平らな深み、緩やかな時間

388.白石かずこ逝去、『こわがってるのはだれ?』ピアス著から

今回は、二人の女性文学者についての話です。

まずは一人目です。

詩人の白石 かずこ(しらいし かずこ、1931 - 2024)さんが亡くなりました。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20240619-OYT1T50063/

インターネットで検索すると、白石さんの詩の朗読の動画が複数見つかります。詩人のイメージを大きく変えた人だけあって、ジャズがバックで流れる中で朗読する声がかっこいいです。アメリカのビート・ジェネレーションの影響を受けた、ということですが、言葉の一つ一つはわかりやすく、直接胸に響いてきます。現代詩にありがちな、難解な印象はなく、それよりも言葉によるイメージの飛躍に驚いてしまいます。
https://youtu.be/bVnmds9zgGQ?si=IChutzpu_wSP66G-

それから、生前の白石さんを記録した動画もありました。
https://youtu.be/snl2cXgZPSo?si=X5yqMGwHnPmCcj7s


朝日新聞では、詩人の小池昌代さんが素晴らしい追悼文を寄せています。
その書き出しは次のとおりです。

白石かずこさんが亡くなられた。現代の詩の大河が、干上がったような寂しさだ。だが残された作品群がある。それを思えば哀しくはない。分厚い三巻本(『白石かずこ詩集成Ⅰ〜Ⅲ』)を繰ると、ああ、詩は、なんて自由なんだと、心が砂のようなもので洗われる。
(『両性具有の風 言葉は永遠に』小池昌代 2024年6月25日 朝日新聞)

小池さんは、白石さんの詩集に想いを馳せ、次に白石さんの詩の朗読について書いています。

白石かずこはまた、詩を声に乗せ、世界じゅうで朗読をした。あの声とその人を思うとき、哀しくはないと書いたそばから哀しみがわいてくる。わたしが最後、その声を聞いたのは2000年に入ってからのこと。そのとき白石さんは、詩集『現れるものたちをして』に収録された「バス停」を読んだ。若い頃の銀のヒールではなく、白い頑丈そうなウォーキングシューズを履いて。舞台に立つと、古代エジプトの豊穣の女神、イシスみたいに威厳があった。いや、額田王かな。どちらの方にも会ったことはないけれど。
(『両性具有の風 言葉は永遠に』小池昌代 2024年6月25日 朝日新聞)

白石さんが、詩の朗読を盛んに行ったこと、その様子が威厳に満ちていたことを、小池さんはユーモアを交えてサラッと書いています。古代エジプトの女神か、額田王か、あるいは私には邪馬台国の卑弥呼にも例えられるような気がします。
白石さんは、文字としての詩だけでなく、音声による詩、あるいはパフォーマンスとしての詩に、現代詩の可能性を感じていたのでしょう。小池さんの記事や冒頭の白石さんの朗読の動画を見ると、それがわかります。
おそらくはそのことが、白石さんのモダニズムの詩からの脱却につながっているのだと思います。小池さんは、この短い記事の最後の方に、次のように書いています。

モダニズムの影響下にあったデビュー詩集『卵のふる街』(1951年)以後、第三詩集のあたりから、一人称の「おれ」が本格的に登場、いよいよかずこ詩に、両性具有の、広大無辺な風が吹き渡るようになる。同時にその頃、マスメディアによってスキャンダラスなレッテルを貼られ、受難と闘いの時代を通過したこと、今を生きるわたしたちは忘れない。「男根」という詩を収める『今晩は荒模様』は、今読んでも、切り立つ素晴らしい詩集である。
(『両性具有の風 言葉は永遠に』小池昌代 2024年6月25日 朝日新聞)

ちなみに、「男根(Penis)」は「スミコの誕生日のために」という副題が付された詩ですが、その書き出しは次のとおりです。男根は卑猥なものというよりは、ギリシャ神話や古事記の中に出てくる神々の性的な話のように、大らかでプリミティブな生命の象徴のような感じがします。


神は なくてもある
また 彼はユーモラスである ので
ある種の人間に似ている

このたびは
巨大な 男根を連れて わたしの夢の地平線の上を
ピクニックにやってきたのだ
ときに
スミコの誕生日に何もやらなかったことは
悔やまれる
せめて 神の連れてきた 男根の種子を
電話線のむこうにいる スミコの
細く ちいさな かわいい声に
おくりこみたい
(『白石かずこ詩集』「男根」白石かずこ)

今でこそ、性の多様性について理解が進みつつある(?)ように見えますが、『今晩は荒模様』が発行されたのは1965年です。1960年代の終わり頃ならまだしも、65年ではまだ半ばですから、状況はかなり厳しかったでしょう。今でも保守系の年寄り議員たちの無理解には厳しいものがありますが、それでも、やっと時代が白石さんに追いついてきた、というところでしょうか。
それと小池さんも少し触れているように、白石さんの詩がモダニズムからどのように脱却したのか、とても気になります。難解な言葉のテクニックによるモダニズムの詩に飽き足らず、白石さんは「性」の自由な表現を梃子にして、真の自由なイメージを手にしたのではないか、と考えられます。これはとても興味深い問題なので、次回、もう少し掘り下げてみましょう。

さて、小池さんは、そんな白石さんの表現を「太い生命力」という言葉で言い表しながら、この追悼記事を次のように結んでいます。

野放図に見えながら、作品内に太い生命力が流れていて、何をどんなふうに書いても、全体が不思議な、哲学的調和に統合される。若い人々に、かずこ詩を読ませると、「かっけー」と言う。その詩はいま、“永遠”につながった。
(『両性具有の風 言葉は永遠に』小池昌代 2024年6月25日 朝日新聞)

なるほど、先ほども書いたように、時代がやっと白石さんに追いついてきた、ということだと思います。
ところで、今、白石さんの詩集を入手しようとすると、ちょっと苦労するかもしれません。若い方は図書館で借りるのが良いと思います。
いつも思うことですが、「詩集」というのは気軽に携えることができて、ふと思ったときにページを開いて、繰り返し読むことができるのが理想です。私のように言葉の感性が鈍い人間は、かしこまって詩集を開くと全然頭に入らなくて、何か思い当たったときにある特定の詩がスーッと心のひだに浸透してくる、ということが多いのです。そういう読み方しかできない人間にとっては、「詩集」の電子書籍化は必須のことのように思います。とりあえず、思潮社の「現代詩文庫」はすべて電子書籍にしてほしいです。よろしくお願いします。


それでは、二人目の女性文学者です。

前々回のblogで、イギリスの作家フィリパ・ピアス(Ann Philippa Pearce、1920 - 2006)さんの代表作『トムは真夜中の庭で』(1967)を取り上げました。そのピアスさんが書いた短編集に『こわがっているのはだれ?』(1986)があります。
これが、とても面白い本でした。
いつものように、書店の紹介文を書き写しておきます。

大おばあさんの100歳の誕生日に招かれた,仲の悪いいとこ同士の少年ふたりが古い屋敷の中でかくれんぼをして体験した恐怖の瞬間……スーパーナチュラルな手法で描かれた,世にもふしぎな11の物語.
https://www.iwanami.co.jp/book/b255203.html

この紹介文の内容は、「こわがっているのはだれ?」という書籍全体のタイトルになった短編の内容です。
この本は「児童書 小6から中学生向き」ということですが、物語はどれも濃厚な味わいで、大人が読んでも面白くて、そしてちょっと怖いです。
私は「クリスマス・プディング」、「弟思いのやさしい姉」といった短編の毒の強さに魅了されました。それに「黒い目」に登場する意地悪な少女の内面がショッキングであり、また、どこかやるせないものを感じました。
それらは、「児童文学」という装いとは裏腹に、磨かれる前の宝石の原石を見るような、そんな荒々しい率直さを感じます。
今の日本でこんな話を出版しようとしたら、もっと救いのある結末にすべきだ、とか、道徳的になにを言いたいのかわからない、などと、うるさいことを言われそうです。もう少し読後感が爽やかでないと売れないよ、という営業面での助言もありそうです。
しかし、ピアスさんはそんなことはお構いなしに、とにかく人間の心の底をえぐっていきます。中には、本当になにを言いたいのかわからない話もあります。翻訳者の高杉さんも、「訳者あとがき」に同様のことを書いていました。
その中で、私が個人的に興味深かったのは、「あれがつたってゆく道」という短編です。
小説の出来が良い、とか、物語が好き、というのではなく、短編のモチーフとなっている、そしてタイトルにもなっている「あれ」が何なのか、とても気になるのです。
話は大体、こんな感じです。

少年であった頃のぼくは、田舎の大おじと大おばの家に泊まりに行っていました。子供のなかった二人は、ぼくのことを可愛がってくれたのです。
パーシーおじさん(大おじ)は、ある邸宅の庭で働いていました。ぼくも一緒について行ったのですが、パーシーおじさんは雑草を抜いても雇い主の注文通りに燃やさずに、なぜかそれらを愛しんでいるようでした。補聴器をつけたパーシーおじさんは、雑草から何かを聞き取ったり、感じ取ったりしているのです。しかし、ぼくにはなにも聞こえないし、なにも感じません。(この部分は後で抜書きします。パーシーおじさんの感受している不思議な感覚が、「あれ」の正体です。)
ある日、パーシーおじさんは邸宅の主と仲違いし、せっかく雑草をためこんだ庭に出入りできなくなってしまいました。おじさんは、ある明け方にその庭に忍び込み、捕まってしまいます。おじさんは、自分の家の狭い庭に穴を掘って、その邸宅で溜め込んだ雑草を移植して育てようとしたのです。
おじさんは年のせいでボケているのだと思われ、罪に問われることは免れました。しかし、おじさんはどうしても庭の雑草を手に入れたいと思い、ぼくを夜中にその邸宅に忍び込ませたのです。ぼくはイヤイヤながらも、おじさんのいう通りに雑草をカバンに入れて持ち帰りました。
その、庭に忍び込んだ時の描写が、次の文章です。

庭園のなかは、じっとして動かないように思われるので、ここまでくる通りや細い道よりもずっとこわかった。自分の背たけぐらいあるごみの山にゆきつくと、ぼくはかばんを肩からおろした。
ここからあとのことは、ぼくはおじさんに教えられたとおりにきちんとやらなければならなかった。まず、ごみの山の、おじさんが最後に手押車の雑草を一度にあけた側に立ったら、手をなかへつっこみ、ゆっくりと二十まで数をかぞえる。そのあいだになにもかわった感じがなかったら、こんどはほかの場所に手をつっこんで、もう一度やってみる。(おじさん、かわった感じって、どういうこと?」「やってみれば、すぐわかるよ。」)
最初に手をつっこんだ場所では、なにも感じられなかった。ぼくは手をほかへ移して、もう一度やってみた。土のついた雑草の山につっこんでいる手がひどくつめたくなってふるえているのに気がついた。こんども、なんにも感じられなかった。「三度やってみてから、やめよう。」と、ぼくは思った。
(『こわがっているのはだれ?』「あれがつたってゆく道」フィリパ・ピアス著 高杉一郎訳)

私たちは、おじさんに言われるままに夜中の庭に忍び込んだ少年の気持ちになって、ハラハラドキドキしてしまいます。しかし、その物語の成り行きとは別に、一体おじさんが雑草から感じ取っていたもの、つまり「あれ」とは一体何なのか、それを少年も感じ取ることができるのか、という興味も湧いてきます。
そして、少年はとうとうおじさんの感受していた「あれ」に到達します。
その描写が次の文章です。

ぼくはごみの山のなかへもう一度つっこんだ。そして、数をかぞえはじめた。二十までかぞえないうちに、ぼくは何かを感じはじめた。
手でさわってわかったのか、それとも耳で聞いたのかわからないが、草ニワトコの根にからみつき、巻きつき、這いあがっていくものが、たしかにひき抜かれた根のあいだにある。それがどんなものかということは言えないが、たしかにあるという感覚がそこへ手をつっこんでいるぼくのからだのなかへ流れこんできた。ぼくが感じとったものは苦痛だったろうか。それともよろこびだったろうか?なんであったにしろ、ぼくはもうおそれることも、心配することもなく、つぎになにをしようかということさえも忘れて、うっとりとして彫像のようにそこに立っていた。
(『こわがっているのはだれ?』「あれがつたってゆく道」フィリパ・ピアス著 高杉一郎訳)

ここまで読むと、「あれ」の感覚のもとになっている「草ニワトコ」とは、どんな草なのか、気になります。訳者も気になったようで、「訳者あとがき」に次のように解説を書いています。これはイギリスの植物の解説書を翻訳したもののようです。

ー庭園にはびこるこの雑草はブリテン島固有のものではない。おそらく、この雑草を食べようとした誰かがヨーロッパ大陸から持ちこんだものであろう。ホウレンソウとおなじように、昔はこの若葉を煮て、バターをつけて食べるとおいしいと考えられていた。ひとびとがほかの野菜を食べるようになってからは、草ニワトコは菜園から追放されたが、草ニワトコは頑としてこれを拒絶し、以後はずっとブリテン島にはびこっている。16世紀のころには草ニワトコはすでに厄介者あつかいをされるようになっていた。植物学者のジョン・ジェラードはこう書いている。「この雑草は種を蒔かないでも勝手に生えてくるし、ものすごい繁殖力をもっていて、一度根づいたら最後どんどんひろがって、いい草をだめにするし、これを除去することはまず不可能だ。」
(『こわがっているのはだれ?』「訳者あとがき」高杉一郎)

この解説を書きつつ、訳者の高杉さんは「おじさんの言う『あれ』が旺盛な生命力の鼓動なのか、ただのぬくもりなのか、依然としてわたしにはわからない」と書いています。
そこで、さらに追求していきましょう。
「あれ」が何なのか、実は少年がパーシーおじさんにズバリと聞いた場面があります。そのときのパーシーおじさんの答えは、次のとおりです。

「ここに犬ニワトコの根があるな。もうひとつ別のものもあるんだ。もうひとつの根の表だが、根じゃない。ちょうど、ツタが木にからみついて伸びていくように、その別のものが犬ニワトコの根のまわりに巻きつき、からみついていくんだ。犬ニワトコを利用するわけだ。つまり犬ニワトコはあれが伸びてゆく道になるんだ。あれは地上には絶対に顔を出さない。あれがどこからきて、どこへゆくのか、なぜなのか、わしは知らない。しかし、あれはうたうんだ。いや、うたうんじゃない。口もきかない。ちがうな、なんてったらいいか・・・わしはときどきあれを感じるんだよ・・・」おじさんは自分の指を草ニワトコの根のあいだで静かに動かした。「ときどき、わしはあの耳にはめこむなんという器械から聞こえてくるような気もするんだよ・・・」
そう言うと、おじさんは補聴器を耳のなかに押しこんで、あたらしくひき抜いてきたばかりの雑草に頭を近づけた。
(『こわがっているのはだれ?』「あれがつたってゆく道」フィリパ・ピアス著 高杉一郎訳)

補聴器をつければ、ぼくでも聞こえる?と聞く少年に、おじさんは「いいや」と答えます。
この、視覚、触覚、聴覚にまたがるような感受性は、一体なんなのでしょうか?それにおそらく、その庭にいれば草の匂い、つまり嗅覚も働いていたはずです。そして昔、その雑草は食用とされていたということですから、味覚の作用もあったのかもしれません。
そこで、私は思い当たりました。
ああ、これは私たちが探究してきた「共通感覚」ではないか!
「共通感覚」とは、哲学者の中村雄二郎(1925 - 2017)さんが『共通感覚論』(1979)という著書で取り上げた感覚です。
私は以前に、この『共通感覚論』について取り上げました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/1d64f4dd81e67ce0bd85f13e033e0eee

そして、共通感覚の中でも、「触覚」が私にとって特別な興味の対象であることは言うまでもありません。
そういう文脈で、この物語を捉えてみましょう。
ピアスさんは、おそらく大地との触れ合いから、雑草をつたって何かが私たちの「共通感覚」に伝わってくるのを感じたのでしょう。彼女は、その経験を児童文学の形で私たちに提示したのです。
しかし先にも書いたように、この短編集は原石の集まりのようなものですから、ここで私が引用した以上の手がかりは書かれていません。不思議な感覚は不思議な感覚のまま、そして謎は謎のままに表現されているのです。訳者の高杉さんでさえも、「『あれ』が旺盛な生命力の鼓動なのか、ただのぬくもりなのか、依然としてわたしにはわからない」と書いているのです。
このように、わからない点は多いものの、「共通感覚」について正面から書かれた物語はめずらしいものです。児童文学ならではの「スーパーナチュラルな手法」が、その表現を可能にしたのかもしれません。考えてみると、雑草がもたらす不思議な感覚が文学作品になるなんて、誰も思いませんよね・・・。
そこがピアスさんのすごいところだと思います。


さて、この物語のように、ちょっと不思議な共通感覚に私たちを出会わせるような、そんな表現を私も目指しています。ピアスさんの本を読めば、いつでも私たちが「あれ」と出会えるように、私の絵を見たら誰もが視覚と触覚があいまった共通感覚を享受できるような作品を、私も描きたいのです。
まだ道半ばですが、このような芸術に出会うと、その可能性をあらためて感じます。分断された私たちの感性を相互に補い、本来の人間性を取り戻すことが、現在、何よりも求められていると私は考えます。
そう考えると、白石さんの詩の朗読も、同じような思いから発しているのかもしれない、とふと気がつきました。次回、そのことについて考えてみましょう。

コメント一覧

penneponte
加藤郁乎氏と交友のあった詩人ですよね
哀しい驚きです
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