すそ洗い 

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「父は生前ずっと家庭内暴力をふるっていた非常に残酷な人」

2020年06月14日 | 社会
父は暴君だった─「チェブラーシカ」の作家の娘が衝撃のDV被害告白

Чебура́шка、Cheburashka
ニコラエヴィチ・ウスペンスキー(ロシア語: Эдуард Николаевич Успенский, ラテン文字転写: Eduard Nikolayevich Uspensky 、1937年12月22日 - 2018年8月14日

ロシアの児童文学家エドゥアルド・ウスペンスキーの絵本シリーズ『ワニのゲーナ』に登場する、チェブラーシカ。日本でもアニメ化されるなど人気の高い、愛くるしいキャラクターの生みの親について、ロシア全土に衝撃を与えるニュースが広がった。 その発端は5月末にメディアに掲載された、作家の実の娘からの公開書簡。彼女はロシアの児童文学賞に父の名をつけることに反対をし、その理由として「父は生前ずっと家庭内暴力をふるっていた非常に残酷な人」だったと告白した。
ソ連時代から現在まで、ロシアの子供たちにもっとも愛されているアニメーション『チェブラーシカ』の原作者エドゥアルド・ウスペンスキー(2018年没)。 しかし、作家の実の娘タチヤーナ・ウスペンスカヤによれば、生前の作家は、家庭内暴力をふるう「暴君」であり、家族は肉体的、精神的に苦しめられてきたという。 今年5月25日の「ソベセドニク」に、国立子ども図書館宛てに送られたタチヤーナの公開書簡が掲載された。それは、作家の文学界への貢献を讃え、ロシアの伝統的な児童文学賞が「ウスペンスキー児童文学賞」と改名されることに抗議するものだった。 敬愛するマリア・ヴェデニャピナ様! ロシア国立子ども図書館が、私の父エドゥアルド・ウスペンスキーの名を賞に冠するつもりだと知りました。賞に父の名をつけることに大きな悲しみと遺憾の意を表します。 国家的な賞の名となる人物というのは、なによりもまず、善良で道徳的でなければならないと考えます……。私の父は生前ずっと家庭内暴力をふるっていた非常に残酷な人でした。それが彼の家族に対する基本的な接し方だったのです……。 暴力は、肉体的、精神的なもので、娘である私や妻である私の母に対して、孫たちや再婚した妻(有名なテレビ司会者のエレオノラ・フィリナ)の子供たちに対して恒常的に繰り返されていました。 不幸にも、この乱暴で恥知らずな行為が、支配と強要が、常に彼の人生のノルマになっていたのです……。それでも、テレビの撮影クルーがやって来るとなると、孫たちを招いて、偉大な作家の幸福な家庭像を演出しなければならない。それで見せかけの平穏な生活を装うということもノルマになっていました。 飲酒のことも含め自分の問題をわかっていた父は、きちんとした医師のところへは行かずに、ストルブン(破壊的な全体主義的セクトの創設者、ヴィクトル・ストルブンのこと)の宗教セクトを信奉していて、彼の「治療」を受け、このセクトを経済的に支援していました。父は、このセクトが子供たちに制裁を加えていることを知っていましたが、そのことで躊躇することはありませんでした。彼はストルブンとそのメソッドにぞっこんで、知人や友人たちも連れていっていたのです。 創造的なアイデアで人びとを魅了することのできる、間違いなく才能ある人物でありながら、父は自分の人間としての欠陥を克服することはできず、他人に好意的に穏やかに接するということもできなかったのです。 私の意見が聞き入れられることを願っています……。 子供たちも含め、自分の家族に長年にわたって暴力をふるってきた人物の名は、児童文学のような人道的な分野の賞に付されるべきではないと考えます……。 敬具 タチヤーナ・ウスペンスカヤ 「ソベセドニク」は同日の記事にタチヤーナへのインタビューも添えている。彼女が繰り返し口にするのは、文学賞へウスペンスキーの名が冠されることへの異議であり、告発の目的はこの一点に尽きている。 「私の父は家庭内の暴君でした。ですから、児童文学の権威ある賞に、来る日も来る日も家庭内暴力をふるっていた人の名がつくなんてありえないと思います。ロシアにはこの賞の名に値するもっとふさわしい作家がいないとでもいうのですか?」
ここでタチヤーナは、遺産相続について問われ、血のつながった親族は誰も何ひとつ遺産は手にしていないと答えている。ウスペンスキーの弟ユーラが相続するのが妥当だったとも。実際には、ウスペンスキーの遺産は最後の妻エレーナがすべて相続している。タチヤーナは遺産については何も闘うつもりもないという。 また、同じく児童文学作家でウスペンスキー家の友人でもあるワレンチン・ポストニコフも、タチヤーナの異議申し立てに賛同。他の作家たちの署名を集めるつもりでいる。 「ロシア国内でいちばん重要な図書館だという点が大事です。この場所で若い作家たちに賞が授与されるんですよ。図書館の方々にはぜひとも思い出していただきたい、ウスペンスキー氏は一度たりとも児童文学作家を支援したことなどなかった。 子供たちを愛さなかった人の名を児童文学賞に冠するなどもってのほかです。彼は自分の娘のタチヤーナを殴り、罵り、ワンピース一枚で氷点下のなか外に追い出して扉を閉ざしていたんですよ」 ポストニコフは、ウスペンスキーの産んだキャラクターたち(ワニのゲーナやチェブラーシカ)を愛する多くの人たちから非難されることは覚悟のうえだ。しかし、モスクワの文学関係者は(少なからず)ウスペンスキーが怪しい宗教と関わっていたことも知っていると述べる。 「いつだったか、児童書週間のときにピオネール宮殿でウスペンスキー氏と一緒だったことがあります。子供たちが彼に近づいてきてサインをねだり、一緒に写真を撮ってほしいとお願いしました。『あっちへ行け』と彼は返したのです。 どうして子供たちにそんなことを言うのかと訊きましたよ。そうしたら、『覚えておけ、ワーリャ、いい児童文学を書くために、作家が子供を好きである必要はまったくない。アンデルセンも子供が嫌いだった』と」
ポストニコフは、2018年にウスペンスキーが亡くなった際、遺産を受け取るために闘うべきだとタチヤーナに進言している。 「僕の意見はいまも変わっていない。彼女が受けてきたさまざまなことに対して、なんらかの保障があるべきです。タチヤーナは欲深い人間じゃない。だけど、印税の1%でも受け取ることができれば、彼女の子供や未来の孫たちは、まったく貧しい思いをせずに暮らせるんだ。 ウスペンスキー氏の創作の黄金時代を支えたのはタチヤーナのお母さんのリンマさん(故人)ですよ。でも彼はリンマさんに飲酒を止められたことを理由に離婚したんだ」 ウスペンスキーは35歳のときに、田舎に打ち棄てられていた小さな家を購入した。そこはキッチンもかまどで、水は井戸水、トイレは外にあった。その家で創作をしながら、何年もかけてリンマとともに少しずつお金を貯め、やがて地下鉄駅近くにあるフラットを購入した。 それから人気が出たのである。その後、ウスペンスキーは、より大きなマンションを、より高い地区にある部屋を求め続けるようになった。 血縁のある唯一の子供であるタチヤーナは、父の葬儀に出席しなかった。作家の一周忌に行われたインタビューで、タチヤーナは、父の墓には「行っていないし、今後も行く気はない」と答えている。 父のことを思い出すたびに「恥ずかしく思う、彼がつまみだしたり裏切ったりした人たちに申し訳ない」と。そのうえで、遺産争いの裁判などする気はない、そんなものには意味がないと断言し、有名作家をめぐる遺産相続スキャンダルへの世間の関心を切り捨てる。そしてさらに、生前の作家が実の兄や親友でもあった秘書に対しても「暴君」であったと証言している。 「兄のイーゴリ伯父さんとは仲が悪かったです。伯父さんが父の番組に意見をしたら家から追い出されてしまったんです。 秘書のアナトリーさんにもひどかった。30年来のつきあいだったのに。2013年に父がエレーナさん(2番目の妻)にまた近づこうとしたときに、アナトリーさんは、父がかつて彼女にどんなひどいことをしたかを思い出させようとしたんです。激しい喧嘩になって、父は私にアナトリーに荷物をまとめさせて追い出せと言いました。その2カ月後に、アナトリーさんは亡くなってしまったんです」 「私の元夫は中国人で、父のもとで5年働きました。運転、料理、電気工事。最後の2年間は無給でした。いじめに耐えなくていいから、もう出ていっていいのよと私と息子が言うまで、夫はほとんど奴隷でしたよ」 それでもタチヤーナに息子が生まれたとき、ウスペンスキーは孫の誕生を喜び、自分と同じ名前をつけるように言ったという。当時彼は3番目の妻エレオノラと結婚していたが、タチヤーナたちは彼女とも良い関係だった(ちなみにタチヤーナは現在もエレオノラとは親しくしている)。しかし、祖父と孫たちの関係は、その後やはり破綻している。 「父はよいおじいちゃんではなかったです。孫たちにもすごく厳しくて」 タチヤーナの息子も娘も祖父の葬儀には出席しなかった。

2番目の妻、そして最後の妻となったエレーナはどうしてウスペンスキーの信頼を勝ち得たのだろうか? 「父はよく浮気をしました。普通の女性なら嫌でしょう。でもエレーナさんは平気だった、彼女は父に逆らいませんでした。母は父が周りの人ともめることに反対でした。エレオノラさんも父が親しい人たちと喧嘩をするのを嫌がっていた。でもエレーナさんは全然平気なんです」 エレーナは2011年にウスペンスキーと再婚したが、そのとき彼は胃癌を患っており、彼女は病身の夫を献身的に世話したという。エレーナは以前インタビューでこう語っている。 「私たちは20年間一緒にいました。彼は偉大な人です。偉大な人と一緒にいるのはいつだって難しいこと。彼はいつでも誰かと喧嘩をしていました。そんなこと、他の人なら疲弊するのかもしれませんが、彼はちょっと元気づくような感じでした。 私たちは2003年12月4日に離婚しましたが、離婚手当はもらっていませんでした。彼からは毎月500ドルもらうことになっていましたが、4ヵ月で支払いは止まりました」 闘病中の父のもとへタチヤーナが見舞いに来ないことについても、「二人の関係は複雑」だと理解を示した。 「私はウスペンスキーの子供にも自分の子と同じように接していました。子供というのはどんな歳になっても子供なんです、愛して、助けてあげないといけない。でもウスペンスキーは違う考えでした」 「私たちは大きな家を建てました。みんなで一緒に暮らせたらいいと思っていたんです。私の子供たち、彼の子供たち、孫たち。でも彼の考えは違っていたんです」 エレーナには別の男性との間に生まれた子供がいるが、彼らに対してもウスペンスキーは「いなければいいのに」と思っていたという。それでもエレーナは、癌と闘う作家を看取り、墓に記念碑を建ててあげた。
文学の貢献度にその人の人生は関係ない?
遺産争い勃発かと思いきや、実娘のタチヤーナも、弟のユーリーも自分の相続権は主張しておらず、論点はもっぱら、「ウスペンスキー児童文学賞」の名を認めるかどうかの一点に絞られているようだ。もちろん、この告発がチェブラーシカのイメージに与える商業的な影響は避けられないだろうが。 タチヤーナの手紙の宛名人である、子ども図書館長マリア・ヴェデニャピナ氏は、「図書館は、その作家がいかに良い人であったかではなく、文学への貢献度だけを見るものです。そんな観点で見たら、賞などに名前のついている人たち全員の人生を洗い出さなきゃいけなくなるでしょう」とコメントし、娘の言い分には耳を貸さないつもりだ。 児童文学は伝統的にロシアが誇るジャンルである。家庭内暴力など取るに足らぬことだとしてこのまま終わるのか、それとも、文学界からなにかしらのアクションが起こるのか、いずれにしても理想的な解決の道はまだ見えていない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 





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