K馬日記

映画や美術、小説などの作品鑑賞の感想を徒然なるままに綴っていきます。

LES MISERABLES

2020年07月26日 | 映画
カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した現代版『レ・ミゼラブル』を観てまいりました。


ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を現代化。舞台は原作と同じく、パリ郊外のモンフェルメイユ。

まず、余りにも挑戦的なタイトル。ミュージカル作品として広く知れ渡り、最早少女コゼットの成長譚でしかない『レ・ミゼラブル』という単語そのものを再定義するかのような作品です。
それは「レミゼ好き」と宣う人々に対するメタ的な批判をも内包しているかのようで、「悲劇は現在も続いている」という監督の強い姿勢が垣間見えるようです。

冒頭は人種を超えてオリンピックに熱狂するフランス国民の姿。仮初の一致団結を象徴する実にアイロニカルなシーンから始まります。
ただ、実際のフランスではマリーヌ・ル・ペン率いる極右勢力が台頭してきており、移民への風当たりは年々強まっているのが実態です。



そんな分断がまさに進行中のパリ貧民街が舞台。アフリカ系移民とジプシーの争いをきっかけに、それまで不安定ながらも警察権力が形を保っていた秩序が崩壊していきます。

テクノロジーによる体制転換
「アラブの春」や「metoo」運動が象徴するように、テクノロジーの進歩で旧来の体制や支配構造は尽く否定されてきました。
本作でもそれは如実に表れており、強引な取調べをする警察官をスマホで撮影したり、決定打となるシーンをドローンで撮影したりと、技術のおかげで被支配層が抵抗する術を持ち始めたというのが重要なポイントとなっています。
旧来の暴力や恫喝による治安維持が通じなくなってきているわけです。



そこで体制側は当然ながら体制の崩壊を危惧。ムキになるあまり、より強引に、より理不尽に、締め付けを強めていくわけです。
それは、悪さをした子供に対してゴム銃を使用したり、ライオンの檻に放り込んだりと、もう無茶苦茶で、新しく配属された警察官のステファンは理不尽なチームのやり方に疑問を持つようになります。

被支配層における被支配、重箱構造
こうした理不尽さに対して被支配層は反発を強めるかと思いきや、実は親世代は警察とよしなにやっているのです。
体制転換に対してどこか諦念的な彼らは、どこか『パラサイト』染みた階層構造を想起させます。表層的な協調関係の維持に努め、傀儡政権にも近い構造。こうした下層内での闘争に、マクロな分断だけではなく、ミクロな分断も大きな問題であることが思い知らされます。

この体制を変革させる出来事、悪ガキに対する拳銃の誤射を契機として物語は加速していきます。しかし、こうしたマクロな闘争(体制間)とミクロな闘争(移民間)の犠牲になったのは子供たちだけでした。



そこから子供たち世代は彼らなりの革命に向けて立ち上がります。被差別層は必ずしも現状に甘んじるわけではない、というのは最近では『ジョーカー』が伝えようとしたテーマですし、昨今のBLM運動にも見られるものです。
(BLMは白人やハイソクラスも運動に参加しており、それはそれで『ザ・スクエア』に通じるアイロニカルな側面もある気がしますが…)

子供たちが革命の狼煙を上げ、貧民街で繰り広げられるインティファーダ。
最大の被害者であるイッサ(確かアラビア語系だとイエスを意味したはず?)と最後まで"Right Person"であろうとしたステファンの見詰め合う緊迫のラストシーンは息を呑みます。
果たしてステファンの想いは通じるのかーー

最後に引用される原典の言葉、『悪い人間も悪い草もない、ただ育てる人が悪いだけだ』が示唆するのは悪循環でしょう。
暴力に晒された子供たちは暴力でしか解決策を持ちません。しかし、暴力で抵抗すれば暴力が返ってくる……文民的解決策を模索するには教育が必要なのです。(BLMで暴力的解決を求める黒人を非難する黒人の映像が思い出されます)

正しいことをする、ただそれだけで悲劇は回避できたのに。ああ、無情!!!

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