私は修行の場を金沢に選んだ。都会育ちの私にはいくら北陸最大の城下町であろうが、知人もなく、さびしかった。それを忘れるために、「お酒」でもなく、「パチンコ」でもなく、「勉強」に専念したのである。このときほど勉強した時代はない。断言できる。
今は体力的にめったに徹夜とかできなくなってきているが、若かっただけあって、徹夜をしてまでもよく勉強した。私が入学した頃はまだ金沢大学が城内にあった(ここは現在、公園になって一般市民に開放されている)。泉学寮という学生寮に住んでいた私は、オンボロ自転車で城内キャンパスまで通っていた。城下からは急な坂道なので、自転車を押して上ったものだ。同じく西洋史研究室に入ってきた同期はT君。いまも懇意にしている。金沢で高校の教員をしている。同期西洋史学専攻は私たちだけだった。隣の考古学研究室には現在は中米で活躍している、その道のエキスパートS君がいた。
ところでT君は優秀で、大塚久雄だの、ウォーラステインだの、やたら詳しかった。学部生も彼には一目置いていた。学部生でフランス史をやっていたO君もTと並んで物知りだった。私はだんだん不安になってきた。西洋史の大学院に外国語学部出身の私がまぐれで入れたまではよかったが、語学以外にとりえのない私にはだんだん居心地が悪くなってきた。
彼らの勉強の話についていけず落ち込んでいたところ、思い切って師匠の山岸義夫先生(故人)に悩みを打ち明けたら、林健太郎の『史学概論』(有斐閣)という本を手渡され、これを読みなさいといわれた。概論と書いているが、私には専門書のように難しかった。要するに、先生曰く、「逃げていてはいけない」ということだったと思う。慰めは一時的なもので完全な解決にはならない。わからないならば勉強するしかないだろうということだったと思う。今になってそれはよくわかるのだ。
さて、二人しかいないゼミ(二人といえどもこれは定員最大だった。当時は今みたいに院生をボンボンとらなかったのである)では、当然T君と比べられるという試練と、たっぷり絞り込まれることに対する恐怖が毎週1回(月曜日)襲ってきた。ゼミでは論文指導があるわけだが、発表して意見を交換するという今風のゼミ形式ではなく、毎週原稿用紙に数枚書いて先生にお見せし、チェックを受け、ご教示を受けるというものであった。
赤ペンで原稿をチェックされるわけだが、すべてをチェックし終えるまで一人軽く10分はかかった。その間、沈黙だけが続いた。読み終わってどういうふうに言われるか、ましてやT君の前で恥はかきたくないというのがあって、自分では相当準備して毎回のぞんだ。結果からいえば、在学中ほめられることはほとんどなかった。日本語もヘタだし、論の展開もできていないと。最後まで読み終えたときには、原稿用紙は真っ赤になっていて、自分の鉛筆書きが見えなくなっていたほどだ。見事な添削指導である。達人である(笑)。
これは自分の学生たちに何度か言ったことであるが、私の原稿が読むに耐えないときは、先生の怒りは頂点に達し、原稿用紙が宙に舞い上がったと。こう確かに自分では記憶している。そのシーンを今でもはっきりと覚えている。T君の原稿が舞い上がったかどうかは覚えていないが、T君が今日も舞い上がったよ、と苦笑していたと記憶している。
でも先生のお人柄からしてそのようなことを絶対になさる人ではなかったはずだ。事実、それはありえない。では、どうして私は事実に反することを真実と思い込んできたのだろうか。おそらく、うまく文章が書けないという悩みと、先生にまた怒られるという恐怖心から、いつの間にか幻想の世界を自分で勝手につくり出し、それがあたかも真実として記憶されていったからではないかと思う。困ったことに、今でもこれは幻想だったと断言できないでいる自分がいる。脳裏には私の論文が宙に舞うシーンだけがよみがえってくるのだ。私の心がどれだけ病んでいたか、わかっていただけるだろう。
それでも、厳しい指導のなかに、先生には愛情があった。そう、「愛情」なのである。教育者たる者にはこの「愛情」がなければ、ただ厳しいだけでは学生はついてこないのである。当然のことである。私は厳しい環境のなかでも、このことがわかっていたので、またがんばることができたのだと思う。
私も自分の学生に対して同じように接しているのだが、最近の学生には少しずつこれが通用しなくなってきている。「愛情」と「厳しさ」は両立する概念ではなく、相反する概念のようである。大学では、体育会系の監督と選手の関係にわずかに残っているぐらいである。ただし、多くの体育会系学生は監督に対するのと同じように一般の先生には接しないだろうから、やはり最近の学生には通じなくなってきているといえよう。
【2006年8月10日脱稿】