人民/民族の自決権と国家形成をめぐる国際法上の相克と限界
― スペイン・カタルーニャ分離独立の行方を分析する一視座として ―
以下にアクセスしてください。
http://id.nii.ac.jp/1289/00000121/
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広島市調査報告
ここでは一部を掲載する。
平和記念公園を平和記念資料館の方から入ってきて長い直線状の道のさきに、例の何かと物議を醸しだしている慰霊碑が見える。そしてその石でできたアーチ状の屋根のはるか遠方にはまさしく原爆投下の象徴ともいえる世界遺産の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館、爆心地[1]から北西150m)がはっきり見える。20数年前に一度だけ当時広島在住の友人二人を訪ねてきたとき、平和記念公園を案内してもらった。しかし残念ながらそのときの記憶はほとんど何も残っていない。このたび、研究調査が私と広島を再び結びつけるものとなったのである。そこで例の碑文に目を通す。
安らかに眠ってください
過ちは
繰返しませぬから
この碑文の解釈をめぐっては、論争や器物損壊事件にまで発展しており、改めてここでその詳細にはふれないが、言えることは、私が本報告書のどこかでも書いているように、原爆投下の問題は未だに平和希求の問題である以上に、政治の問題が大きくのしかかっていることだ。そのため問題はより複雑化している。原爆投下は過去の終わった出来事と考え新たな未来を志向している者がいれば、当然過去を清算しなければ未来はないと考える者がいる。この碑文をみて、だれが、何の過ちを、繰り返さないのか、あるいは特定の当事者にそれを繰り返させない、とすべきなのか、碑文自体の内容をめぐって論争にまで発展したことがある。広島市の公式見解にあるように、世界人類全体が、戦争、とりわけ核戦争勃発を阻止することであるという解釈もある。かりにそうだとしても、その実現まで程遠い。事実、国連憲章では自衛権のための武力行使を一定の条件のもとで認めている。また核開発は核兵器の抑止効果という理念をもって特定の国においては未だに続けられている。そして、そのことを当事国は決して「過ち」とはとらえられていないということだ。そうなると、この場合の「過ち」は、やはり広島・長崎への原爆投下に限定された意味になるのだろうか。しかし、これもまた当事国は非を認めていないし、戦争下での事件であったために、人道的配慮が必ずしも優勢とは限らないのである。人道的配慮にはつねに一方で軍事的効果がつきまとっている。
ダニエル・セイツと松尾雅嗣は、広島を「不安定な合意としての記憶」と称する。この一つの意味は、平和記念公園や平和記念資料館が、果たして「祈りの場」であるのか、「歴史教育の場」であるのか、換言すれば、「慰霊」の場なのか「学習」の場なのか、あるいは「記憶」の場なのか「歴史」の場なのかという対立がある。そして、彼らによると、そこはまさに「祈りの場」という雰囲気を感じさせるという[2]。ここではこの議論に入らないが、筆者の見解としては、広島がまさに平和への希求の象徴としての「ヒロシマ」と化して世界に向けてメッセージが発信されなければ、「記憶」は風化するかもしれない。だから、慰霊碑の文言が、犠牲者に対する供養として、そして同時に、平和に対する真摯な気持ちが象徴されているとすれば、純粋にこれに共鳴する世界中の人々とヒロシマを結びつけ、現状の世界を変えていこうとする一つの起爆剤とならんことが期待されているのではないかと思う。
2. 本川小学校平和博物館(爆心地から410m)を訪問して
観光化されていない史跡を訪ね歩くことで、時折新たな発見に遭遇する。平和記念公園、原爆ドーム、平和記念資料館等の重要な施設とそれを包括する環境空間の観光化のなかで、心と肌で感じることが難しい場合が少なくない。修学旅行か教育の一環か、毎日何百人、何千人といった学生の集団が日本各地からここに見学しに集まってくる。私も教育の現場に身を置く人間の一人として、この意義を十分認識している。しかし、彼ら彼女らもそうかもしれないが、あまりにも時間にせかされて見て回る見学ではおそらく学びは半減するかもしれない。私が初日の昼間に平和記念資料館に入ろうとしていたとき、小学生や中学生が入口近くでこれから入場するところだった。そのとき、先生らしき人が生徒たちに、本日はバスの到着が遅れ、しかも中には他の大勢の見学者がひしめき合っているので、時間をかけずに見てくださいと大声で促していた。その言葉が耳に入ってきた私は急遽予定を変更して向かったのが、本川(もとかわ)小学校であった。
原爆は相生橋付近めがけて投下されたわけであるが、現在の平和記念公園があるところは、太田川と元安川にはさまれた格好の三角州上にある。そして広島駅から出ている路面電車の広電本線沿いの道路(国道183号)は相生橋を直進して本川町、十日町へ延びているが、他方、同橋の半ばあたりで平和記念公園に至る道路が分岐しており、いわゆる相生橋はきわめて全国的にもめずらしいとされるT字型の橋である。その西詰めの交差点から少し曲がったところ、つまり太田川沿いで向かいが平和記念公園というロケーションに本川小学校がある。聞いた話では、原爆の被害をまともに受けた小学校として、この本川小学校と、旧日本銀行広島支店に近い袋町小学校が、原爆の悲惨さを伝える資料館を付設しているという話を耳にしていたので、私はさっそく本川小学校に行ってみたのである。同小学校では原爆投下当時の昭和20年8月6日(月)午前8時15分、10人の教員と約400人の生徒の尊い命が一瞬にして奪われた[3]。ひとつの鉄筋3階建ての建物の一部だけがかろうじて倒壊せずに残ったという。その建物は今も当時のままの状態で保存されており、現在は小学校の敷地内にあるため、受付で手続きをすればこの資料館は一般に公開されている。同建物には地下室があり、被爆した遺物(ガラスびん、瓦、板ガラス、かんづめ、校庭から掘り出された灰、縄のあとが残る植木鉢、焼けて曲がった三八式歩兵銃等)などがそのままの状態で展示されている。まさに時の経過を感じさせない生の「記録」である。ところで、そこに飾られていた一枚の写真がなぜか気になった。原爆投下から2年後の本川小学校の校庭で同じクラスの仲間なのか、30人くらいで輪を描いて踊っている児童たちの遠景には、現在のそれとほぼ変わらない原爆投下の象徴としての原爆ドームが見える印象的な写真である。原爆ドームが昭和22年のこの写真と私を結びつけるものであった。そして私という身体は、まさに現在の本川小学校にいて、そのときの「体験」をできるだけ共有しようとしていた。私が訪問したときはちょうど私以外に見学者はいなかったが、全国各地の学校がここを訪れているようである。
「記憶」のための「記録」なのか、「記録」があるからの「記憶」なのか。本来、博物館や資料館の展示品には両方の性格をもっているものである。換言すれば、「記憶」を目的に、展示物の選択、展示の配列のしかた、など多少の「見せる」側の恣意性がどうしても働く。これを完全に悪いとはいわないし、その恣意性がない博物館など存在しないとも思うが、平和記念資料館などはその代表的なものであろう。原爆投下された広島の街並みの大きな模型、その頭上では大型画面の映像で繰り返し原爆投下の瞬間が映し出され、これでもか、これでもか、といわんばかりに、原爆の恐ろしさ、哀れさ、憎しみなど、様々な感情をわれわれに惹起させる。また横には皮膚の垂れ下がった蝋人形が置かれ、暗いホールがゆえにより恐ろしさが増す。さらには原爆で亡くなった個人の遺品を中心に陳列されている。男の子が投下当時家の庭で乗っていたとされる被爆した三輪車と鉄兜、被爆した息子の黒く長い爪、8時15分で止まった時計、中学生の学生服と時間割、弁当箱と水筒、黒い雨のしみ、貞子さんの残し折り紙など、展示物に一通り目をとおすことになる。原爆投下が広島の町や人々に与えた生々しい惨事の現状をわれわれの脳裏に「記憶」させようと、資料館は、手をかえ品をかえ、われわれの記憶は半ば支配されたかのように刺激され、まるで「記録」が「記憶」のために操作されている観すらもする[4]。しかもそれは視覚だけでなく聴覚や場合によっては臭覚まで使って記憶をより完全なものにする。私の場合は音声ガイドまで使用していたので、さらに懇切丁寧なガイドで誘導される。英語、スペイン語、中国語など諸外国語での説明もボタン一つで見ることができる。しかし本川小学校の平和資料館は「記録」がただ雑然と放置された状態で並べてあったように思った。ここに恣意性が隠れているのかどうかは別として、手をあまり加えていないという意味での記録の自然な状態、生の状態がかえってわれわれの想像力を働かせ、見る者の脳内の記憶装置を刺激し活性化させるようにも思った。
[1] 爆心地は、現在、島病院のあるところとされている。
[2] ダニエル・セルツ、松尾雅嗣「戦争責任と原爆をめぐって: 現代日本における議論と平和博物館の役割(『広島平和科学』21(1998)、282頁. 同じく平和記念公園をメモリアルの視点でとらえたものとして、田川玄「広島市街地における原爆記念物の時間と空間」(『広島研究』3号、広島市立大学広島平和研究所編、2016年3月)、37-54頁.
[3] 「あの日は、平日授業であった。爆心地から350mの至近距離にあった本川国民学校は、川崎校長ほか10名の教職員と約400名の子どもたちの生命が奪われ、その実態はいまも不明である。
あの日、奇跡的に生存していたのは二人と言われている。その一人筒井さんは、あの朝近所の同級生青原和子さん(被爆死)と登校。鉄筋コンクリート3階建て東校舎の1階靴脱ぎ場に入った瞬間、ものすごい音とともに周りは真っ暗になった。明るくなるのを待って二人は運動場へ出た。
学校は始業前で、あの時運動場でなん人か遊んでいた(その中に同級生の高木さんがあり、やけどで黒ごげのようになっていた)と、友をうかべる。運動場は爆心地からさえぎるものもなく、一瞬に熱線で焼かれたにちがいない。
筒井さんや青原さんに大きけがはなかった。運動場から出てきた先生は、耳から出血していた。青原さんとすぐに近くを流れる本川に出て、猛火で熱いので満潮(満潮は午前8時5分)の川に入っていた。一緒にいた高木さんは小舟の上で息をひきとった、(泣くだけで、なんの感情もなくぼう然としていたのが実情)と、焦熱下極限の体験を重苦しく話す」。本川小学校平和資料館パンフより引用。
[4] 衝撃を与えることを意図したものであると断じる。ダニエル・セルツ、松尾雅嗣前掲論文、228頁.
核兵器の使用と威嚇に関する国際司法裁判所の勧告的意見の意義 (後編)
牛島 万
1. 勧告的意見の内容
(1) 適用法規
ICJは「核兵器の威嚇または使用の合法性または違法性を決定すること」を目的に、まずは関連適用法規について検討した。市民的および政治的権利に関する国際規約(自由権規約)第6条の「生命に対する権利」は、戦争における特定の兵器使用による人命の損失は恣意的な生命の剥奪であるかどうかは特別法である武力紛争法によって決定され、自由権規約から引き出せるものではないとした(24~25項)。またジェノサイド条約はそれぞれの事例に特有の状況を正しく考慮に入れた後初めてそのような結論に達することができるものとした。さらに環境保護規則は、核兵器を直接禁止したものではなく、武力紛争において適用される法の原則及び規則の実施において重要なものではあるが(26~34項)、結果的に、国連憲章に定められた武力行使に関する法および武力紛争で敵対行為を規律する法の適用を決めた[7]。しかし、そのような法の適用に際しては、核兵器の独自の性格を考慮しなければならない。すなわち、他の兵器よりもその損害ははるかに強力である熱とエネルギーの放出、および放射線を発し、潜在的にすべての文明と地球の全生態系を破壊するまでの潜在力を有するものとした(35項)[8]。
(2) 武力の威嚇・行使に関する国連憲章規定
次に、ICJは国連憲章の武力の威嚇または行使に関する規定として、最初に憲章第2条4項による武力行使の禁止を検討する。第2条4項には同第51条(武力行使がなされた場合、個別的および集団的自衛権を認める)および42条(安保理の軍事的強制措置)に照らし合わせて検討しなければならないが、これらの規定は当然のことながら特定兵器に言及していない(37~39項)。「国連憲章は、核兵器を含むいかなる特定の兵器の使用を明示的に禁止したりあるいは認めたりしない。それ自体として条約あるいは慣習法によって違法とされる兵器は、憲章上正当な目的に使用されたからといって合法的になるわけではない」とICJは述べる[9]。自衛権の行使は、慣習法上、必要性(necessity)と均衡性(proportionality)の原則で規律される。それはニカラグア事件の判例からも明確である[10]。ただし、均衡性の原則はあらゆる場合において核兵器使用を必ずしも禁じるものではない(42項)。しかし、同時に、自衛の原則かつ均衡性の原則による武力行使であっても、「人道法の原則および規則からなる武力紛争において適用される法の要件を満たさなければならない」とした[11]。さらには自衛との関連で、復仇については、核保有大国の見解に応じて、平時における武力復仇は違法、戦時復仇についても均衡性の原則で規律されるとした(46項)。
次に、第2条4項の武力の威嚇の禁止と抑止政策との関連についてであるが、ここでは核兵器使用の威嚇の合法性の問題となる。ICJはこの点に関し、当該武力行使が違法であれば、そのような武力行使の威嚇も違法であると述べる。さらに、「かかる抑止政策が有効であるためには核兵器の使用の意図が信頼できるものでなければならない。それが第2条4項に反する『威嚇』であるかどうかは、想定されている武力行使が、ある国の領土保全または政治的独立に向けられているか、国連の目的に反するかどうかで判断されるべきであり、また防衛の手段であるとして意図されている場合には、それは必然的に必要性と均衡性の原則に違反するかどうかで判断されるべきである」と述べる[12]。
このことからわかるように、ICJは核兵器を特別視していない。また抑止政策について核兵器のよる威嚇が合法かどうかについては深く掘り下げていない。
(3) 核兵器自体の合法性ないし違法性
ICJは、国際慣習法も条約も一般的に、あるいは特定の状況、とりわけ正当な自衛権の行使において、核兵器ないし他の兵器による威嚇または使用を特別に許可する規定を含んでいないと述べる。他方、核兵器その他の兵器による威嚇またはこれらの兵器の使用の合法性を特別に認める国際法の原則または規則も存在しないという。そこで、ある兵器の違法性は、許可がないことによって生じるのではなく、禁止規定があるかどうかに基づくとICJは判断した。従って、核兵器自体の使用の禁止を定める条約規定があるかどうかについて検討しなければならない(52項)。
そこでICJによると、1907年の第4ハーグ条約付属書『陸戦の法規慣例に関する規則』第23条(a)、1925年の『毒ガス等禁止議定書』等も核兵器への適用は想定できず、いずれも禁止規定はない[13]。さらに1972年の『細菌兵器(生物兵器)及び毒素兵器の開発、生産及び貯蔵の禁止並びに廃棄に関する条約』(生物毒素兵器禁止条約)や『化学兵器の開発、生産、貯蔵の禁止並びに廃棄に関する条約』(化学兵器禁止条約)においても、特段、核兵器の使用を禁止する規定はみいだせない。
ICJは、過去20年間に、核兵器に関して多くの交渉が行われてきたが、生物兵器や化学兵器の一般的な禁止条約はできていないことを指摘した。他方、核兵器の規制条約は成立してきたことを評価している。トラテロルコ条約1条では核兵器の使用を禁止しているが、米、英、仏、ロ、中の核保有国との間に結ばれた第二追加議定書3条では、これらの国々は、トラテロルコ条約締結国に対する核兵器使用および威嚇の禁止を約束しているが、その署名、批准に際し留保宣言をなしている。こうした留保に対してトラテロルコ締結国は何ら異議を唱えていない。これはすなわち、核兵器の使用を一定の状況下で認めていることに等しいとICJは指摘する 。また1985年のラロトンガ条約(正式には『南太平洋非核地帯条約』)議定書2第1条は、核兵器国は、南太平洋非核地帯の領域に対していかなる核爆発装置の使用禁止およびその威嚇の禁止を約束すると規定しているが、中ロ核兵器国は留保しているのである。さらに1968年の『核兵器の不拡散に関する条約』との関連をみると、同条約署名時に、米、英、ソ(ロ)3国は、条約締結国となる非核兵器国に対して、「国連憲章に従って、即時の援助と支持を与え」た。1995年の核不拡散条約の再検討会議では同条約の無期限延長が決定されたが、米、英、ロ、仏、中の5核兵器国は積極的および消極的安全保障を与えた。すなわち、すべての5核兵器国は、非核兵器国に対して核兵器の不使用を約束し、消極的安全保障を与えた。しかし、中国を除く核兵器国は、自国またはその同盟国が、非核兵器国と核保有国との共同または同盟によって攻撃された場合には例外があるとした。以上のことをふまえて、ICJは核兵器の使用は合法であるという主張する国々の存在に言及し、これらの国々は5核兵器国による核所有を許しているに等しいと考える。核兵器の取得、生産、保有、配備および核実験についてもっぱら取扱う条約は、とくにその威嚇とか使用については述べていないが、国際社会における核兵器に対する懸念の高まりによるものであり、将来的に核兵器使用の一般的禁止に向けて国際社会は動いている。しかし、これらの条約自体が核兵器の使用を禁止するものとはならないと結論する。その理由は、ラテンアメリカや南太平洋の特定の地域や特定の非核保有国に対して、核保有国は核兵器を使用しないと約束しているが、この枠組みにおいてなおも、一定の状況下で核兵器を使用する権利を留保しており、これに対して、先にあげたトラテロルコ条約やラロトンガ条約の締結国や安保理の反対を受けていないことにある[14]。
次に、核兵器使用禁止が慣習法かどうかを検討する。1945年以降核兵器の使用がないことが使用禁止の法的信念opinio jurisの表明であるのかについては、国際社会の大きく意見が分かれるところである(64~67項)。核兵器使用の特定かつ明示的禁止は、国連総会での決議に規範的価値があると述べる一方で、抑止の効果としての核兵器を主張する核保有国等はこれに対抗しており、これをもって、核兵器の使用の違法性に関する法的信念の存在を証明するまでに至っていない。
(4) 国際人道法
核兵器使用を禁止する実定法も慣習法および条約もないことから、次に武力紛争において適用される法、国際人道法の原則および規則ならびに中立法規に照らして核兵器使用の違法性を検討する。人道法は、当初、国際慣習法として発展してきたが、19世紀以降法典化が進み、それは害敵手段の選択を規制するハーグ法(1866年のセント・ペテルスブルグ宣言、1899年および1907年のハーグ条約など)と、戦争犠牲者の保護に関するジュネーブ法(1864年、1906年、1929年、1949年のジュネーブ条約)に大別されていたが、それらが複合的になって国際人道法を形成しているといえる。1977年の追加議定書の規定は人道法の統一と複合性を補完するものである[15]。
1907年の「陸戦の法規慣例に関するハーグ規則」第22条は「交戦者は、害敵手段の選択に付、無制限の権利を有するものに非ず」と定め、1868年のセント・ペテルスブルグ宣言は「すでに戦闘外におかれた人の苦痛を無益に増大し、またはそれらの人の死を不可避とする」兵器の使用を非難している。さらに先の「陸戦法規慣例条約」第23条では「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」を禁じている。ICJは、戦争法あるいは武力紛争法、後には国際人道法といわれるようになった主要な法や条約に含まれる基本原則は、戦闘員と非戦闘員の区別、ならびに非戦闘員(文民)を攻撃目標としてはならないとする第1原則、換言すれば、文民と戦闘員を区別できない兵器の使用を認めないとするもの、および戦闘員に不必要な苦痛を与えることを禁じるとする第2原則であった。この第2の原則を適応上、各国はその使用兵器について無制限の手段の選択の自由は認められないとする[16]。
また、ICJは、1899年のハーグ平和会議で採択された「陸戦法規慣例に関するハーグ第2条約」の前文のマルテンス条項についてふれ、同条項は「一層完備した戦争法規に関する法典の制定せらるるに至るまでは、締結国は、その採用したる条規に含れざる場合においても、人民及び交戦者が依然文明国の間に存立する慣習、人道の法則及び公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及び支配の下に立つことを確認するを以て適当と認む」としている[17]。さらに1977年のジュネーブ追加議定書Ⅰの第1条2項にみられる「この議定書または他の国際合意の範囲に含まれない場合にあっては、文民および戦闘員は、従来と同じく、確立された慣習、人道の原則および一般的道義心の要求から生じる国際法の諸原則の保護および権威の下におかれる」ものとされる[18]。以上のことから、ICJは、戦闘員と非戦闘員に対して無差別に影響する兵器の使用が人道法の要件に合致するものでなければ、兵器の使用も威嚇も人道法に反すると解した。さらに、ICJは、人道法の基本諸原則は、国際慣習法になっていると見解した(82項)。ICJは、先の基本2原則は『条約法に関するウィーン条約』第53条に規定される強行規範であるという主張に対しては、この問題に裁判所が立ち入ることを認めなかった[19]。
ICJは、大多数の国家および学者の見解では、人道法が核兵器に適用できるとしている。また武力紛争に適用される人道法の確立された原則や規則が核兵器に適用されないとはいえないとみる。従って、裁判所は、核兵器の新しさということをもって、人道法に核兵器が適用されないことにはならないという画期的な見解を述べた(85~87項)。
最後に、中立法の原則について、いかなる兵器の使用においても、すべての国際武装紛争に対して適用されることを確認した[20]。
以上のことから、ICJは、人道法の原則および規則ならびに中立の原則が核兵器に適用可能であることは問題がないと考えるが、この適用可能性から引き出される結論はひとつではない。一つは、核兵器に武力紛争法が適用可能であるということは、核兵器の使用それ自体が禁止されたことにならないという見解(部分的合法論)と、もう一つは、核兵器の使用は人道法の原則および規則に反するものであり、核兵器の無差別的な影響に鑑みて、核兵器の使用はすべての状況下で禁止されるべきであるという見方がある(絶対違法論)。ICJの見解では、武力紛争に適用される法の原則や規則が設けられた核心は人道の最優先的考慮にあり、核兵器の独特な性格に鑑みれば、核兵器の使用は、武力紛争の要件に当てはまらないが、いかなる状況においても、武力紛争に適用される法の原則および規則と必然的に違反すると判断する決定的な要素をもっていないとする(95項)。つまり、国連憲章51条の自衛権の問題を指摘する。また抑止政策についても考慮した。これにより、次のような結論を引き出すことになる。国家の「生存が危うくされている」場合に自衛に訴える国家の権利を無視することはできず、その手段のなかに核兵器の威嚇または使用が違法であるとは決定的に判断はできないとした(96~97項)[21]。
以上のことをふまえて、裁判所は次のように意見主文を述べる[22]。
2. ICJの勧告的意見の意見主文Eの問題点とその理由
Eの前段において、「先の要件から、核兵器の威嚇または使用は、武力紛争に適用される国際法の規則、とくに人道法の原則および規則に一般に反するであろう」と結論を提示している。「一般的に」という文言の挿入はコロマ(シエラレオネ)、シャハブディーン(ガイアナ)、ウィラマントリー(スリランカ)の3判事が反対した。名古屋大学名誉教授の松井芳郎によると、それ以上に疑問視されたことは、裁判所がこの結論に至った理由を明確に述べていないことであった。つまり、核兵器の独自の性格を強調し、他方で人道の基本原則を確認したが、具体的に、核兵器のどのような性格が、人道法のどの原則にどのように違反するのかについては言及していない。これはヒギンズ判事(英)の批判する理由となっている[23]。
しかし問題は、Eの後段で、これまでの論理の流れを大きく逸脱する。「しかしながら、国際法の現状および裁判所の有する事実の諸要素を勘案し、裁判所は、核兵器の威嚇または使用が、国家の存亡そのものにかかわる自衛の極端な事情において、合法であるか違法であるかを明確に結論付けることはできない」と。Cで処理済みのはずであったjus ad bellumの問題に立ち返ったかのようにみえる。しかも「国家の存亡そのものにかかわる自衛の極端な事情において」というこれまでの国際法では未知の新奇な概念を導入した。このような状況とは具体的に何なのかは示されていない[24]。また、だれがそれを判断しうるのか、そしてそれが法的に提起されうるのか。おそらく自衛権を行使するのは国家であろうと考えるのが妥当であろう[25]。このような状況と核兵器使用の法的評価に与える影響についても述べていない。しかも何人かの判事が指摘したように、Cの結論とそれに対する理由と矛盾しているかの印象を与える。松井はこの点を「残念ながら、意見主文のE後段は混乱の極みというほかはない」と述べている[26]。
しかし反面、松井は、「裁判所は論理的な矛盾を侵してまで付したのは、紙一重の多数を確保するための苦肉の策であった」とも述べている。ここでは、「核兵器のすべての使用は国際法上違法である」というコロマ判事の反対意見まで考慮していない。ICJは「核兵器の使用は人道法の原則に一般的には違反する(95項)」一方で、「若干の状況で核兵器の使用は合法であると主張する国はそのような使用を正当化する状況を正確に示さなかった(94項)」に鑑みれば、先のような意見主文ではなくて、裁判所は「核兵器の使用は人道法の原則に一般的に違反する。例外的な状況のもとでそれが正当化されると主張する国は、これを正当化する状況を立証しなかったとも書けたのではないか」と松井は述べる[27]。
他方、帝京大学教授の則武輝幸は、「核保有国が聞く耳を持たないような意見を与えたところで、現実的には意味を持たない。本勧告的意見は唯一の現実的な選択肢だった」と述べる[28]。
立正大学名誉教授の落合淳隆もこの点について詳細な検討を発表している。まず、「一般的に」という「あまりにもあいまいな用語」を用いることで、反対派のウィンマントリー判事は、「C項、D項で、核兵器は、国連憲章、国際法の原則、人道法の原則と合致するものでなければならないと裁判所は結論づけているが、核兵器がこれらに合致することは不可能であり、核兵器は違法となるのである。『一般的』という言葉は、さまざまな意味にとられ、この言葉が、たとえわずかでも核の使用の許容性の余地を残すことになれば、法を正しく反映させたものではない」と主張した。他方、シュヴェーベル判事(米国)のような批判もある。E項は不正確ではあるが、非合理ではないと。それは14人の判事のあいだで意見が分かれたという事実を如実に表す文言が「一般的に」であると解されるとする。日本代表の小田滋判事は回避を拒否し、核兵器の威嚇または使用を完全に合法とする合法論が3名、原則違法論が7名、絶対違法とするのが3名で、ここから落合は、核兵器の威嚇または使用の反対が多数であるという現実を如実にくみとった言葉が「一般的に」ではなかったかとみている。少数派として、核兵器の使用禁止に関する国際法の発展の歴史からみれば、「大きな貢献」とみることが可能である[29]。
しかし、かりにそうであったにせよ、筆者は、後段がむしろ現実の「障壁」を如実に表したものではないかと考える。換言すれば、後段のおかげで、「貢献」ではなく、核兵器の使用の合法性が黙認されたに等しいからである。そしてシュヴェーベル裁判官は、本勧告的意見は、結果的に国連憲章第2条4項と第51条の規定にもかかわらず、ICJは核兵器の威嚇または使用という国際問題に何ら意見を持たないことを広く周知せしめる結果となったと批判する[30]。小田滋判事は最初から、その抽象性(具体的事件ではないという意味で、かつ核戦争はわが国が1945年にはじめて原爆が投下されて、その後は実質上、核戦争は起こっていないという意味で)がゆえに、この勧告的意見を受けるべきではなかったと述べていた唯一の判事であった。ヒギンズ判事も、これは法律問題ではない、シナリオを描く必要も示唆されていたので最初からこれを受け入れるべきではないという意見を退けてまで当該案件に裁判管轄を認めたあげくに、E項後段のように裁判不能とするのは相当の批判を受ける覚悟が要すると述べている[31]。
他方、コロマ判事の見解は別の意味で重要である。同判事によると、E項後段の判断回避は、それまでの核兵器の威嚇または使用に武力紛争に関する法、とくに人道法が適用されるとするICJの判断とは矛盾するものである。そして武力紛争法に従う義務と、自国の存亡がかかっている極限状況下での自衛権とは、お互いに相反するものではなく、国際法上認められている。ところが、この2つの原則もしくは権利が競合する場合に、ICJはいずれかを法的に優先しようとすると批判する。そこで、コロマ判事によると、ICJに提起された問題は自衛権の問題はなく、核兵器の使用が合法か違法かという問題のみである。核兵器の威嚇または使用の合法違法性こそ、国家権力にゆだねるべきでないと批判する[32]。
意見主文C項で、国連憲章第51条の要件に合致した場合の核兵器による威嚇または使用は合法としている。では、この場合、核兵器による自衛権行使は、個別的自衛権のみをいうのか、それとも集団的自衛権をも含むのか。また国家の存亡にかかわる極限的状況の認定、およびとられる措置の「必要性」と「均衡性」は自衛権を行使する国が行うことが通常であるが、その認定に問題は生じないか。しかもそれが核兵器となると他国にも影響は大である。国際機関の客観的判断を仰ぐことは本当に可能なのであろうか。安保理の常任理事国が核保有国で占められており、そこには恣意性が見え隠れしており、不安な要因が多い[33]。
ここでもうひとりの論者の見解を紹介しておきたい。上智大学名誉教授の廣瀬和子の解釈である。廣瀬によれば、前段は人道法の議論で、後段は自衛権であるので国連憲章の議論であり、両者の関係が不明瞭なまま併存している格好であると指摘している。そこで次のことに喚起しなければならないとする。それぞれにおいて準拠されている国際法の成立時期の違いや前提の相違からくる衝突があるため、同列に並べて議論できない場合があることを示唆する。ICJの勧告的意見ではこの点が無視されて進められたために、「論争が循環論になったり、エンドレスになったりしている」。具体的に言えば、「人道法、人権法、環境法から核兵器使用が合法か違法かを論じている最中に、国連憲章の自衛権行使による核兵器使用をとりあげ、さらにその使用は人道法に規制される」といったふうに論証が続くので、「これに対して核兵器の使用は必然的に人道法上の原則に反するから、自衛権行使においても核兵器の使用は違法であるという反作用が生じて議論が振り出しに戻ってしまうことがある」と苦言する[34]。
そこで、前段のjus in belloの問題と後段のjus ad bellumの問題を扱うためには、「現時点での国際法の解釈としては納得できるものがあるが、両者の関係付けをしないままでの議論は、核兵器の法的規制をどうするかについて錯綜させることにより、必ずしも生産的ではない」と廣瀬は述べる。通常、前者のjus in belloは人道法上の問題、後者のjus ad bellumは自衛権の問題として別の次元に属するものとして対処される。そこで両者の関連付ける必要があるが、そこで廣瀬は、これを実体法と手続法の関係でとらえることを提起する。例えば、国連憲章第2条4項に違反した対抗措置として第7章の集団安全保障と自衛権が認められているように、実体法と手続法の関係にあるといえよう[35]。
筆者の知る限り、廣瀬の研究は唯一、この法解釈上の「循環論」という欠陥を具体的に検討していると思う。ここでは彼女の見解の概要をとどめておこう。
(a) 核兵器使用の合法性の問題は、1960年代に核兵器に核兵器の使用自体を問う視点から、人道法の視点へと移行したが、核兵器使用そのものの合法性を論じる人道法の原則が無効になったわけではない。そこで、ICJの勧告的意見では、2つの解釈が対立、並存する。①人道法の原則から核兵器を使用することは違法である。②核兵器使用それ自体は違法ではなく、人道法上の原則に従っていれば合法である、という解釈である。しかしICJ自身の判断が示されず、この論争の結論が出ないまま、新たな論争が生じている観がする。かりに①の解釈でいくならば、ここで議論は閉じなければならない。「ダメなものはいかなる理由があろうとダメ」なのである。ところが、ここで自衛権が出して反論する。これは同次元での反論ではなく、不適切である。②の解釈でいくならば、国連憲章上の自衛権における核兵器の使用は一定の状況では合法であるという議論の可能性が残される。しかし、自衛権行使の議論とは別次元の議論で、直結させる必要はない[36]。
(b) 国連憲章上の自衛権行使における核兵器使用の可能性についての議論であるが、まずは単独で考える。
① 自衛権行使における核兵器の使用には、jus ad bellum上の、あるいはより積極的な国連憲章第2条4項上の正当性があるかどうかを確定すべきである。この問題において、人道法の観点からの反論はなされても、憲章上の自衛権行使の観点からの反論はありえない。
② そのうえで、正当な自衛権行使においても人道法の原則が適用されるならば、その適用の結果でその自衛権行使における核兵器使用の適法性が決定する。換言すれば、人道法に違反していれば、その自衛権は違法となる。そしてここで一回閉じるべきである。ところが、本勧告的意見が具体的な事件を扱っていないために、とかくさまざまな状況を想定して、ここで憲章51条の自衛権を持ち出すようなことになると、ここで循環論を生み出してしまう。ICJにおける議論の過程で、少なくとも自衛権行使にはjus ad bellum上の正当性があるが、均衡性(廣瀬は「比例性」の用語を用いる)の原則や人道法の原則に従うことは一定の合意がある。従って、そこで議論を終えなければならない。そこで、再び自衛権の議論を持ち出すと「議論をエンドレス」にしてしまう[37]。
③ 自衛権行使における核兵器使用は一定の場合許容されるという解釈にたって、核兵器使用そのものが合法であるという解釈もあるが、「これも異なる論点をまたいで行われるためやはり循環論を誘発」している。人道法に準拠すれば、核兵器の使用は「その兵器の性質上必然的に無差別攻撃の禁止原則などに違反し、その目的が自衛であると否とにかかわらず、違法であるという解釈が導かれる」。この解釈は、自衛権行使上の核兵器使用の合法性と明らかに矛盾するからである[38]。
(c) ICJの勧告的意見における核兵器使用の合法性を説得するときに、核抑止政策に依拠しているが、これもjus in belloの議論からjus ad bellumの議論へ、換言すれば、法ではなく政治(藤田久一は「国際政治」としている)の議論に逃げているという印象まで与えていることを指摘している[39]。
結びに変えて―核抑止・自衛権から核兵器使用の違法性を導き出せるのか
原爆裁判(下田裁判)とICJの勧告的意見の類似点は、人道的アプローチから判じていることである。前者は、第二次世界大戦時の戦争法を適用したし、後者は古い条約、慣習法から現在のジュネーブ条約に至るまでの人道法の展開とそこにある基本原則である、戦闘員と非戦闘員の区別と後者の保護(第1原則)、不必要な苦痛の禁止(第2原則)をあげ、核兵器の威嚇または使用は、人道法の原則および規則に一般に違反すると結論した。
しかし、すでに述べたように、ICJの勧告的意見では人道法以外に同時に自衛権を押した。それは核兵器による威嚇または使用が通常の自衛権行使の場合を上回る一層厳格な要件を課すことを意図しているとも考えられる。また、この背景には核による抑止政策をふまえての判決であると容易に理解できる[40]。しかしこれは厳密には、藤田によれば、ICJは抑止政策という国際政治の問題を自衛権という法概念を通じて自衛権の脈略にもっていったといえる[41]。
廣瀬の詳細な循環論の論及をみたが、筆者は、そのような循環論に陥ることがなくても、おそらく意見主文Eの内容はおそらく人道論と国連憲章上の自衛論の2つの柱に依拠している限り、同様の結果を生んだのではないかと思う。それは1996年当時の国際政治の現状を十分にくみ取った「予測通りの」結論であったと考える。換言すれば、国際法と国際政治(現実と政策)の相互関係は無視できないということではないか。
これまでの年月の経過のなかで、原爆投下が戦争手段として投下された経験は幸いにしてわが国だけでとどまっている。70年前の広島・長崎への原爆投下を持ち出して議論する必要はもはやないのか。忘却することで平和が確立するのならばそちらを選ぶべきなのだろうか。否、そうではないはずだ。核実験場となったニューメキシコ州トリニティ、ビキニ環礁(マーシャル諸島)、後には水爆実験でわが国の第五福竜丸の船員が被爆し犠牲となった(1954年)。さらには、不慮の事故とはいえ、チェルノブイリ原発事故、そして5年前にはフクシマが同じ状況に遭遇した。他方、国際政治の舞台では、依然、安保理の常任理事国が核保有国であり、核兵器や核開発は抑止効果策を理由に続けられ、非核運動のその後に大きな動きも見られない。そして核の非保有国もこれを事実上黙認している。筆者の2論考のなかでも言及したが、日本政府は核の傘下にあるかのごとく、結果的に米国の立場を擁護し、あるいは中立や棄権を通じて、つまり「事実上の黙認」を通して問題を回避してきた。しかし、わが国の戦後70年間の歩みはそれだけではなかった。現実に核兵器使用の違法性を支援する動きは世界中に広がっている。なかでもNGO等の市民団体をはじめ、市民運動としての参画が核軍縮推進に貢献してきたという歴史がある。わが国は不幸にもヒロシマ・ナガサキ・フクシマを経験した。われわれはこの苦い経験を活かした積極的な「働きかけ」を施さなければならないのではないか。(了)
We see in retrospect that an unspeakable tragedy was visited upon, not only the victims of the atomic bomb, but even the people who managed to survive.
The exhibits in the Nagasaki Atomic Bomb Museum include a poem written by a 10-year old girl. Please refer to page 61 of the book "Records of the Bombing in Nagasaki".
The poem tells how the girl's younger sister was trapped under the ruins of their house, how fires were breaking out among the debris and how the mother of the two children - who had suffered severe burns in the bombing - squeezed out the last ounces of her strength to save the child.
According to the poem, the mother died before the end of the day. The author's two-year old sister died 13 days later and her five-year old brother died after about two months. Not even a trace remained of her grandmother or the seven-member family of her aunt. Her father died of cancer 13 years ago, and now the author herself is also sick in bed.
Now please look at this photograph, which you will find on page 27 in "Outline of Atomic Bombing Damage of Hiroshima and Nagasaki". The photograph was taken on the day after the Nagasaki atomic bombing.
The boy seems to be enjoying an afternoon nap on the sunlit veranda of his house. The boy, however, is dead. He had died instantly in the ferocious blast, probably not even noticing that a bomb had exploded or that he was falling into an eternal sleep.
Please look at this photograph, which you will find on page 28 of the book "Records of the Atomic Bombing in Nagasaki". This photograph shows the carbonized corpse of a boy perhaps four years old who was exposed to the bombing near the hypocentre. What crime did these children commit? Did they take up guns and point them at the enemy?
When she saw this photograph in the Nagasaki Atomic Bomb Museum, Mother Theresa, recipient of the Nobel Peace Prize, said, "All the leaders of the nuclear States should come to Nagasaki to see this photograph." Please allow me to make the same statement. All the leaders of the nuclear States should see this photograph. They should take a direct look at the reality of nuclear weapons and realize the nature of what happened in front of the eyes of these children that day. Let the leaders hear the silent screams of these children.
A friend of Yosuke Yamahata, the photographer who took these pictures, described Yamahata's appearance at the time as follows:
"Only three days had passed since their departure, but Yamahata and his two companions were so strangely emaciated that they might have been mistaken for other people. It was an air almost of madness, as though their mental state had been damaged by some tremendous psychological shock. Although openhearted by nature, the three seemed terribly alarmed and upset, as though fleeing from something or possessed by some kind of demon. They seemed, quite literally, to have arrived back from a visit to hell."
Mr. Yamahata died of cancer of the pancreas 21 years after this severe psychological shock.He was only 48 years old.
A 14-year old boy exposed to the atomic bombing two kilometres from the hypocenter described his experience as follows:
"The air-raid shelter in Sakamoto-machi was filled with the dead and injured.
The area near the shelter was strewn with corpses, some scorched black and others half-naked with puffed-up faces and skin hanging off like rags. It filled me with sorrow to see, among these, the corpses a mother clinging to her newborn baby and her three other children lying dead nearby. I could do nothing for the people screaming for help from under the ruins of houses or the people crawling along the ground dragging their burnt skin and begging for water. These screams of agony in the throes of death echoed in the ruins all night. When my father found a pot in the ruins and used it to draw water from a stream, the injured drank it greedily but then lay down and died on the ground.
The following morning the screams had subsided, leaving only a world of death like a hell on Earth."
This boy's four-year old sister died on August 10, and his mother, who had suffered severe burns, died on August 17. Then, 12 years later, his father died of stomach cancer.
Needless to say, there will never be enough time to introduce all of the tragedies of Nagasaki.
It was not a life or repose that awaited the people fortunate enough to survive after experiencing these scenes of hell. It was only the beginning of a life of mental and physical suffering and anxiety over the threat of disease and death.
As you know, the most fundamental difference between nuclear and conventional weapons is that the former release radioactive rays at the time of explosion. All people exposed to large doses of radiation generated during the one-minute period after the Nagasaki atomic bomb explosion died within two weeks. Induced radiation due to the absorption of neutrons by substances on the ground, as well as plutonium particles, products of nuclear fission and other radioactive fallout scattered by the wind, caused widespread, long-term radio-contamination. Therefore, not only directly exposed people, but also those who came into the hypocenter area after the bombing and those exposed to fallout carried by the wind suffered radiation-induced injuries.
A high incidence of disease was observed among the survivors exposed to large doses of radiation. Particularly noteworthy is the high frequency of diseases such as leukaemia and malignant tumours appearing after long periods of latency.
It has been reported that leukaemia appears two or three years after an atomic bombing and that the incidence declines after reaching a peak six or seven years after the bombing. Cancer meanwhile is said to appear after a latency of more than 10 years and then to increase in frequency over time. Support for these conjectures was voiced at the meeting of the Japan Cancer Society in October this year, when it was reported on the basis of follow-up studies on the atomic bomb survivors of Hiroshima and Nagasaki that excess mortality due to leukaemia and cancer is observed as a result of exposure to radiation.
It is said that the descendants of the atomic bomb survivors will have to be monitored for several generations to clarify the genetic impact, which means that the descendants will be forced to live in anxiety for generations to come. I have shown from the above that, with their colossal power and capacity for slaughter and destruction, nuclear weapons make no distinction between combatants and non-combatants or between military installations and civilian communities, and moreover that the radiation released by these weapons cannot be confined to specific military targets. It can only be said, therefore, that nuclear weapons are inhuman tools for mass slaughter and destruction.
The people of Nagasaki and Hiroshima are not the only victims of nuclear explosions. It is said that many people have fallen victim to radiation exposure in the course of the development of nuclear weapons.
I met the mayor of Bikini this past May. Bikini Island was the site of more than 20 nuclear tests in the atmosphere and suffered contamination from radioactive substances. I was deeply moved to hear from the mayor how the residents were forced to leave the island because it had been made uninhabitable for nearly half a century, how they have been striving relentlessly to restore the natural environment and a safe life and how they hope finally to be able to return to Bikini next year.
It is my understanding that the free and unlimited selection of weapons is unacceptable in terms of international law concerning warfare, and that 1) attacks on civilian communities, 2) the infliction of unnecessary suffering and 3) the destruction of the natural environment are prohibited, even with regard to weapons that are not expressly banned. The use of nuclear weapons obviously falls under the scope of this prohibition and therefore is a manifest infraction of international law.
At the Nagasaki Peace Ceremony held every year on August 9 to commemorate the atomic bombing, the mayor of Nagasaki delivers the "Nagasaki Peace Declaration" to convey Nagasaki's aspiration for the abolition of nuclear weapons and for world peace.
Expressing Nagasaki's position in this year's declaration, I called upon the Japanese Government to clearly assert that the use of nuclear weapons violates international law, to enact as law the "three-fold non-nuclear principle," that is, Japan's commitment not to build, possess or introduce nuclear weapons, and at the same time to strive for the establishment of a nuclear-free zone in the Asia-Pacific region.
"Nuclear deterrence", that is, the possession of nuclear weapons as a way to deter opponent countries from using their nuclear weapons, is simply the maintenance of a balance of fear.
The 1995 Nobel Peace Prize went to Joseph Rotblat and the Pugwash Conferences on Science and World Affairs. Dr. Rotblat made the following statement at a symposium in Nagasaki this past August:
"I would like to conclude my talk by reminding you of the long-range implications of the bombs on Hiroshima and Nagasaki. Nuclear weapons have put into peril the very existence of the human species. This peril will always exist; the Sword of Damocles will always hang over our heads. This puts on all of us, scientists and ordinary citizens, the duty to be eternally vigilant. We must abolish all war, because any war once begun may escalate into a nuclear holocaust."
I believe that the end of the Cold War between East and West has given us a rare opportunity to achieve the goal of a peaceful world free of nuclear weapons. However, the establishment of genuine peace based on international trust is impossible when countries rely on nuclear deterrence with its accompanying psychology of suspicion and intimidation.
It is my ardent hope that, in its review, this Court will decide impartially about the inhumanity of nuclear weapons and their illegality in view of international law and in that way bring strength and hope, not only to the citizens of Nagasaki and Hiroshima, but to all the peace-loving people of the world. This indeed will contribute more than anything else to the repose of the souls of the 214,000 people who perished in the atomic wastelands of Nagasaki and Hiroshima 50 years ago.
Although 50 years have elapsed since the atomic bombing, 62,000 Nagasaki survivors continue to live in fear of late effects, watching as about 1,300 of their fellow survivors die every year.
Honourable Judges, please let me end my statement with a repeated request for your understanding concerning Nagasaki's 50-year long appeal for the abolition of nuclear weapons and its aspiration for world peace. The speakable atrocity and agony suffered by the citizens of Nagasaki must never be repeated in this world. I can say with confidence that the use of nuclear weapons again will wreak havoc on the global ecosystem and threaten the very survival of the human race.
To ensure that a curtain of darkness is not drawn on the development of humanity from time immemorial, I extend my heartfelt request for your decision based on the viewpoint of human love.
Thank you for your attention.
[5] 例えば、平岡前掲書、101-104頁.
[6] 以下の考察に使用する判例研究は、主として、真山全「核兵器使用・威嚇の合法性の判断」(小寺彰・森川幸一・西村 弓編『別冊Jusrist 国際法判例百選(第2版)』No.204 有斐閣)、230-231頁; 松井芳郎「国際司法裁判所の核兵器使用に関する勧告的意見を読んで」『法律時評』68巻12号、日本評論社、1996年11月、2-5頁; 最上敏樹「核兵器は国際法に違反するか(上)」『法学セミナー』1996年11月、日本評論社、8-11; 同「核兵器は国際法に違反するか(下)」『法学セミナー』1996年12月、日本評論社、4-7頁.
[7] 則武輝幸「核兵器による威嚇または核兵器の使用の合法性に関する国際司法裁判所の勧告的意見」(『外交時報』No.1336、1997年3月)、48頁.
[8] 藤田久一『核に立ち向かう国際法―原点からの検証』法律文化社、2011年、173頁; 真山、前掲論文、230頁.
[9] 落合淳隆「核兵器の使用は合法か違法か―国際司法裁判所の勧告的意見(Ⅰ)(『立正法学論集』第34巻第2号、2001年)、40頁.
[10] ニカラグア事件の判例について、浅田正彦「武力不行使原則と集団的自衛権―ニカラグア事件」小寺ほか編前掲書、216-217頁.
[11] 落合前掲論文、40頁.
[12] 前掲論文、41-42頁.
[13] これに反対したのがコロマ判事とウィラマントリー判事で、核兵器への適用を主張した。
[14] 落合前掲論文、49頁.
[15] 藤田久一『国際人道法』(再増補)有信堂、2003年、26-27頁.
[16] 落合淳隆「核兵器の使用は合法か違法か―国際司法裁判所の勧告的意見(Ⅱ)(『立正法学論集』第35巻第1号、2001年)、3頁.
[17] 落合前掲論文(第34巻第2号)、44頁.
[18] 落合前掲論文(第35巻第1号)、1-3頁.
[19] 前掲論文、3-4頁.
[20] 前掲論文、4-5頁.
[21] 前掲論文、6-8頁; 真山前掲判例研究、230頁.
[22] 藤田久一『核に立ち向かう国際法―原点からの検証』法律文化社、2011年、176-177頁; 真山前掲論文、230-231頁.
[23] 松井前掲論文、4頁.
[24] Ibid.
[25] 藤田前掲書(2011)、186頁.
[26] 松井前掲論文、4頁.
[27] Ibid.
[28] 則武前掲論文、55頁.
[29] 落合前掲論文(第35巻第1号)、19-20頁.
[30] 前掲論文、22頁.
[31] 前掲論文、20頁, Dissenting Opinion of Judge Higgins, p.1, para 2.Dissenting Opinion of Judge Oda, p.37, para. 55.
[32] 前掲論文、22-23頁.
[33] 前掲論文、24頁.
[34] 廣瀬和子「核兵器の使用規制―原爆判決からICJの勧告的意見までの言説分析を通してみられる現代国際法の整合性」(村瀬信也・真山全 編『武力紛争の国際法』東信堂、2004年)、447-448頁.
[35] 前掲論文、449頁.
[36] 前掲論文、451頁.
[37] 前掲論文、451-452頁.
[38] 前掲論文、452頁.
[39] 前掲論文、452-453頁; 藤田前掲書(2011)、182-183頁.
[40] 廣瀬前掲論文、453頁; 藤田前掲書(2011)、181頁.
[41] 前掲書、184頁.
核兵器の使用と威嚇に関する国際司法裁判所の勧告的意見の意義 (前編)
牛島 万
はじめに
核兵器の使用の違法性をめぐる議論は、原爆裁判以降現在に至るまで未決の問題である。核兵器の開発や核軍縮という動きは、1954年の水爆実験以降確実におこり、1962年のキューバ危機(ミサイル危機)をさかいにそれはピークをむかえたとされる[1]。冷戦構造下で現実に核戦争の危機にさらされた世界は、非核(核撤廃)運動の高まりをみせたが、この阻害要因となったのが、未だに支持され続けている核の抑止策の固持であった。この意味で1967年にトラテロルコ条約(ラテンアメリカ核兵器禁止条約)がどうして米国の「南」に位置するラテンアメリカ地域において成立したのか、その背景的要因についてはある程度予測がつく。他方、いわゆる冷戦が終焉して久しい昨今、核兵器の使用禁止を明示する国際法の成立もなければ、その考え方は国連のなかでも未だ二極化している。しかも、核保有国は少数派であるが、国連の常任理事国であり、いわゆる世界の大国といわれる集団である。
ところで、1961年の国連総会の決議1653(XVI)で、核兵器使用の違法性について決議が採択され、「核兵器の使用は人道法に違反し、人類と文明に対する犯罪である」と宣言した。その後、国連総会は同様の決議を何十回とくりかえしてきている。国連総会決議は法的拘束力をもっておらず、何度も同種決議を採択しなければならない。しかし、日本への原爆投下以降、同様の核兵器使用は実際にはおこっておらず、総会への決議をそれでもとらないといけない背景に、核兵器の開発が国家実行として未だに続えられていること、さらには核兵器の違法性が慣習国際法規として確立していないことを如実にあらわしているとみることができよう[2]。
1993年5月14日、世界保健機構(WHO)総会決議(WHA46.40)で、健康および環境に対する影響に鑑み、武力紛争における核兵器使用は国際法上違法であるかについて国際司法裁判所(ICJ)に勧告的意見を求めた。しかし、国連憲章96条2項により、核兵器使用の違法性を問うことがWHOの「その活動の範囲内において生ずる法律問題」なのかが疑問視された。そこで、同96条1項により、国連総会による要請が企図され、1994年12月15日、「核兵器の威嚇または使用は、国際法の下でいかなる状況においても許容されるか」についてのICJへの勧告的意見をもとめる決議49/75Kが採択された(賛成78, 反対43[米英仏ロシアを含む], 棄権38)。このとき象徴的であったことは、わが国が棄権側にまわったことである。さて、勧告的意見は法的拘束力がないと一般にいわれている。しかし、反面、国連の主要な司法機関による法解釈として権威を持つという解釈もある。かつ国連総会におけるその政治的影響は重視してよいであろう[3]。
世界初の原爆裁判である下田裁判以来の画期的な出来事がまさに起ころうとしていた。ICJは1995年10月30日から同年11月15日まで法廷で申し出のあった22ヶ国からの口頭陳述を行ったのである。日本からは、11月7日、政府代表のほか、広島と長崎の両市長が口頭陳述した。両市長は核兵器の使用は国際法に違反していると主張した[4]。このとき、日本からは多くの市民団体等がこれを傍聴しようとオランダのハーグに集結したといわれている。ここではその詳細にはふれないが、両市長の発言が成立するまでには幾多の苦労があった。しかし、そこには核兵器廃絶を求める非同盟諸国やNGOなどの市民団体の貢献が大きかったと言われている[5]。
1996年7月8日、ICJはWHOの請求を、活動範囲の問題ではないとして却下した。そのかわり、国連総会の要請には勧告的意見を発表することを決めた[6]。以下、同勧告的意見の内容について検討し、その問題点、および先の下田事件訴訟(原爆裁判)との比較や関連性、さらには今後の展望について述べておきたい。
(『「戦争と平和」を知るための平和論序説 ―平成27年度京都外国語大学 国際言語平和研究所・教育メソッド・教育コンテンツ研究「世界の平和教育の実態と本学における教育メソッド研究」成果報告書』、2016年3月、より一部掲載)
[1] 1954年の第五福竜丸事件を発端に、翌年の原水爆禁止世界大会へと結実した。世界は水爆の出現によって反核運動が高まっていった。そのときに、世界ははじめて「ヒロシマ・ナガサキ」が想起されることとなった。広島市・長崎市 原爆災害誌編集委員会編『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』岩波書店、2005年、209頁. 同様の言及は、浅井基文『ヒロシマと広島』かもがわ出版、2011年、23頁.
[2] 広瀬義男「核兵器使用の違法性に関する考察―国際慣習法の立場から―」(『法学研究』明治学院大学法学会、1996年2月)、13頁.
[3] http://www.asahi.com/hibakusha/shimen/2014natsu/2014natsu-05.html (2016年3月16日アクセス)
[4] 平岡敬『希望のヒロシマ』(岩波新書、1996年).
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_naasaki/1995_1107_hiraoka.htm
http://homepage3.nifty.com/kikigaki/gakusyuu97.html
http://www.icj-cij.org/docket/files/95/5935.pdf(それぞれ2016年3月16日アクセス)
日本政府代表の河村武和外務省審議官は自らの陳述を終えた後、「これからの広島、長崎両市長の発言は、証人としての発言であり、日本政府の立場からは独立したものである。特に事実の叙述以外の発言があれば、それは必ずしも政府の見解と一致するものではないことを申し添える」と一言述べた。(I would like to add that statements of the Mayors of Hiroshima and Nagasaki City are statements made as witnesses and independently of the position of the Japanese Government. In particular, those parts related to elements other than facts do not necessarily represent the views of the Government.)
そして平岡敬 広島市長が証言台に立つ。以下、平岡市長の口頭陳述の全文である(ただし、前置きの自己紹介は省略する)。
私はここで、核兵器廃絶を願う広島市民を代表し、特に原爆により非業の死を遂げた多くの死者たち、そして50年後の今もなお放射線障害によって苦しんでいる被爆者たちに代わって、核兵器の持つ残虐性、非人道性について証言いたします。
広島・長崎への原爆投下は、従来の戦争被害の概念を覆し、人類の存立基盤を揺るがす甚大な被害をもたらしました。
政治家と軍人と科学者が協力して原子爆弾を開発し、それを人間の上に実際に投下することによって、核時代は始まったのです。
核の巨大な破壊力によって、全く罪のない市民が焼きつくされ、放射線を浴び、老人も女性も生まれたばかりの赤ん坊も殺されました。
この行為は、本来国際的にされなければならない事柄なのです。しかし、歴史は勝者によって記され、このように悲惨で残酷な大量虐殺の行為でさえも歴史の中で正当化されています。
それゆえ、この50年間、世界はこの恐ろしい行為が人類にとって、どのような意味を持つのか、ということに真正面から取り組んできませんでした。
そのため、私たちは未だに膨大な核兵器の恐怖のもとに、生き続けなければならないのです。
広島の平和記念公園の慰霊碑には、「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」ということばが刻まれています。過ちとは人類が戦争を起こすことであり、戦争に勝つために原爆を開発し、使用したことです。
私は原爆投下の責任を論ずるために、この法廷に立っているのではありません。先の戦争においては、わが国にも恥ずべき行為がありました。そのことを反省したうえで、広島の被害はどのようなものであったかを世界の人々に知ってもらい、このような悲劇を再びこの地球上で起こさないためには、核兵器を廃絶しなければならないということを訴えたいのです。
原爆の巨大なきのこ雲の下で焼けただれ、水を求めて苦しみもがき、死んでいった人々の思いを原点として、また自分の妻や子供が核戦争の犠牲者となった状況を考えて、私たちは核の時代、核と人間とのかかわりあいについて考えなければなりません。
1. 原爆の瞬間的な無差別殺りく
1945年8月6日午前8時15分、広島市に投下された原子爆弾は、市の中心部の上空580メートルで爆発しました。
この原子爆弾には、ウラン235が使用され、爆発した1キログラムのウランから発生したエネルギーは、TNT火薬15キロトン相当であったと推定されています。1945年当時、世界最大の爆撃機とされていたB29ですら、5トンの通常爆弾しか搭載できませんでしたから、広島は、一瞬にして3,000機以上のB29による爆撃を受けたことになります。強烈な閃光と爆風が市街地をおおい、大音響とともに巨大な火柱が噴き上がると、同時にほとんどの建物は破壊し、死者、負傷者が続出しました。
原爆被害の特質は、大量破壊が瞬間的に、かつ一斉に引き起こされ、老若男女の区別なく非戦闘員も含めて、無差別に殺りくされ、①熱線、②衝撃波と爆風、③放射線などが複合して被害が増幅することにあります。
まず、熱線による被害ですが、原子爆弾の爆発により、爆発点は摂氏数百万度の温度となり、直径約280メートルの火球が生じました。そこから発生した熱線により、爆心地付近で戸外にいた人は、瞬時に黒焦げになりました。爆心地から約2キロメートル離れたところでも衣服に着火したと記録されており、また、市内の多くの場所で同時に火災が発生し、ほとんどのものが焼失し、焦土と化しました。
次に、衝撃波と爆風による被害ですが、爆発点では火球によって数十万気圧という超高圧状態が生じ、強い衝撃波が発生しました。この衝撃波は、直接進んだ波と地面や建物に反射した波が影響し合って大きな被害を出しました。
また、衝撃波の後から非常に強い爆風が吹き抜けました。この爆風は、爆心地では秒速440メートルにもなり、多くの人が爆風で吹き飛ばされました。爆心地から半径約2キロメートル以内の木造の建物は倒壊し、それ以遠のところでも相当の被害を受けました。
こうした熱線と爆風により、当時の広島市の全戸数76,327戸のうち、約70パーセントが全焼・全壊し、残りの建物も半焼・半壊などの被害を受け、全市が瞬時にして破壊されたといっても過言ではありません。
そして、放射線による被害ですが、爆発直後の初期放射線―つまり、ガンマ線と中性子線が強く降り注ぎ、爆心地から半径約1キロメートル以内で、4グレイ以上の全身照射を受けた人の多くが死亡し、かろうじて生き残った人にも放射線による後遺症があらわれ、その後死亡したり、今もなお病魔とたたかっている人は少なくありません。
また、直接被爆しなくても、後に被爆者の救援などで爆心地に近い場所に行った人などには、残留放射線が障害を与えました。
当日、広島市には約35万人がいました。死亡者数について、広島市では、1945年12月末までに、約14万人が死亡したと推定しています。
ただ、被爆により一家全滅世帯が多く発生し、地域社会が崩壊した上に、当時の記録も焼失し、被爆後十分な調査が行えなかったため、正確な死亡者数は、現在でも分かっていません。
死亡者の中には、当時広島にいた多くの韓国・朝鮮人のほか、中国人やアジア地域からの留学生、少数ながら米軍捕虜も含まれています。
2.原爆がもたらした人間的悲惨
ここで私たちが注目しなければならないことは、原爆がもたらした通常兵器とは異なる人間的悲惨の事実です。
原爆が人体に与えた障害は、既に述べたように熱線と高熱火災による火傷、爆風によるけが、放射線による障害の三つが複合的に絡み合って引き起こされたものです。この障害を総称して「原爆症」と言います。
原爆症は、急性障害と後障害に大別され、放射線の影響が今日まで続いているところにその特徴があります。放射線が人体に与える影響は、50年を経た現在でもまだ十分に解明されていませんが、医学的には放射線によって人体の細胞が破壊されることが障害の原因であると考えられております。
このように大量の放射線を浴びたのは、人類にとって初めての体験であり、人体への影響についてのデータはありませんでした。そのため、被爆後の医療活動はまったく手探りの状態から始まりました。病院が崩壊し、医療スタッフの多くが死傷し、薬品や器材もないため、おびただしい数の被災者は十分な治療を受けることができず、次々と死を迎えました。
熱傷や外傷が軽度であっても、救助に走り回っていた人たちが数日から数週間して、発熱、下痢、吐血、全身の倦怠感といった症状を訴えて、あっけなく死んでいきました。これが原爆の急性症状でした。
急性障害は、被爆後4か月間に現れた障害で、熱傷や外傷による症状のほかに、初期放射線による特徴的症状として、爆心地から近距離の被爆者に、細胞や造血器の破壊と臓器の障害、免疫機能の低下、脱毛が顕著に現れました。
急性障害は、4か月くらいで下火になりましたが、被爆後5、6年して、白血病患者が急増するなど、後障害が大きな問題となりました。後障害の特徴的なものは、火傷が治った跡が盛り上がったいわゆるケロイドのほか、白内障、白血病、甲状腺がん、乳がん、肺がんなどを中心とする諸種のがん、胎内被爆者に生じた知的障害、発育不全を伴う小頭症などがあります。
これについて、いくつかの事例を紹介します。
2歳のとき被爆した佐々木禎子さんは、健康に育っているように見えましたが、10年後の1955年に放射線による白血病と診断されて、入院しました。
日本ではツルは長生きのシンボルとされているため、禎子さんは、ツルを千羽折れば病気が癒ると信じ、ベッドの上で毎日飲む薬の包み紙でツルを折り続けました。しかし、その願いもむなしく、8カ月の闘病生活の後死亡しました。
この事実は、被爆して何年もたってから障害が現われる放射線の恐ろしさを示しています。
禎子さんの死と折りヅルの話は、子どもたちに大きな衝撃を与えました。世界の子どもたちが募金して広島の平和記念公園に折りヅルを高く掲げた少女の像が建てられました。その台座は、国内はもとより世界の人々から寄せられた折りヅルでいつも埋まっています。放射線後障害による少女の死によって、折りヅルは、核兵器廃絶と世界平和のシンボルとなったのです。
また、原爆が投下されたとき母親の胎内で放射線を浴び、その後に生まれた子どもたちのなかには、知能の遅れと身体の欠陥を伴った小頭症に代表される症状もあらわれました。
これらの子どもたちには、今や健常者になる道はなく、医学的にも何ら施す術は残されていません。何の罪もない当時の胎児たちの生涯に、原爆は消え去ることのない烙印を焼きつけたのです。
この子らの親たちは、既に老い、あるいは亡くなりつつあります。ある親は、「子どもも普通50歳になれば、年老いた親を保養地へ連れていったりするだろう。しかし、私の場合、親がいくら年老いても、常に50歳近い我が子の手を引いて連れ歩かねばならないのです」と、原爆が生んだ親子一体の悲劇を語っています。
原爆放射線が胎児に与えた、この人間破壊ともいうべき影響こそ、核兵器のもとでの人類の未来を暗示しているのです。
広島・長崎市内で直接被爆したり、救援活動のため市域に入り残留放射線を浴びた原爆被爆者は、現在、日本国内に約33万人いますが、50年たった現在でもこれらの後障害で苦しみ続けています。
これまでの研究の結果、被爆者が発がん年齢に達すると、一般の人よりがんにかかりやすいこともわかってきました。また、現在、白血病のほか、乳がん、甲状腺がん、胃がん、肺がんなどに原爆による影響が認められています。しかし、体内に取り込まれた放射線が年月を経て何を引き起こすのか、すべてが解明されてはおりません。
原爆は、物的・人的被害を与えただけではなく、市民の経済的・社会的基盤を崩壊させ、辛うじて生き残った人々の社会生活そのものを破壊し、生活の困窮をもたらしました。
また、家族、親族関係の断絶により、原爆孤児、原爆孤老といわれる、社会的に自立できない若年者、高齢者が生まれました。一命をとりとめた被爆者は、いつ原爆症が発病するか分らない不安の中で、精神的、肉体的、社会的後遺症に苦しめられました。
3.被爆者の訴え
原爆を投下された時、私は広島を離れていましたので、被爆を免れました。
しかし、私の最も愛すべき親類や多数の友人が犠牲となりました。
当時女学校1年生だった従姉妹は爆心地から800メートルの地点で被爆し、その夜亡くなりました。「戦争がなかったら、原爆さえ落ちなかったら、…」と言う叔母の嘆きを聞くのは耐えがたいことでした。
また、私の妻も、当時女学校1年生で、当日たまたま体調が悪く学校を休んだため、被爆を免れました。しかし、級友のほとんどが死亡しました。そして、自分だけが生き残ったことは、今なお妻の心の底に重い記憶となって沈澱しています。
生き残った市民は、だれもが今なお被爆による精神的、肉体的影響から逃れることはできないのです。
広島の被害については、手記、絵画、写真・映画など、たくさんの記録があります。しかし、直接被爆した人たちは、そのどれもが自分たちの体験したこととはかけ離れ、とてもこの世の出来事とは考えられないと感じています。
「あの日の状況は、今語り継がれているような状況ではなかった。もっともっとひどかった。それは、とうてい言い表せない。」というのです。
このことは、被爆の惨状は人間の表現能力や想像力を超えた、非人間的なものであったということを示しています。
私もまた、証言するに当たって、被爆の惨状を十分に伝えきれないもどかしさを感じています。
裁判官の皆様方には、ぜひ広島・長崎を訪れて、被爆の実相を検証し、理解を深めていただくようお願いします。核兵器の問題を考えるためには、まず、生き残った人々の悲惨な体験を聞き、被爆資料に触れることは欠かせないことだからです。
私はかつて広島の新聞社で働いていましたが、同じ職場にいた顔や手に多くの傷跡を残していた年輩の女性のことを忘れることはできません。
夫を原爆で失った彼女は、自分の傷ついた姿を恥ずかしく思いながら、子どものために生き抜き、働いた後、16年前に亡くなりました。
33歳のとき、爆心地から1,700メートルの地点で被爆した彼女は、その体験を5年後の1950年に次のように書き残しています。
どこかで「あッ、落下傘だよ。落下傘が落ちて来る」という声がした。私は思わずその人の指さす方を向いた。ちょうどその途端である。自分の向いていた方の空が、パアッと光った。その光はどう説明していいのか分らない。私の目の中で火が燃えたのだろうか。夜の電車がときどき放つ無気味な青紫色の光を何千億倍にしたような、といってもその通りだともいえない。
光ったと思ったのが先か、どーんという腹の底に響くような轟音が先だったのか、瞬間、私はどこかにひどくたたきつけられたように地に伏せていた。それと同時に頭へも肩へもバラバラと何か降って来る。目の前が真暗で何んもみえない。
その時、急に私は田舎に疎開して行った3人の子がはっきりと目に浮んだ。不意に私は、そうしてはいられない衝動ではげしくからだを起しはじめていた。木片や瓦が、手で払っても払っても頭の上にかぶさって来て、なかなかからだが自由にならない。「死んではならないのだ。子供たちをどうするのだ。夫も死んでいるかも知れない。逃げられるだけは逃げなければ......... 」私は無我夢中で這い出した。
ふと自分で吸う息がとてもくさいのに気がついた。「これは黄燐焼夷弾というのかも知れない」私は無意識に鼻と口を、バンドにはさんでいた手拭で思い切りぬぐった。その時私は初めて顔に異状を覚えた。ぬぐった顔の皮膚がズルッとはがれた感じにハッとした。ああ、この手は―右手は第二関節から指の先までズルズルにむけて、その皮膚は無気味にたれ下がっている。左手は手首から先、5本の指がやっぱり皮膚がむけてしまってズルズルになっている。
手記によると、彼女はこのあと夢中で郊外の収容所まで逃げのびたのですが、夏が過ぎ、秋が来ても傷口がドロドロに肉が溶けて、熟したトマトを突き崩したようになって皮膚ができませんでした。
翌年春になって、ようやく包帯がとれました。その時の自分のからだの状態を彼女は次のように書いています。
左の耳は耳たぶが半分に縮まってしまい、左の頬から口とのどへかけて、てのひら程のケロイドができ引きつってしまった。右の手は第二関節から小指まで、はば5センチ位のケロイドができ、左手は指のつけ根のところで、5本の指が寄り集ってしまった。
時間の関係でその全文を紹介できないのが残念です。どうかここに持参しました、原爆被害の科学的な調査報告書である「広島・長崎の原爆被害の概要」などを証拠として採用していただくよう要請いたします。
4.核兵器の非人道性
これまで述べてきたように、核兵器が恐ろしいのは、その強大な破壊力はもちろんですが、後代にまで影響を及ぼす放射線を発するからです。
戦争が終わり、平和を回復して50年たった今、なおも多くの人が放射線後障害で苦しんでいることほど、残酷なことはありません。
つまり、核兵器による被害は、これまで国際法で使用を禁じているどの兵器よりも残酷で、非人道的なものです。
国際法にいう一般市民に対する攻撃の禁止と、人間に不必要な苦しみをもたらす大量破壊兵器の使用が過去において、国際宣言や拘束力ある協定によって禁止されたことの根底には、人道的な思想が流れています。これこそが近代ヨーロッパから発した国際法の精神であります。
1868年の「セント・ぺテルスブルグ宣言」、1899年の「特殊弾丸の使用禁止の宣言」(「ダムダム弾の禁止に関するハーグ宣言」)、1907年の「ハーグ陸戦条規」(「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約附属書陸戦ノ法規慣例ニ関する規則」)の第23条、1925年の「毒ガス等の禁止に関する議定書」、1972年の「生物・毒素兵器禁止条約」などが生まれた底流には、人間の非理性的行為を防止しようとする人道主義が存在しています。
さらに、1961年の国連総会では、「核兵器・熱核兵器の使用は、戦争の範囲を超え、人類と文明に対し、無差別の苦しみと破壊を引き起こし、国際法規と人道の法に違反するものである。」を内容とする「核兵器と熱核兵器の使用を禁止する宣言」が決議(国連総会決議1653(ⅩⅥ)されております。
市民を大量無差別に殺傷し、しかも、今日に至るまで放射線障害による苦痛を人間に与え続ける核兵器の使用が国際法に違反することは明らかであります。また、核兵器の開発・保有・実験も非核保有国にとっては、強烈な威嚇であり、国際法に反するものです。
現在地球上には、人類を何回も殺りくできる大量の核兵器が存在しています。核兵器は使用を前提として保持されていますが、核兵器の存在が平和の維持に役立つという納得できる根拠はありません。核兵器によって、自国の安全を守ることはできず、今や国家の安全保障は、地球規模で考えなければならない時代が到来しています。
核兵器が存在する限り、人類が自滅するかもしれないということは、決して想像上の空論ではありません。核戦争はコントロールできるとする戦略、核戦争に勝つという核抑止論に基づく発想は、核戦争がもたらす人間的悲惨さや地球環境破壊などを想像できない人間の知性の退廃を示しています。
それゆえ、私たちは、広島・長崎の体験に基づいて核兵器の問題を考えるとき、さらに核保有国の核実験場周辺の被曝住民の苦しみを知るとき、核兵器廃絶を明確にする条約を結ぶことによって、世界は希望の未来へと足を踏み入れることができるのです。
私は、核兵器の問題を現在の国際政治の力関係のなかで考えるのではなく、核兵器は人類の未来にとってどのような意味をもつのかという視点から考察すべきであると思っております。
1981年2月、広島を訪問されたローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。広島を考えることは、核戦争を否定することです」と述べられました。
人類の運命は、今あなた方の手の中にあります。
どうか、神のごとき叡智と明察と人間への愛をもって、この核兵器の問題に対して、正しい判断を下していただくようお願いして、陳述をおわります。
伊藤一長長崎市長(当時)は、よく通る声で一言ずつ言葉を区切りながら『私たち長崎市民を最後として、原子爆弾による犠牲が再び、生み出されないよう厳正なる審理を願う』と語り始めた。持算した50センチ四方の大きさの写真パネルを4枚、裁判官席からよく見えるように、陳述台の後ろにある台の上に置いた。その中の1枚は、爆心付近で焼け死んだ黒焦げの少年の遺体の写真だ。『この子供たちに何の罪があるのでしょうか。この子達が銃を持って敵に立ち向かったとでもいうのでしょうか、あえて私からも申し上げます。すべての核保有国の指導者は、この写真を見るべきであります。核兵器のもたらす現実を直視すべきであります。そしてあの日、この子らの目の前で起きたことを知って欲しいのです」。伊藤市長は何度も写真を手に取って持ち上げた。証言が終わると、ベジャウィ所長が『感動的な証言に感謝します』と述べた。(朝日新聞1995年11月8日朝刊31面)
長崎市長証言要旨
この機会に、私たち長崎市民を最後として、原子爆弾による犠牲が、地球上で再び生み出されないように訴えます。核兵器廃絶を願う長崎市民の切なる思いを述べます。
被爆から4か月後、死者約7万4千人、負傷者約7万5千人、市民の3分の2が犠牲になりました。
戦闘に関する国際法では、兵器の選択について無制限な自由は認められておらず、禁止を明文化されていない兵器でも、①文民を攻撃すること、②不必要な苦痛を与えること、③環
境を破壊することは禁止されていると聞いております。核兵器の使用は、まさしくこれらの禁止事項に該当し、国際法に違反していることは明らかであります。
長崎では、毎年8月9日の平和祈念式で「長崎平和宣言」をしています。私は今年の平和宣言で、我が国は、核兵器使用が国際法違反であることを明確に主張するとともに、国是としている『核兵器をつくらず、持たず、持ち込まず』の非核三原則を法制化し、同時にアジア太平洋地域の非核地帯創設に努めようと、我が国政府に提唱しました。
核兵器の保有によって、敵対する相手の核兵器使用を抑制しようとする『核抑止論』は、恐怖の均衡を保つことにほかなりません。
長崎では毎年、被爆者約千三百人が亡くなり、六万二千人が原爆後障害の恐怖におびえる日々を送っています。人類の文化と歴史に終止符が打たれないよう、人類愛の見地に立った判断を心から願います」(朝日新聞1995年11月8日朝刊30面)
長崎市長の口頭陳述(英語)
http://www.icj-cij.org/docket/index.php?p1=3&p2=4&k=e1&case=95&code=unan&p3=4&lang=en, ICJ Legality of the Threat or Use of Nuclear Weapons, Advisory Opinion, Nov. 7, 1995. (2016年3月16日アクセス)
Fifty years ago, three days after Hiroshima, Nagasaki was subjected to the unimaginable devastation of an atomic bombing. I would like to express my gratitude for this opportunity to make a statement and to inform the people of the world about Nagasaki's atomic bomb experience.
It is my ardent hope to gain your understanding concerning the powerful aspiration for nuclear disarmament and lasting world peace embraced by the citizens of Nagasaki since the atomic bombing, and to request your rigorous inquiry into this matter so that the people of Nagasaki will be the last on earth to suffer the devastation brought about by the use of nuclear weapons in war.
Since you have already been briefed by the Japanese Government about the atomic bombings, I will focus my remarks on the atomic bomb experience from the point of view of the victims and describe Nagasaki's aspiration for the abolition of nuclear weapons.
First of all, please look at these photographs. This is how the hypocentre area of Nagasaki looked from the air on August 9, 1945, three days before the atomic bombing. This photograph shows the same part of the city three days after the bombing. As you can see, the bomb pulverized and burned everything standing and everything living.
The mayor of Nagasaki made the first official report on the damages caused by the plutonium atomic bomb dropped on Nagasaki. He described the devastation in the hypocentre area as follows:
"Except for a few people who remained in the air-raid shelters at the time of the atomic bomb explosion, all people and animals within a 400-metre radius of the hypocentre were killed instantly. All buildings within the same radius, including those of sturdy construction, were totally demolished."
This and many other testimonies, as well as the results of subsequent investigations, paint the following picture of Nagasaki immediately after the atomic bombing:
"The explosion of the atomic bomb generated an enormous fireball, 200 metres in radius, almost as though a small sun had appeared in the sky. The next instant, a ferocious blast and wave of heat assailed the ground with a thunderous roar. The surface temperature of the fireball was about 7,000°C, and the heat rays that reached the ground were over 3,000°C. The explosion instantly killed or injured people within a two-kilometre radius of the hypocentre, leaving innumerable corpses charred like clumps of charcoal and scattered in the ruins near the hypocentre. In some cases not even a trace of the person's remains could be found. The blast wind of over 300 meters per second slapped down trees and demolished most buildings. Even iron reinforced concrete structures were so badly damaged that they seemed to have been smashed by a giant hammer. The fierce flash of heat meanwhile melted glass and left metal objects contorted like strands of taffy, and the subsequent fires burned the ruins of the city to ashes. Nagasaki became a city of death where not even the sounds of insects could be heard. After a while, countless men, women and children began to gather for a drink of water at the banks of nearby Urakami River, their hair and clothing scorched and their burnt skin hanging off in sheets like rags. Begging for help they died one after another in the water or in heaps on the banks. Then radiation began to take its toll, killing people like a scourge or death expanding in concentric circles from the hypocenter.
Four months after the atomic bombing, 74,000 people were dead and 75,000 had suffered injuries, that is, two-thirds of the city population had fallen victim to this
calamity that came upon Nagasaki like a preview of the Apocalypse."
This is the effect of the explosion of a single atomic bomb. In February 1945, the German city of Dresden was subjected to indiscriminate bombing. It is said that large-size bombs were dropped on the city by 773 British aircraft, followed by a shower of some 650,000 incendiary bombs dropped by 450 American aircraft. Some records state that as many as 135,000 people died.
In Japan, the city of Tokyo suffered the greatest damage from conventional air raids. In March 1945, 325 American aircraft spent two and a half hours dropping a total of about 1,665 tons of incendiary bombs on the city and killing about 100,000 people. In Hiroshima and Nagasaki, however, a single aircraft dropped a single bomb and snuffed out the lives of 140,000 and 74,000 people, respectively. And that is not all. Even the people who were lucky enough to survive continue to this day to suffer from the late effects unique to nuclear weapons.
In this way, nuclear weapons bring enormous, indiscriminate devastation to civilian populations.
On August 9, 1945, the American bomber carrying the atomic bomb abandoned the primary target of Kokura (present-day Kitakyushu City) because of poor visibility and flew to the secondary target Nagasaki. Nagasaki was also covered by clouds, but the airplane was running short on fuel.
When the bombardier caught a glimpse of the Urakami area through a crack in the clouds, he hastily released the atomic bomb over the city.
The Urakami district was home to a large Christian population that had kept the light of faith alive during the long period of persecution from the 17th to the l9th centuries. The atomic bomb laid the neighbourhood to waste and instantly killed 8,500 of the 12,000 Christians living there.
It was discovered later that the original target for the atomic bombing had not been the Urakami district, which lies in the northern part of Nagasaki, but rather the very centre of the city. If the atomic bomb had in fact exploded over the densely populated city centre, it is likely that Nagasaki would have been erased from the face of the earth.
(この続きは、字数の関係上、後編の註に記す)
国際法における広島・長崎への原爆投下の違法性と下田事件裁判(後編)
牛島 万
(3) 国内法による評価
国際法上、原爆投下は違法であるであることは同時に、日米両国の国内法における不法行為であると認定されうる。また米国法においても同様の可能性がある。しかし、「国内法違反の行為があることと、その違反の責任を何人に負わせるのか」、どこの裁判所に提訴するのか等、手続き上の問題が別にある。
(4) 被害者の損害賠償請求権
交戦国が国際法上違法な戦闘行為によって相手国に損害を与えた場合は、それを賠償することは国際法上確立されている。しかし、その行為を命令した者、この場合トルーマンは個人としてその責任を負うものではなく、国際法上損害賠償を請求できない。換言すれば、国家の主権免除は国際法上の原則である。
では、国際法上の違法行為によって損害を受けた個人は、加害国に対して国際法に基づく損害賠償を請求できるのか。そのためにここで個人は国際法上の権利主体となりうるのかが問われなければならない。
国際法が主として国家間の関係を規律している法であることから、基本的には国際法上の権利主体を「国家」に限定している。しかしながら、「当然に個人が国際法上の権利主体とならないという結論は出てこないし、また国際法定立の主体は、必ずしも国際法上の権利主体とは関係がない。また、国際法は国内的に必ずしも効力をもつとは限らないから、個人は権利主体とならないという見解もあるが、国際法が国内で効力をもたないときでも、国際法が個人に主体性を承認することは理論上可能であるから、この考え方も妥当ではない」。
逆に、個人は常に国際法上の権利主体になりうるのか。この場合、国際法上の個人の権利の義務が規定されていれば、それだけで個人に国際法上の権利義務が生じるのではない。「個人がその名において国際法上の権利を主張し、義務を追求される可能性がなければ、国際法上の権利が生じたとはいえない」。では、個人の国際法上の主体性を認めた条約はあったか。そこで個人の出訴権を直接認めている例として、1907年ハーグ平和会議で採択された国際捕獲審検所設置に関する条約、同年の中米司法裁判所設置に関する条約、及びヴェルサイユ条約その他の講和条約(サン・ジェルマン条約、トリアノン条約、ローゼンヌ条約、ヌイ[イ]条約)の各経済条項を挙げる。このなかで、ヴェルサイユ条約その他の講和条約は、第一次世界大戦当時の国民の財産権をめぐる訴訟を扱う「混合仲裁裁判所」を設置する旨、規定した。同裁判所は、自国政府の意思とは無関係に、個人の名において、個人の損害賠償請求をこの場合ドイツに提訴できるとされた。しかし、本事例は稀有なケースであり、つまり具体的に条約によって承認されている場合に限り、個人に国際法上の主体性が認められると解される。
「原告は、個人の権利はその本国政府によって行使されるから国際法上個人が請求権を有するという趣旨の主張をしている」が、「国家はその国民のために、その代理人として、国民の名において」国際法上そのような権利を行使した先例はないし、またこれを是認する国際法上の法的根拠もない」。
もっとも国家には外交的保護と呼ばれる国家自身の外交的保護があるが、これは国家自身の名で国家の判断でなされるものであり、決して国民を代理するものではない。換言すれば、「国家はいかなる形で、いかなる内容の要求をするか、それはどういう風に解決するかについて、全く国民から干渉されない」。「請求される賠償の額も国民の被った損害をそのまま提出するとも限らないし、また、これによって得た賠償をどのように分配するかも」すべては国家の自由意思で決定される。従って、国民が国際法上の権利主体であると考える余地はない。つまり、「国際法上違法な戦闘行為によって被害を受けた個人は、(中略)一般に国際法上その損害賠償を請求する途はない」のである。
そうなると、最後は、「交戦国の一方又は双方の国内裁判所に救済を求めることが可能かどうかということに帰する」。しかし、日本国の国内裁判所への提訴の場合、被告を米国にして提訴することはできない。「国家が他の国家の民事裁判権に服しないことは国際法上確立した原則であり、わが国においてもその原則を承認している」(大審院昭和3年(ク)第218号 同年12月28日決定 民集第7巻1128頁)。
他方、米国国内法においては19世紀以来一貫して主権免責の法理が適用されてきた。第二次世界大戦後、米国は1948年8月、連邦不法行為請求権法を制定し、不法行為に関する国家の賠償責任を認めた。しかし、そこには条件を付せており、国家の行政機関が裁量的職務を遂行した場合、陸海軍の戦闘行為、外国で生じた請求権についてはその責任を負わないと規している。
以上、個人が国際法上の請求権を日米両国の国内裁判所において訴求する場合に検討してきたが、個人が日米両国の国内法上の不法行為が成立するとして、日米両国の国内裁判所に損害賠償請求の訴を提起する場合にも同じである。従って、個人が日米両国の国内法上の不法行為が成立するとして日米両国の国内裁判所に提訴することはできない。
(5) 対日平和条約による請求権の放棄
加えて、1951年9月8日に調印された対日平和条約第19条(a)は、「日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、かつこの条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する」ことを定めている。
この場合の放棄された「日本国民の請求権」とは何を指しているのか。「被告は、日本国と日本国民とでは法主体が異なるから、日本国がその国民の権利を放棄することはできず、従ってそこで放棄されているには日本国の外交的保護権にすぎないと主張する。しかし、この考え方は正しくない。外交的保護権は、既に述べたように、国家の固有の権利である。従って、19条(a)でいえば、「日本国の請求権」の中に含まれるものである。のみならず、一般的な表現として、「日本国民の請求権」とは実体的な権利であると考えられるのに反して、外交的保護権とは、自国民の相手国に対するその国の国内法上の権利を伴って発動する場合が多いとはいえ、あくまでも手続き的な権利であると考えられるからである」。
ところで、国家は、法主体が異なる国民の請求権を放棄することはできない、という考え方がある一方、その逆もいえる。「国家はその統治権の作用により、国内法上の一定の手続きにより、国民の権利義務について設定、変更、廃止することができるから、かような関係にある国民の権利を、国家が相手国に対して放棄することを約束することは、事の当否はともかくとして、法理論としては可能」とも考えられる。従って、第19条(a)で放棄された「日本国民の請求権」は、日本国民の連合国及び連合国民に対する国内法上の請求権と解される。
原告等が「日本国民の請求権」のなかに個人の国際法上の請求権も含まれると主張している。しかし、それは条約によって規定され、出訴権が個人名で認められているなどの手続的保障がなされない限り認められないのが一般である。現に、対日平和条約はそれを認めていない。つまり、対日平和条約は日本国民の国際法上の損害賠償請求権を認めたものでもなければ、それを放棄したわけでもない。放棄したのは「国内法上の請求権」のみである。従って、「原告等は喪失すべき権利をもたないわけであって、従って法律上これによる被告の責任を問う由もないことになる」。
4. 判決の問題点に関する考察
「はじめに」で述べたように、本事例は国際法の学説および判例ともに、わが国では概して高い評価を受けてきた。従って、学説、判例ともにほぼ国際法の部分に対する裁判所の判断に関心が集中しているのが現状である。本稿の課題である国際法上の法的解釈についての問題点を中心に述べたい。
関西大学名誉教授の藤田久一は『核に立ち向かう国際法』のなかでいくつかの当該判決の論点における問題点について言及している。
判決は広島・長崎への原爆投下行為に限定してその違法性を論証しているはずであるが、その過程において核兵器一般の違法性の問題も出てきており、この整合性はどうかが定かではないまま論証されている、と批判している[6]。
具体的には次のとおりである。
① 原爆そのものの効力や影響、及び軍事目標に対する砲撃の合法性などについては、核兵器一般論からはいって、それを広島、長崎への原爆投下という具体的な事例に適用している。この論証自体に問題はないが、抽象的な規定の適用により具体的な事例による判定が入っておらず不十分である。
② 原爆投下行為における当時の戦争法規の適用可能性を当然のこととみなしているが、果たして第二次世界大戦の状況、とくに日本の行為の侵略性(があるとして)、連合国の対日敵対行動に対して、果たして戦争法が(平等に)適用されうるかという大前提の問題を検討しなければならない。つまり、原爆投下行為が判決にあるような論理で国際法違反であったとしても、その違法性を阻却する事由はなかったかどうかについては考察が必要であるとする[7]。
(1) 戦争法の適用可能性
日本の侵略行為の存在の有無やその程度等は、政治的論争にも関わる問題を含んであり、その事実認定は一筋縄ではいかない。ここでは筆者がその議論のための十分な資料や見識を持ち合わせていないため、本稿はそこには立ち入らない。
藤田は次の点について提起する。第1は、日本国(あるいは米国)の侵略性が前提にあるとして、そのうえで戦時国際法(藤田は戦争法という)が平等に適用されるのかどうかという問題である。つまり違法性阻却要因はないかという点である。第2は、第二次世界大戦のような総力戦的状況に戦時国際法は実効性をもっているかどうかという問題である。
二つめの問題から先に検討する。ます総力戦の定義を明確しておかなければならない。通常、総力戦とは、「交戦国に属するすべての人々は戦闘員に等しく、またすべての生産手段は害敵手段である」と定義されている。そのうえで、戦時国際法における、戦闘員と非戦闘員、軍事目標と非軍事目標の区別が、総力戦の状況下ではなくなるという見解がある。しかし、裁判所は、現実の状況に鑑みても、特殊な状況を除いてそれはありえないと考える。学説も同様である。加えて、判決では、総力戦の別の概念を採用し、軍事力だけでなく、経済的、人的要因を総合的にみて戦争をとらえ、「近似に至って、総力戦が唱えられたのは、戦争の勝敗が軍隊や兵隊だけによって決るのではなくて、交戦国におけるその他の要因、すなわちエネルギー源、原料、工業生産力、食糧、貿易等の主として経済的な要因や、人口、労働力等の人的要因が戦争方法と戦力を大きく規制する」事実をあげ、軍事目標と非軍事目標の区別がわからなくなるという道理を否定する理由にもってきている。ただし、判決では、総力戦における経済的、人的要因と軍事目標及び非軍事目標との関係については詳細に述べられていない[8]。
これをふまえて、一つめの問題にもどると、日本国(あるいは米国)が戦争法に違反していたかどうかの検討である。例えば、真珠湾攻撃(1941)、あるいは満州事変(1931)、日華事変(1937)などでは日本が、とりわけ戦時中自衛論を展開してきた。これに対し、米国をはじめとする連合国はその侵略性をもって日本を批判することが多かった。その根拠として、藤田は、国際連盟の非難、極東国際軍事裁判所の判決などをあげる[9]。ここで大切な事実は、第一次世界大戦以後、不戦条約に代表されるように戦争の違法化jus contra bellumが法制化されていったことである。戦争法規はむしろ戦時国際法の時代に発展し法典化されてきたものがそのまま戦争違法化の時代においても変わらず用いられていた。それが独立して、かつ並列的に存在していたのか、あるいは、廣瀬和子が指摘するように実体法と手続法の関係に近いものであるかは別として(廣瀬説についてはこのあとの論考で詳しく論じる)、相互に影響を与えていたのかについてここでは探究しない。藤田の見解をそのまま踏襲するならば、それまでに確立していた戦争法における当事国間の平等原理が変容したという証拠はみつかっていないという事実が重要になってくる。国際連盟においても、戦争の違法化と並列的に、あるいは相互作用のなかで戦争法は存在していた[10]。まさに原爆が投下された時代、当事者間は互いに牽制しあっていた。侵略性を批判したこともあった。そこで筆者は改めてトルーマンのあの声明を想起する。
16時間前、米国の航空機が[広島]に一発の爆弾を投下し同市の軍事的機能を完全に破壊した。(中略)日本国は真珠湾空襲によって戦争を開始した。同国はすでに何倍ものの報いを受けてきた。しかし、まだ戦争は終結していない。この爆弾により、今や我が国は増大中の戦力を補完する新たな、そして革命的な破壊力を得た。こうした爆弾は現在も製造中であり、さらに強大な爆弾さえ開発中である。
これこそ、まさに原子爆弾である。宇宙の根本にある力を利用したものである。太陽から引き出されたこの力が、極東に戦争をもたらした者どもに対して、放たれたのである。(中略)
我々は今、より迅速により完全に、地上に存在する日本の全都市の生産施設を跡形もなく壊滅する準備ができた。我々は港湾施設、工場、通信手段を破壊するだろう。間違いのないように言っておけば、日本の戦争遂行能力を完全に破壊するだろう。
7月26日にポツダムで最終通牒が出されたのは、日本国民を完全な破滅から救うためであった。日本の指導者たちは即座にこの最終通牒を拒否した。もはや我々の条件を受け入れないなら、地球上でかつて見たことがないような破壊の雨が空から降り注ぐことが予想すべきだろう。これらの空襲に加え、これまで見たこともないほどの大軍で、彼らがこのたび認識した強大な戦闘技術を備えた陸海軍による攻勢が続くだろう。
(中略)
私は原子力がどのようにして世界平和を維持するための極めて効果的な力になりうるか、さらに検討し、議会に対してあらためて勧告を行うだろう[11]。
この資料から言及したいことは山ほどあるのだが[12]、それはさておき、本論文の論及の過程からいえば、ここで戦時復仇について考える必要があるだろう。戦時復仇はあくまでも戦時法規において一定の制約のもと認められているものである。その要件のなかに、①敵国が事前に戦争法違反行為を行ったこと、②敵国を戦争法遵守の状態に回復させるための補助的、例外的手段であること、③相手国の先行違法行為との均質性が考えられる。京都大学名誉教授の杉原高嶺はこれにさらに相手国への事前の警告を挙げる[13]。では、広島・長崎への原子爆弾投下が果たして真珠湾攻撃の戦時復仇として法的に認められるのか。
まずそのまえに、藤田によると、まず真珠湾攻撃は戦争法の違反ではないと考える。これは「いわば戦争禁止の法に対する違反行為」であり、決して戦争法の違反ではないと述べる。つまり、真珠湾攻撃と原爆投下との因果関係は戦争法の違反かどうかということに限れば無関係であると断じる[14]。
そこで藤田はバターン死の行進や南京事件、マニラ事件などを検討しているが、その議論にはここでは立ち入らないでおこう[15]。従来の歴史観における相克がみられ、政治性も含む大きな問題をかかえているからである。ところで、真珠湾攻撃が日米開戦を最も表徴する印象的な事件として脚光を浴びてきたのは事実である。真珠湾攻撃は原子爆弾投下と同じくらいに様々な付加価値の着いた歴史事件として世に広まっている。本論文の検討課題を逸脱する内容を含んでいるので、かりにも原爆投下が、日本が米国に行った何らかの侵略行為ないし非人道的な行為に対する復仇であったとしたうえで、これが戦争法の違反にあたるのかどうかを法的解釈すれば、上に挙げた4つの要件のすべてに合致していない。トルーマンはポツダム宣言が事前の通達としているが、これは法的に認められない[16]。そして何よりも、原爆投下による戦時復仇となるとその均衡性の要件により戦時法も認めるところではないのである。
(2) 原爆投下に刑事責任を問えるのか
まずジェノサイド罪の構成要件に該当することができれば戦争犯罪ないし国際犯罪を構成することができる。そこで藤田は、重要な戦争法違反行為が戦争犯罪を構成することは第二次世界大戦の時点で理論的にも実行上もほぼ確立していたとみてよいと述べる。例えば、ニュールンベルグと東京の国際裁判所判決にそれはみてとれるという。加えて、国際違法行為のその違法性や犯罪性は条約の違反に限ることではないとする。つまり慣習法の違反から引き出すことができるという。また原爆投下は戦争法の原則ないし具体的規則そのものに違反しており、その犯罪性はこれらの違反から直接引き出すこともできる[17]。
しかも刑事裁判が成立すれば、国家ではなく、個人の責任が追及できる。つまりトルーマンの責任追及である。さらには実際に関与したパイロットグループのそれについてもである[18]。しかしながら、現実にはその多くはもはや故人である。しかし、「戦争犯罪および人道に対する罪に対する時効不適用に関する条約(1970年11月11日発効)第1条で、「1945年8月8日のニュールンベルグ国際軍事裁判所条例において定義され、且つ、国際連合総会の1946年2月13日付決議3(1)号及び1946年12月11日付決議95(1)号により確認された戦争犯罪、とくに戦争犠牲者保護のための1949年ジュネーブ諸条約に列挙された”重大な違反行為” さらにジェノサイド罪を含む「人道に対する罪」には時効は適用されない。ただし、現在、日米ともにこの条約に加入していない。
結びにかえて―下田訴訟事件と被爆者援護法成立をめぐって
さて、1963年のいわゆる原爆訴訟(下田事件訴訟)の判決はわが国の国際法学説に違法説が通説化したという意味でその評価は高い。しかし、現実には世界各国の核政策に大きく反映されることはなかった。わが国は非核三原則を維持しつつも米国の核の傘下にある。1996年のICJにおける核兵器使用と威嚇に関する勧告的意見においても、日本政府は、「核兵器の使用は…国際法の思想の基盤にある人道主義の精神に合致しない」と述べるにとどまった[19]。
核兵器使用の違法性や非核政策と、核抑止政策を理由とする核保有の対立問題がある。この問題については次の論文で詳しく論じることになる。ここでは、下田事件判決の意義について最後にまとめておかなければならない。
同裁判はもともと被爆者である原告等が日本政府を相手に損害賠償を請求するために提訴したものであった。この「原点」を忘れてはならない。しかし、原爆投下という状況、そしてそれが何よりも2国間の戦時中になされた事件であったこと、さらに原告等は原爆投下の国際法上の違法性と、日本国政府による米国に対する損害賠償請求権の放棄を批判していたため、国際法と国内法の両方からの処理がなされたのである。そのため、日本法(原爆投下当時の大日本帝国憲法)に基づく国の不法行為が認められかどうか、十分吟味されなかった観がする[20]。そう考えると、国際法の裁判事例として一定の評価を受けているわけだが、まさにその「原点」にかえると、原告の下田隆一ほか4名の米国に対する損害賠償請求権に対する法的解釈は、同権利はもともと存在しないものであり、従って、日本政府の補償責任はないとして原告側の請求が全く退けられたのであるから、これは完全な敗訴を意味していた。そして原告側は控訴することもなかったのである。
本裁判の弁護士であった先に挙げた松井康浩はのちにこの原爆裁判をふりかえり、当該裁判は被害者が損害賠償を得ることはできなかったが、「国際法上原爆の使用が禁止されていることを明らかにし、原爆問題に対する人類の認識を深めること」に貢献したことをもって十分意義のある判決であったと述べている[21]。果たしてそれはどうだろうか。
しかし、その後、事実として、国による被爆者に対する救済法へと進展をみるに至った[22]。そしてこの背景には下田事件判決が寄与していたと述べる論者は少なくない。広島女子大学名誉教授の小寺初世子によると、下田事件判決は、国の責任(損害賠償責任ないし損失補償責任)を追及するやり方、もう一つは国の(開戦の)結果責任としての国家補償を要求していくやり方の2つの方向性を公に示唆したという[23]。そして結果、実際は後者の手法で、その後の救済制度が成立していったといえよう[24]。ただし、国家の責任追及という下田裁判の精神は現実には実っていない。1968年には被爆者特措法(原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律)、いわゆる原爆二法が制定され、その後1994年には現行の被爆者援護法(原子爆弾被爆者の援護に関する法律)に一本化された。従って、援護法は、日本政府の責任を追及する運動のなかから成立したものであるが、孫訴訟最高裁判決(1978年3月30日)で述べられたように、社会的保障的側面と国家補償的側面を併せ持った複合的性格を認めるまでには至っている[25]。しかし、それは決して国家責任を認めているわけではなかった。2015年9月8日、最高裁は在外被爆者にも被爆者援護法に基づく医療費の支給を認めた[26]。
最後に、明治大学講師の山田寿則の見解に従うならば、損害賠償請求が完全に閉ざされたわけではない。今後の新たな展開を予期させるいくつかの事例がある。在日米軍基地の騒音訴訟では初めて被告に米国政府を加えた2002年の横田基地夜間飛行差止等請求事件の最高裁の判決は、米政府に裁判権は及ばないとして訴えは却下されたが、他方、まさに国家の主権免除への制限が明らかにされ、受忍限度を超える航空機騒音等の被害を受けたとき、国に対し慰謝料を請求することができることを認めた事例がその一つである[27]。すでに制限免除主義は諸外国実行による積み重ねがあり、その延長線上に、未発効ではあるが国連裁判権免除条約がある[28]。また国連人権委員会をへて、国連総会決議60/147によって2005年に採択された「国際人権法及び国際人道法の重大な違反の被害者のための救済と補償の権利に関する基本原則及びガイドライン(「基本原則及びガイドラン」)にも一定の期待が寄せられている[29]。
[1] 多くの判例研究が出されているが、さしあたり、岩本誠吾「原爆投下の違法性」(小寺彰・森川幸一・西村 弓編『別冊Jusrist 国際法判例百選(第2版)』No.204 有斐閣)、232-233頁. 判決原文は、松井康浩「原爆投下は国際法に違反する」(『自由と正義』vol.15, no.2 日本弁護士連合会、1964年2月)、21-42頁.
[2] 広島市の場合、人口413,889人のうち、死者260,000人、行方不明6,738人、重傷51,012人、軽傷105,543人、つまり死傷者総計は423, 293人。長崎市の場合、人口280,542人のうち、死者73,884人、傷者76,796人、死傷者総計は423,293人。あとで述べる国の数値と大幅に異なる。
[3] 日本政府は次のような抗議文を送っている。
米国の新型爆弾による攻撃に対する抗議文
本月6日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり
広島市は何ら特殊の軍事的防衛乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非ず、本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以ってこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは物理的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知しをるところなり、また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨憺なるものと言ふべきなり
聊々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約付属書、陸戦の法規慣例に関する規則第22条、及び第23条(ホ)号に明定せらるるところなり、米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の輿論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり
米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民衆などを倒壊または焼失せしめたり、而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり
帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す
(出典:『朝日新聞』昭和20年8月11日)http://nvc.webcrow.jp/WA13.HTM(2016年3月16日アクセス)
[4] 下線部は米国史観の受け売りともとれる。柴田はこれを日米の「共犯関係」ととらえる。柴田優呼『ヒロシマ・ナガサキ―被爆神話を解体する:隠蔽されていた日米共犯関係の原点』作品社、2015年、9頁.
[5] 原子爆弾の影響力とは逆に生産コストが低いという事実がある。廣瀬和子「核兵器の使用規制―原爆判決からICJの勧告的意見までの言説分析を通してみられる現代国際法の整合性」(村瀬信也・真山全 編『武力紛争の国際法』東信堂、2004年)、456頁.
[6] 藤田久一『核に立ち向かう国際法―原点からの検証』法律文化社、2011年、18頁.
[7] 前掲書、19頁.
[8] 前掲書、24-25頁; 松井前掲論文、36頁.
[9] 前掲書、21頁.
[10] 前掲書、21-22頁.
[11] 柴田前掲書、257-259頁. 基本的に柴田の訳出をそのまま引用したが、気になるところは部分的に筆者の訳出に置き換えている。
[12] ペリーの日本開国以来、米国の強引さを弱小国日本に知らしめるところとなった。その後の日本の近代化は富国強兵策にみられるように軍事面の拡大を生み、やがては米国と対峙することになる。そのことは、日本国が勢力圏にできなかったハワイの真珠湾で日本軍によって開戦されたことに象徴されていると考える。メキシコ史を専門にしている筆者の立場からすれば、ペリーこそ浦賀にやってきた1853年の5年前に終結した米墨戦争(アメリカ=メキシコ戦争)ですでに提督としてメキシコ湾の経済封鎖にかかわっていた人物であったことを強調しておきたい。メキシコもわが国と同様、米国の軍事力に対抗して駆逐された。そのメキシコと明治政府はわが国にとってははじめての平等の修好通商条約を結んだ。トルーマンの原爆投下決断の理由として、彼が戦後の広島市長に送った回答には真珠湾攻撃に対する復仇であると明言している(本文中に引用した原爆投下直後のトルーマンの声明では、原爆投下は真珠湾攻撃の復仇であるとは述べられていない)。これに関しては、http://nvc.webcrow.jp/WA15.HTM(2016年3月16日アクセス)をさしあたり参照されたい。
上智大学名誉教授の三輪公忠によると、このような日本の対米開戦は、トルーマンからすれば、詰まる所ペリーの「恩」に報いなかったことを意味していた。三輪公忠『日本・アメリカ 対立と協調の150年』清流出版、2005年、215頁. 三輪教授は別のところで、原爆投下と人種差別との関連で、エール大学のジョン・ホール教授は「あれは日本人に対してだからやれたことで、果たしてドイツにやっただろうか」と国民的自責の念におそわれたというエピソードも記しておられる。三輪公忠「歴史の運行を支えている時代精神は小説に学ぶ」Bulletin, みなとユネスコ、2014年6月、1頁. 同様の指摘は、広島市立大学 広島平和研究所所長の吉川元 教授も言及している。吉川元「第二次世界大戦とは何であったのか」(『ふたつの世界大戦と現代世界』広島市立大学 広島平和研究所、2015年12月)、143頁.
太平洋戦争の開戦前から、戦争法規を無視した中国での日本軍の非道ぶりがアメリカ軍指導部に伝わっていた。そして真珠湾攻撃でそれまでの半世紀にわたるアメリカ人種差別主義に根差す反米感情は極限に達し、その後、バターン死の行進、アメリカ兵捕虜に対する虐待など、日本軍の非道ぶりがつとに知れ渡るようになると日本人を「獣」「下等動物」と見なす人種偏見が強まっていった。(中略)長崎への原爆投下の二日後、アメリカのトルーマン大統領は、原爆投下について次のように語っている。「日本人が唯一理解すると思われる言葉は、先に実施したあの原爆投下である。獣を相手にしているときには相手を獣として扱わなければならない。
[13] 杉原高嶺『国際法学講義』(初版)、有斐閣、2008年、644頁.
[14] 藤田前掲書、59頁.
[15] 藤田は、日本軍の残虐行為があったことを前提としたうえで、この復仇として原爆投下は無関係であると述べる。前掲書,59-61頁.
[16] 柴田前掲書、257-258頁.
[17] 藤田前掲書、63頁. これに反対する意見としては、罪刑法定主義の原則による批判が想定できる。
[18] 前掲書、国際軍事裁判所条例や戦後の軍事裁判にあるように、上官の命令で行われた違法行為に対し、国際刑法上の免責事由は認められない。
[19] 山田寿則「日本における原爆訴訟の意義と展望」『法と民主主義』64、2005年11月.
[20] 筆者と同じ見解の先行研究として、小寺初世子「原爆災害の法的研究―非戦闘員犠牲者の法的地位を中心に―(その1)」(『広島女子大学文学部紀要』17号、1982年)、153頁.
[21] 前掲論文、64頁.
[22] 「被爆者」の定義と現状については、広島市・長崎市 原爆災害誌編集委員会編『原爆災害 ヒロシマ・ナガサキ』岩波書店、2005年、153-174頁.
[23] 判決文はそして次のように締めくくっている。弁護団の一員であった松井弁護士もその後の手記のなかで、この最後の段落をそのまま引用している。判決は、原爆投下の国際法上の違法性を明快に判定したものの、国民の損害賠償請求権は否定された。
人類の歴史始って以来大規模、かつ強力な破壊力をもつ原子爆弾の投下によって損害を被った国民に対して、心から同情の念を抱かいない者はないであろう。戦争を全く廃止するか少くとも、最小限に制限し、それによる惨禍を最小限にとどめることは、人類共通の希望であり、そのためにわれわれ人類は日夜努力を重ねているのである。
けれども、不幸にして戦争が発生した場合には、いずれの国もなるべく被害を少くし、その国民を保護する必要があることはいうまでもない。このように考えてくれば、戦争災害に対しては当然に結果責任に基く国家補償の問題が生ずるであろう。現に本件に関係するものとしては「原子爆弾被害者の医療等に関する法律」があるが、この程度のものでは、とうてい原子爆弾による被害者に対する救済、救援にならないことは、明らかである。国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済を執るべきことは、多言を要しないであろう。
しかしながら、それはもはや裁判所の職責でなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果たさなければならない職責である。しかも、そういう手続によってこそ、訴訟当事者だけでなく、原爆被害者全般に対する救済策を講ずることができるのであって、そこに立法に基く行政の存在理由がある。終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである。
(『「戦争と平和」を知るための平和論序説 ―平成27年度京都外国語大学 国際言語平和研究所・教育メソッド・教育コンテンツ研究「世界の平和教育の実態と本学における教育メソッド研究」成果報告書』、2016年3月、より一部掲載)
[24] 小寺前掲論文、156頁.
[25] 前掲論文、65頁.
[26] 一般疾病医療費支給申請却下処分取消等請求事件(最高裁第三小法廷、平成27年9月8日)Westlawのデータベースにアクセス.
[27] 新横田基地騒音訴訟(最高裁第二小法廷、平成14 年4 月12 日)」Westlawのデータベースにアクセス.
[28] 山田前掲論文、67-68頁.
[29] 申 惠丰『国際人権法―国際基準のダイナミズムと国内法との協調』信山社、2013年、277-281頁.
国際法における広島・長崎への原爆投下の違法性と下田事件裁判 (前編)
牛島 万
はじめに
わが国最初で唯一の原爆訴訟とされる下田事件裁判は、下田隆一を筆頭に被爆者5名の原告が、日本国政府を被告として1955年4月、東京地方裁判所に提訴した。8年の歳月をかけて1963年、東京地裁は、原告の米国に対する損害賠償請求権は、日本国が講和条約で損害賠償請求権を放棄したため、原告の米国政府に対する損害賠償請求権は存在せず、また日本国政府にも補償責任はないとした(裁判長 古関敏正裁判官)。原告側は上訴することを断念したが、この判決が一定の評価を受けている理由は、法解釈の過程で、米国による広島・長崎への原爆投下が国際法に違反していることを認めたことであろう。つまり、国内の地方裁判所の判決とはいえ、国際法における原爆投下の違法性という、外国の国家実行の不法行為を認めた世界ではじめての、そして未だ唯一の事例という意味でそれは画期的な裁判であったといえよう。しかし、当該裁判は国際法上の事例として概して高い評価を受けており、従来、学説及び判例ともにこれに関心が集まっている一方、原告等が求める損害賠償請求権は見事まで完全に否決されたのであり、この点において、本裁判の意義が歪められてきた観がある。そこで、本稿では、原告側の弁護団の一人であった松井康弘弁護士の論説および下田事件判決の裁判記録にもとづいて、1963年の原爆訴訟(下田事件裁判)を中心に検討する[1]。
1. 原告等の訴え
(1) 請求の原因
最初に原爆投下による一般市民に与えた多大な損害の生々しい現状について伝えることから始まっている。「昭和20年8月6日午前8時15分頃、アメリカ合衆国陸軍航空隊テイベッツ大佐の操縦する爆撃機B29は、米国大統領H・S・トルーマンの命令により、広島市上空においてウラン爆弾と呼ばれる爆弾を投下した。ウラン爆弾は空中でさく(、、)裂し、一条の強烈な閃光とともに激しい爆風が起こり、広島市内の建物は音をたてて倒壊し、市内は塵埃に包まれ暗黒となり、いたるところ猛火に包まれた。爆心地を中心とする半径約4キロメートル以内にいた人間は、みごもれる婦人も、乳房をふくむ嬰児も全く区別なく、一瞬にして殺害された。それ以外の地域でも爆発の特殊加害力によって、身体にむごたらしい傷害をうけ、或いは傷痕はなくても放射線を浴びて原爆症に罹り、その結果死んでゆく者が十数年後の今日でもなおあとを絶たない」。
松井弁護士は論説で次のように書いている。「昭和20年8月6日に広島市に、9日には長崎市に投下された原爆は、中空でさく裂し、一瞬にして全市は地獄と化した。あらゆるものが溶け、焼け、燃え、人は消え、かろうじてようやく命を留めたものも、皮膚をボロ衣のごとくにして、妻を夫を子を求めて業火のなかをさまよい歩き、そして死んでいった。周辺の都市や農村から累累の屍体を整理するためにはせ参じた多くの青年男女が、二次放射能にやられてバタバタとたおれていった」。
広島市に引き続き、今度は長崎市に原爆は投下された。広島への原爆投下からわずか3日後のことであった。「広島市に対する爆撃後、3日を経た同月9日午前11時2分頃、同じく米国陸軍航空隊スウェーニー少佐の操縦する爆撃機B29は、長崎市上空においてプルトニウム爆弾と呼ばれる爆弾を投下した。プルトニウム爆弾は空中でさく(、、)裂し、直径約70メートルの火球を生じ、次の瞬間火球は急速に拡大して地上をたたきつけ、地上の一切の物質を放射性の物質に変えながら白煙となった。これによって長崎市においても、広島市におけると同様な破壊と、平和的人民に対する残酷きわまりない殺傷が発生した」。
ちなみにこれが原爆とわかったのは少しあとになってからであった。おおよその予測はついていたのかもしれない。あるいは後述のトルーマンの声明のなかでそれが原爆であることが明かされたのは最初の原爆投下から16時間後のことであった(トルーマンの声明については後述する)。
「広島市に投下されたウラン爆弾及び長崎市に投下されたプルトニウム爆弾は、当時世界の人類にその存在も名称も知られていなかったが、後に原子爆弾と呼ばれて、全世界の人々を恐怖の淵に落とし陥れた。この原子爆弾は、ウラニウム原子、プルトニウム原子の原子核分裂によって生じるエネルギー及びその連鎖反応によって生じたエネルギーを光、熱、放射線、爆圧等として放出させ、その量及び質の点で人類の想像を絶した破壊力を有するのみならず、直接の破壊を受けないものに対しても熱輻射線によって火災を発生させ、閃光火傷(火焰火傷とは異る)をもたらすものである。それは爆心地を中心に半径約4キロメートルにわたって必然的に無差別殺傷の結果をもたらし、爆風により建物を破壊し、更に放射線による原爆症を発生させて逐次死に到らしめる作用を有する」。
「広島市及び長崎市における原子爆弾による災害のうち、当時の死傷者は、別紙第1表のとおりである(本稿註を参照)[2]。しかしながら、原子爆弾投下後の惨状は、よく数字の尽すところではない。人は垂れた皮膚を襤褸として屍の間を彷徨、号泣し、焦熱地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を脱した惨鼻(酸鼻)な様相を呈したのであった。このように、原子爆弾の加害影響力は、旧来の高性能爆弾に比べて著しく大きく、しかも不必要な苦痛を与えることも甚だしく、その上その投下が無差別爆弾となる必至であって、極めて残虐な害敵手段である」。
(2) 国際法による評価
原告側は、原爆投下が「当時の実定国際法(条約及び慣習法)に反する違法な戦闘行為」であるとする。その証拠として、人道法の側面から訴える。①セント・ペテルスブルグ宣言(1868年12月11日)によると、「戦争における唯一の正当な目的は敵の兵力を弱めることであり、その目的を達するためにはなるべく数多くの人を戦闘の外に置き、そして戦闘外に置かれた人の苦痛を無益に増大したり落命を必然とする兵器の使用はこの目的を超えるものであって、このような兵器の使用は人道に反するものとして、締盟国相互が戦争をする場合には、軍隊または艦隊をして400グラム以下で爆発性の、又は燃焼性の物をもって充てた発射物の使用の自由を放棄することを約している」。
次に、ハーグ陸戦条規第22条において、毒ガス、不必要な苦痛を与える兵器、投射物をあげ、26条において、砲撃の際は事前通知予告を必要とし、27条において攻撃の目標は軍事目標に限りとした。空戦規則第22条の非戦闘員への爆撃禁止、24条の爆撃の目標は軍事目標にかぎり適法とされ(1項、2項)文民たる住民に対して無差別の爆撃になる場合には空爆を回避しなければならない(第3項)とする。これは第2回ハーグ平和会議で採択された特殊弾丸(通称ダムダム弾)の使用禁止宣言(1907年)、ジュネーブで採択された毒ガス等の禁止に関する議定書(1925年)の解釈から類推適用させ、同様の結論が導かれるとした。つまり、原爆が新兵器であることから、原爆に特定した条文はなくても、当時の実定国際法として原子爆弾についても適用、準用しなければならない。「当時日本国は原子爆弾を有しないことはもちろんであり、その敗戦が必至であることは一般にみるところであって、それはもはや時期の問題とされていた。従って、原子爆弾の投下は日本国の戦力破砕の目的に出たものではなくて、日本の官民の闘争心を喪失させるための威嚇手段であって、米国の防衛手段に出たものでもなければ、また報復の目的に出たものでもない。このことは、当時ジェイムズ・フランク教授を委員長とする7人の科学者から成る原子力の社会的政治的意義に関する委員会が、陸軍長官に対し日本に対する原子爆弾投下に反対する勧告を行ったことからも明らかである。それとともに原子爆弾の研究及び製造計画に関与した64名の科学者からも、同委員会の報告と同趣旨の請願書が大統領宛に提出されたが、これらの報告及び請願は無視され、原子爆弾は無警告で広島市及び長崎市に投下されたのである」。
被告である日本政府は実定国際法が存在しないので原告の訴えは当たらないとしている政府に対して次のように述べている。「日本国政府は昭和20年8月10日スイス政府を通じて米国政府に対し、別紙第3表(本稿では以下の注で引用する)の抗議文を提出している。被告の現在の見解は交戦国という立場をはなれて客観的にみた結果であるというが、それでは当時の日本国政府は正当な国際法の解釈をしなかったことになるのであろうか。原告等は、むしろ短時間のうちに国際法の真髄を捉えて世紀に残る大抗議をしたことを、日本国民として名誉にさえ考えているのである[3]。また、被告は戦争においては敵国を屈伏させるまでは、限定された明示の禁止手段以外ならば、いかなる手段でも用いることができるという見解のようであるが、それは死の商人ならぬ死の政治家の言であって、きわめて遺憾である」。
(3) 国内法による評価
原爆投下行為が国際法に違反することは同時に国内法にも違反する。従って、違法性を阻却されず、国内法上の不法行為を構成する。この場合、不法行為の責任は米国及び原爆投下を命じた当時の米国大統領トルーマンであるが、不法行為の場合は不法行為地であり、それが2国にまたがる場合は発生地の法律が準拠法となる。従って、準拠法は日本法となり、国家が不法行為の責任を負うことになる。
(4) 損害賠償の請求
国際法違反の行為については、被害を受けた国家も個人も国際法上の権利主体として、国際法上損害賠償請求権を有する。対日平和条約条約第19条(a)において、「日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在していたためにとられた行動から生じた連合国及びその国民すべての請求権を放棄」するという規定から、日本国民の米国に対する権利の存在を前提にしている。「被告は、原告等の主張する損害賠償請求権は観念的なものであって、実現手段をもたないものであるから権利ではないと主張する。もし被告の考え方が認められるならば、戦時国際法は全面的に否定されることになるのであって、どれほど使用を禁止されている兵器を用いても、勝てば違法の追及を免れ、国際法を守っていても、敗れれば相手国の違法を追及できないということになり、従って勝つためには使用を禁止された兵器も使用せざるをえないということを肯定する理論となる。自ら行使の手段を有しない権利は権利ではないという被告の理論は、独断以外の何ものでもない」。
「原告等の権利は日本国によって行使されるのであって、民主国家は国民のためにあるのだから、自国の政府がこれを行使することができれば、それで十分であろう。自国の政府が国民のために働かないことを前提にして、国際法上の権利を考えなければならないとするのは、あまりにも情けない理論だといわなければならない」。
(5) 請求権の放棄による被告の責任
被告が、米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を米国との平和条約に基づいて、損害賠償請求権を放棄したことは違法である。損害を被った原告等に、国家賠償法第1条の規定により、賠償の責任を日本国政府は負わなければならない。「講和条約の締結に当たっては、原子爆弾の投下による損害賠償請求権は高く評価されたと考えられ、従ってこの権利は日本国の米国に対する損害賠償の一部に充てらえたものと解すべきである。日本国はこの権利を放棄することによって、平和条約の他の面で利するところがあったに相違ない。たとえ、明白な表現による外交交渉がなされなかったとしても、米国の良心、世界人類の良心は必然的にこれを平和条約の差引計算に組み入れたであろうし、それ故にこそ被告は故意にこの請求権を放棄したのである。従って被告は、原告等の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄することによって、原告等の私有財産を一方的に公共のために用いたものというべきであって、日本国憲法第29条第3項の規定に従い、原告等に対して正当な補償をする義務を負うものである」。私有財産の保障は人権にも関わる問題である。原告等の損害賠償請求権を無償で放棄したにもかかわらず、その補償が講じられなければ、不法行為が構成される。
2. 被告(国)の答弁
(1) 原子爆弾の投下とその効果及び国際法による評価
次に被告(国)の答弁にうつろう。まず国が提示した被害者数は極度に少ないことがわかる。広島市における死者は78,150人、傷者は51,408人。長崎市は死者23,753人、傷者は41,847人であった。次に国際法上による評価であるが、「原子力分裂によるエネルギーを利用する害敵手段である原子兵器は、第二次世界大戦の後半に発明されたもので、それが広島市と長崎市に対して使用されるまでは、世界人類によってまだ一般に知られていなかった。従って、当時原子兵器による害敵手段を禁止し、又は許容することを明言した条約はなく、またこの新兵器についての国際慣習法は全くなかったから、原子兵器に関する実定国際法は存在しなかったというべきであり、実定国際法違反という問題は起こりえない」。原告等の挙げるハーグ陸戦条規等の条約は原子爆弾を対象とするものではない。また「空戦法規案及び集団殺害の防止及び処罰に関する条約」は原子爆弾投下当時、存在していなかった。
「従って、原子爆弾投下が国際法に違反するか否かの問題は戦時国際法の法理に照らして決定さるべきものである。由来戦争は国際法の見地からみれば、国家がその敵国を降すため、すなわち敵国をして自己の意思の前に屈服させ、自国の提案する条件を容れて和を乞う決意をさせるため、必要と認められるあらゆる手段を行使することを認められた状態である。この手段として第1に考えられることは、敵国の兵力の撃破であるけれども、敵国の戦闘継続の源泉である経済力を破壊することも、また敵国国民の間に敗北主義を醸成することも、また敵国の屈服を早めるために効果があり、必要な手段が行使される。国際法上交戦国は中世以来、時代に即した国際慣習および条約によって一定の制約をうけつつも、戦争という特殊目的達成のため、害敵手段選択の自由を原則として認められてきた」。つまり、戦時国際法の規定のなかに軍事効果の合法性が認められていた。
「広島市及び長崎市に対して投下された原子爆弾は、破壊力においてまことに巨大であって、その被害のはなはだしかったことはまさに有史以来のものであり、そのため非戦闘員たる日本国民に多数死傷の結果を生じたことは、誠に痛恨事とする次第である。しかしながら、広島市及び長崎市に原子爆弾の投下された直接の契機として、日本国はそれ以上の抵抗をやめ、ポツダム宣言を受諾することになり、かくして連合国の意図する日本の無条件降伏の目的が達成され、第二次世界大戦は終結をみるに至ったのである。このように原子爆弾の使用は日本の降伏を早め、戦争を継続することによって生ずる交戦国双方の人命殺傷を防止する結果をも[た]らした[4]。かような事情を客観的にみれば、広島、長崎両市に対する原子爆弾の投下が国際法違反であるかどうかは、何人も結論を下し難い」。
日本国政府が昭和20年8月10日に出した原爆投下を違法とする抗議文の内容とここで述べている見解の食い違いについては、「当時交戦国として新型爆弾の使用が国際法の原則及び人道の根本原則に反するものであることを主張したのであって、交戦国という立場をはなれて客観的にみるならば、必ずしもそう断定することはできない」とのべ、原告等の主張に反論した。
(2) 国内法による評価
原爆投下行為は国内法による対象とはならない。それは、当該行為が国家間戦争の解決の手段で、違法とされる行為については講和条約により当事国間で合意解決されるべきである。従って、「当事国がこれについて国内法により直接相手国民に対して損害賠償の責に任ずるものではない」。また米国内法において、トルーマンが原爆を使用した理由に、軍事的効果と政治的効果がある限り、その政治権力の行使については、裁判所はその審査を拒否する。加えて、国家免責の法理が存在している。さらには、米国国際私法により日本法の不法行為が適用されることはない。「国家は外国法の適用が自国の利益に反するときは、その適用を拒むのが原則である」。
(3) 被害者の損害賠償請求権
米国に対して、国際法上の損害賠償を請求しうるのは日本国であって私人ではない。個人が国際法上の主体になりうる例外としては、条約その他の国際法にその趣旨の規定がある場合、及び個人に国際司法裁判所(ICJ)に対する出訴権が認められた場合に限られる。従って、これが認められていない以上、「原告等に国際法上の権利として損害賠償請求権の発生するいわれはない」し、「法律以前の状況である」。
かりに原告等に損害賠償請求権が生ずるとして、その請求権とは、国際法上のものであり、私人である個人が交渉することはできない。だからといって、「国が被害者個人に代わって行うのではなく、被害者の属する国自体が自らの立場でするものであって、その結果として賠償をえても、これを被害者に分配するかどうか、またその分配額はいくらにするか等は、その国が独自に決定するのである」と答弁した。「古来敗戦国より戦勝国に対して、戦勝国の国際法違反の行為から生じた損害について賠償を要求し、またそれが実現されたことは歴史上例がない。戦勝国といえでも講和条約によって敗戦国から一定金額ないし一定役務の賠償をうけるほか、その余の請求は一切行わないことが、古くからの国際慣例となっている。従って仮に原告等の主張する請求権があったとしても、講和条約とともに当然消滅すべき運命にあったものといわなくてはならない」と述べた。
(4) 対日平和条約による請求権の放棄
国側は対日平和条約第19条(a)の規定により、国民個人の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄したことにはならない、と反論する。国が放棄したのは国際法上の国家の権利であり、外国との合意により放棄したので、国民個人にかりに請求権があるにせよ、ここと同じものではない。従って、国民自身の請求権の侵害にはあたらない。
(5) 請求権の放棄による被告の責任
「被告は国家賠償法による損害賠償責任を負う義務はない。もともと原告等の請求権は権利たるに値せず、敗戦国の側から講和に際して当然放棄されるべき宿命にあったから対日平和条約の締結は何ら権利の侵害とはならない。のみならず、平和条約の内容が国内法体系からみてそぐわないものがあるとしても、条約そのものを違法とすることはできない。敗戦国にとって講和条約が憲法上の禁止条項に抵触し、又は憲法上適法な手続きがとりえないため、条約を締結することができないとすれば、講和を行うことができなくなり、その結果戦争の遂行能力あるかぎり最後まで戦わなければならなくなる。従って、講和条約については、たとえ違憲の疑があるとしても、革命の場合と同様、一つの既成事実として裁判所その他の国家機関はこれを認めなければならないとされ、あるいは国家非常の観念から、戦時にあっては条約締結権は憲法に拘束されないとされ、あるいはまた国際法優位論を適用して講和条約が憲法上の諸権力に対して一つの優先力をもつものとされてきた。対日平和条約に際しても、敗戦国日本の立場は、これに異るところはない。対日平和条約は、ポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした日本国がその独立を回復するために、『強制されて欲した』国際的合意であるから、その内容において日本国憲法の保障する国民の権利に消長をきたす条項が規定されているものとしても、これを目して違法なものと断ずることはできない」。
かりに原告等に請求権があり、それが対日平和条約第19条(a)の規定により放棄されたとしても、憲法29条の規定により即、損害賠償請求権が生ずるものではない。換言すれば、「憲法が直ちに具体的な損害賠償請求権を与えるものではない」。
そのうえで被告(国)は次のように続ける。「今次の戦争において、世界人類の経験しなかった原子爆弾のさく裂のもとにおかれた人達に対して、被告は深甚の同情を惜しむものではないが、これらの人達に対する慰籍の途は、他の一般戦争被害者に対するそれらとの均衡や、国家の財政状況等を勘案して、決定しなければならない。かような措置を立法上、財政上講ずるべきか否かは、法律問題ではなく政治問題である」。
「国家が外交的保護権を行使して、相手国より賠償金をえた場合でも同様であって、それを被害者に分配するかどうか、また分配するとしてもその方法如何については、国家が独自に決定してよいのである。それは国内政治の問題、又は立法の問題とはなり得ても、被害者が当然に賠償請求権を取得するものではない。従って、立法上かかる措置のとられていない現在においては、被告は原告等に対し補償又は賠償をする義務はないし、またそれを講じていないからといって、これを直ちに民法上の不法行為とすることはできない」のである。
3. 東京地裁の判決
(1) 原子爆弾の投下の被害現状および原子爆弾の特質
では、これに対してどのように判事されたのか、さらにその判決内容を分析しよう。
原子爆弾の特徴について、爆風によるもの、熱線によるもの、初期核放射線と残留核放射能によるものに分けて説明した。最後の点についてもう少し詳細をみると、「原子爆弾の爆発後1分以内に放射される放射線は、中性子、ガンマ線、アルファ粒子及びベータ粒子より成り、初期核放射線と呼ばれる。そのうちガンマ線と中性子とは長距離の飛程を有し、これが人体に当るとその細胞を破壊し又は損傷を加え、放射線障害を生ぜしめて原子病(原爆病)を発生させる。原子病は人間の全身を衰弱させ、数時間後ないし数週間後に人を死亡させる病気であって、幸にして生命をとりとめてその回復には長期間を必要とする。その他放射線の照射によって、白血病、白内障、子供の発育不良等を生じさせ、その他身体の諸器官に種々の有害な影響力を与え、遺伝的にも悪影響を生じさせる」。
「次に爆発してから1分以後に、主として爆発の残片から放射される放射線は、残留核放射線と呼ばれるが、これらの残片は微粒となって大気中に広く拡がり、水滴に附着して放射性の雨を降らせ、或いはいわゆる死の灰となって地上に舞いおりる。この放射線の人体に及ぼす効果は、ほぼ初期核放射線と同様である」。
以上から、「破壊力、殺傷力において、従来の兵器よりはるかに大きいだけでなく、人体に種々の苦痛ないし悪影響をもたらす点において、原子爆弾は従来のあらゆる兵器と異なる特質を有するものであり、まさに残虐な兵器であるといわなければならない」[5]。
(2) 国際法による評価
原子爆弾を特定化して国際法上許される兵器であるかを定めた国際法はない。しかしながら、本件は原子爆弾が違法であるかどうかではなく、原子爆弾の投下行為が国際法に違反しているかどうかを考察すれば足る。
そこで、次に原子爆弾の投下行為の合法/違法について、実定国際法上どうであるのかについて考える。
そこで裁判で取り上げる国際法は以下のとおりである。
1)セント・ペテルスブルグ宣言(1868)…400グラム以下のさく裂弾及び焼夷弾の禁止
2)第1次ハーグ平和会議において成立した陸戦の法規及び慣例に関する条約、ならびにその付属書である陸戦の法規慣例に関する規則(いわゆる陸戦条規)。さく裂性の弾丸に関する宣言(ダムダム弾禁止宣言)。空中の気球から投下される投射物に関する宣言(空爆発禁止宣言)。窒息性又は有害性のガスを撒布する投射物に関する宣言(毒ガス禁止宣言)。以上、1899年制定。
3)第二次ハーグ平和会議で成立した陸戦の法規及び慣例に関する条約(1907)。
4)潜水艦及び毒ガスに関する5国条約(1922)
5)空戦に関する規則案(空戦法規案)1923年
6)窒息性、毒性又はその他のガス及び細菌学的戦争方法を戦争に使用することを禁止する議定書(毒ガス等の禁止に関する議定書)。
以上の諸戦争法規により、新兵器である原子爆弾の投下について、直接の法規制は存在しないが、国際法の規定が存在しないことは即それが合法であることを意味しない。「そこにいう禁止とは、直接禁止する旨の明文のある場合だけを指すものではなく、既存の国際法規(慣習国際法と条約)の解釈及び類推適用からして、当然禁止されているとみられる場合を含むと考えられる」と解釈する。学説も同様である。
しかし、戦時国際法(武力紛争法)の規定には軍事的効果に対する重視が挙げられている。「新兵器の発明及びその使用については常に各方面から多くの反対があったにもかかわらず、間もなく、進歩した兵器の一つとされ、その使用を禁ずることは全く無意味となり、文明の進歩とともにむしろ有効な害敵手段とされるに至っているのが歴史上の示すところであって、原子爆弾もまたこの例にもれない、と論ずる者がある。過去において新兵器の出現に際し、さまざまな利害関係から反対が唱えられたにもかかわらず、あるいは国際法が未発達の状態にあったがために、あるいは敵国人や異教徒に対して敵がい心が強かったために、あるいは一般兵器の進歩が漸進的であったがために、その後文明の進歩と科学技術の発達によって適法とされに至った事例のあることは、まさに否定することができない。しかし、常にそうであったとはいえないことは、前記のダムダム弾、毒ガスの使用を禁止する条約の存在を想起すれば明らかである。従って、単に新兵器であるというだけで適法なものとすることはできず、やはり実定国際法上の検討にさらされる必要のあることは当然である」とした。
次に、原子爆弾の投下行為における「空襲」に関する法規によって判定する。空襲については条約が成立していないので、慣習法によって一般に認められている陸軍の砲撃についてみると、その時に防守都市と無防守都市の区別がなされる。そして前者には無差別爆撃が許されるが、後者においては戦闘員及び軍事施設(軍事目標)のみに攻撃が認められ、それ以外にはそれは認められない。また、この原則はハーグ陸戦規則第25条「防守サレサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ、之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス」で規定している。また、1907年「戦時海軍力をもってする砲撃に関する条約」1条では、「防守セラレサル港、都市、村落、住宅又は建物ハ、海軍力ヲ以テ之ヲ砲撃スルコトヲ得ス。(以下略)」と規定し、同第2条では、「右禁止中ニハ、軍事上ノ工作物、陸海軍建設物、兵器又ハ軍用ノ用ニ供セラルヘキ工場及設備並内ニ在ル軍艦ヲ包含セサルモノトス。(以下略)」と規定されている。
空戦に関しては、1922年の「空戦に関する規則案」第24条1項で、「空中爆撃は、軍事的目標、すなわち、その破壊又は毀損が明らかに軍事的利益を交戦者に与えるように目標に対して行われたかぎり、適法とする」。同条3項で「陸上部隊の作戦の直近地域でない都市、町村、住宅または建物の攻撃は禁止する」。軍事的目標である軍隊、軍事工作物、軍事建築物等が、「文民たる住民に対して無差別の攻撃を行うのでなければ爆撃することができない位置にある場合には、航空機は爆撃を控えなければなければならない」。22条でさらに非戦闘員に対する爆撃を禁止している。
ところで、空戦規則案は条約として発効していないので実定法ではないが、国際法学者の間では評価を受けていること、また同法規の趣旨は軍隊の行動の規範にしている国もあり、基本的な規定は慣習法化されている。従って、そこに規定されている無防守都市に対する無差別爆撃の禁止、軍事目標の原則は、陸戦海戦における原則に共通している点から慣習国際法であると考えられる。また地上都市に対する爆撃は、陸戦に関する法規が類推適用しうる。
それでは、防守都市と無防守都市の区別は何か。ここでも、先と同じく、戦時国際法の2つの理念、つまり軍事的効果による戦争の合法性と、人道主義が対立しているなか、そのバランスをとろうとしている。防守都市とは「地上兵力による占領の企図に対し抵抗しつつある都市をいうのであって、単に防衛施設や軍隊が存在しても戦場から遠く離れ、敵の占領の危険が迫っていない都市は、これを無差別に砲撃しなければならない軍事的必要はない」から、防守都市とはいえない。しかし、この場合でも軍事目標に対する砲爆撃は許される。他方、「敵の企図に対して対抗する都市に対しては軍事目標と非軍事目標とを区別する攻撃では、軍事上の効果が少く、所期の目的を達することができないから、軍事上の必要上無差別砲撃が認められるのである」。(下線部は筆者)これは、空襲に関する国際法上の原則であり、学説も同様である。
「もちろん、軍事目標を爆撃するに際して、それに伴って非軍事目標が破壊されたり、非戦闘員が殺傷されることは当然予想されうることであり、それが軍事目標に対する爆撃に伴うやむをえない結果である場合は、違法ではない」。(下線部は筆者)
そのうえで、広島市及び長崎市への原爆投下について言及する。「広島、長崎に投下された小規模のものであっても、従来のTNT爆弾20,000トンに相当するエネルギーを放出する。このような破壊力をもつ原子爆弾が一度爆発すれば、軍事目標と非軍事目標との区別はおろか、中程度の規模の都市の一つが全滅するとほぼ同様の結果になることは明らかである。従って防守都市に対してはともかく、無防守都市に対する原子爆弾の投下行為は、盲目爆撃と同視すべきものであって、当時の国際法に違反する戦闘行為であるといわなければならない」。
では、広島、長崎は防守都市か無防守都市のいずれであったか。まず広島市及び長崎市が占領の企図に対して抵抗していた都市ではない。両市とも軍事施設は皆無ではないが、「敵の占領の危険が迫っていない都市」であるので、防守都市ではなかった。加えて、両市には軍隊や軍事施設等の軍事目標があったにせよ、広島市には33万人、長崎市には27万の市民である非戦闘員が居住していた。従って、「原子爆弾による爆撃が仮に軍事目標のみをその攻撃の目的にしていたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目爆撃と同様な結果を生ずるものである以上、広島、長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として、(原爆投下の)当時の国際法からみて、違法な戦闘行為であると解するのが相当である」。
これに対して、当時の戦争は総力戦であったので、戦闘員と非戦闘員の区別、防守都市と無防守都市の区別が困難であること、軍事目標主義が貫かれなかったことを根拠にする反対論がある。しかし、軍事目標の範囲が拡大していくことはあっても、軍事目標か否かの区別がつかないことはありえない。「例えば、学校、教会、寺院、民家は、いかに総力戦の下でも、軍事目標とはいえないであろう」。総戦力とは、「戦争の勝敗が単に軍隊や兵器だけによって決るのではなくて、交戦国におけるその他の要因、すなわちエネルギー源、原料、工業生産力、食糧、貿易等の主として経済的な要因や、人口、労働力等の人的要因が戦争方法と戦力を大きく規制する事実を指摘する趣旨であって、(中略)実際にそのような事態が生じた例もない」。「個々の軍事目標を確認して攻撃することが不可能であったため、軍事目標の集中している地域全体に爆撃が行われた」が、これはその軍事的利益又はその必要性により、かつ、非軍事目標の破壊の影響が少ないので、合法視する余地がないとはいえない。しかし、この点について学説の立場は、軍事的利益、効果が大きければ、非人道的な結果が必ずしも国際法上禁止されるとは限らないのである。「広島市、長崎市がこのような軍事目標の集中している地域といえないことは明らかである」。
加えて、慣習法化されている人道法の立場からいえば、原爆投下は、「戦争に際して不要な苦痛を与えるもの非人道的なものは、害敵手段として禁止される、という国際法上の原則にも違反する」ものである。「戦争に関する国際法は、人道的感情によってのみ成立しているのでなく、軍事的必要性有効性と人道的感情との双方を基礎とし、その二つの要素の調和の上に成立しているからである」(下線部は筆者)。
この法的根拠として1868年のセント・ペテルスブルグ宣言で提唱された重量400グラム以下の爆発性の投射物、燃焼物又は発火性の物質を充塡した投射物の使用を禁止したことを挙げる。「このような投射物は小さいため、将兵一人の殺傷程度の力しかないが、それならば普通の銃弾でこと足りるのであって、これ以上に何の利益もないのに非人道的な物を敢て使用する必要はなく、その反面、非人道的な結果が大きくても、軍事的効果が著しければ、それは必ずしも国際法上禁止されるものとはならない」(下線部は筆者)。
そのうえで、原子爆弾に対する直接の規制はないが、これを毒、毒ガス、細菌等と同一視できるかという点である。ここで判決は、セント・ペテルスブルグ宣言の「既ニ戦闘外ニ置カレタル人ノ苦痛ヲ無益ニ増大シ又ハソノ落命ヲ必然的ニスル兵器ノ使用ハコノ目的ノ範囲ヲ超ユルコトヲ惟ヒ、此ノ如キ兵器ノ使用ハ此の如クシテ人道ニ反スルコトヲ惟ヒ…」、およびハーグ陸戦規則第23条「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物又ハ其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」からみて、毒、毒ガス、細菌以外でも同等あるいはそれ以上に原子爆弾が必要な苦痛を与えることは明らかであり、国際法上その使用が禁止されていると考えられると判じる。事実、「多数の市民の生命が失われ、生き残った者でも、放射線の影響により18年後の現在においてすら、生命をおびやかされている者のあることは、まことに悲しむべき現実である」。
(『「戦争と平和」を知るための平和論序説 ―平成27年度京都外国語大学 国際言語平和研究所・教育メソッド・教育コンテンツ研究「世界の平和教育の実態と本学における教育メソッド研究」成果報告書』、2016年3月、より一部掲載)
[1] 多くの判例研究が出されているが、さしあたり、岩本誠吾「原爆投下の違法性」(小寺彰・森川幸一・西村 弓編『別冊Jusrist 国際法判例百選(第2版)』No.204 有斐閣)、232-233頁. 判決原文は、松井康浩「原爆投下は国際法に違反する」(『自由と正義』vol.15, no.2 日本弁護士連合会、1964年2月)、21-42頁.
[2] 広島市の場合、人口413,889人のうち、死者260,000人、行方不明6,738人、重傷51,012人、軽傷105,543人、つまり死傷者総計は423, 293人。長崎市の場合、人口280,542人のうち、死者73,884人、傷者76,796人、死傷者総計は423,293人。あとで述べる国の数値と大幅に異なる。
[3] 日本政府は次のような抗議文を送っている。
米国の新型爆弾による攻撃に対する抗議文
本月6日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり
広島市は何ら特殊の軍事的防衛乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非ず、本件爆撃に関する声明において米国大統領「トルーマン」はわれらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆弾は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以ってこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは物理的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国側においてもすでに承知しをるところなり、また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者の別なく、また男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨憺なるものと言ふべきなり
聊々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約付属書、陸戦の法規慣例に関する規則第22条、及び第23条(ホ)号に明定せらるるところなり、米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の輿論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり
米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り多数の老幼婦女子を殺傷し神社仏閣学校病院一般民衆などを倒壊または焼失せしめたり、而していまや新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性惨虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり
帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す
(出典:『朝日新聞』昭和20年8月11日)http://nvc.webcrow.jp/WA13.HTM(2016年3月16日アクセス)
[4] 下線部は米国史観の受け売りともとれる。柴田はこれを日米の「共犯関係」ととらえる。柴田優呼『ヒロシマ・ナガサキ―被爆神話を解体する:隠蔽されていた日米共犯関係の原点』作品社、2015年、9頁.
[5] 原子爆弾の影響力とは逆に生産コストが低いという事実がある。廣瀬和子「核兵器の使用規制―原爆判決からICJの勧告的意見までの言説分析を通してみられる現代国際法の整合性」(村瀬信也・真山全 編『武力紛争の国際法』東信堂、2004年)、456頁.