平らな深み、緩やかな時間

99.絵画の触覚性と中村雄二郎『共通感覚論』

  前回のblogで「私は自分の絵画を『触覚性絵画』というふうに規定して、しばらく創作してみようかな」と書きました。そんなことを考えているうちに、学生のころに読んだ中村雄二郎の『共通感覚論』のことを思い出しました。それでまた、「92. 2019年、夏。若い美術家の方へ。」の続きになりますが、この『共通感覚論』について書いてみることにしました。ただ、今回はその前に、その動機となった「触覚性絵画」について少しだけ書いておきます。いずれまとまった文章にしたいと考えていますが、その祖書きのようなものです。

 さて、その「触覚性絵画」という思い付きになのですが、そもそもの話、私には学生の頃から絵画の「触覚性」について考えてみたい、創作してみたい、という思いがありました。このあとに触れるように、学生のころに読んだ中村雄二郎も視覚と触覚の結びつきについて書いていました。そればかりではありませんが、そのことも手掛かりにして、本来、視覚的な表現である絵画の中に「触覚性」を見出すことで、新たな表現が開かれるのではないか、と考えたのです。それで就職したばかりのときに「絵画に触る」ということをテーマにして個展を開き、それに文章を添える、ということもやってみたのでが、いかんせん、難しいテーマの割には考えが浅はかだったので、文章はわかりにくいし、作品に至っては「何をやりたいの?」と見た人から聞かれる始末でした。そのころのことを、「90.『1987 – 2019 描くことのreality』」のなかで、「今回展示した1987年のパステルの作品は、そんな状況の中で色相の移り変わりだけを唯一の構成要素として描いた作品でした。パステルという素材を用いたのは、絵具の混色によるグラデーションではなくて、画面に直接触れる実感=『reality』が欲しかったからだと思います。」というふうに書きました。その後の私の試行錯誤については同blogの続きを読んでいただければ幸いです。ですから、「触覚性絵画」というテーマは長年、私が考えてきた課題だというふうにも言えるのです。
それに加えて近年、私のその課題意識を触発するようないくつかの出来事がありました。
例えば、若いころに私が興味を持っていた作家で、最近ではなかなかまとまった作品を見る機会がなかった山田正亮や辰野登恵子の回顧的な展覧会が開催されました。それを見て、彼らの作品から私なりに何を継承すべきなのか、ということを再考しました。それは絵画の奥行と平面性との葛藤をつねに意識すること、そしてそのなかで絵画の平面性に触れる「触覚性」を実現すること、というふうにいまの私は考えています。
それから岡崎乾二郎の『抽象の力 近代芸術の解析』という著作を読んだことがあげられます。「91.『抽象の力 近代芸術の解析』岡崎乾二郎 著」でも書いたのですが、この著作には共感できる部分と、これはちょっと、と思う部分があります。とは言うものの、抽象絵画の「具体性、直接性」に岡崎が目を向けたことはやはり卓見だと思います。岡崎の言う「具体性、直接性」は絵画の物質性にも近いものだと思いますが、私はそれをさらに解釈して、絵画の「触覚性」というふうに考えたいのです。岡崎が言うように、アメリカ抽象表現主義以降、「抽象を単なる視覚的追究とみなす誤読」が確かにあったのだろうと思います。私は絵画の素材の物質性や絵の具の筆致、マチエールなども含めて「触覚性」の問題として捉え直してみたい、と考えています。
そんな思いを抱えていたころに、ある若い彫刻家の作品を見る機会がありました。その彫刻家は平良光子という美大に通う学生ですが、私は偶然に彼女と仕事上のことで知己を得て、彼女が出品していた展覧会を見に行ったのです。そのときの作品を、二科展の入賞作家のサイトで見ることができます。
https://www.nika.or.jp/prize/prize_choukoku/prize_104cho.html
また学生なので、こんなところで名前を出さない方がいいのかな、とも思いましたが、すでに特選の作家として公開されていますから差し支えないでしょう。その作品は動物の頭部を木彫で表現したものですが、その素材である木の手触り(触覚性)とモチーフである動物の的確な形の表現が、作品に確かな存在感を与えています。この作品だけで作家としての力量を推し量るわけにはいきませんが、モチーフを懸命に追いかけるなかで、素材の触感まで自然に表現できる感性がうらやましい、と素直に思いました。
考えてみると、私は木彫の作品をあまり見る機会がなかったのですが、彼女の作品から二つのタイプの作家を思い起こしました。一人はイタリアのアルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)の彫刻家、ジュゼッペ・ペノーネ(Giuseppe Penone, 1947 - )です。木材を加工することによって木の原形に近づいていくというこの作家の手法は、素材を加工することの一般的なイメージを裏切ることにおいて意義があったと思います。そしてもう一人は江戸時代の仏師、円空(1632 - 1695)です。円空は、日本全国を放浪しながら仏像を彫った人ですが、彫れば彫るほどその手数が少なくなっていって、木の原形を生かすような表現になっていきました。円空仏を見ると、円空がどのようにして木と触れ合ったのかがわかる気がして、不思議な気分になります。彼女の作品が彼らと似ているというわけではありませんが、願わくは素材やモチーフの「触覚性」を失わないで作品を作り続ける作家になってもらいたいものです。そして私も絵画において、こんなふうに自然に「触覚性」にたどり着けたら素晴らしいなあ、と思いました。
そして最後に、前回も書いた通り『ゴッホ展』、『コートルード美術館展』のふたつの展覧会を見たことです。とくにゴッホのマチエールに対する感性は、本当に素晴らしいと思います。絵具のマチエールが、これほどにも作家の「触覚性」を表現できるものなのか、と改めて認識しました。

このようにさまざまな思いが交錯する中で、学生時代に読んだ中村雄二郎(1925 - 2017)の『共通感覚論』を読み返してみよう、と考えました。
私の学生の頃には、これまで私がblogで取り上げた思想家以外にも、哲学者の中村雄二郎、市川 浩(1931 - 2002)、文化人類学者の山口昌男(1931 - 2013)などがすでに評価を得た学者として、興味深い著作を多数、出版していました。中村雄二郎は自著のほかに、例えば建築家の磯崎新(1931 - )、作家の大江健三郎( 1935 - )、詩人の大岡信(1931 - 2017)、作曲家の武満徹(1930 - 1996)、山口昌男らと共に学術誌『へるめす』を編集同人として出版していました。もしも、ここで名前をあげた人たちをご存知ない方がいましたら、お時間のあるときに調べてみてください。それぞれに掘り下げ甲斐のある人たちです。それに例えば磯崎新の奥様は彫刻家の宮脇愛子(1929 - 2014)ですが、私はたまたま彼女の最晩年の展覧会を見て、そのときのことを「41.『宮脇愛子 1959 ~ new works』カスヤの森現代美術館」としてblogに書きました。すばらしい展覧会だったなぁ・・・、などというふうに、彼らからつながる人脈を辿ると、その当時から現代にいたる日本の現代思想、現代美術、現代音楽、現代文学の鉱石がごろごろと出てくることでしょう。まさか武満徹の音楽を聴いたことがない人はいないでしょうが、山口の著作の『文化と両義性』とか、市川の著作の『<身>の構造』あたりは、当時、かなりの話題になりました。しかし、現在ではほとんど、その話題を聞きません。学者も亡くなってしまうと、忘れられてしまうものなのでしょうか。そして中村雄二郎の『共通感覚論』も、当時、かなりの話題になった本です。
それでは『共通感覚論』のなかで語られる「共通感覚」とは、どのような感覚なのでしょうか?この著書から、それを説明する文章を抜き書きしてみましょう。

 われわれ人間は、同じ種類の感覚、たとえば視覚相互や味覚相互の間だけではなく、異なった種類の感覚、たとえば視覚と味覚の間でも、互いにそれらを比較したり識別したりすることができる。いずれも色としての視覚上の対象となる白と黒や赤と緑といったものの間だけではなく、視覚上の白さと味覚上の甘さとを感じ分けることができる。なにによってこのような識別はなされるのだろうか。感じ分けることは判断以前のことだから、識別は一種の感覚能力によると考えられるべきだろう。けれどもそれは、感覚能力として個別的なもの、視覚や味覚と同じレヴェルのものではなくて、異なった種類の諸感覚に相渉る同一の能力でなければならない。感覚のすべての領野を統一的に捉える根源的な感覚能力、つまり〈共通感覚〉でなければならない、と。
 この共通感覚のあらわれをいちばんわかりやすいかたちで示しているのは、たとえばその白いとか甘いとかいう形容詞が、視覚上の色や味覚上の味の範囲をはるかにこえていわれていることである。すなわち、甘いについていえば、においに関して〈ばらの甘い香〉だとか、刃物の刃先の鈍いのを〈刃先が甘い〉とか、マンドリンの音に関して〈甘い音色〉だとか、さらに世の中のきびしさを知らない考えのことを〈甘い考え〉だとか、など。またアリストテレスでは、共通感覚は、異なった個別感覚の間の識別や比較のほかに、感覚作用そのものを感じうるだけでなく、いかなる個別感覚によっても捉ええない運動、静止、形、大きさ、数、一(統一)などを知覚することができるとされている。その上、想像力とは共通感覚のパトス(受動)を再現する働きであるともされている。さらにすすんで、共通感覚は感性と理性とを結びつけるものとして捉えられている。
(『共通感覚論』「Ⅰ 共通感覚の再発見」中村雄二郎著)

 私たちは何かを感じ取るときに、どの感覚を使ったのか、などと普通は考えません。しかし、何かを見れば視覚を使ったと思い、何かを食べれば味覚を使ったと考えて疑いません。それは、実際にものを感じ取るときには漠然と感受しながらも、ひとたびそのことについて考えるときには、感覚の識別が自動化されているほどに強い概念となっているからでしょう。しかし、中村によれば、古代ギリシャの哲学者、アリストテレス(Aristotelēs、前384 - 前322)は「共通感覚」について語り、それを「個別感覚によっても捉ええない運動、静止、形、大きさ、数、一(統一)などを知覚することができる」ものとしていたのです。ですから、感覚の識別を強化したのは、そのあとの時代のことなのです。実は、感覚を識別化する中でも、そのどの感覚を優位に置くのか、は時代によって異なるのだそうです。例えば、宗教的な教えを言葉として示していた中世では、聴覚こそが感覚の中でも、もっとも優位なものとして考えられていたのだそうです。それが「近代文明にあっては、ものや自然との間に距離がとられ、視覚が優位に立ってそれらを対象化する方向を歩んだのである」と中村は書いています。つまり近代になって人間は自分の周囲のものを対象化し、自分と対象物との間に距離を取り、それを目に見える数値に置き換えたことで科学的にそれらを利用し、現在の文明を築いたのだと言えるでしょう。しかし、中村が活躍した1960~70年代において、すでに近代文明のほころびが問題となっていたのです。その回復のためには、感覚に関する私たちの既成概念から見直さなければならない、というのがこの『共通感覚論』の趣旨になります。中村は、それを具体的に、視覚の独走をあらため、触覚の回復を目指すことなのだと書いています。

 近代文明の視覚の独走、あるいは視覚の専制支配に対して、ずいぶんまえから多くの人々によって、いろいろなかたちで触覚の回復が要求されてきた。視覚の独走は、すでに述べたように、人間と自然、人間と人間との間に見るものと見られるものとの冷ややかな分裂、対立をもたらした。それに対して、人間と自然、人間と人間をそのような分裂や対立から救い出し、ふたたびそれらを結びつける力をもっているのは触覚だ、と考えられたのである。
(『共通感覚論』「Ⅰ 共通感覚の再発見」中村雄二郎著)

 この後の文章で中村は、ルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712 – 1778)を引き合いに出して、「視覚の性急さを触覚の鈍重ではあるが確実な知識によって抑制すること」が重要であると言い、例えば「熟達した技師、測量士、建築家、石工、画家など」が「ふだんから他の感覚、とくに触覚によって視覚を吟味し抑制している」と言っています。さらに絵画においては「とくにセザンヌ以降、触覚の回復が自覚され、目ざされるようになった」と書いてもいるのです。若い日の私は、それを読んで「そうか、触覚か!」と前のめりになり、大した準備もせずに制作を試みたことは、前に書いた通りです。いまにして思えば、それはしくじるべくしてしくじったのだと思いますが、私のことはともかく、中村雄二郎のこの本も、いま読み返すといささか楽観的だったのではないか、という気がします。例えば、中村がこの本を構想したであろう1960~70年頃は、岡崎が『抽象の力 近代芸術の解析』で指摘したように、「抽象を単なる視覚的追究とみなす誤読」をしていた時期で、中村が書いたような「触覚の回復が自覚され、目ざされるようになった」という状況とは、ほど遠かったのです。
美術の専門家ではない中村が、そんな現場の状況を知らなかったとしても仕方がないのですが、とにかく中村が提示した指針と現実との間には、埋めることが困難な落差がありました。そう思って読み返すと、この『共通感覚論』の中で紹介されている作品は、デュシャン(Marcel Duchamp、1887 - 1968)の『泉』であり、ケージ(John Milton Cage Jr.、1912 - 1992)の『4分33秒』であり、エッシャー(Maurits Cornelis Escher, 1898 - 1972)やマグリット(René François Ghislain Magritte, 1898 -1967)のだまし絵的な作品であるのですが、それらは既成の作品の枠組みに対する強烈な批判であったり、視覚偏重的な絵画観を逆手に取った表現であったりするものの、セザンヌ(Paul Cézanne, 1839 – 1906)の絵画を超えて「触覚の回復」を体現するようなものではありません。この本の初版は1979年ですが、さすがにその40年後の現在に通用するような、具体的な処方箋は書かれていないのです。

 さて、この『共通感覚論』は、「記憶」とか「場所」とか「時間」を人間が実感する際にも共通感覚が関係している、と考察を広げていきます。そのときに考察される感覚は、単に外部からの影響を感受するだけの器官ではなく、人間の体内の臓器の動きと連動して、その鼓動を感受するかんかくでもあり、その連動によって時間の感覚が生じてくる・・・、というふうに論旨が進んでいきます。こうなってくると、もう、こちらの頭がついていきません。哲学的な知見とともに、医学や生理学の知見も必要になってくるでしょう。はたしてこれらの考察が、現在の最先端の知見から再読されると、どうなるのでしょうか。大胆で先進的な考察であるのかもしれませんし、もしかすると論理に粗いところがあるのではないか、と素人ながらそんな危惧も感じます。
それから少し脱線しますが、時間を論ずるところでは、エンデ(Michael Ende, 1929 - 1995)の作品の『モモ』が取り上げられていて、ちょっと懐かしい感じがします。当時は一部の読書好きのなかで『モモ』や『はてしない物語』が、ただの童話やファンタジーではないぞ、と話題になり始めたころでした。それがほどなく、『ネバーエンディング・ストーリー』という娯楽映画になってしまって、映画の出来はもちろんのこと、映画化されたことによってエンデの世界が意味もなく消費されてしまったような気がして、がっかりしたものでした。おそらく、現在の思想書でエンデの童話を取り上げても、読む方のイメージが固定化されてしまっていて、白けてしまうだけでしょう。エンデ自身は、ファンタジーの力で世界を変えることができると、夢見ていたはずなのですが・・・。

 さて、最後になりますが、『共通感覚論』の中で中村自身がこれからの課題として指摘していることがいくつかあります。そのなかで、私の問題意識に関わってきそうなのが、「共感覚」という課題です。そのことについて説明している部分を見てみましょう。

 その(課題の)一つは、共感覚(シニススィジア、synesthesia)の問題である。知覚論や感覚論の観点からするとき、個別感覚相互の間での影響、干渉の事実を示す共感覚現象は、共通感覚という私たちの主題と深いかかわりをもっている。そのような共感覚の問題を真っ向からとり上げず、注のなかで若干の論点を指摘するにとどめざるをえなかったのは、材料の不足ということもあるが、それにもまして、問題としてうまく拡がっていかなかったからである。個々の点についてあれこれと興味深いデータや事実があった。が、それらを貫いて全体を意味づけるめどが見つからなかった。それを見出すためには、詩人や画家や音楽家たちの共感覚体験についてのもっと具体的な考察が必要であったにちがいない。
(『共通感覚論』「終章」中村雄二郎著)

 このように、中村自身が「真っ向からとり上げず」と言っているように、「共感覚」とは何なのか、それが「共通感覚」とどう異なるのか、がはっきりとわかりません。それに「シニススィジア、synesthesia」という言葉に対して、本文では「体制感覚」という言葉を当ててもいるのです。おそらく、中村としては「共通感覚」「共感覚」「体制感覚」をはっきりと使い分け、説明したかったのでしょうが、それがうまくいかなかったのです。
それでは、その「体制感覚」について説明している部分を抜き書きしてみましょう。

 体制感覚とは触覚を含む皮膚感覚と、筋肉感覚を含む運動感覚とからなっている。ふつう触覚が、とくに手でさわる触覚が、視覚と匹敵する総合的な知覚作用をもちうるものと考えられるのも、手でさわる触覚が、運動感覚をも含む体制感覚をもっともよく代表しているからにほかならない。体感とも略称される体制感覚は、述語ではシニススィジア(英)と名づけられてきた。ところが、これは興味深いことに、共通感覚を意味している(coenesthesia : coen=communis,esthesia=sensus)。もっともこの場合、その述語の由来、つまりどうして体性感覚に共通感覚を意味する述語があてられたのかということについては、詳らかでない。けれども、それはそれとして、この体性感覚の異常が精神分裂病にあらわれ、それに陥ると患者は「自分の身体がバラバラになる」とか、「身体が電気でこわされて、空っぽになった」とか、という具合に自己喪失や自己解体を訴えるという。そのことからも、体性感覚が、明晰さを求める意識と結びつく視覚が行う諸感覚の求心的統合とは反対の統合、つまり無意識のまとまりと結びつく諸感覚の遠心的統合の働きをもっているものと私たちは考えることができるのである。諸感覚の体性感覚的な統合とは、現象学的にこれを捉えなおせば、活動する可能的な身体による統合にほかならない。
(『共通感覚論』「Ⅱ 視覚の神話をこえて」中村雄二郎著)

 うーん、何が同じで、何が違うのか、よくわからないですね。ただ、このような説明を読むと、「共通感覚」の問題というのは単なる感覚の統合ではなくて、それが身体機能と連動し、それが運動機能と連動し、というふうに人間の活動全般に広がっていく問題なのだということが分かります。さらに別なところでは、感覚を「特殊感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、平衡感覚)、体性感覚(触覚、圧覚、温覚、冷覚、痛覚、運動感覚)、内臓感覚(臓器感覚、内臓痛感)という三つに分けられる」というふうに、現代生理学の分類を示している部分もあります。これは感覚をその伝達・連絡経路で整理した考え方のようです。
そのなかで中村が論じたかった「共感覚」というのは、例えば画家や彫刻家が視覚と触覚を連動させながら、さらにそこに体の動きを連動させて制作するときに働く感覚なのではないか、と私は勝手に推察しています。彼らはモチーフや作品を見るときには視覚を使い、制作にあたるときには触覚を使うのですが、それらを連動した感覚が「共感覚」ではないか、と思うのです。「共通感覚」という感覚全般の連合ではなく、また体性感覚という身体内部的な統合感覚でもない、もっと外部からの刺激に対してヴィヴィッドに反応するようなイメージです。

繰り返しになりますが、私は視覚と触覚が即座に連動するような絵画のことを、「触覚性絵画」というふうに名付けてみようと思うのです。絵画ですから視覚を使うのは当たり前です。ですから、あえて「触覚」を強調し、「触覚性」が作品のなかに反映していることをつねに意識するのです。そんな絵画を果たして実現できるのかどうかわかりませんが、言葉にしてみることで焦点がぶれないようにして、そして退路を断って制作や考察を進めていきたいのです。
日々の制作活動は、皆さんも同じだと思いますが、孤独そのものです。そしてここに綴ったようなことを思索する時間も、まったくの独力で進めるしかありません。そんな状況でも、先人や若い人たちから学んだことが確かな糧になる、と信じています。先人よりも少しだけ前に進み、そんな私よりも若い人たちがさらに前に進む、という連鎖の一助になることを願ってこのblogを綴っています。

 



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