goo blog サービス終了のお知らせ 

メキシコで処刑された米軍脱走兵のアイルランド人

2012-03-30 17:30:52 | 米墨戦争関連
メキシコで処刑された米軍脱走兵のアイルランド人

――サンパトリシオ大隊の悲話――

 最近ふとしたことから『ワン・マンズ・ヒーロー』(米・1998)という映画の存在を知った。これは米墨戦争(1846年~48年)の時代、当時大量に米国へ移民してきていたアイルランド人青年たちの生き様を描いたものである。彼らの多くが米軍に入隊し、メキシコ戦争に参加するわけであるが、途中で脱走しメキシコ軍に入隊する者があとを絶たなかった。こうしてメキシコ軍のなかに、脱走兵で編成されるサンパトリシオ大隊(聖パトリック大隊)が誕生することになる。ところが、メキシコ軍は次々と米軍との戦いに敗退し、やがて戦局はメキシコ軍に不利になっていった。そして、ついにサンパトリシオ大隊も米軍の捕虜となるのであるが、最終的に、同隊の約50人が絞首刑に処されるという最悪の結末をむかえるのである。同映画はこうした実話にもとづいた内容となっている。拙編著『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るため55章』(明石書店・2005年12月)の第4章で私は米墨戦争について詳細に論及しているが、そのなかでサンパトリシオ大隊の悲話についても触れている。これを著したときに先の映画を知っていれば、おそらく同書のなかで紹介できたであろうが、不覚であった。まことに残念である。

 米墨戦争を扱った映画は先の映画以外に私の知る限りほとんど皆無である。それもそのはずで、同戦争はベトナム戦争と並んで、米国の政治外交史上の一大事件であったにもかかわらず、一方でその戦争行為は同国民のなかからも侵略戦争として批判されてきた、ある意味、米国史上の「汚点」とみなされる嫌いがある戦争だからだ。米墨戦争に勝利した米国は、当時メキシコ領であった現在の米南西部(メキシコの約半分の領域に相当する)を獲得し、今日の大西洋と太平洋にまたがる広大な国土を確立した。したがって、米墨戦争については学問上の蓄積がこれまでにも相当なされてきているにもかかわらず、同戦争を直接題材にした映画や小説は数少ない。利益追求を優先するコマーシャリズムに反するある意味タブーな行為は、それ相当の覚悟を制作側に求めたからである。しかし先の映画では、そのタブーが実行された。メキシコシティーに進攻してきた米軍スコット将軍に対し、同軍が脱走兵であるサンパトリシオ大隊を絞首刑や鞭打ちの刑に処することに断固として反対するメキシコ軍将校の姿が描写されているが、これは暗に米軍の行為が非人道的であることを批判するものとして理解される。加えて、とりわけ著名な俳優も出演していなかったため、同映画は世間的には特に注目を浴びるものではなかったようである(ちなみに、ライリー役は『プラトーン』でゴールデン・グローブ助演男優受賞したトム・ベレンジャー、ロマンスの相手であるメキシコ人女性マルタを、メキシコのベテラン歌手ダニエラ・ロモが演じている)。

「敗者」から見た戦争史

 戦争に限らず、世間のあらゆる人間の営みには勝負が伴う。したがって、かならず勝者がいれば、一方に敗者がいる。そして、勝者の言い分があれば、当然、敗者にも別の言い分があろう。しかし、通常、敗者の言い分は重視されないし、また敗者にその発言の機会が与えられることはきわめて少ない。それでも敗者の立場で意見を述べる必要があるといえよう。結果、敗者でも賞賛される場合がある。例えば、自国が戦争の当事国(者)の敗者である場合、自国の戦争責任者が自国民から批判されることもあるが、それ以上に、その指導者が擁護され、賞賛されることは少なくない。

 米墨戦争を例にとれば、勝者である米軍や米国人の立場を最終的には擁護する作品ならば、広く米国人に受け入れられるだろう。たとえ米政府を批判していても、戦時中政府や戦争指導者の僕であった個々の米兵の苦難や苦悩を公衆の面前で訴えれば、彼ら一般の米国市民は戦勝国の民であり勝者側に立っているとする一方で、実は敗戦国の敗者同様、彼らもまた戦争の犠牲者であり、社会の敗者、弱者であると認識され、同情や共感を寄せる者も出てくるだろう。

 しかし、『ワン・マンズ・ヒーロー』では、米国軍の組織上のハイラーキーのなかに人種差別を持ち込んだ米軍上層部を批判している。そして、この餌食となって虐められたアイルランド人を中心とする外国人がそれから逃れるように脱走し、最後は脱走とメキシコ軍に加担したという理由で死罪に処された彼らの悲運を映画の一貫したテーマとしている。加えて、カトリック信仰を背景にした隣人愛と、法に定める人道的配慮に基づいて彼らを擁護しようと努めるメキシコ軍やメキシコ庶民の描写シーンが導入されており、その点で異色の米戦争映画であり、画期的な内容である。米国人監督(ランス・フール監督)と米国資本(MGM)によって米国市場向けにつくられた映画だけに、作品自体の評価以前に、コマーシャリズムに反してまでも、自らの信念を貫き、これを作品に反映させたことに対して、まずは一定の評価がなされてしかるべきではないかと思うのである。

 さて、主人公はサンパトリシオ大隊の隊長ジョン・ライリー(John Riley)少佐(戦後、中佐に昇格)である。ライリーもアイルランド系移民であった。悲劇のヒーローとして賞賛されているのは、処刑されたサンパトリシオ大隊の兵士たち以上に、ライリー自身である。ところが、ライリーは鞭打ちの刑と脱走兵の烙印を押されただけで、死刑は免れたのであった。では、どうしてライリーが悲劇のヒーローとして伝統的に崇められてきたのだろうか。

 サンパトリシオ大隊はアイルランド人の米脱走兵の部隊であると一般に思われているが、実はアイルランド以外に、イングランド、スコットランド、イギリス、ドイツ、イタリア、フランス、ポーランド、米国、カナダなどの出身者で編成されていた。確かにその多くが米軍からの脱走兵であった。しかし脱走兵とは無関係の若干のメキシコ人も大隊に加わっていた。サンパトリシオ大隊の研究者ロバート・ミラーが用いた1847年の隊員名簿によると、126人の隊員の氏名が記載されているが、この数はライリー自身の発言にある200人以上という数値とは大きく隔たりがある。隊員名簿の126人中、アイルランド人は40人で、確かに最大の人数であるが、それは全体の半数に満たない。また同名簿から、126人中50人が1847年9月時点で絞首刑ならびに銃殺刑に処されたことがわかる。〔註1〕

 半数に近いものが処刑され、残りの半数がそれを免れた。そして後者のなかにライリーはいた。この線引きの詳細についてはあえてここでは触れないが、部下の刑の執行を阻止できず、その後も人目を避けて生き続けたライリーの人生はおそらく屈辱的人生ではなかったかと推察されるのである。死を天命として受け入れた部下たちの方が英霊として世間で賞賛される一方、生に甘んじている自分の愚かさと恥辱に苦悩し続けたことだろう。

 しかし歴史上、後世の私たちの記憶に残っているのはサンパトリシオ大隊とジョン・ライリーという個人名だけである。無念にも犠牲となった20代の若者たちの個々の名前がたとえ何人かでも具体的に記憶されていることはきわめて稀なことである。

 それはなぜか。皮肉なことに、無念の死を遂げた若者に対する強烈な衝撃はそのとき鮮明に記憶されるものの、やがては人々の脳裏から少しずつ薄れていくものである。人々の記憶は永遠ではないし、人間には不本意にも薄情なところがある。だからこそ、それを伝える記録を残して後世に語り続けることをしなければならないと私は考えるのである。それができる人物こそ、まずは「生きている」敗者なのである。

 運よく「死」を免れ「生」を甘受することになった屈辱的敗者の生き様に、個人的には共感する部分が多く同情の念をもっているし、彼らの功績や苦悩を否定するつもりは毛頭ないが、そこをあえて逆説的で酷な話をすれば、人目を避けて韜晦(とうかい)するのではなく、世間の罵倒や批判にも耐え忍び、その一方で、社会に対する説明責任を果たし続けることこそが、自らに課された宿命であると自覚しなければならないのではないかと考えるのである。そして、その尽力がやがては時代の経過とともに、社会から「承認」される機会をもたらすことにもなりかねない。だからこそ、死の選択をもって償うことで心の闇から解放されるなどという、甘んじた考えは彼らには許されないのである。

 ジョン・ライリーは戦後2年ほどメキシコ正規軍の中佐を務めたが、1850年以降の彼の行方はほとんど不詳である。アイルランドにもどったという説が有力であるがそれも十分に立証されていない。また、映画のなかでも描かれているメキシコ人女性とのロマンスも従来メキシコ人が好んで用いてきた架空の話という見方が有力である。

 幸いにもジョン・ライリーの名はメキシコ政府が1959年にメキシコ市サンハシント広場にサンパトリシオ大隊を称える記念碑を建立し、盛大な式典を行ったために、以降その名は有名になった。1997年には当時のセイディージョ大統領が米墨戦争150周年記念の一環として同様の式典を行った。ところで話は全くかわるが、ライリーについて書いていると、会津戦争のことを想起する。会津白虎隊で戦死を免れ自害しなかった少年兵、酒井峰治〔註2〕、飯沼貞雄(貞吉)、そして会津藩主松平容保(かたもり)にしても、逆賊の汚名を被り、世間から隠れるようにして、苦悩に満ちた逆境を耐え抜かねばならなかったと思う〔註3〕。彼らにしても、ライリーにしても、酷な言い方をすれば、社会的責任を取る努力は目に見える形ではほとんどなされていない。後にこれらの敗者に一定の評価がなされたのは、まぎれもなく後世の優れた人格者による配慮と尽力のおかげであった。米墨戦争でもメキシコ士官学校の少年兵がチャプルテペック城の戦いで戦死、自害した同様のエピソードがあるが、白虎隊にまつわる話に重なるものが多い。これらの少年兵は後にニーニョス・エロエス(Niños Héroes)、つまり「英雄少年」として認定された。今日チェプルテペック公園にその記念碑が建立されている。奇しくも、サンパトリシオ大隊の処刑とニーニョス・エロエスの死は同じ日に起こった出来事だった。

                       

〔註1〕Miller, Robert R., Shamrock and Sword: The Saint Patrick’s Battalion in The U.S.-Mexican War (University of Oklahoma Press, 1989).

〔註2〕酒井峰治の手記は1993年になって発見されたという。小桧山六郎編『会津白虎隊のすべて』(新人物往来社、2002年)、266-267頁。

〔註3〕明治23年に建立された白虎隊碑には松平容保の歌が刻まれている。

「くもりなき 月日は照せ 国のため さらし屍 朽ちはつるとも」

                                                                      【2008年2月9日脱稿】