく

仕事が終わってから、たまに立ち寄るパチンコが唯一の楽しみで、
ただ楽しく生活出来ればと思っていた。

経理に異動してから4年目、27歳の秋だった。
そんな自分に、管理部門から「うちに来い。」と声をかけてくれる方が現れるのだから、
人生には何が起こるか分からない。

管理部門から声がかかるということは、出世ラインに乗せてやるということだから、
第一感は「えっ、マジかよ?」てな感じで、
少し舞いあがってしまったことを、朧気ながら記憶している。

当時の自分は、持ったくもって目立った存在ではなく、
そこら辺りでゴロゴロしている、道端の石ころみたいな社員だったと思う。

そんな石ころに目を付け、さらに・・・ 磨いてくれるというのだから、
感謝以外に言葉が見つからないし、ホントにホントに人生には何が起こるか分からない。

切っ掛けは、出張で来られた県単位を統括される管理部門の方との懇親の場(酒席)だった。
正直言って、何を問われ、何を喋ったのか・・・ 全く持って記憶にない。

後から上司に聞いた話によると・・・ あれが面接だったらしい。
県内の若手社員から何人かピックアップし、管理部門に一人か二人ぐらい登用する面接だったそうだ。

酒の席での面接だから、ちょっといい加減かもしれないが、
それが後々の人生に、途轍もなく大きな影響を与えたんだから、
ホントにホントに・・・ 本当に、人生には何が起こるか分からない。

そして、昭和57年春、面接をしていただいた方はそのまま上司になり、
その上司が人事異動となるまでの1年の間、密度の濃い指導と育成を受けることになった。
年齢は既に27歳、仕事は同じ経理だったが、
現場で担当していた出納から、主計(予算)に変わっていた。

主計の仕事は単純にいうと、幾ら儲けるために幾ら使うのか。
原材料を幾らで仕入れ、どんな付加価値を加えて、幾らで売るのかで、
それぞれの金額査定によって・・・ 利益が増減する、もの凄く影響力のある仕事である。

付加価値に幾らの投資をするのか? 値付けは妥当なのか? 必要なコストに無駄はないのか?
その根拠をシミュレーションし、担当する部門と予算折衝を繰り返し、
最大限の利益を求めていく仕事だった。

具体的には、限られたお金の使い道で、主計担当が論理的に予算額を試算し、
折衝を行う部門と折衝し、時に論破して納得させねばならない。

それは本当に至難の極みで、毎日仕事をして、毎日勉強しても時間が足りなかった。
いまのようにパソコンがある時代じゃなく、なにより商品の知識と市場の動向把握も必要で、
上司の席に置いてあった日経新聞を、上司が出社してくる前に読んでいたことが懐かしい。
そうやって、電卓を叩きながら何度も何度も算式を作り直して、シミュレーションを繰り返していた。

いくらなんでも、夜遅くまで職場に居すぎだから早く帰れと、
組合から叱られたことも・・・ 何度かあったぐらいだ。
朝早く(7時半ぐらい)から、夜遅く(22時ぐらい)まで絞れるだけの知恵を絞り、
「あーでもない。こーでもない。」と自問自答し、何度も何度も想定問答を書き換える日々だった。

お金を使いたい側は必死で、とうとうと施策の正当性を述べるが、
お金を抑えたい側も必死で、論理的な理屈で切り返す。

無駄だと分かっていても、先々を見据えてやらなきゃいけない先行投資があれば、
どうしても・・・ いま、このタイミングでやらねばならない、待ったなし投資もあったりする。

しかし、財布の中のお金は限られているし、
優先順位を決めるのが・・・ 悩ましくて、胃が痛くなっていたが、
それが快感なんだから、ひょっとしたら当時から変な奴だったのかもしれない。

折衝する相手は、みなさん私より年上で、役職に就いてる方が多かった。
精神的にも、肉体的にも大変な仕事だったが、それでもこの仕事は本当に楽しかったし面白かった。
天職だと思い、水を得た魚のように没頭していた。


上司から叱咤激励を受け続けていたのは・・・ 結果ではなく、どう考えたのか。
「何故なんだ?何の為なんだ?と、とことん悩め。悩んだ数ほど成長するから・・・ 。」
それが口癖だったと記憶している。

小中高と過ごした学生時代の18年に、サラリーマン生活の47年を加えた65年の人生で、
あの時ほど勉強したことはなく、知恵を絞り、頭を使ったことはなかった。
あの時の1年があったから、今の自分があるといっても・・・ 過言じゃないだろう。

そう言い切れるのだから、あの時にあの上司との出会ったのは、
間違いなく、一つ目のターニングポイントだったと思う。

県単位を統括する管理部門へ異動してから2年後には、
地方単位を統括する管理部門へ異動し・・・ 驚くことに、翌年には本社にいた。


3年前まで現場にいた田舎の高卒社員が、新幹線並みのスピードで出世してしまった。
原石だったかもしれないが、誰かが磨いてくれなきゃ、
うす汚れた・・・ 
ただの石ころだったことは間違いなかっただろう。
そう言った意味でも、あの時の上司への感謝は、40数年を過ぎても忘れることはない。

地方単位の管理部門で担当した仕事は収入予算
オリベッティ社のコンピューターを使って、一次式や回帰式などで予測を立て、
営業・販売部門へ高い目標を求めていた。

本社で担当した仕事は管理会計、当時まだ整理が出来てなかった、新しいジャンルの仕事だった。
一般的な財務会計で組織ごとに整理された経理数値を、
部門ごとに、サービスごとに、商品ごとに分計と集計を繰り返しながら、
収支責任を明確にしていく仕事だった。

時代は、労働者の昇給昇格や、業績に対する評価を、
年功序列から、結果で判定する・・・ 成果主義に転換しつつあり、
管理会計は、組織やサービス・商品と密接に関係し、
管理会計でアウトプットされた結果が、組織の評価に直結していた。

管理会計の結果によって、組織やサービスが統一されたり、廃止されたりして、
それにともなって人事が動く。
私が試算した仕事は・・・ その根拠となる、引き金を引くことだった。

仕事はとっても充実していたし、満足できるものだったが、一つ気になったのは、
一緒に仕事をしていた各地域からピックアップされた同年代の社員の仕事ぶりだった。

みんな真面目で、一生懸命なのは分かるが、どことなくギラツキ感があって、
いろんなシチュエーションで、上司に対しアピール合戦を繰り返しているように見えて、
申し訳ないが・・・ 田舎もんの私には、馴染めないところも多々あった。

そんなにギラギラしないでも、自分の出身地域の先輩が故郷へ錦を飾らない限り、
自分が飛び越えて出世することはまずない。

限られた人数のなかで、毎年異動が繰り返されてゆくので、
担当内での席次と・・・ 本社での在籍年数が順当であったら、
誰がいつ異動するのかは見え見えなのに、あのギラギラ感はいったい何だったんだろう。

それが本社なんだと思えば、それだけのことだが、
既に出世ラインに乗ってるのに「そこまでするか?」みたいな、
オーバーアクションには・・・ 嫌悪感すら感じていた。

また、本社組織では、次席と呼ばれるポジションに就くと、広大な役割を担うようになってくる。
スケジュールや、段取りのみならず、各部門との調整を想定して、上司に判断を仰ぐなど、
担当する業務内において、決定権を除く一切合切を全て任されることになる。

そういった役回りの意図には・・・ 1~2年先には、管理部門の役職に就き、
故郷に錦を飾るための予行演習も兼ねていた。

時代が昭和から平成に代わった年(本社に異動して4年目)の春、
私にもついに・・・ その役回りが回って来た。

フランチャイズからは、翌年の重要ポストにリストアップされているとの情報が漏れ聞こえて来た。
「さぁ、いよいよだ。」と身が引き締まる思いはあったが、
一方で前年の秋に、家庭内で重大な問題が発生しており、
そのことが私の頭の中では、日に日に大きなウェイトを占めて来るようになっていた。

34歳になっていたが、結婚が早かったこともあって、
二人の子供は既に小学校の5年生と4年生になっていた。

前年秋に抱えた重大な問題とは、下の子供に軽度ではあるが知的障がいがあると判明したことと、
さらに女房が下の子供を出産する際に受けた輸血(血液製剤)で、
B型肝炎の保菌者になっていたことだった。

悩んだ。
本当に本当に・・・ 悩んだ。

白髪が一気に増え、30代半ばで頭の半分が白髪になったことが、如実にそれを証明していた。
フランチャイズに錦を飾ることは、私も女房も親も期待していたし、
お世話になった上司への恩返しにもなるし・・・ なにより、期待に応えられる。

しかし・・・ フランチャイズに戻れば、その2~3年後にやって来る次の異動では、
単身赴任を九分九厘覚悟せねばならなくなってしまう。
当時の人事の仕組みは、それが当たり前で、
誰もが経験する、避けて通ることができない道だった。

フランチャイズとなる町は政令指定都市で、医療関係は充実しており、
そこのところには何の問題もないが、
問題になるのは、2~3年後には子供たちは中学生になっており、必然的に進学問題が出てくる。

上の子供の進学だけなら問題はないが、知的障害がある下の子供の将来には不安が多く、
進学先や通学など考えると、このタイミングで私が家を空けてしまえば、
女房に係る負担が、あまりにも大きくなり過ぎるし、
ましてや、女房は疲れが禁物の・・・ B型肝炎のキャリアである。

さて・・・ どうする。
何度も何度も女房と話し合った。
そして、二人で出した結論は、フランチャイズには戻らず、東京で生活することに決まった。

必然的に出世ラインからは、大きく大きく外れることになる。
せっかく本社勤務となり、あと1年弱でフランチャイズがポストを用意して待ってくれてるというのに
それよりも、女房と子供たちとの生活環境の方が大きかった。

都内にあるグループ会社への出向を希望し、
退職する日がくるまで、東京のどこかで家族と一緒に静かに暮らす。
それが・・・ 私たち夫婦が決めた答えであり、二つ目のターニングポイントになった。

早速、夏休みに帰省した際、女房とともに双方の親に、事の次第を説明し理解を得ると、
フランチャイズとなる出身組織に出向いて、不義理をお詫びし了解していただいた。
そして、帰京後は直属の上司に説明して、どこのグループ会社でも良いので、
ただ、単身赴任をしないで済む会社への異動を懇願した。

平成元年、35歳になったばかりの秋、
ご迷惑をかけるであろう全ての方々に頭を下げて回り理解していただいた。

帰宅後、女房に「話したよ。」と伝えると、女房から「ご苦労さま。」の一言
とっても辛い決断だったが、決めたことだから・・・ もう振り返らない。
固く誓ったその日のことが、つい昨日のように思いだされる。

辛い決意をしたその年の秋、家族のために長生きしなきゃとの思いから煙草を止め、
煙草の煙が充満するパチンコも止め、付き合いでやってたマージャンもスッパリと止めた。

そうして迎えた翌年(平成2年)の2月、私に命ぜられた辞令は、
直前に本社からサービスを切り離し独立したばかりの、
グループ会社でも最大規模となる会社の経理部の係長だった。

この会社は、つい1年前までは、本社機構の一部にあった事業本部が分離独立した会社で、
部下は勿論、各部門のモチベーションやレベルが高く、正直言えば身の丈を越えた抜擢人事である。
家庭の事情とはいえ、我儘を言ってフランチャイズの人事を断った者に対し、
あまりにも厚遇過ぎており、良い意味で捉えた青天の霹靂に、
感謝するとともに身震いしたことが・・・ いまとなっては懐かしい。

良い仕事をするには「段取り八分」という言葉があるが、
上司や先輩方に、ここまでの段取りをしてもらえたら、
あとは自力で・・・ 何としてでも答えを出し続けるしかない。

仕事に、家庭に、お付き合いに必至に頑張った。
さらに再びの青天の霹靂は・・・ 40歳で本社の課長に抜擢されたことかもしれない。

春先から夏にかけての定期異動なら、多くの異動候補者がいるので、
私が抜擢されることはなかったが、
たまたま秋口に出た欠員補充の際、候補者がいなく新規任用での補充となり、
声がかかったという幸運も重なった。

再びの本社勤務は1年半、その後は別のグループ会社に進むと経理業務からは離れ、
総務・人事・営業・企画と渡り歩き
組織の立ち上げから拡大、収支が破綻したサービスの店仕舞い、
グループ会社の統合、OB社員の活用など、
節目節目で社史に残るような、大きな仕事に携わらせていただいた。

実績はどうかと問われれば、組織や人事、営業や企画といった仕事は、
清濁を併せ飲まなきゃならないので、
満点はあり得ないが、合格点には達してると自負している。

また、身の丈を越える重責にも就かせていただき、
思い残すことなく今日という日を迎えることが出来たと思う。

お蔭さまで知的障がいがある下の子供は、
中学校を卒業すると通信制で高卒資格が取れるお菓子の専門学校に進み、
福祉関係の方々のサポートをいただき、パンを製造販売する福祉施設に就職することも出来た。

月給は約2万5000円だから、交通費を除くと、昼食代が残るか否かの薄給で、
持ち出しの方が多いが、それでも毎日休むことなく、楽しそうに仕事に向う子供に癒される。
勿論、女房の献身的な努力あっての賜物だが、
改めて30年前の選択が間違いじゃなかったことに涙腺が潤む。

上の子供は大学を卒業してから、しばらくは売れない音楽家として活動していた。
何枚かCDを出し、コンサートに何度も足を運んだが、
定職じゃないので親としてはハラハラドキドキが続いていた。

30歳で区切りをつけて、フォトグラファーの道に進むことになり、その後、良縁にも恵まれた。
いまでは、週末のたびに孫を連れて遊びに来てくれ、笑顔が絶えない家庭になった。

女房は15年前に子宮筋腫の全摘手術で1週間ほど入院した他、
昨年には下肢静脈瘤の手術をしたものの、
幸いなことに、今のところB型肝炎が悪さを仕出かすことはなかった。

そのこともあってか、新型コロナウイルスには、ことのほか敏感で、
鈍感な私と足して2で割れば丁度良いぐらい。
最近では親戚に送ると言って、手作りマスクの製作に没頭し、朝から夜まで頑張ってるが、
くれぐれも無理せず、頑張り過ぎないようにしてほしいと願っている。

過ぎてしまえば、あっという間だったが・・・ あの日の決断から、30年という歳月が過ぎている。
二つの大きなターニングポイントを含め、いろいろあったサラリーマン生活だったが、
振り返れば、なに一つ思い残すことなく、やり終えたと思う。
ひょっとしたら、なにか忘れてることがあるかもしれないが、
それはご愛嬌ということで勘弁してほしい。

草木萌動(草木が萌(めば)え動(いず)る。)
春の訪れを感じ始め、新しい命が土の中や、木の枝からいっせいに芽生え始めた今日この頃
山々が瑞々しい青葉に覆われるのは、もう少し先になるが、
薄緑に色づいた武蔵野の小径を歩きながら、心穏やかにセカンドライフをスタートすることが出来た。

いろいろな場面で、
ホントにホントに多くの方々にお世話していただいたし、心配をかけてしまった。
その一つひとつの出会いと出来事に、お礼とお返しが出来ないまま去るのは甚だ心苦しいが、
年寄りの涙腺が弱いのは世の常であり、
無様な格好を見せるわけには行かないので静かに去ることにした。
申し訳ないと思うが・・・ ご容赦願いたい。

そして、障がいを持った子供と40年もの間、真正面から向き合い、育ててくれた女房には、
最大限の感謝の気持ちを込めて「ありがとう。」と伝えたい。
励みを与えてくれた子供たちにも、心から感謝し「ありがとう。」と伝えたい。
ふり返れば、若い頃は俺が家族を養ってるなんて、思いあがっていた時期もあったが、
この歳になって気づくのは・・・ 人として成長させてもらっていたことだけしか思い浮かばない。

昨日までは、名刺に印刷された社名と役職で、社会は自分を認めてくれていた。
明日からは、名前だけの人生になり、そこら辺に居るが、誰一人として気にも留めることのない、
通りすがりのオッサン(爺さんかな?)である。

人生100年と云われて久しい昨今、余生(人生の1/3)をどう過ごすか?
それが、明日からの課題になるんだろう。
何を参考にするか、誰をお手本にするか、その選択にたっぷり時間をかけたい。

孫の面倒でも見ながら、気ままに好きなことをやるんだと粋がっても、
1~2年も経てば時間を持て余し、虚しさが心を覆ってしまうことは容易に想像できる。
しばらくは学生時代の夢でもあった、
物書き(新聞記者を経て、小説家になるのが夢だった。)生活を楽しみたいが、

いつまで続くことやら・・・ 自信があるわけでもない。

長い時間をかけて積み重ねてきた、経験という自分の価値を、
家庭にも、地域にも、社会にも活かせる人生であれば、この上なく幸せなんじゃなかろうか。

余生(人生の1/3)の幸せは、立場や環境ではなく・・・ 心で決まる。
下り坂を歩き始めたら、上り坂では見えなかった、いろんな光景が見えてくる。
焦らず、慌てず、ちょっとだけ我儘に、人生の後半戦を楽しみたい。

2020年3月31日 退職
楽しかった。
本当に楽しかった。
そして・・・ ありがとう。


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5 コメント

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ありがとうございました。 (多摩爺)
2020-04-02 07:14:17
kazzdokkさん、ありがとう。

床に就く時間と、起きる時間は、長い間の習性なので変りませんが、
なんとなく、時間がゆっくり流れているような気がします。
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お疲れ様でした (kazzdokk)
2020-04-01 20:25:41
ただただ、お疲れ様でした。
でも、これからも人生。
多摩爺なりの時間軸でがんばってください。
返信する
恐縮です。 (多摩爺)
2020-03-31 13:01:08
桂蓮さま、コメントを頂戴しありがとうございました。

身に余る勿体ない言葉をいただき恐縮しています。
本当にいろいろありました。
今となれば、全てに意味があったんだと受け止めています。
これからは、一気に老け込むことがないよう、健康に配意しつつ女房孝行に努めたいと思います。
昭和のオヤジは、地震・雷・火事・オヤジでしたが、
私は、これから炊事・洗濯・家事・オヤジの修行をしようと思っています。
ありがとうございました。
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ご苦労様でした。 (桂蓮Keiren)
2020-03-31 12:32:46
ほんとうにご苦労様でございました。
赤の他人の私がいう言葉でないのですが、
あまりの誠実な生き方に心がふれました。
読みながら、このような人がいるから日本がまだ大丈夫なんだと思いました。

何を書いていいか、先から思いつかないままですが、
何も言わずに去るのもできなく
何か、適切な表現があるのかなと頭をひねています。

退職して『楽しかった』と言えるようになるまでは
人の想像を絶する犠牲があったと思います。
それにご家庭も守ることができたことは
知識を超える知恵に富んだからかもしれませんね。

私も15年間経営していた学習塾をアメリカ移住のためにたたみました。
仕事99%の毎日でしたから、
読みながら自分の考え方と共通するところが結構ありました。
仕事を辞めてからあまり余る時間ができて、
やりたいことリストを作りましたね。
仕事のためにできなかったことを全部書いて
大体リストをクリアしました。
リストの一番は温泉旅行でした。
治癒を目的とする温泉にいきましたね。

なにより、全てが善く収まったようで
読んでいて気が晴れました。
本当に良い記事を書いてくださってありがとうございます。

文が下手ですみません。
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Unknown (桂蓮Keiren)
2020-03-31 09:05:03
読み入ってしまいました。
心打たれる生き方に深く感動しました。

正直な生き方、仕事への徹底
以上に書いた言葉も何か足りないですね。

一気に読むにはもったいない気がして、
また明日分割して読みにきますね。
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