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スペイン風邪からの歴史的教訓とは何か(その3)

2020-05-05 13:17:25 | パンデミック・スペイン風邪

スペイン風邪からの歴史的教訓とは何か
―終わりある戦いにするための序説―(覚書)
              
第3講

 

  歴史上の三大ペストはアジアかアフリカ発祥のものが多いと言われている。541年から42年のユスティニアヌスのペストは中央アフリカからエジプトにわたり地中海に広まったという。1347年に起こった黒死病(ペスト)はアジアが発祥で、クリミア半島に伝わり、ヨーロッパやロシアに広がった。1894年のペストはもともと中国の雲南で起こったものを起源とすると言われ、これが香港とインドで流行し、世界に広がった。

 ところが、スペイン風邪は、米国が発祥と言われ、その後1918年4月にフランスのルーアンで起こった。フランスではそれは当時La Grippeと呼ばれていた。スペインは第一世界大戦の中立国であったことからこのスペイン風邪を報道したのであるが、実際スペインの記事はこのパンデミックの情報を知るうえで重要であった。逆にスペインが感染の被害を相当受けていたイメージで見られている。

 これに感染したのは世界人口の3~5%で、太平洋や北極地方も含まれていた。平均寿命は12歳も下がったのである。聖バルトロメウ病院のウイルス学のジョン・オックスフォードは第1講で述べたように、スペイン風邪の第1波について調査した結果、北フランスのエタプルが発祥だとする。

 スペイン風邪は1年の間だけでも春、秋、冬の3つの周期が起こった。またインド、ニュージーランド、南アフリカまで広がった。通常インフルエンザは冬に悪化するのであるが、このスペイン風邪は夏と秋に世界に蔓延したのである。第2波は1918年9月から10月に起こり、オーストラリアを除いて世界に広まった。オーストラリアは1919年になって感染者が出た。第1波は春から夏にかけていつの間にかほぼなくなってしまった。ただし、1918年春の米国医学会のジャーナルではこのスペイン風邪がまったく取り上げられることはなかった。つまり、スペイン風邪の発症時は比較的穏やかで、死者もそれほどではなかったためかもしれない。この頃はまだ世界はむしろ第一世界大戦の行方を懸念していたのかもしれない。米兵がフランスにわたると同時に病気もフランスで流行し出した。米国でもカンザスのハスケル郡に始まり、やがてカナダやアラスカに広まった。またインド、サモア、日本、エチオピア、南アフリカでも発生した。4月には戦争の中立のスペインにもこの病気は広まった。「奇妙なタイプの伝染病がマドリードに現れた」と当時の記事が伝えているが、これがまもなく「スペイン風邪」という通称の誕生のきっかけになった。

 5月までにスペイン風邪はギリシアに伝わった。「スペイン風邪」という通称がギリシアではじめて使われたと思われるのは7月19日の記事と言われている。このときにスペインですでに起こっているものと類似する病状が悪性であると伝えている。1918年10月6日付ギリシアのテサッリア紙はスペイン風邪のことを次のように伝えている。

 病原菌が息を吸うときに口から体内に入る。頻繁にうがいして、とくに過酸化水素水を使ってやるのがいい。また消毒クリームである。それが予防策になるであろう。病原菌は咳による飛沫感染と空中感染で広がる。だから精神的ストレス、過労、密集をさけるべきである。すべての学校は閉鎖し、(シーツやタオル類などの)リンネル製品や手はつねに清潔にしておかなければならない。とくに注意していただきたいことは、インフルエンザ症状があらわれている人との直接感染は避けるべきである。

 公共の乗り物の切符、学校での鉛筆、病院や軍でのブランケット、教会の聖水に至るまで感染者が使ったものは感染手段と考えられる。フランス・リオン市長のエドワード・エリオット(1872-1957)は、そのために公衆の衛生を重視し、感染拡大に対抗するための有効な手段を講じた。公共の乗り物を消毒し、公共の場で人が密集することを禁じ、葬儀においても、その過程を極端に短縮させ、聖水には消毒剤を混ぜて死亡者数を最小限に食い止める努力をした。またマスクを公共の場では着用させ、病院ではつねに空気を入れ変えることを心掛けた。

 税関職員は見た目が健康な者は国境を自由に通過させたことは軽率であったと言わねばならない。世界に伝染病を蔓延させた大きな要因は、現代社会の移動ための輸送機関の発達が関係している。この場合、兵士、船員、その他民間人も自由に世界中を行き来するので、世界中の果ての地域まですぐに広まるのである。しかも当時は戦時中であり、戦場で負傷し、またマスタードガスで皮膚がただれて祖国に帰還する兵士が多かったことから、病院施設も医療従事者も足りなかった。そこで民間で働いていた外科医が軍病院で従事しなければならない事態が生じた。これにスペイン風邪の問題が加わったことになる。赤十字は欧米中で看護師を送った。感染者の2~20%を死に至らせた恐ろしいウイルスであった。通常のウイルスの死亡率は0.1%程度である。5000万の病気による死者が出た。フランスは10万、イギリスは22万、米国は55万で、いずれにせよ、第一次世界大戦による全犠牲者を上回る死亡者数であった。死者が比較的少ない地域でも、健康を害し身体能力にダメージを被った犠牲者は多かった。結果的に身障者になったものも多かった。多くの店が完全に閉めるか、あるいは客を外に出して客をないがしろにするところもあった。インフルエンザ恐怖症は町中に広まっていた。「現代史における最大の医療のホロコースト」と憂慮され、中世の黒死病よりも死者が増えつつあった。

 このスペイン風邪のユニークだと言われていた一つの特徴は、死者の多くが若年層であったことである。死者の99%は65歳以下の感染者で、20歳から40歳までの患者においてはその半分以上が亡くなった。これはきわめて意外なことであって、通常は2歳以下、および70歳以上の高齢者の致死率の方が高いのが普通である。この原因を考えたときに一つのことが推測される。1889年のロシア風邪のパンデミックのときの免疫があったかどうかが考えられた。事実、ウイルスそれ自体による肺炎で死亡、あるいは細菌性の二次感染による肺炎で重症化するケースが見られたが、ほとんどが後者であった。多くが神経系疾患を起こしている。わずかの事例として、栄養失調と飢餓による死と、アスピリンの過剰服用による死が見られた。

 1996年から2005年にかけてスペイン風邪で亡くなりアラスカ凍土で発見された遺体の肺組織からウイルスゲノムを採取、解読したところ、A型H1N1亜型であることが判明した。インフルエンザウイルスのレセプターはシアル酸を末端に持つ糖鎖で、ウイルス表面のヘマグルチニン(HA)がこのレセプターとの結合に関与した。これにより、免疫系が過剰に反応しサントカインストームにより死亡すると結論付けた。サイトカインストームは、2005年に流行した鳥インフルエンザ(H5N1)においても致死率の高い要因の一つとされている。1918年のスペイン風邪はH1N1亜型インフルエンザAウイルスによって起こったとされる。ウイルスが肺細胞に影響を及ぼし、肺組織においてサイトカインが過剰に分泌する。この免疫系への刺激によって「白血球が肺に移動し、肺の細胞を破壊して出血を伴う中程度から重度の肺胞炎、肺胞浮腫を引き起こすことで、患者は呼吸困難に陥る。このようなサイトカインストームは、幼児や高齢者より、健康で免疫系が正常な若年の患者に起こりやすい」。当初はブタから人にうつったとされておりブタインフルエンザ説があったが、H1N1亜型だとわかり、トリインフルエンザの突然変異の見方が支持されている。(続く)

                                             (牛島万)
                                                                                       ptarajoviushi@hotmail.com