平らな深み、緩やかな時間

284.『現象学』木田元著③、磯崎新さん死去について

はじめに、建築家の磯崎新さんが死去されました。

磯崎さんは建築家でしたが、文化全般に関わるような活動をされた方で、美術雑誌にもしばしば登場していました。マスメディアでもさまざまに取り上げられていますが、まずは毎日新聞の記事をお読みください。

 

<毎日新聞>

『磯崎新さんが死去 ポストモダン建築をリード、国際的に活躍』

 茨城・つくばセンタービルや米ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した建築家、磯崎新(いそざき・あらた)さんが28日、老衰のため死去した。91歳。葬儀は近親者で営む。喪主は長男宙(ひろし)さん。

https://mainichi.jp/articles/20221230/k00/00m/040/014000c

 

世界的に活躍された方だったので、ニューヨークタイムズでも記事になっていました。礒崎さんのポストモダン建築家としての活動を「東洋と西洋の伝統を吸収し、再解釈しました」というふうに紹介されています。

 

<The New York Times>

『Arata Isozaki, Prolific Japanese Architect, Dies at 91』

In major structures in a dozen countries, including the Museum of Contemporary Art in Los Angeles, Mr. Isozaki absorbed and reinterpreted Eastern and Western traditions.

By JOSEPH GIOVANNINI

Dec. 29, 202

『多作の日本人建築家、磯崎新氏が91歳で死去』

ロサンゼルスの現代美術館を含む十数カ国の主要な建造物で、磯崎氏は東洋と西洋の伝統を吸収し、再解釈しました。

ジョセフ・ジョバンニーニ

https://www.nytimes.com/section/arts?action=click&module=Well&pgtype=Homepage

 

日本の新聞も読んでみましょう。

東京新聞の記事の見出しは『磯崎新さん死去、91歳 ポストモダン建築を牽引、東京五輪の新国立競技場建て替えで計画撤回訴え』ということで、東京が地元ということもありますが、「東京五輪の新国立競技場建て替えで計画撤回訴え」という言葉が見出しの中に入っています。記事を読んでみると「東京五輪の新国立競技場建て替え問題でも、計画の撤回を訴えた。新競技場の当初案をデザインしたザハ・ハディドさんの型破りな芸術性を最初に見いだしたのは磯崎さんだっただけに、その指摘は重かった」と綴っています。そういえば、そんなこともありましたね。今では新競技場が負の遺産として私たちに重くのしかかっていますから、予想された事態とはいえ、慧眼であったと思います。

また、東京都庁の建て替えでは次のようなことがありました。

「発注者の都が求めたのは首都のランドマークとなる超高層ビル。新宿の摩天楼さえ見下ろし、後に『バブルの塔』と揶揄やゆされることになる都庁である。当選した丹下健三さんをはじめ、どの参加者も200メートルを超える案を提案した。磯崎さんはその中で一人、100メートル以下の案で挑んだのだ。」

ちなみに丹下健三(1913 - 2005)さんは、磯崎さんが師事したことのある建築家です。都庁の威容(異様?)な佇まいを見ると、良くも悪くもモンスターのような丹下健三の巨大さを感じます。確かに「ランドマーク」としての役割を果たしていますが、それがもっと明るい未来を照らし出すようなものであったらよかったのに、と思ってしまいます。

これらの磯崎さんの社会への批判的な活動のことを掲載しているのは、東京新聞だけでしょうか?ネットで調べると記事がたくさんありすぎて、全部目を通すことができませんが、どうやらそのようです。参考までに読売新聞のリンクも一緒に貼っておきます。

 

<東京新聞>

https://www.tokyo-np.co.jp/article/222900

 

<読売新聞>

https://www.yomiuri.co.jp/culture/20221230-OYT1T50081/

 

ちなみに、磯崎さん夫妻は芸術家夫婦として有名です。配偶者の宮脇 愛子(1929 - 2014)さんは著名な現代美術家でした。私は宮脇愛子さんの、おそらく最後となる新作展を見ています。そして、そのことをこのblogでも取り上げました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/4780566da493fb549bd8f42c4e07c02c

会場となったカスヤの森現代美術館に、宮脇さんの作品のページがあります。

https://www.museum-haus-kasuya.com/aiko-miyawaki-1959%ef%bd%9enew-works/

https://www.museum-haus-kasuya.com/collection-2/

 

ポストモダンというと、現代美術や現代絵画では、過去の意匠を感覚的に、あるいは無節操に取り入れればポストモダンと見なされる、という傾向があって、私自身はそれに対する危機感がありました。しかし磯崎さんのポストモダンへのアプローチは、知的で洗練されていていました。正直に言うと、私にはちょっと難しすぎましたね。ですから磯崎さんの著作よりも、都庁の建て替えや東京オリンピック競技場のことなど、言論人としての磯崎さんの活動に強い印象を持っています。

磯崎さんのような、ジャンルを超えた大きな知性が育ちにくい時代となってきましたので、また大きな存在を失ったな、という気がします。ご冥福をお祈りします。



さて、今回も前回に引き続き、哲学者の木田 元(きだ げん、1928 - 2014)さんが1970年に書かれた岩波新書『現象学』について書きます。できれば、前々回の「282.『現象学』木田元著①フッサールについて」、前回の「283.『現象学』木田元著②ハイデガーについて」も併せてお読みください。

 

 前々回は現象学の始祖であるフッサール(Edmund Gustav Albrecht Husserl、1859 - 1938)について、木田元さんの解説に導かれて勉強しました。前回は、そのフッサールの思想をハイデガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)がどのように引き継いでいったのか、を見てきました。この一連の考察の最終回(たぶん、④・・)で、このblogで勉強した國分功一郎さんのスピノザの研究「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」(國分功一郎さんの著作より)について比較検討することを目標としています。もちろん、現象学と美術との関わりについても考察していきます。

 

まずはここまでの復習です。

 

自然(科学)的な学問の積み上げの上で論理学、心理学を探究していた、数学者でもあったフッサールは、その「自然的な学問」に疑問を抱きます。そこでフッサールは、それまでの学問を保留して、世界を根源的に見直してみる、という「現象学」を提唱しました。これをフッサールは、「超越論的還元」というふうに言いました。しかし、世界を根源的に見直すと言っても、それをどのように実践するのか、という点でフッサールには新たな課題が生じてきました。フッサールの現象学は、その思想の深化の過程で揺れ動き、その後の展開はフッサールの後の世代であるハイデガーに引き継がれました。

ハイデガーはその主著『存在と時間』において、フッサールの現象学と自分自身の独自の「実存」に関する哲学を統合しました。その時期のハイデガーは、キルケゴール( Søren Aabye Kierkegaard、1813 - 1855)の影響を強く受けたものでしたが、それはフッサールの現象学と相いれないもので、その結果『存在と時間』は未完に終わったのではないか、と木田さんは推測しています。1930年代になるとナチスが台頭し、ユダヤ系のフッサールは研究者として疎外されたままに亡くなり、ハイデガーは一時的にナチスに加担する道を選び、二人の運命は裂かれたのでした。

そして第二次世界大戦が始まる直前に、サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre 、1905 - 1980)はベルリンで現象学を学ぶことになります。

 

ここまでが、前回までの復習です。

木田元さんは「Ⅴ サルトルと現象学」の章を次のように始めています。「現象学はフランスの思想的風土に移植されることによって、ドイツにあったときとはまるで違った色合いを帯び、本来のーと思うのだがー軽快さと開放性を恢復することになる」という感想混じりの導入文です。

そのフランスの現象学の中心人物がサルトルとモーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty、1908 - 1961)でした。この二人はフッサールとハイデガーとは違った意味で対照的な人物であったようで、例えばサルトルは研究者であると同時に作家でもあって、つねにジャーナリズムの世界に生きた人でした。一方のメルロ=ポンティはアカデミックな世界をのぼりつめ、コレージュ・ド・フランスでの講義録も残っています。

この二人の現象学の受容と展開について、木田元さんは次のように書いています。

 

一言で言えば、サルトルのばあい、初期の諸研究においてはフッサールの『イデーン』第一巻に、「現象学的存在論」という副題をもつ『存在と無』においては、主としてハイデガーに依拠しているのに対し、メルロ=ポンティは早くからフッサールの後期思想に親しんで、それを積極的に展開してゆくのである。

正直に言ってわたしは、サルトルの初期の現象学的研究と主著『存在と無』とのあいだに、それほど必然的な展開は認められないと思っている。たしかにすぐれたものであるにしても、現象学の展開という筋道からみればそれぞれがフッサールとハイデガーの解説ということになるのではないであろうか。

(中略)

それに対して、メルロ=ポンティによる現象学の展開は、わたしにはもっとも正統的でもあれば生産的でもあるように思えるので、かれについては別に章を立てて立ち入った検討を試みようと思っている。

(『現象学』「Ⅴ サルトルと現象学」木田元)

 

木田さんは、サルトルは現象学を展開した人としてではなく、自分なりに受容して活用した人としてみなしているようです。木田さんは、サルトルの伴侶でもあった思想家、ボーヴォワール (Simone de Beauvoir、1908 - 1986)の次のような文章を引いて、そのことについて説明しています。

 

「かれ(サルトル)はフッサールの体系とその志向性の輪郭を説明してくれた。この志向性の概念は、まさにサルトルの望みどおりのものをもたらした。当時かれを悩ましていた矛盾については前にもふれたが、これらの矛盾を超克する可能性が与えられたのである。かれはつねに<内的生活>というものが大嫌いだった。意識は対象物に向かって絶えずおのれを超越してゆくことによって存在するー事物も、真理も、感情も、意味も、そして自我そのものも。」

(『現象学』「Ⅴ サルトルと現象学」木田元)

 

サルトルは徹底して外向きの人で、人間の内面や記憶に拘泥されない、完全に自由な存在として人間=「実存」について書きたかったようです。このサルトルの思想の整理として私の少し前のblogを参照してください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/b4ae01e60902975b1f61b2ea0967ddd6

サルトルは、まさに人間の内面と記憶をテーマとして小説を書いたマルセル・プルースト( Valentin Louis Georges Eugène Marcel Proust, 1871 - 1922)を槍玉にあげて「今やわれわれは、プルーストから解放された」とも言ったと、木田さんは書いています。

当時のフランスの知識人は、人間の内面や記憶といった問題に拘泥され、加えて大きな戦争の谷間の時期にあって、精神的な「逼塞(ひっそく)の時代」に入ろうとしていた、と木田さんは分析します。その時にサルトルは「純粋意識への還元を説いた現象学」と出会い、人間の意識を外へと向かう哲学として現象学を解釈し、ひたすらその方向で次々と論文を書いたようです。

 

そのサルトルの論文の中には、人間の「想像力」に関する問題が含まれていました。前々回のフッサールの説明のところでも少し触れたことですが、当時は心理学が経験的な事実を積み上げることで学問としての地位を確立したところでしたが、フッサールはその心理学に不満がありました。心理学が前提としている「人間」という概念が曖昧であることや、その頃の心理学の方法では「想像」という人間の営みがうまく処理できる見通しが立たなかったことなどから、フッサールは現象学的還元という方法を考え、人間の意識をあらゆる先入観を排して解き明かすところから探究を始めなければならない、と考えたのです。

これを引き継いだサルトルは、心理学に先立って現象学が人間の意識を解読しなければならない、と考えていたようです。

そのサルトルの考える現象学について、木田元さんは次のようにまとめています。

 

だが、わたしには、かれの主著『存在と無』においても現象学がこの方向で展開されているとはどうしても思えない。たしかに、『存在と無』には「現象学的存在論の試み」という副題が付されており、「存在の探究」と題された諸論においても現象学や意識が問題にされてはいる。しかし、それはたとえば意識についての現象学的分析というよりは、一つの思弁というべきものであろう。かれは、意識からいっさいの受動性を追放し、反省以前的なコギトーつまり主観性に一種の絶対的な透明性を与えている。再び現象学は、一挙に絶対的認識の権利を恢復するわけである。だが、この種の思弁は、いまここで問題にすべき性質のものではなさそうである。

(『現象学』「Ⅴ サルトルと現象学」木田元)

 

おそらく、サルトルという思想家を特徴づけるのは「主観性に一種の絶対的な透明性を与えている」というところでしょう。以前のblogでサルトルを取り上げた時には、サルトルは人間が「自由」という「刑罰」に処せられている存在である、と言っていました。それはサルトルの考える「主観性」が純粋なものであるが故に、人間は絶対的に「自由」な存在である、ということだと思います。

しかしそのような「自由」とは、他に拠り所がまったくない、ということを意味しているので、それはまるで「刑罰」に処せられているようだ、というわけです。人間が本当に純粋な「自由」の中で生きているとしたら、それは人生のあらゆる場面できつい勝負を仕掛けているのと、同じことでしょう。それはとても辛いことです。そして彼は「負けるが勝ち」ということまで言ったようなのです。

私は人生のところどころで、人間はサルトルが示唆したような「自由」を迫られることがあり、そのことに覚悟を持つべきだと思います。時には「負けるが勝ち」というところまで自分を追い込んで、悔いのない選択をすべきだとそのblogでも書きました。このような考察を促すところが、サルトルという思想家の魅力だと思います。

しかし木田さんは、現象学の流れの中でサルトルは改竄とは言わないまでも、フッサールを自分に引き寄せて解釈しすぎている、と感じているようです。現象学においては、超越論的還元が、どうやら初期のフッサールが考えるほど純粋な形ではいきそうもない、ということがわかってきたのだと木田さんは書いています。超越論的意識を底の底まで突き詰めると、それは「自己」と「他者」が未分化な状態があって、それを「我思う故に我あり」というコギト的な純粋な「自己」だと解釈してはいけない、と晩年のフッサールは気づいていたようです。

それでは、そのフッサールの思想を引き継ぐのは誰でしょうか?

 「サルトルのばあい、初期の諸研究においてはフッサールの『イデーン』第一巻に、「現象学的存在論」という副題をもつ『存在と無』においては、主としてハイデガーに依拠しているのに対し、メルロ=ポンティは早くからフッサールの後期思想に親しんで、それを積極的に展開してゆくのである」と木田さんが書いていたことを思い出しましょう。

 

次回は、いよいよ木田さんの『現象学』の最後に出てくる思想家、メルロ=ポンティを追いかけてみます。木田さんは「メルロ=ポンティによる現象学の展開は、わたしにはもっとも正統的でもあれば生産的でもあるように思える」と書いていました。それはどういうことでしょうか?

そして、現象学がなぜ今も芸術について考える時に、心のどこかに引っかかってくるのか、ということも考えたいと思います。

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