平らな深み、緩やかな時間

313.『小説、世界の奏でる音楽』保坂和志の語るセザンヌ/言葉の世界を探究する③

保坂 和志(1956 - )さんは、変わった小説家です。私は熱心な読者とは言えないのですが、「小説の自由」シリーズと呼ばれる作品群に少し興味があって読み継いでいました。このシリーズは気軽なエッセイとも、論文とも、私小説とも読めるような自由な形式の散文作品集です。

そのシリーズがいよいよ『小説、世界の奏でる音楽』(2008年)になって、幅広い芸術論になってきました。そしてページを繰っていくと画家のセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)の名前が出てきて、びっくりしたことを思い出します。それが、もう15年も前のことでしたが、前回のblogで詩人の清岡卓行さんのことを書いていて、そういえば作家の保坂さんにも美術について触れた文章があったなあ、と思い出したのです。そこで今回は、保坂さんの本を題材にして、作家の言葉の世界を探究してみることにします。

 

保坂さんは『小説 世界の奏でる音楽』の「9  のしかかるような空を見る。すべては垂直に落ちて来る。」という章の中で、「セザンヌの語る自然の『深さ』」という小見出しを付けて次のように書いています。

 

ところで風景とは何なのか。風景、光景、情景、あるいは空間、あるいは自然。それらは三次元ということだけで私の中ではいまだ区別されずごっちゃになっているが、とりあえずセザンヌは風景について何と言っているか。ジョアキム・ギャスケという詩人が聞き書きした『セザンヌとの対話』(成田重郎訳)からチェックした箇所を書き抜いてみる。

私がセザンヌという画家に関心を持つようになったのは、ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』の中で、セザンヌの「山の造山活動や褶曲運動を描くのだ」という言葉を読んだときだった。『千のプラトー』にはもう一つ、ミレーの「農民が背負うジャガ芋が入った袋の質量を描く」という言葉が引用されていた。どちらも今は憶えで書いているから一字一句正確な引用というわけではないが、私が『千のプラトー』を読んだのは『季節の記憶』を書きはじめるニ、三ヶ月前のことであり、この二人の言葉は私が小説を書くときの一つの規範のようなものになっている。どれだけ私がそれを実現できているかは別問題だが、この二つが規範であるという意識から離れたことはない。

(『小説 世界の奏でる音楽』「9  のしかかるような空を見る。すべては垂直に落ちて来る。」保坂和志)

 

このセザンヌに関する章の書き出しから、すでにさまざまな情報が錯綜しています。保坂さんの本は、このようにあちらこちらに寄り道しながら、興味深いことがいつの間にか盛り込まれているのです。

まずはジョアキム・ギャスケという人物です。日本語の表記はさまざまで、Wikipediaではジョワシャン・ガスケ(Joachim Gasquet, 1873 - 1921)と表記されています。ギャスケは、詩人であり批評家でもあった人のようですが、父親がセザンヌの友人だったので、セザンヌと親しく交友することができたと言われています。保坂さんは、このギャスケの本からいくつかの箇所を抜書きしているのです。

その箇所を読む前に、哲学者のジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze, 1925 - 1995)と精神分析家のフェリックス・ガタリ(Pierre-Félix Guattari、1930 - 1992)の共著『千のプラトー』に関する記述が気になりますので、チェックしましょう。

保坂さんが言及しているのは、たぶん次の一節です。

 

視覚的素材は不可視の力を捕獲しなければならないのである。クレーは言う。可視的にするのであって、可視的なものを表現したり、再現するのではない、と。この視座からすると、哲学もまた、哲学以外の活動と同じ運動に従うことになる。ロマン主義の哲学が、質量の連続的理解を保証する形相の統合的同一性(先験的総合)を援用するにとどまっていたのに対し、近代の哲学は、それ自体としては思考しえない力を捕獲するために、思考の素材を練り上げようとする。これがニーチェ流の哲学ー宇宙である。分子状の素材が極度の脱領土化にさらされているため、表現の質料という言葉を使うことは不可能となる。これがロマン主義的領土性とは異なる点だ。表現の質料は捕獲の素材に場所を明け渡すのである。捕獲すべき力はもはや大地の力ではない。大地の力は大いなる表現の<形式>を構成するにとどまっているからだ。いま捕獲すべきなのは、不定形で非物質的なエネルギー宇宙の力なのである。画家のミレーがこう述べている。絵画で重要なのは、農民がかついでいるもの、たとえば聖具やジャガイモの袋などではなく、かついでいるものの正確な重量なのだ、と。ここにポスト・ロマン主義への転回点がある。問題の核心は形相や質料にあるのではないし、テーマにあるのでもなく、力、密度、強度にあるのだ。大地ですら平衡を失って、引力の、あるいは重力の純粋な質量に変わっていく。岩は岩がとらえる褶曲の力によってのみ存在し、風景は磁力と熱の力によって、リンゴは発芽の力によってのみ存在する。そうなるためには、おそらくセザンヌの到来を待たなければならないだろう。目に見えないのに、見えるようになった力。力が必然的に宇宙の力になるのだと、質量が分子状になるのとは同時である。そして無限小の空間で巨大な力が働くのだ。問題はもう<はじまり>でもなければ、創立ー基盤でもない。存立性が、あるいは強化が問われるようになったのである。つまり素材をどのように強化し、素材にどのような存立性を与えれば、無音で不可視で思考不可能な力をとらえることができるのかということだ。

(『千のプラトー』「11 リトルネロについて」ドゥルーズ/ガタリ 宇野邦一ほか訳)

 

以前に『千のプラトー』にざっと目を通した時には、この本の中でドゥルーズとガタリがセザンヌに触れていたことすら、気が付きませんでした。しかし、このように保坂さんに指摘されてみれば、ドゥルーズがこのようなことに言及するのは、ごく自然なことのように思われます。というのは、私たちはこれまでにドゥルーズの『感覚の論理学』と持田季未子さんの『セザンヌの地質学』という二つの書物を読んできたからです。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/f6b9c57db8dc6817c2d1c0ce09c41852

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/ab55dff9ea58e7446e0b2ca1cb5671c9

私たちは、ドゥルーズが『感覚の論理学』において、主にイギリスの画家フランシス・ベーコン(Francis Bacon、1909 - 1992)について語りながら、しばしばセザンヌを引き合いに出していたことを知っています。あるいは持田さんが『セザンヌの地質学』において、セザンヌが地質学に興味を持っていたこと、そしてセザンヌの風景画がときにダイナミックな動勢を感じさせるのは、地質学の探究によって大地が生成された様をセザンヌが感じ取っていたからではないか、と書かれていたことを、以前も読みました。

例えば次のような文章です。

 

石臼や貯水槽は、烈しい日射しを浴びて風化するビベミュス石切り場のテラスの石材とともに、万物が時間の中で徐々に荒廃し確実に終焉に向かって進んでいることを見せつける。人手の入った石材や道具は自然の石と変わらずいつか土に帰るものだが、用途を失った姿がそのことを余計に強く感じさせる。セザンヌは、ひしめき合う巨岩に創成時の大地のまだ残る熱さを感じ取る一方で、すべてが変化しつつあり、自然が渾沌に戻ろうとしていることをしっかりと見ていたのではないだろうか。

セザンヌが、サント・ヴィクトワール山が「まだ火の山だった」世界の始まりの時を根の下に求めるとともに、家も岩も植物も崩壊する世界の終わりの時をも見ていたスパンの長さに驚く。より正確には、遠い昔に始まって遠い将来に消えるだろう世界を時間の流れにおいて見ていたと言うよりは、画架を立てて山に向かい合っている現在という時の中に始まりと終わりが共存しており、だからこそ山は静止しているように見えて実は常に少しずつ動いているということを認識していた。

山にせよ山麓の風景にせよ、セザンヌの絵は宇宙的なエネルギーに満ちている。彼は、今の瞬間に死にかつ生まれる世界を、なんとかしてつかまえようとしていた。世界のそういう実相を認識した上で調和を見つけ、秩序を見つけ、最も適切な表現を与えようと努めていたのだ。セザンヌの芸術は、自然が持続しているということの戦慄を見る者に与える。それは自然を永遠なものとして味わわせてくれるのである。

(『セザンヌの地質学』「5:終焉に向かう世界」持田季未子)

 

このようにいくつかの書物を頭の中で繋げてみると、それぞれが関連しあっていることに気が付きます。持田さんの『セザンヌの地質学』は、ドゥルーズ/ガタリの『千のプラトー』のこの一節を発展させた研究であるようにも思えてきます。

どうしてこのように、洋の東西を問わず、セザンヌを探究した人たちがセザンヌの絵に大地の胎動とでも言うべきダイナミックなエネルギーを感じてしまうのでしょうか?

それはセザンヌの絵には、見る者にそのように感じさせる力があるからです。おそらく保坂さんが感じとっていることや考えていることも同様で、彼はギャスケが書いたセザンヌとの対話を数ページにわたって引用しつつ、セザンヌの絵がどうしてそのようなエネルギーを持ちえたのか、そのことを考察しようとしているのです。

それでは保坂さんの引用した、ギャスケとセザンヌの対話の文章を、いくつかここに書き写してみましょう。

 

色彩はわれわれの頭脳と宇宙とが相逢う場所だ。それだから真の画家にとっては、色彩は全く劇的に現れるのだ。あのサント・ヴィクトワール山を見たまえ。何という飛躍だ!何という太陽の激しい渇望だ!

 

あれは海だ・・・ほら、ほら、表現しなければならないのは、それだ。ほーら、知らなければならないのは、それだ。ほーら、これがその科学の海と云いたい所だ。その尖鋭な種板をそれに漬けなければいけない。思い描いても見られよ、宇宙の歴史の始まったのは、両個のアトムが相会し、両個の舞踏がお互いに結合された日からである。

 

わしは水の下で露出する岩を見、また、のしかかるような空を見る。すべては垂直に落ちて来る。蒼白い顫動が線状的外観を包む。赤土が深淵から出ている。わしは、風景から離れて、それを見始める。この最初の画稿、個の地質学的線条を以って、わしは風景から解放されて、それを見始める。

 

わしは、独り思うたのだが、空間と時間とを描きたいのだ。どうしてかと云うと、空間と時間とが、色彩感覚の造形と成って欲しいからだ。というのは、わしは、時々、色彩を以って、実体的大実在だ、生きた思想だ、純粋理性の存在だ、と想像するからだ。われわれは、それらとは一致し得るのでもあろう。自然は表現だけのものではない。深さを持つ。色彩は、この表面に於ける、表現である。色彩は、宇宙の根源から立ち昇る。色彩は、宇宙の生命である。宇宙の思想の生命である。

(『小説 世界の奏でる音楽』「9  のしかかるような空を見る。すべては垂直に落ちて来る。」よりギャスケの文章の引用  保坂和志)

 

これらのセザンヌの言葉を引用した後で、保坂さんは「ところで風景とは何なのか」という問いにもどります。

この問いに対して、保坂さんは次のような考察を展開しています。

 

おそらくセザンヌは「風景」という言葉を、観光客が軽い気持ちで見るような表面的なものの意味で使っていて、画家として風景に働きかけることによって「風景から離れて」、「表面だけのものではない。深さを持つ」自然に到達すると言っているのだと思う。

そこで、自然の「深さ」とは何なのかということになる。いまだに私にとっては、風景とも光景とも空間ともだいたい同義であるところの、自然は何なのか。ーここ三、四日間ずうっとそればかり考えていた。

表面的には三、四日だが、それはいまこの文脈にあてはめるために考えた日数ということで、「自然とは何か」「風景とは何か」ということは別の問いとして、私は少なくとも『千のプラトー』でセザンヌとミレーの言葉に出会って以来いろいろな言葉で考えてきたのだと思う。

あるいはそれ以前に樫村晴香が書いた「文章とは線的にしか進まないが、思考そのものは池に投げた石の波紋のような拡散的な広がりを持つ」とか「文章とは逐次的であるが視覚は一挙に与えられる」という文章を読んで以来のことだとも言える。樫村晴香の文章の出典はいまは調べる余裕がないから二つとも憶えでしかないが、彼は確かにこの二つのことを書き、それを読んだ私は、それ以来まるで自分が考えたことのように考えつづけ、同じ意味のことを書いてもきた。この考えが私自身が小説において風景を書くことにこだわりつづけている起源ともなっている。が、樫村晴香の文章の方が時期としては先だったとしても、『千のプラトー』で二つの言葉に出会うことで、私の風景・自然への関心が別の様相を帯びたことも間違いない。

(『小説 世界の奏でる音楽』「9  のしかかるような空を見る。すべては垂直に落ちて来る。」よりギャスケの文章の引用  保坂和志)

 

ここで名前が出てくる樫村晴香という人物は、保坂さんの高校の同級生だった哲学者だそうです。

保坂さんが樫村さんの言葉として思い出した「文章とは逐次的であるが視覚は一挙に与えられる」という一節を読むと、文学と美術の本質的な違いを言い当てているようで興味深く思います。確かに文学は「逐次的」な芸術表現であり、美術は「一挙に」与えられるものだからです。しかしその違いにもかかわらず、「逐次的」も、「一挙に」も時間に関わる言葉であることが興味深いです。なぜなら、保坂さんの書いている通り、文学にしろ、美術にしろ、その表現には「時間」が大きく関わっているからです。

そしてなぜ保坂さんは、ここで樫村晴香さんの言葉について語っているのかといえば、このエッセイが話題にしている「風景」という存在が、時間とともにあるものだからです。保坂さんは、この後の部分で哲学者のハイデッガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)の著作、『芸術作品の起源』に触れていますが、ここではそれを割愛します。そして、その後に書かれた保坂さんの言葉に注目しましょう。

 

セザンヌの言葉にもどる。

が、その前に、セザンヌの言葉の最初の引用の点線を付した箇所。ここだけは何度読み返してみても私には意味が想像できなかったのだが、さいわいなことに『セザンヌ 画家のメチエ』で、同じ箇所を前田英樹が訳していた。

「あれが、海なのだよ・・・。こういうものこそ、表さねばならないものだ。知らねばならないものだ。あえて言えば、自分の感光板が浸されるべき溶液だ。」

これを読むとわかるのだが、セザンヌは明確に物質的なイメージとして、自分が見ることから描くことへのプロセスをとらえていたのだ。

「空間と時間とを描きたいのだ。」

とセザンヌは言う。この言葉の、とりあえず「時間」の方だけに焦点をあてて他の言葉も引用する。

「宇宙の歴史の始まったのは、両個のアトムが相会し、両個の渦巻、科学上の両個の舞踊がお互いに結合された日からである。」

「自然は表面だけのものではない。深さを持つ。」

「昨日はどこにあるか。一昨日はどこにあるか。・・・われわれの画は、人間の階梯をしるしづけている。」

ここで、時間とは何か?ということなのだが、セザンヌの言葉や自分がいままで考えてきたことを何日間か持ち歩いているうちに、突然わかってしまった。それはあまりにシンプルすぎて、言葉にするのがためらわれてしまうようなことだ。しかし、時間とはそれでしかない。

私たちが木を見ているとき、私たちは木の時間を見ている。

話はこれだけだ。いま自分が見ている木は、この木になるまでの時間を経てこの木になった。だから、目の前にある木がまさにその時間なのだ。

生まれたばかりの赤ん坊と70歳の老人の区別のつかない人はいない。ここでも私たちはその人が経てきた時間を見ている。

(『小説 世界の奏でる音楽』「9  のしかかるような空を見る。すべては垂直に落ちて来る。」保坂和志)

 

セザンヌは、海を見るときでも、ただ海を眺めているのではなかったようです。そこにある広々とした空間とともに、そこに蓄積された時間を見ていたのです。それは芸術家の特殊な感性だけに頼った見方ではなく、セザンヌは同郷の地質学者に学んだ科学的な視点も持っていました。そこに科学的な知見が含まれているということは、風景を見る時に時間を感じ取ることは誰にでもできるということです。

保坂さんは、私たちだって「木を見ているとき、私たちは木の時間を見ている」と指摘しています。私たちは木の育ってきた年輪を容易に想像できますし、見上げるような大木を見れば気の遠くなるような年月に感動することだってあるのです。さらに身近な例で言えば、私たちは人と会うたびに、相手の年齢や経験してきた人生を、気付かぬうちにおし測っています。

このように、視覚的な情報に時間的な厚みを感受するということならば、誰でも無意識のうちに行なっていることでしょう。そしてセザンヌに限らず、美術表現に関わる者ならば、さらに踏み込んで視覚と時間との関係について意識的に感受したり、認識したりしているはずです。それならば、なぜセザンヌのことを、あえて話題にしなければならないのでしょうか?

それはセザンヌが、視覚的に感受した時間の厚みを、絵を描くという行為(筆致)として画面上に表現することに成功した画家だからです。セザンヌは、視覚的な時間と、行為としての時間と、絵画表現としての時間を一枚のタブローの中に封じ込めることができたのです。

 

さて、このような話ならば、私も何回かこのblogで書いてきたと思うのですが、文学の世界に住む保坂和志さんが、このように明瞭にそれを言葉にしていたことに驚きを感じます。

そして保坂さんの探究は、ギャスケの著作とともに前田英樹さんの『セザンヌ 画家のメチエ』という本に導かれたところが大きいようですが、私は『セザンヌ 画家のメチエ』に関しては、パラパラとしか読んだことがありません。そのことを深く反省しつつ、次回か、あるいは近いうちに『セザンヌ 画家のメチエ』について書いてみたいと思います。

 

この4月は超多忙な月になってしまいました。展覧会にもロクに出かけられず、案内状をいただきながら、失礼をしてしまったことも多々あったと思います。それでも、そろそろ軸足を芸術活動に移して、制作活動にも励んでいこうと思っています。6月には、少し変わった展覧会に参加する予定です。詳細については、もう少し会期が近くなったらお知らせします。ご期待ください。



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