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「高桑氏族」 覚書(83)

2013-06-19 10:36:40 | 歴史

姓・氏(うじ)・名字・苗字(3)

「高桑姓」が、少数姓氏であり、地方によっては、珍しいと言われる(覚書81・82)。小生の場合、子供の時分から、本家を初め、多くの親族に囲まれ、勿論皆同姓であるから、珍しい姓と思う筈はなかった。

しかし「高桑姓」が、案外珍しい姓の一例だと気付いたのは、20歳代になっての軍隊時代であった。戦争中の「学徒出陣」と言っても、現在では知る人も少なくなったと思うが、それは昭和18年(1943年)の、戦時の有名な非常事態であった。今年・平成25年(2013年)は、正に70周年であり、この出陣組の一人であった小生にとって、感慨一入(ひとしお)である。

昭和16年の太平洋戦争開戦以来、昭和17年の日本陸海軍の猛進撃・全戦全勝、しかし昭和18年、ガナルカナル島(餓島)敗退・山本五十六連合艦隊司令長官戦死等、早くも連合国軍の猛反撃が始まった。「餓島」の日本軍主力は、小生の原隊であった仙台第2師団であり、悲劇的な戦いを強いられた。

この様に昭和18年には、重大な戦局悪化が懸念され、軍は100万名単位の悉皆(しっかい)召集に踏込み始めた。それには、厖大な数の召集兵を直接指揮する下級将校(小隊長・少尉級)の多数確保が必要である。そうでなくとも、最前線での下級将校の戦死が、下士官・兵と同様に激しく、その補充に苦慮していた。

そこで軍が、下級将校候補生として、狙いを定めたのが、理科系を除く文科系大学生であった。兵役猶予を突如廃止して、学業途中の大学生一斉召集を開始した。これが「学徒出陣」であった。

こうして昭和18年10月、神宮外苑大競技場で、出陣式が挙行され、観閲者・東条英機大将の前を大隊編成の各大学生隊、数万人が行進した(下載写真)。角帽・制服の学生、担(にな)う銃は、「三八式(さんぱちしき)歩兵銃」。

「三八式」は、日露戦争時の主力小銃・「三十年式」の改良型で、何んと明治三八年設計小銃で、これが日本軍の主力小銃であった。これに対して、米軍は自動小銃であり、勝負にならなかった。

明治時代、敵弾を受けて戦傷を負った小生の父も、この三八式を手にしていたのだから、如何に旧式であるかが分かる。しかし小銃としての性能は、優れていた。旧制中学・大学では、「(軍事)教練」は、必須科目で、各校に武器庫があり、この歩兵銃や軽機関銃等が、学生・生徒数に見合った多数、保管されていた。

出陣学徒は、各地の「予備士官学校」に入校し、短期間将校になる促成教育を受けた。昭和19年、卒業して原隊に復帰し、多くは歩兵連隊ならば、早速小隊長として、約50名の部下を率いて、激戦が待受ける各戦場へ赴いた。

こうして実に多くの学徒兵が、兵士達と共に、戦場で散った。同じ学徒兵であった小生にとって、誠に痛惜に耐えない。小生もロケット砲や機関砲の敵弾の下を潜って来たが、奇跡的に生延びた。

兵士達の常套句に“軍隊は運隊”というのがあった。兵士は自分の命を「上官と運」に委ねる他に、選択の余地は無かった。小生は軍隊での各場面で、屡(しばしば)の「好運」に、よくも恵まれたものだ、と今でも思う時がある。

小生も「予備士官学校」に入校した。或る時、直属上官の教官が、“お前の「高桑」という苗字は、随分珍しいが、何処の出身か。”と問うた。その時迄、露もそう思ったことが無かったので、この思い掛けない質問に、大変驚きながら、“両親は新潟出身であります。越後地方では、多くの高桑姓の家が見受けられます。”と、「直立不動」の姿勢で答えたのを、余程印象深い1件だったのであろう、70年を経た今も明瞭に記憶している。

写真は「東京帝国大学学生隊を先頭に、各大学生隊行進」
競技場観覧席で見送るのは、理科系大学生や女学校生徒達

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